江口は江口なりに精一杯の努力をしている。
現に一年で唯一ベンチ入りを果たし、次期エースとしてのポジションも確立しつつある。お馬鹿キャラも意外性としてモテ路線に加算され、傍目にはいよいよ絶好調、マネ達も不思議な諦めと悟りを開かざるを得ない状況なのであった。
岩野田へのおマヌケ言動はひとえに初恋免疫不全だ。故に彼は現在、大層滅入っていた。
「マネの皆さん、みんな優しそうでいい人達っぽいね。ひとり綺麗な人がいたね」
ひとり綺麗な人がいたね。弟から余計な感想など聞くのではなかった。
(岩野田さんが気に入ったのかな)
昔から弟が可愛くて仕方なかった。確かにオノレのコンプレックスを刺激もするが、それ以上に有能さが眩しい自慢の弟である。いいお兄ちゃんでありたいと、無駄に力む癖もついている。
「江口どうしたの!」
長引く雨ですっかり薄ら寒い市民体育館、北側廊下である。更衣室から出た岩野田が見かけたのは、上半身濡れ鼠の江口なのであった。
「蛇口が壊れてて頭からかぶった」
「取り敢えず早く拭いて」
「タオル鞄から出してなくて」
「取り敢えずコレ使って」
タオルの貸し借りは通算何本目なのか。
「あ、この間のも返すの忘れてた。今日持ってきてるけど」
「それも今日貸すからとにかく拭いて。風邪ひくよ」
世話の焼ける次期エースであった。
その日の河合は朝からの雨で憂鬱だった。
悪天候は体調に直結するし、市大会直前で部内ムードもピリピリである。しかも今日の練習会場は市民体育館、学校からの移動も面倒だ。特に今年度の上半期コート予約が全て氷川商と同時間ときたら。
(岩野田さんを見かけられるのは嬉しいけど)
当然ながら交流環境は一切無い。むしろご遠慮したい状況ばかりなのは何の因果か。
ワタクシは同情をもって河合を見守る。
彼はそろそろ無駄に苦しむ時期だろう。弊社の「紙は神」規定。終了申請書が発行された時点で、恋の終わりが始まる。少しずつ効力が見えつつある時期であった。
(あの水色のって、岩野田さんのだよな)
本日の初手は江口が首に掛けているタオル。河合の目に入った瞬間、珍しく彼の頭に血がのぼった。
(江口さん、また借りたのか)
途端に呼吸が浅くなった。
(勘弁してくれよ)
只でさえ天候不順時の体調管理は手間なのに。
(これから練習なのに)
そうだよ、もうすぐ市大会なのに。
江口のヒトの懐に入りこむ天然ぶりを、河合は羨望していた。あの人あしらいは狙って出来るモノではない。が、今日は何故かそのユルさが癇に障った。それは今まで蓋をしていた自身の奥底に潜む暗い感情である。
(江口さん、自分の世話くらい自分でしろよ)
その自立の無さが競技に影響している事を、どうしてあの人は判らないんだろう。
(そうだよ。まずは自分の至らない部分を何とかしろよ)
いよいよ始まってしまった。
普段の河合からは想像つかない思考が引き出された。これが終了証の効力である。ワタクシはギリギリまで見守りに徹する。だが終了証は容赦が無いので、見ている方が辛いのであるが。
(オレ達を羨む奴等って、一体何なんだよ)
ひとつ感情の蓋がひらくと、次の感情の蓋もあく。その現象に河合は戸惑った。それはとうに消化された筈の、封印された葛籠(つづら)である。
氷川中の特待生は良くも悪くも注目の的で、称賛と同時にやっかみも受ける。最近では大澤の留学ゴシップが分かり易い例であろうか。
(グチャグチャ煩いんだよ)
河合も日々それなりに面倒があり、受け流すのも板に付いた。だが消化出来ない棘もある。
(いちいち馬鹿馬鹿しいんだよ)
そうさ、バカバカしいべさ。だけどオレは今ナニ思い出してんだ?
流石に河合は優秀だ。感情の起伏に違和感を察知し、直ぐに天井を見上げ息を整える。
(思い出すのよそうぜ。くだらない)
屋根に落ちる雫達だろうか。雨の音がよく聞こえる。
市民体育館、二面コートの境。緑のネットの網目から見えてしまう光景は、しかしいつも以上に不快である。先程浮かんだ影の棘は、そぐわぬ気持ちも噴きこぼす。
(なんでグチャグチャするんだ?)
意識を変えた筈なのに。暴走するシナプスは何だ。次に浮かぶは先日の放課後、角の公園の記憶であった。
(おい、なんだよ)
あの夕刻の景色であった。
目を閉じるのが遅れて見つめあった数ミリ先の彼女。ほのかな体温。睫毛が落とす影の長さ。触れた柔らかさ。記憶の無秩序な再生。同時に誰かに奪われる予感。
(今は関係ないだろ、なんで急に)
胸が軋む。息が詰まる。努めて切り離す思考をする。だが体育館という限られた空間である。彼岸と此岸がその場にあれば、多少バグるのは致し方ない。
緑のネットの幕向こう、仲間と準備中の岩野田に近づく江口。話しかけられ、細々と応じる岩野田が見える。
(なんて表情してんだ)
外は大地を潤す雨。
(岩野田さん。なんでそんな奴に)
水滴に覆われる市民体育館。
(なんでそんな風に笑うんだ)
僅かな側面に僅かな観客席を持つだけの二面のコートである。
(なんで笑うんだよ)(そんな奴に)
氷川中のコートと氷川商のコート。
(なんでそんな笑顔)(なんでそいつに見せんだよ)
岩野田に何かを催促され、緑のファイルを提出する江口。
(なんで触んだよ)
ただの手渡しである。触れるという程触れてはいないが。
(触んなよ)(触んな)
無駄な感情が隙間に入る。河合は自分のブレにも気付く。
(あ、やばい)(おかしい)
僅かな冷静さを取り戻す。
(今日の自分、すげえおかしい)
体調の落ちる時はいつもそうだった。全てに後ろ向きに、消極的に、悲観的になる。
(……いつもの自分じゃない)
無意識に穴に落ちる。下らない闇に籠る。
(体調?)(でも、発作じゃない)
河合はベンチに下がる。無駄な鼓動。
(吸入するべきか。いや違う)
顧問は声を掛ける。
「どうした、具合が悪いか?」
「いえ、まだ大丈夫です」
「そうか。無理するなよ」
後輩に椅子を借り、背筋を伸ばして深呼吸をする。
(違う)(必要なのは吸入じゃない)
目を閉じる。息を吐き切る。それからゆっくり息を吸う。順に腹の奥に入れる。意識を飛ばす。出来るだけ遠くに。
(落ち着けよ)(落ち着けよ、自分)
ちゃんと出来たつもりだった。いつも通りのつもりだった。だがいざコートに入ってみると、まるで出来てはいなかった。
「もう今日は下がれ」
大澤に指摘されるまで気づかなかった。
「マサキ、オマエおかしいぞ。怪我する前に引け」
そんなに乱れているなんて、屈辱だった。
下がって直ぐに、顧問に追い打ちをかけられたのも初めてだった。
「今日は体調だけじゃないな」
顧問は生徒の状況もよく把握していた。氷川商のコートをチラ、と眺めると、
「オレも経験が無い訳じゃない。お前達が心揺れる時期なのも承知だ」
顧問の顔色を察して、河合は歯をくいしばる。
「だが間違えるなよ。今のお前の不出来さと彼女は無関係だぞ。全部自分のせいだぞ」
自身のせい。自分の弱さのせいだ。
「もうわかってるんだな」
顧問は河合の表情を見極めると、静かに告げた。
「先に学校に戻りなさい」
河合は言われるままに荷物を纏めコートに一礼し、独りで廊下に出た。
「貴方達は目指すものがあってここに来ているんでしょう?」
廊下に出た瞬間、早苗叔母の顔が浮かんだ。
目指すものがあってここに来ているんでしょう?
(叔母さんの言葉に真理があるってこと?)
動悸は心の振動か。河合は北通路の階段に座り込み頭からタオルを被り、深く息を吸った。
自分の目指すもの。バスケが楽しくて褒められて自分の居場所が出来て、もっとがむしゃらになって、気付いたら此処にいた。それだけなのだけれど。
河合の退出に岩野田はすぐ気付き、彼の体調不良を案じた。江口は先に岩野田の様子を察し、氷川中のコートを確認して納得した。ベクトルが変化してゆくのを、ワタクシはただジッと眺めている。
河合の思考は錯綜している。
(そうだよ、自分はどうして此処に居るんだろう)
きっかけはシンプルだ。小学時代のミニバス全道大会で大澤リュウジを見たからだ。会場中を釘付けにした抜群に上手いデカいヤツ。チームの戦績はイマイチだけど、プレイヤーとして圧倒的。どうしても勝てる気がしなくて、眩しくて羨ましくて悔しかった。
選抜合宿で一緒になれた時は嬉しかった。中身も真っ当でテンションが上がった。それからヤツの彼女がまさかの歳上で超綺麗だって判明した時も面白かった。先輩達がこぞって悔しがったのが笑えた。
じゃあオレが歳上の岩野田さんに惹かれたのはアイツの影響かな。いや違う。岩野田さんを見た瞬間に、自分でちゃんと判断した。このひとだって思った。
そうだ、岩野田さんも本当はリュウジが良かったんだ。リュウジの事、いつも友達と楽しそうに見ていた。でも仕方ない。リュウジはオレ達から見ても格好いい。氷川中に来てからはいつも『河合と大澤』のセットで見られて周りに比較されて、散々ジャッジもされるけど。同じ競技者でも歩く道は全然違うけど……違うんだけどな。
調子の悪い時ってロクな事を考えやしない。折を見て彼女が廊下に来た事にも気付かない。近くに来ているのに、姿を見つけても、自分の機嫌を直すスイッチすら入らない。
(そうだよ、岩野田さんも)
岩野田さんも本当は、リュウジがいいんだろ。
岩野田は河合に話しかけるのを躊躇した。
気になって休憩を貰ったはいいけれど、彼は目が合ってもニコリともしない。具合が悪い訳でもなさそうだ。持参のドリンクをそっと出す。
「ありがと」
「体調?」
「いや、大丈夫」
「そう」
すぐ立ち去ればよかったのに、機会を逃してしまった。河合の気配は近寄り難く、迂闊な物言いもしたくない。
(今って市大会前だよね)
関わるのもはばかれた。彼には独りの時間が必要なのかも。邪魔せずにさっさと戻ればよかったかも。廊下に反響する部員の掛け声、弾むボールの音、擦れるシューズの音。こういう時って何が正解なんだろう。
だけどもう正解なんて無い。壊れる為に今があるのだから。
「なんか、情けなくてゴメンな」
河合の突拍子も無い台詞が二人の間に隙間を作る。岩野田も引き返せなくなってしまった。
「こんな風に膨れっ面されてても困るだけだろ」
「うん?」
そうだよめっちゃ困るよ、って明るく言って笑いたい。けれど今日は蝦夷梅雨でお空は暗いし、雨の粒子で空気も重い。そんな顔されたら嘘もつけない。
「何かあったのって、聞いていい?」
「岩野田さん。オレと付き合うの大変だろ」
「……なんでそんな話?」
妙な返答。おかしな波が来た。岸に戻ろうとしたら、流されてもっと離された感じ。
「岩野田さんもホントはリュウジが良かったのに。オレなんかで申し訳なかったなって」
「なんの話をしてるの?」
流れが速くて、岸辺がどんどん遠ざかる感じ。
(大澤君?)
その話をどの角度から受け取ればいいんだろう。
(中学時代に友達と騒いでいた頃のコトかな)
でも今はまるで関係の無い話だ。どこから解きほぐせばいいのだろう。沖に流されるような不安。
「河合君、どうかしたの」
「岩野田さんは」
なんで大きな声出すの。
「岩野田さんはもう、オレと無理して付き合わなくていいよ」
なんでそんな話になるの。
河合も戸惑っていた。なんて事を口にしたんだろう。確かに今の自分の気分は最悪で滅入っている。滅入ってはいるけど、こんな状況など微塵も望んではいない。だのにどうしてこんな言葉を放つんだろう。どうして口が勝手に動くんだろう。
「聞いたよ。岩野田さん、氷川商で可愛いって評判なんだろ」
「え、え?」
岩野田はもっと戸惑った。今度は何の話だろう。面白くない内容ばかり。だが放った河合本人も予測がつかなくなっている。
「江口さんも岩野田さんの事褒めてたし、いい話も沢山あるんじゃね」
「そんな話、何も無いよ」
「無理しなくていいよ、マジで」
「無理してないよ」
「オレみたいなガキじゃなくてさ、」
何を話してるんだろう。だけど吐き出す度に何故か身体はどんどん楽になる。おかしい。どうして肩が軽くなるんだろう。
「もっとちゃんとした人と付き合うといいよ」
何をやらかしているんだろう。河合は自分の言葉に胸が冷えた。浅い呼吸をすると、水分の多い空気でますます冷えた。つめたい廊下。固い階段。痛んだ床。
岩野田は河合の目の前にぺたんと座り込む。
「ごめん、あの、意味が、ちょっとよくわからないんだけど、」
彼女の小さな声を聞いて、ようやく河合も我に返った。
「河合君、なんの話をしてるの」
本当に。今何を言ったんだろう。
改めて彼女の顔を見た。自分より少し下にある目線。冷静に見えるけれど、歯を食いしばって堪える顔。この表情って、中学の美化委員の時に見た顔だ。あの時、理不尽に堪えて可哀想だと思って見ていた彼女だ。なんで自分がこんな顔させてんだ。なんで泣かそうとしてんだ。
(オレは今、何をした?)
雨の音が強くなった。湿度が上がる。ガラスが曇る。
ただ、岩野田だって以前とは違っている。ちゃんとしなやかさもしたたかさも、少しだけど身についてきた。ほんの少しだけど。
「私はそんな事、思った事ないよ」
喉が熱くて締め付けられて痛いけど、小さい声だけど、ちゃんと言えた。
「考えた事も、なかった、けど」
涙を堪えて胸が苦しくて、言葉がうまく出ないけれど。
「でも、河合君は、もう辞めたいのかな」
言われて河合はオノレの大事に気付く。そんな事ない。
「終わった方が、いい?」
そんな事は一切思ってはいない。河合の混乱がまた戻る。岩野田の言葉で、逆の錯乱が始まる。自分が自分じゃない衝動。雨の音。天井に掛かる音。今日の雨量。厚い雲。
「だけど、もしそうなら、ちゃんと自分で決めてね」
そんな事、絶対したくない。
「私、河合君の邪魔したくないよ」
全然、全然邪魔じゃない。
「でも、狡い言い方はダメだよ」
オレは狡くない。
「そういうの、河合君らしくないよ」
「らしくないって何だよ!」
絶対違う。絶対違う。しまった。八つ当たりした。何故だ。これは彼女に言う事じゃない。それにそんなんじゃない。そんな風に思ってない。だのに思っている事とまるで違う言葉が放たれるのは何故だ。勝手に口が動くのは何故だ。
「オレらしいって何だよ。オレの何を知ってるんだよ!」
岩野田さんは悪くない。全然悪くない。全部オマエのせいだって、さっき顧問も言った。
ああ、そうだよ、全部オレが悪いんだよ。だから彼女の側に居る資格なんて、オレには全然無かったんだよ。
「じゃあ、離れてくれ」
違う。そんな事一切思ってない。彼女を怯えさせた。怖がらせた。なんて顔させるんだ。言葉ってなんて鋭いんだ。
「もうオレから離れてくれよ」
違うのに。そうは思ってないのに。コレはなんの衝動だよ。
「オレは、」
舌禍だ。これは舌禍だ。堪えろよ。なんで堪えられないんだ。
(それじゃ駄目だろ、だからオレは駄目なんだろう!)
堪えろよ、堪えろよ、堪えろよ自分。
「オレは」
息が浅いぞ。落ち着けよ自分。堪えろ。
「岩野田さんが、好き過ぎて駄目なんだ」
堪え切れない自分。どうしようもない自分。熱量とブレーキの効かない、分別の無い自分。
何を言ったんだ自分は。舌を噛み切れ。
現に一年で唯一ベンチ入りを果たし、次期エースとしてのポジションも確立しつつある。お馬鹿キャラも意外性としてモテ路線に加算され、傍目にはいよいよ絶好調、マネ達も不思議な諦めと悟りを開かざるを得ない状況なのであった。
岩野田へのおマヌケ言動はひとえに初恋免疫不全だ。故に彼は現在、大層滅入っていた。
「マネの皆さん、みんな優しそうでいい人達っぽいね。ひとり綺麗な人がいたね」
ひとり綺麗な人がいたね。弟から余計な感想など聞くのではなかった。
(岩野田さんが気に入ったのかな)
昔から弟が可愛くて仕方なかった。確かにオノレのコンプレックスを刺激もするが、それ以上に有能さが眩しい自慢の弟である。いいお兄ちゃんでありたいと、無駄に力む癖もついている。
「江口どうしたの!」
長引く雨ですっかり薄ら寒い市民体育館、北側廊下である。更衣室から出た岩野田が見かけたのは、上半身濡れ鼠の江口なのであった。
「蛇口が壊れてて頭からかぶった」
「取り敢えず早く拭いて」
「タオル鞄から出してなくて」
「取り敢えずコレ使って」
タオルの貸し借りは通算何本目なのか。
「あ、この間のも返すの忘れてた。今日持ってきてるけど」
「それも今日貸すからとにかく拭いて。風邪ひくよ」
世話の焼ける次期エースであった。
その日の河合は朝からの雨で憂鬱だった。
悪天候は体調に直結するし、市大会直前で部内ムードもピリピリである。しかも今日の練習会場は市民体育館、学校からの移動も面倒だ。特に今年度の上半期コート予約が全て氷川商と同時間ときたら。
(岩野田さんを見かけられるのは嬉しいけど)
当然ながら交流環境は一切無い。むしろご遠慮したい状況ばかりなのは何の因果か。
ワタクシは同情をもって河合を見守る。
彼はそろそろ無駄に苦しむ時期だろう。弊社の「紙は神」規定。終了申請書が発行された時点で、恋の終わりが始まる。少しずつ効力が見えつつある時期であった。
(あの水色のって、岩野田さんのだよな)
本日の初手は江口が首に掛けているタオル。河合の目に入った瞬間、珍しく彼の頭に血がのぼった。
(江口さん、また借りたのか)
途端に呼吸が浅くなった。
(勘弁してくれよ)
只でさえ天候不順時の体調管理は手間なのに。
(これから練習なのに)
そうだよ、もうすぐ市大会なのに。
江口のヒトの懐に入りこむ天然ぶりを、河合は羨望していた。あの人あしらいは狙って出来るモノではない。が、今日は何故かそのユルさが癇に障った。それは今まで蓋をしていた自身の奥底に潜む暗い感情である。
(江口さん、自分の世話くらい自分でしろよ)
その自立の無さが競技に影響している事を、どうしてあの人は判らないんだろう。
(そうだよ。まずは自分の至らない部分を何とかしろよ)
いよいよ始まってしまった。
普段の河合からは想像つかない思考が引き出された。これが終了証の効力である。ワタクシはギリギリまで見守りに徹する。だが終了証は容赦が無いので、見ている方が辛いのであるが。
(オレ達を羨む奴等って、一体何なんだよ)
ひとつ感情の蓋がひらくと、次の感情の蓋もあく。その現象に河合は戸惑った。それはとうに消化された筈の、封印された葛籠(つづら)である。
氷川中の特待生は良くも悪くも注目の的で、称賛と同時にやっかみも受ける。最近では大澤の留学ゴシップが分かり易い例であろうか。
(グチャグチャ煩いんだよ)
河合も日々それなりに面倒があり、受け流すのも板に付いた。だが消化出来ない棘もある。
(いちいち馬鹿馬鹿しいんだよ)
そうさ、バカバカしいべさ。だけどオレは今ナニ思い出してんだ?
流石に河合は優秀だ。感情の起伏に違和感を察知し、直ぐに天井を見上げ息を整える。
(思い出すのよそうぜ。くだらない)
屋根に落ちる雫達だろうか。雨の音がよく聞こえる。
市民体育館、二面コートの境。緑のネットの網目から見えてしまう光景は、しかしいつも以上に不快である。先程浮かんだ影の棘は、そぐわぬ気持ちも噴きこぼす。
(なんでグチャグチャするんだ?)
意識を変えた筈なのに。暴走するシナプスは何だ。次に浮かぶは先日の放課後、角の公園の記憶であった。
(おい、なんだよ)
あの夕刻の景色であった。
目を閉じるのが遅れて見つめあった数ミリ先の彼女。ほのかな体温。睫毛が落とす影の長さ。触れた柔らかさ。記憶の無秩序な再生。同時に誰かに奪われる予感。
(今は関係ないだろ、なんで急に)
胸が軋む。息が詰まる。努めて切り離す思考をする。だが体育館という限られた空間である。彼岸と此岸がその場にあれば、多少バグるのは致し方ない。
緑のネットの幕向こう、仲間と準備中の岩野田に近づく江口。話しかけられ、細々と応じる岩野田が見える。
(なんて表情してんだ)
外は大地を潤す雨。
(岩野田さん。なんでそんな奴に)
水滴に覆われる市民体育館。
(なんでそんな風に笑うんだ)
僅かな側面に僅かな観客席を持つだけの二面のコートである。
(なんで笑うんだよ)(そんな奴に)
氷川中のコートと氷川商のコート。
(なんでそんな笑顔)(なんでそいつに見せんだよ)
岩野田に何かを催促され、緑のファイルを提出する江口。
(なんで触んだよ)
ただの手渡しである。触れるという程触れてはいないが。
(触んなよ)(触んな)
無駄な感情が隙間に入る。河合は自分のブレにも気付く。
(あ、やばい)(おかしい)
僅かな冷静さを取り戻す。
(今日の自分、すげえおかしい)
体調の落ちる時はいつもそうだった。全てに後ろ向きに、消極的に、悲観的になる。
(……いつもの自分じゃない)
無意識に穴に落ちる。下らない闇に籠る。
(体調?)(でも、発作じゃない)
河合はベンチに下がる。無駄な鼓動。
(吸入するべきか。いや違う)
顧問は声を掛ける。
「どうした、具合が悪いか?」
「いえ、まだ大丈夫です」
「そうか。無理するなよ」
後輩に椅子を借り、背筋を伸ばして深呼吸をする。
(違う)(必要なのは吸入じゃない)
目を閉じる。息を吐き切る。それからゆっくり息を吸う。順に腹の奥に入れる。意識を飛ばす。出来るだけ遠くに。
(落ち着けよ)(落ち着けよ、自分)
ちゃんと出来たつもりだった。いつも通りのつもりだった。だがいざコートに入ってみると、まるで出来てはいなかった。
「もう今日は下がれ」
大澤に指摘されるまで気づかなかった。
「マサキ、オマエおかしいぞ。怪我する前に引け」
そんなに乱れているなんて、屈辱だった。
下がって直ぐに、顧問に追い打ちをかけられたのも初めてだった。
「今日は体調だけじゃないな」
顧問は生徒の状況もよく把握していた。氷川商のコートをチラ、と眺めると、
「オレも経験が無い訳じゃない。お前達が心揺れる時期なのも承知だ」
顧問の顔色を察して、河合は歯をくいしばる。
「だが間違えるなよ。今のお前の不出来さと彼女は無関係だぞ。全部自分のせいだぞ」
自身のせい。自分の弱さのせいだ。
「もうわかってるんだな」
顧問は河合の表情を見極めると、静かに告げた。
「先に学校に戻りなさい」
河合は言われるままに荷物を纏めコートに一礼し、独りで廊下に出た。
「貴方達は目指すものがあってここに来ているんでしょう?」
廊下に出た瞬間、早苗叔母の顔が浮かんだ。
目指すものがあってここに来ているんでしょう?
(叔母さんの言葉に真理があるってこと?)
動悸は心の振動か。河合は北通路の階段に座り込み頭からタオルを被り、深く息を吸った。
自分の目指すもの。バスケが楽しくて褒められて自分の居場所が出来て、もっとがむしゃらになって、気付いたら此処にいた。それだけなのだけれど。
河合の退出に岩野田はすぐ気付き、彼の体調不良を案じた。江口は先に岩野田の様子を察し、氷川中のコートを確認して納得した。ベクトルが変化してゆくのを、ワタクシはただジッと眺めている。
河合の思考は錯綜している。
(そうだよ、自分はどうして此処に居るんだろう)
きっかけはシンプルだ。小学時代のミニバス全道大会で大澤リュウジを見たからだ。会場中を釘付けにした抜群に上手いデカいヤツ。チームの戦績はイマイチだけど、プレイヤーとして圧倒的。どうしても勝てる気がしなくて、眩しくて羨ましくて悔しかった。
選抜合宿で一緒になれた時は嬉しかった。中身も真っ当でテンションが上がった。それからヤツの彼女がまさかの歳上で超綺麗だって判明した時も面白かった。先輩達がこぞって悔しがったのが笑えた。
じゃあオレが歳上の岩野田さんに惹かれたのはアイツの影響かな。いや違う。岩野田さんを見た瞬間に、自分でちゃんと判断した。このひとだって思った。
そうだ、岩野田さんも本当はリュウジが良かったんだ。リュウジの事、いつも友達と楽しそうに見ていた。でも仕方ない。リュウジはオレ達から見ても格好いい。氷川中に来てからはいつも『河合と大澤』のセットで見られて周りに比較されて、散々ジャッジもされるけど。同じ競技者でも歩く道は全然違うけど……違うんだけどな。
調子の悪い時ってロクな事を考えやしない。折を見て彼女が廊下に来た事にも気付かない。近くに来ているのに、姿を見つけても、自分の機嫌を直すスイッチすら入らない。
(そうだよ、岩野田さんも)
岩野田さんも本当は、リュウジがいいんだろ。
岩野田は河合に話しかけるのを躊躇した。
気になって休憩を貰ったはいいけれど、彼は目が合ってもニコリともしない。具合が悪い訳でもなさそうだ。持参のドリンクをそっと出す。
「ありがと」
「体調?」
「いや、大丈夫」
「そう」
すぐ立ち去ればよかったのに、機会を逃してしまった。河合の気配は近寄り難く、迂闊な物言いもしたくない。
(今って市大会前だよね)
関わるのもはばかれた。彼には独りの時間が必要なのかも。邪魔せずにさっさと戻ればよかったかも。廊下に反響する部員の掛け声、弾むボールの音、擦れるシューズの音。こういう時って何が正解なんだろう。
だけどもう正解なんて無い。壊れる為に今があるのだから。
「なんか、情けなくてゴメンな」
河合の突拍子も無い台詞が二人の間に隙間を作る。岩野田も引き返せなくなってしまった。
「こんな風に膨れっ面されてても困るだけだろ」
「うん?」
そうだよめっちゃ困るよ、って明るく言って笑いたい。けれど今日は蝦夷梅雨でお空は暗いし、雨の粒子で空気も重い。そんな顔されたら嘘もつけない。
「何かあったのって、聞いていい?」
「岩野田さん。オレと付き合うの大変だろ」
「……なんでそんな話?」
妙な返答。おかしな波が来た。岸に戻ろうとしたら、流されてもっと離された感じ。
「岩野田さんもホントはリュウジが良かったのに。オレなんかで申し訳なかったなって」
「なんの話をしてるの?」
流れが速くて、岸辺がどんどん遠ざかる感じ。
(大澤君?)
その話をどの角度から受け取ればいいんだろう。
(中学時代に友達と騒いでいた頃のコトかな)
でも今はまるで関係の無い話だ。どこから解きほぐせばいいのだろう。沖に流されるような不安。
「河合君、どうかしたの」
「岩野田さんは」
なんで大きな声出すの。
「岩野田さんはもう、オレと無理して付き合わなくていいよ」
なんでそんな話になるの。
河合も戸惑っていた。なんて事を口にしたんだろう。確かに今の自分の気分は最悪で滅入っている。滅入ってはいるけど、こんな状況など微塵も望んではいない。だのにどうしてこんな言葉を放つんだろう。どうして口が勝手に動くんだろう。
「聞いたよ。岩野田さん、氷川商で可愛いって評判なんだろ」
「え、え?」
岩野田はもっと戸惑った。今度は何の話だろう。面白くない内容ばかり。だが放った河合本人も予測がつかなくなっている。
「江口さんも岩野田さんの事褒めてたし、いい話も沢山あるんじゃね」
「そんな話、何も無いよ」
「無理しなくていいよ、マジで」
「無理してないよ」
「オレみたいなガキじゃなくてさ、」
何を話してるんだろう。だけど吐き出す度に何故か身体はどんどん楽になる。おかしい。どうして肩が軽くなるんだろう。
「もっとちゃんとした人と付き合うといいよ」
何をやらかしているんだろう。河合は自分の言葉に胸が冷えた。浅い呼吸をすると、水分の多い空気でますます冷えた。つめたい廊下。固い階段。痛んだ床。
岩野田は河合の目の前にぺたんと座り込む。
「ごめん、あの、意味が、ちょっとよくわからないんだけど、」
彼女の小さな声を聞いて、ようやく河合も我に返った。
「河合君、なんの話をしてるの」
本当に。今何を言ったんだろう。
改めて彼女の顔を見た。自分より少し下にある目線。冷静に見えるけれど、歯を食いしばって堪える顔。この表情って、中学の美化委員の時に見た顔だ。あの時、理不尽に堪えて可哀想だと思って見ていた彼女だ。なんで自分がこんな顔させてんだ。なんで泣かそうとしてんだ。
(オレは今、何をした?)
雨の音が強くなった。湿度が上がる。ガラスが曇る。
ただ、岩野田だって以前とは違っている。ちゃんとしなやかさもしたたかさも、少しだけど身についてきた。ほんの少しだけど。
「私はそんな事、思った事ないよ」
喉が熱くて締め付けられて痛いけど、小さい声だけど、ちゃんと言えた。
「考えた事も、なかった、けど」
涙を堪えて胸が苦しくて、言葉がうまく出ないけれど。
「でも、河合君は、もう辞めたいのかな」
言われて河合はオノレの大事に気付く。そんな事ない。
「終わった方が、いい?」
そんな事は一切思ってはいない。河合の混乱がまた戻る。岩野田の言葉で、逆の錯乱が始まる。自分が自分じゃない衝動。雨の音。天井に掛かる音。今日の雨量。厚い雲。
「だけど、もしそうなら、ちゃんと自分で決めてね」
そんな事、絶対したくない。
「私、河合君の邪魔したくないよ」
全然、全然邪魔じゃない。
「でも、狡い言い方はダメだよ」
オレは狡くない。
「そういうの、河合君らしくないよ」
「らしくないって何だよ!」
絶対違う。絶対違う。しまった。八つ当たりした。何故だ。これは彼女に言う事じゃない。それにそんなんじゃない。そんな風に思ってない。だのに思っている事とまるで違う言葉が放たれるのは何故だ。勝手に口が動くのは何故だ。
「オレらしいって何だよ。オレの何を知ってるんだよ!」
岩野田さんは悪くない。全然悪くない。全部オマエのせいだって、さっき顧問も言った。
ああ、そうだよ、全部オレが悪いんだよ。だから彼女の側に居る資格なんて、オレには全然無かったんだよ。
「じゃあ、離れてくれ」
違う。そんな事一切思ってない。彼女を怯えさせた。怖がらせた。なんて顔させるんだ。言葉ってなんて鋭いんだ。
「もうオレから離れてくれよ」
違うのに。そうは思ってないのに。コレはなんの衝動だよ。
「オレは、」
舌禍だ。これは舌禍だ。堪えろよ。なんで堪えられないんだ。
(それじゃ駄目だろ、だからオレは駄目なんだろう!)
堪えろよ、堪えろよ、堪えろよ自分。
「オレは」
息が浅いぞ。落ち着けよ自分。堪えろ。
「岩野田さんが、好き過ぎて駄目なんだ」
堪え切れない自分。どうしようもない自分。熱量とブレーキの効かない、分別の無い自分。
何を言ったんだ自分は。舌を噛み切れ。