春の花が咲き揃い、夏の花も勢い出した蝦夷梅雨間際。母も回復傾向となり、放課後は大家と茨木を手伝う岩野田である。元々労を厭わないタイプなので、気分転換にはもってこいである。
「岩野田、マネージャーめっちゃ向いてる」
「もう入部しちゃいなよ。誰も異論はないよ」
二人に何度もボソボソ呟かれ、
「顧問のセンセイもマネ業務の軽減を目指すそうだよ。一緒にやろうよ」
二年マネの吉野サトミからも誘われ、
「そうだよ。芋もその方が嬉しいよな?」
「おっ、芋が照れてる。とっくにバレてんだよ芋」
諸先輩方も芋……じゃなかった、江口を茶化しながら入部を促すのであった。
「でも岩野田さんの彼氏スゲーよな。芋に勝ち目はねえな」
「再来年はウチに来てって河合君に伝えといてね」
返答に困るお願いまで押し付けられてしまった。
(氷川商、バスケ部、マネージャー?)
複雑なのは当の河合である。
「誘って貰えて嬉しいけど大変だろうし。ちゃんと出来るかなって」
最近の二人のやり取りは直電に昇格。脳裏に浮かぶは自分だけが知っている(と思っている)美化委員時代の岩野田のジャージ姿である。悶々ツライ。
「……岩野田さんはマネに向いてるとは思うよ」
ああ、でも嘘もつけない。誰よりも適任だと気付いているから。
「向いてるかな」
「けど氷川商は強豪校だから、大変なのも本当だと思う。お母さんの事もあるから家で相談した方がいいよ」
考え込む岩野田に、
「美化委員みたいに全部抱え込んだら駄目だよ」
「あ、うん、え、美化委員?」
「うん、や、別に」
「別に?」
ひと時のスイートトークであった。ただ、電話を切った後に河合が「……マジかよ」と呟いたのは、誰も聞いてはいない。
翌日の放課後も大家と茨木に拉致られる岩野田である。
「今日の活動場所、市民体育館なんだよ」
「是非見学するといいよ」
有無を言わさぬ態度である。
「でも使用コートは一面だからキミは観客席に居るといいよ」
「後の一面は氷川中のバスケ部だから存分に眺めるといいよ」
断る理由が何処にもなかったのは言うまでもない。
市民体育館でフリーズするのは河合であった。
昨日の今日でこの展開。はさむ緑の網ネットの向こう側コートに氷川商バスケ部。大澤にも顔を覗き込まれウッカリ憮然。
「よう久しぶり」
江口にも手を振られ、ご挨拶を返さねばならぬ複雑さ。
「岩野田さんも観客席に来てるぜ」
しっかり表情に出る河合。
「もうすぐうちのマネになると思うけどな」
存分に顔に出してしまう河合。
「オマエらがウチに来てくれるのも待ってるぜ。じゃあな」
返事を返し忘れた河合。
「エロ先輩、相変わらず変わんねえな」
大澤のボヤキにすら反応の河合。
危惧した『氷川商の江口先輩』と練習会場でのご対面。合同練習会の時は何とも思わなかったのに、今日の結構な衝撃は何故だ。
落ち着けよ。なまじ初恋進行中だからだ。落ち着け。なまじ手に入ったから余計だ。
そっと息を吐き切る。腹の奥まで空気を入れる。中学と高校の差。面倒な上下関係。でも予想済みだっただろ。昨日の今日なのが微妙だけれど。
(さあ切り替えろ)
河合の背筋が伸びたのを確認して、大澤も後に続く。
中イチ時代、河合は岩野田がバスケ部を見ているのが嬉しかった。大澤を見ていたのは承知だけれど、自分も彼女の視界に入ると思うだけでテンションが上がった。煩い鼓動が収まらない。さあ、久しぶりにガチな自分を見て貰おうじゃないか。
結果は予想通りであった。彼等の見事な競技風景は、周囲は当然の事、氷川商の皆様をも釘付けにした。
「あの二人が断然ずば抜けてるねえ。将来は海外留学だねえ」
氷川商顧問が呟く言葉に全員が同意した。
「河合君、ちゃんと大きくなれるといいねえ」
誰もが深く頷いた。
観客席の岩野田は放心していた。中学時代を思い出して、でもその時よりも、何もかもが全然違って。
一瞬河合は上を見る。観客席の岩野田は氷川商の制服。襟元のボタンをひとつ外して、水色のボウタイを緩めに結ぶ放課後仕様。
(見てた?)
(うん)
視線を合わせた瞬間に、多分、そんなやり取りをした。
(岩野田さんは今オレを見てんだぜ)(オレを見てくれてるんだぜ)
河合はそっとティシャツの裾を握る。
「みかこ、最近楽しそう」
母は全てお見通しだった。学校帰りの病室、もうオレンジのプレートの大部屋である。促され、バスケ部の話もポツポツとする。
「やりたい事が有るのなら少しでもやってみなさい。応援するから」
「でも」
「バレエも本当は続けたかったんでしょう。もう我慢しないで。学校生活をちゃんと楽しんでほしいの」
お父さんも同じ気持ちだよ。母の言葉に岩野田は背中が広がる様な気持ちがした。
そうだよ。岩野田にだって追い風は来ている。スガワラの提示プランは河合が中心だけれど、岩野田だって人生の幸福期なのだ。だからこそ河合と仲良くなれている。その運の強さも鑑みてほしい。
リンキーが提出した江口の報告書も気になる。
競技への執着が増している事。河合達へのライバル心が多大にある事。それから、岩野田がどうしても気になる事。意識し過ぎてうまく自分が出せなくて、本来の天然より更に、敢えて幼く振る舞う事。
ワタクシも本日分を付け加える。
自分が河合達より圧倒的に劣るのが悔しくて悔しくて、息が出来なくなった事。二人が視線を合わせるのを見て、胸がキリキリ痛んだ事。
忘れがちだが江口はイケメンである。だが中身は真性天真爛漫、永遠の小学男児でもある。
「えぐっちゃーん!」
「しゅーとー!」
黄色い声援も多々上がる。
全女性の心を鷲掴み、しかし身近な者にはお手間なイキモノ。部内でのフォローは二年マネの吉野先輩と大家、茨木達が担う訳だが、如何なる工夫も功を成す事は無かった。
「という訳で、岩野田にお世話係を頼みたいんだ」
「キミの前でだけお利口なんだよ、江口」
無事バスケ部マネージャーに就任した岩野田に、早々に無理難題が降りかかる。
「私の前でだけなんて……たまたまだと思うよ」
遠回しに、しかし丁重にお断りしたのにも関わらず、
「タマタマでもいいんだよ」
「対処療法で充分だよ」
「日常は付け焼き刃の連続だよ」
のべつ幕無しに却下されたのであった。
「実は『仔犬のしつけ方』がとても役に立ったの」
物騒なブックレビューを語るのは佐藤ミヤコである。初夏の夜、バスケ部マネ相談への電話回答である。
「大澤君イヌ扱いなんだ!」
驚愕の岩野田に佐藤は焦った。
「待って待って、決して全部じゃないよ。でも時々、よく、もう一人弟がいる気分になって、つい」
(何ソレもっと詳しく!)
食らいつく岩野田。
「だからどうしても保護者になってしまうよね」
(ほう……)
またもやモブな気持ちで聞いてしまう岩野田。
「とにかくヤンチャ君には冷静に穏やかに、ノーはハッキリと。でも河合君には関係ないね。いつも落ち着いてるもの」
岩野田のシャーペンの芯が折れる。ベタな展開で恐縮です。
「か、河合君の方がいつも私より冷静です」
赤面する岩野田を見透かされたらしく、向こう側で笑われます。
「もう試合シーズンに入るね。私達も会えなくなって寂しくなるね」
そうだった。岩野田も予定ギッシリのバスケ部スケジュールを見る。今度はいつ何処で会えるんだろう。
(どうしてこんなに忙しいの?)
案の定であった。江口の猫かぶりは最初だけであった。中身が小学男児なので仕方がなかろう。
だが愉快な現象も見受けられた。おバカとはいえ女子に圧倒的人気の江口である。絡めば周囲からの嫉妬も受けそうなのに、何故か岩野田にはそれが無い。
「だって岩野田さん、中身がおばちゃんだもの」
「誰よりもハタキと三角巾が似合うもの」
根っこのイロケの無さが露見し、皆様からオカン認定を頂戴したのである。
本人も落ち込むどころか「キャラ的にはそれでいいです」と了承するのは何故だ。しかもこの二人将来結婚するんだってよ。嘘じゃなかろうか。
(やはり因縁に気をとられるのは宜しくないわよねえ)
唸るワタクシの肩に何かが止まる。
「カワイさん、うちのボスが呼んでる」
ケンジさんの管狐である。
「計画前倒しだなんて困るよ。絶対行かせないよ」
スガワラから大澤のプラン変更の要請があったそうだ。
中学卒業後に海外留学のご提案だという。
「返済不要の奨学金でも母子家庭の大澤家には持ち出しが大きいし、本人の器もまだ全然だ」
机上はマンガン社との式神のやり取りで大混乱である。
「ほらマンガンさんだって反対してる。スガワラは先走り過ぎなんだよ」
「大澤には時期尚早なんですか?」
先日の氷川商顧問も大澤を絶賛していたが。
「心技体が揃わないと美しくないよ。彼はまだフィジカルだけだ。元々競技への執着も少ないコだし」
「そうなんですか!」
「無意識は中庸を求めているわ。それに地縁の深い子なの。だから北支店の私達が主任なの」
真田さんも書類作成で目が血走っている。
「今だって実際は河合が大澤を引っ張ってるのに。カワイさん、この意味がわかる?」
「河合の重要性、でしょうか」
「そう、あのコは山椒の実、かつ大きな原石よ。ケンジさん用意出来ました」
「よっしゃ行こうか」
お二人はバタバタと支度をするとガタガタと出掛ける準備をした。
「そんな訳だからカワイさんも気を引き締めてね。最も河合はまだ身体が出来てないからスガワラも無茶振りはしないだろうけど」
「実は河合にも強い波が来てるんです」
「ああ、そう」
ケンジさんが怖い顔をした。
「あの古狸、何をそんなに急ぐかね」
スガワラの執着もあろうが、彼等の成長は際立っていた。だが良い作用だって勿論あった。
(なんて格好いいの二人とも!)
早朝朝練に出掛ける大澤と河合を見て有頂天になったのは村松早苗である。
アドレナリン全開の中学男子の顔付きは日増しに凛々しくなっている。これは独り占めしたら申し訳ない。
「じゃあ行ってきます」
「ちょっと待ってアナタ達! 写真撮るから!」
「何でですか」
「お母さん達に送るのよ。ほら、こっち向いて」
玄関で無理やりショット。練習前の気合のせいで目付きは鋭く、反面母親への画像と聞いた困惑と恥じらいの表情も混じって大変宜しい。
「はい、イイ顔撮れました。早速送るわね。今日も気をつけて行ってらっしゃい」
早苗叔母、右手を降りつつ左手で器用に送信。
西の街と東の街では、二人の母達が受信画像を眺めて目元を潤ませた。
添付された息子達の成長に嬉しいやら誇らしいやらホッとするやら。液晶画面をそっと撫でる。
早苗叔母の後ろには、全鬼子母神連合の妖精さんが御憑きあそばしている。
略して全母連という。大層慈悲深く、大層おっかないオバちゃん妖精さん達である。
その迫力の前では、スガワラだってマンガンだって、尻尾を巻いて逃げるのだ。
全母連の底力は凄まじく、スガワラの先走り案件を一括で白紙に戻した。そして誰もが痛手を背負う羽目にもなった。
真田さんが満身創痍で帰社された。ワタクシは慣れぬ手付きでドリップ珈琲を入れる。
「全母連さまから大クレームだったわ。公正さに欠けるって」
昨夜、学校関係者間において、大澤の公費留学の噂が拡散された。発信元は勿論スガワラである。大澤ファンの言霊を利用してゴリ押しを狙ったらしいが、
「時期尚早、逆効果よ。全国制覇もまだだし、世間様が出る杭を許さないわ」
父兄関連のネットワーク管轄は全母連なのである。
「大澤レベルですら依怙贔屓になるんですか」
「難癖つけるのはごく一部よ。ただ声の大きいヒトは周囲を振り回すし、厄介なのよね」
随分お疲れなのであろう、普段は召し上がらないチョコレートにまで手を伸ばす。
「不景気で誰もが繊細だし、今回は全面撤廃が妥当よ。こっちまでトバッチリだわ」
話す側から東の街で残務処理中のケンジさんの式神が届く。真田さんの眉間が益々深くなる。
「やっぱり私も行くわね。佐藤が参ってるの。可哀相に。あの子も本当は余裕なんて無いのよ」
「あの、ご迷惑でなければご一緒しても宜しいでしょうか」
真田さんはワタクシをまじまじと見、机上を確認する。
「だけどアナタも紙仕事が溜まってるでしょう」
「平気です」
「嬉しい事言ってくれるのね。ありがと」
小さく笑いチョコレートの封を締め、一気に珈琲を空けた。
「じゃあ今日はお言葉に甘えようかしら」
留学の噂は無責任に盛り上がり、全方面の友人知人から詮索される河合も複雑であった。
(リュウジが怖くて直接聞けないからって。わかるけどな)
ありとあらゆる面倒を丸く収める立場も大変である。
無論大澤ならどんな特待話があっても不思議はない。だがその圧倒的な差を常に目の当たりにする河合の重圧には、誰もがまるで気付かない。
(オレだってヘコむんだけどな)
入学以降、大澤の隣で過ごす一年強。身体が小さいハンデを創意工夫で乗り越える日々なのだ。
昨夜、当の大澤はずっと電話中だった。小声でボソボソ呟いたり時々声を荒げたり、電話を切ったりまた繋げたり。噂は本当かもしれない。
(でも、ヒトを羨むだけ無駄だ)
河合は自分に言い聞かす。時間は有効に使え。苛々するだけ不合理だ。
思考を巡らす河合の隣には大澤がいる。
大澤も大澤で何なりと有るだろう。だが周囲から見たら「いつも一緒にいるバスケ部の仲良しさん」である。
「腹減った」
「まだ二限目前だぞ」
「水飲もうぜ」
淡々といつも通りに過ごす。廊下を進む。
人気のないウオータークーラーの前。だが大澤はそこから動こうとはしなかった。
「どした」
「マサキにだけは話しときたい事がある」
河合は身構える。改まった大澤なんて初めてじゃないか。
「みんなには黙ってて欲しい話だ」
「なんだよ」
言いよどむ大澤。二人の間に無駄な緊張感が走る。
「夕べからオマエの様子がおかしいのは知ってたよ」
また言いよどむ。そんなに深刻な話なのか。
「本当に、マサキにしか言わないから」
固い表情の大澤を前に、河合にも緊張が走る。やはり留学の噂は本当なのか。衝撃に備える覚悟をした瞬間、別の衝撃が河合を襲った。
「オレとミヤコ、婚約した」
「は」
「正式な結納とかは出来ないけど、でも親には了解もらったんだ」
「は?」
盛大な攻撃であった。頭上からの爆撃に備えていたら両脇腹をくすぐられた様な。こちょこちょ。
「わはー言えたーあー恥ずかし」
真っ赤な大澤に絶句する河合であった。親を巻き込む結婚の約束とは。
「オマエに言えてよかったよー」
「聞かされる方が恥ずかしいぞ。戦国かよ。二人共まだコドモじゃないか」
激震である。だが予想もつく。昨夜の大澤の散々なる長電話。暴れだすと止まらない氷川の闘将。御両家はさぞかし揺れたのではあるまいか。
「それを聞かされたオレは何すりゃいいのさ」
「いやなんも。ただ聞いて貰いたかったんよ」
どうしようもない情報であった。
「い、岩野田さんには速攻で話すからな」
「えー」「えー、じゃねえし」
ヒトのクチに戸など立たぬ。その後もお互いの表情に改めて困惑し赤面し、モジモジし合う二人であった。
「思春期の悩みにはノザラシ製薬のチューニビョン散布が最も有効ですよね」
「カワイさん、在庫が品薄なのにありがとう!」
「取り扱い有資格者が来てくれて助かったよ。経費は勿論こっちに回してね」
お二人にはずっと助けて戴くばかり。お返しの機会を得、ワタクシも大変幸福である。
反面、けしかけておきながら、御両家の親御さんには申し訳ない限りである。さぞかしお困りであったろう。
「破天荒なオママゴトだったなあ」
「いいじゃない、壮大で尊大、大澤らしいじゃない」
「佐藤の今後の受難を憂うけど、二人は益々コソコソ出来なくなるね」
「私達も安心して驀進出来るわね!」
お二人は大いに盛り上がっておいでであった。
あの後河合は大澤に「てっきり今評判の留学話かと思ったのに」と零した。
だが大澤は「そんな話、オレに来る前にオマエに来るしょや」と返した。判るヒトは必ずオマエを評価している……と、これは大澤の心の中の声である。
婚約騒動のオーラスは全母連・北代表様の弊社突撃訪問であった。スタッフ要請とチューニビョン散布報告へのクレームであった。
「以前から再三申しあげておりますが、私共が非営利団体である事実を今一度お考え頂きたく存じます。現場のボランティアスタッフは体の良い駒では御座いません。当日申請報告はくれぐれもお控えくださいませ」
「誠に、申し訳ございませんでした」
ケンジさんと共に平身低頭のワタクシ。現場スタッフ様達は「なんもなんも」とご快諾くださっていたのだが。
「この度は御尽力賜り、誠に感謝しております。改めまして、東支部の皆様にも御礼申し上げたく存じます」
「いえ……私もこんな話はしたくないんですが。最近はやりがい搾取も酷くて、スタッフは裏で疲労しておりますの。特にスガワラさんには困ってしまう」
思いがけぬ愚痴は先日の留学ゴシップの件であろうか。ケンジさんと目配せをしあう。
「そういえばお宅様も大層な実力者様を派遣で投入なさっておいでとか」
お鉢は弊社に回る。実力者と言えばリンキーか。
「すっかり評判ですよ。あの方はスガワラさんにもお強いですし、宜しいですわねえ」
「「スガワラさんにお強い?」」
ケンジさんとワタクシの声が揃い、代表様は黙った。
「それは困りました。ウチのモノが何か」
「あらお口が過ぎました。けれどプライベートらしいですから宜しいのでは。では私はこれで」
一番欲しい情報は聞けず仕舞いである。
お見送り後、ワタクシ達はしばし沈黙した。
「スガワラに強い?」
「プライベートだから宜しい?」
背筋が冷えるのは何の予感か。ワタクシ達は顔を見合わせ、どちらからともなく「今のは聞かなかったコトに」と頷き合った。
その足でケンジさんは東支部にお詫び行脚に、ワタクシも粛々現場に戻った。
気付けばリンキーは正社員時代と一切変わらぬデカイ態度である。
「江口の天然が爆裂中です。ブレーキは最大限で願います。ガッツリ止めといてくださいよ」
「おう。河合達の継続も最大でな」
返ってリンキーにゲキを飛ばされ、どちらが上司か判らない。
御指示の河合達にしても、当初のフェードアウトの危惧は何処へやら、現在は非常にスイートな気配なのだ。
「どうしよう、まだ心臓がバクバクするよ」
恒例となった夜の長電話。本人達は大澤ネタに息も絶え絶え。
「でもどこまで本当なんだろ。現実的じゃないよ。オレ達騙されてんじゃね」
「河合君、大人みたい」
岩野田は華やかな笑い声が止まらない。
だが別室で仕事中の父親を考慮し、ベッドに潜り込んでコソコソ話す。くぐもる声は普段より甘く、十二分に河合を刺激する。
「はー布団の中って息苦しい」
「さっきからゴソゴソ音がするんだけど。一体何してんのさ」
「話し声が大きくなるといけないから、お布団に籠ったの」
「岩野田さんちのマンションって家の中も音が響くの?」
「家の中は響かないよ」
「じゃなんで」
「色々あるの」
「ナニがさ」
勢い河合の声もくだけて甘くなる。自分達の発声の変化にそれぞれが同時に気付く。
へえ。声にはこんな表情があるんだ。こんな表現もするんだ。端末を通す相乗効果。
ワタクシのブレーキも効きが悪く、ずるり、ずるりと前に出る。
不安を揺らす波もある。だが律して隠す。氷川中エースの矜持である。
河合達が氷川商とカチ合うのは市民体育館での練習時、最近は週に一度ある。
緑のネット越しに岩野田の姿を垣間見られるのは嬉しいけれど、ジャージ下のティシャツが白く光って、その側に江口が居ようものなら、気持ちの行方は真逆に変わる。黒い何かも沸き起こる。
(エロ先輩ってなんであんなに岩野田さんに絡むんだ?)(自分の事は自分でしろよ)(岩野田さんもほっとけよ)
だけど決して崩さない。益々競技に集中する。誰も近寄らせない膜を張る。
(くそ、見くびんなよ)
何を。氷川中を。それとも自分を?
岩野田は練習中に決して目も合わせない河合に対し、その鬼気迫る集中力をむしろ見習いたいと思っている。
自分も凛としたい。キチンと前を向きたい。夜の電話は相変わらず続いていて、だけど声だけのやりとりだけ。だけど……いつも優しくて。
(河合君カッコいいな)
(私も河合君みたいになりたいな)
だが河合の本音は見えない。見えぬまま今日も江口のお守りをする。
岩野田のミドルネームがオカンで定着した放課後、お空はすっかり蝦夷梅雨と化した。
「岩野田さん、江口がお行儀悪いよ」
「岩野田さん、江口の課題提出がまだだよ」
「岩野田さん、江口がまた上級生に迫られてたよ」
上記のうちマネ業務外はどれでしょう。
「全て業務外です」
大家達が岩野田のストレスを察したのも当然の成り行きと言えよう。お守りを押し付けた罪悪感にも苛まれ、先輩マネ・吉野への直訴に至った。
「なんとか出来ないでしょうか。江口も周りも岩野田を酷使しすぎです」
「そうなんだけど、彼のコトは昔から知ってるけど」
歯切れの悪い吉野は江口と同じ町内住まい、同じ小中学出身であるという。
曰く、彼は四人姉弟の三番目。内訳は上に綺麗な姉二人、二歳下の弟なのだが、
「その弟がサッカーで超有望なんだ。小さい頃から御両親が付きっ切りで、お姉さん達が江口の親代わりだったの。でも今はお姉さん達も会社や大学で忙しいから、それで余計に岩野田に甘えていると思う」
岩野田達をトーンダウンさせてしまうのであった。
「だ、だけど、」
お、いつも穏やかな茨木が発言しますよ。
「江口は一年のエースです。お馬鹿過ぎる方が逆に可哀想では」
おお正論ですよ。
「そうだよね。自立してほしいよね。とにかく岩野田の負担は減らさないと」
吉野も心から同意し、皆で一致団結したのであった。
しかし江口は岩野田に纏わりついて離れない。
「岩野田さーん」「岩野田さーん」
岩野田の心境は飼育実習であろうか。見かけた大澤ですら「岩野田さん大変だな」とこぼす有様なのである。
当然だが河合は面白くない。その表情をいち早く見抜くのも当の大澤なのがやるせない。
「マサキ、顔に出てんぞ」
慌てて眉間の皺を消す河合。
「気持ちはわかるけどな」
憮然とする河合。
「よう、お二人さん。今週も調子良さそうだな!」
空気を一切読まずにネット越しに話しかける江口。露骨に苦虫を噛み潰す顔をする大澤と、どう返答すべきか固まる河合。
だがその時、何かが動いた。
「江口、ヨソサマの邪魔をしないの」
岩野田の叱責が飛んだのだ。クールな低音ボイスである。
「レンタルコートだから時間がないよ。早くウオームアップ始めて」
更にトーンを変えぬままクルリと向きを変え、
「練習の邪魔してゴメンなさい」
ネット越しに河合と大澤に謝ると、ゴネる江口をサッサと所定の位置まで連れ戻したのであった。
男児の世話をすると声がいちオクターブ低くなる傾向があるが、岩野田も既に育児発声が板についている。『岩野田・オカン・みかこ』の通り名が浸透した瞬間でもある。
大澤は吹き出し、河合の肩も盛大に揺れるのを、岩野田は背中で感じた。そして心の中で大いに泣いた。
(だって私は氷川中卒業生なんだもの。今は氷川商マネなんだもの)
パブリックな立場をお勉強中であった。
成長ぶりに感涙するワタクシの目に飛び込んだのは、岩野田の後ろに憑いたエプロン姿の妖精さんである。
あのユニフォームは全母連スタッフ様だ! 一体なぜ。ワタクシは急ぎご挨拶に伺う。
「あの、お取り込み中失礼致します」
「あ、はじめまして。私、全母連・岩野田家担当のモノです。今週から本格的に娘さんも見守る事になりまして」
岩野田のオカン度が上がった原因はこれだったのか。お互いに頭を下げつつ御挨拶である。
「母親の病状が落ち着きましたので、今後は岩野田家の充実を図る手筈となっております」
それは大変結構な事である。あらためて御礼をお伝えし、協力を申し出るワタクシであった。
その夜の河合と岩野田のスイートトークには胸騒ぎを帯びていた。
「あの江口先輩をいなせるなんて」
「全然褒め言葉じゃないよ」
「低い声、迫力あった」
「しつけは低音がいいって教わったの」「しつけ?」
河合の笑い声を複雑な思いで聞く岩野田である。
「でもめっちゃマネージャーっぽかった」
「褒め言葉として聞いておくね」
「褒めてるよ」
ありがとうと言いそびれ、岩野田は笑って誤魔化した。
河合は楽しい会話に徹する。心の奥底に潜む不満は胸に秘める。
岩野田に落ち度がないのは重々承知だ。表に出しても剣呑なだけだ。不本意な真似はしたくない。
いつだったか、江口から聞いた与太話も気になっている。折を見て彼女の口から聞いてみたい、氷川商のローカルルール。
細やかな努力や思いやりの積み重ねで繋げる日々、そのペースを崩すのは容易である。
早苗叔母が河合の部屋の扉をノックする。
「マサキ、お風呂がまだでしょう。早く入ってね」
慌てて端末を押さえて「はい」と返事をしたのに、その日の早苗叔母は怖かった。
「リュウジ君もだけど、マサキも最近長電話が過ぎますよ」
端末の向こう側の相手にギリギリ届くであろうトーンで、鋭く短く言い放つ。聞かされた岩野田の胆は心底冷える。
端末を通じた二人の間、それから自室の河合と早苗叔母との間。共に沈黙が生じたのは言うまでもない。
「ゴメン、今日はもう切るよ。おやすみ」
河合の声はいつになく鋭く響いた。
「うん、あの、ごめんね」
「いやこっちこそ。じゃね」
小さい応答だけでプツリと切れた。
岩野田は身体の芯が冷える。胸だけが早鐘を打つ。仕方ない。ずっと真面目に生活してきた大人しいムスメだ。他人に叱られた事など殆ど無い。
通話を終えた河合の部屋の空気はもっと強く強張っていた。目の前には早苗叔母がいる。お互いにひと呼吸が必要であった。
「だらしない生活をしている点は反省します。でも叱るのは僕だけにしてほしい。友達は関係ないよ」
河合が早苗叔母に楯突く事など、今までになかった。だけど今のは納得がいかない。叔母さんは確信犯だった。マナー違反じゃないのか。
「そうね。つい『うっかり』わきまえなかったわ。ごめんなさいね」
早苗叔母も表面だけで冷たく謝罪を述べる。
「伯母さんもそれぞれの親御さん達から大事な息子さん達を預かっていて、責任が有るから」
立場で河合を黙らせる。
「それに叔母さんはもう子育ても終わった只の地域の大人なの。貴方達の大事な友達のお行儀も悪かったらその子も一緒に叱りますよ」
「今の俺ら、行儀悪かった?」
「この場合は最近の貴方達の生活態度を指しています」
有無を言わさなかった。
「貴方達は目指すものがあってここに来ているんでしょう。その長電話は必要なモノなの?」
今の河合のココロの支えだけれど。
「休憩も大事だけど、何より身体を休めて、規則正しい生活をして頂戴。でないと貴方達のお母さんに顔向けできないわ」
一切の容赦はなかった。
「伯母さんはね、貴方達を守る為なら誰かに嫌われる事なんてちっとも怖くないのよ」
一切の口答えを許さなかった。
大澤は隣室でガクブル凍結中であった。何故なら大澤の方が常に長電話をしているから。
「アレはオレに聞かせる台詞だな。とばっちりで悪かった」
「容赦なくとことんねじ伏せられた」
「マサキは身内だから余計に心配なんだ。叔母さん、オマエが息子みたいに可愛いんだべさ」
今は腹立たしいであろうが、本質は有難い話である。懐にいる内は安全であろう。巣立ちは厄介やもしれぬ。
夜半、気付くと岩野田から短いメッセージが届いていた。
『ごめんね。河合君、忙しいのについ甘えて、長電話ばかりしてたね』
河合は慌てて電話を掛ける。今度は布団に潜って小さな声で。
「こっちこそ、さっきはゴメン」
「あの、こんな時間に電話、大丈夫なの?」
「うん少しなら。えっと」
「うん?」
でも何を言えばいいのかわからなくなった。聞きたい事もあったのに。
「いや……やっぱいいや。さっきはゴメンな。おやすみ」
声が聴きたかっただけかもしれない。
岩野田も河合の様子が判り、僅かに気持ちがほころんだ。ワタクシは胸をなでおろす。
「江口の弟、凄いんだね」
翌日の朝である。大家が持参した朝刊地方版は岩野田達を大いに驚かした。
写真入りの大きな紹介記事である。
「このジュニア選手記事。江口ハヤトってコがそうらしいんだけど」
「スゴい。ナショナルトレセンに入ってるよ!」
噂通りの有望株である。身近で例えると大澤レベルが兄弟にいるという状況だ。
「吉野先輩の言う通りだったね」
「同性の兄弟だとプレッシャーも有るだろうね」
江口の大変さにシンミリするのであった。
「でもだからといって、私達が江口を甘やかしたらもっと良くないと思うの」
同時にマネ業務のスタンスを確認し合うのであった。
ただ、甘やかすのと優しさは別物であるが、往々にして混合しがちでもある。その後のマネ達が江口に緩くなるのも女子のサガであろうか。
「岩野田さーん絆創膏ちょうだいー」
「はい」
「岩野田さーんドリンク補充しよー」
「はいはい」
「岩野田さーんタオル忘れたー」
「はいはいはい」
後ろの全母連の追い風もあり、岩野田も無駄に育児モードに入ってしまっている。仏心かもしれないが。
帰社後のワタクシを待つ案件がソレなのは本日のサダメであろうか。
「最近スガワラの仕事が雑だった訳がわかったよ」
マンガン社からのタレコミである。
例の古狸は長年蹴球ジュニア枠にも並行して関わっているらしく、特に今年度はかなりご執心だとか。
「江口弟が今期イチ押しなんですって。メジャー競技は見栄えがいいですものねえ」
「それでコチラの作業が雑になったんだね。留学ゴシップといい、やけに愛が無いと思った」
真田さんとケンジさんは呆れ、ワタクシは早々にブチ切れる。
「だったらさっさと担当を降りて下さって構わないのに」
「実際の仕事は部下で手柄は自分って腹なのよ。名前だけ連ねて、責任は部下に取らせてるわ」
「流石、出世する方は違うねえ」
どう愚痴ってもムカつくのであった。
「それでカワイさん。実はもっと嫌がるかもしれないんだけど」
ケンジさんが申し訳なさそうに口火を切った。
「さっき、そのスガワラから初恋申請が来たんだ。例の江口弟関連。先方はカワイさんを御指名なんだけど、ただその内容が」
どうにも承服しかねる話であった。
長いモノにグルグル巻きの立場ではあるが、精一杯の抵抗をするのみである。怒る暇があるのなら、出来る限りの準備をする所存である。
「リンキーさんちょっといいですか」
「ぎゃああ拉致られるう少女誘拐い」
「しませんよ阿呆ですか」
オバちゃんコドモ、じゃなかった、妖怪妖精をさっさと捕まえ会議室に放り込み、厳重に施錠する。
「鍵、を、か、け、る、な、よ」
「大丈夫です。ただのおやつタイムです。お楽になさってくださいまし」
コンビニレジ横で売られる栗饅頭と社内自販機の紙コップ緑茶をお出しする。
「愛が感じられない」
「ちゃんと丸盆で懐紙も敷いてあるじゃないですか。ワタクシの奢りですからご遠慮なく。さて」
正面にどっかり座る。
「閻魔帳閲覧も制限のかかる昨今です。今回はリンキーさんに直接お伺いするのが道理かと思いまして」
「何だ改まって」
「とにかく一服どうぞ」
誰に対しても容赦しない心意気であった。
古狸の代理妖精の押しの強さは古狸にクリソツであった。
「カワイさんには感服致します。お互い初恋同士、しかも中学生と高校生という世代ハンデの中で三ヶ月も交際持続とは」
脳内でアラームが鳴り響くワタクシであった。
「恐れ入ります。進行過程は大変良好です。今後も継続が最も有効と確信しております」
呑まれぬ様に踏ん張るのであった。
「是非継続でお願いしたく存じます」
同席の真田さんも援護射撃であった。
「思春期の揺らぎは大変繊細です。氷川中のエース格の内面充実という点をいま一度考慮していただけませんか」
「しかし今のままでも氷川中なら十分全国制覇出来ますよ」
間髪入れず一刀両断であった。
「十代体育事情も日々刻々と変化する中、弊社では現時点での蹴球の必要性を重視、再考に至った次第です。趣旨替えと批判されるのも承知でお願いに上がりました。勿論、氷川中プロジェクトをおざなりにしている訳では決してありません」
「事情は変化すると仰るのであれば、氷川中だって盤石ではないのでは」
「私共はカワイさんの先日からの河合に対する『ブレーキング』技術にいたく感動しておりました。本日出向きましたのは」
議論が噛み合ってない上に、褒め言葉は上滑る。
「カワイさんには是非とも蹴球枠にもご参加頂きたく」
コチラの意向に考慮ナシ。
「河合と岩野田は今月末で終了をお願い致したいのです」
今月末で終了。先にケンジさんから聞いていたとはいえ、直接聞くのは衝撃のある要請である。
「と言いますと、六月いっぱい、でしょうか」
「そうです」
「何故」
「河合に全国大会に向けて集中してもらう為です」
それが本音であろう。
「岩野田は今時珍しい心直ぐなるお嬢さんですね。この後は是非とも江口ハヤトとの可愛い恋を育まれてはいかがでしょう。江口弟は兄に似て大層見目麗しいのに性格は真逆、大変オクテです。パートナーには充分顧慮したいと願っておりました。私共は河合との関わりを通し、岩野田なら間違いないと確信し、御社に御提案させて頂いた次第です。河合も戦績良く、江口弟と岩野田も可愛い恋愛関係を通じ充実した日々を満喫。三方が益々素晴らしい青春になると思われます」
会合は静まり返る。スガワラは言い放つだけ言い放つと、目線をゆっくりと下にする。
「しかし」
真田さんの声が響く。
「氷川中プロジェクトの中心である大澤への影響はどうお考えでしょう。現在は河合達が大澤に大きな学びをもたらしておりますが」
「改めまして、趣旨替えと批判されるのを承知で、お願いしたく存じます」
真田さんのオーラがピキッと凍った。
「あ、あの」
末席のワタクシも発言する。以前から舐められっぱなしだが踏ん張れワタクシ。
「弊社の元社員が、今春から派遣業務で再雇用になっておりまして」
行け行けワタクシ。
「勤続年数の長い社員でしたので、巷では悋気の長の名で通っておりました」
お、スガワラ社員の顔つきが変わった、リンキーの影響パネエ。
「彼女は現在、営業三課で江口兄の片恋案件を担当しております。相手方が当の岩野田です。二人は将来夫婦になる因縁との事で、慎重に行きたい旨申しております。今回ご提案いただいた進行を彼女にも打診しました所、その流れは『江口家』にとっては芳しくないのではと、」
息継ぎするワタクシ。
「憂いておりました。家系列の確認をお願いしたく存じます。尚、スガワラの皆々様にくれぐれも宜しくとも申しておりました」
「何を宜しくと?」
「詳細は聞いておりませんが、彼女も同席させた方が宜しいでしょうか」
「あ、いや、もう時間も押しておりますので。では一旦社に持ち帰りまして、また連絡致します。カワイさんには今一度ご検討頂けたらと思います」
グッタリするワタクシに「取り敢えずは時間は稼いだわ」と労ってくださる真田さんであった。
江口弟が岩野田達の前に登場したのはその日の帰宅途中である。
スガワラの魂胆であろう、白々しく氷川商近隣で兄弟待ち合わせであった。これから親戚の家に行く為だという。見目麗しい兄弟に、見かけた生徒達は色めき立つ。
マネ達も感慨深く見守った。
(江口弟だ)
(江口より真面目だ)
(江口より落ち着いてる)
江口弟はマネ達を見かけると、暫しジッと見つめ「こんにちは。いつも兄がお世話になってます」と丁寧に挨拶をした。
(立派な弟だなあ)
(江口より出来そう)
(江口、兄として大変かも)
マネ達は別の視点にも気付く。評判の彼と並ぶ江口はいつもと変わりなく見える。反面、今までの彼等の道程も浮かぶ。
(兄弟仲良しで良かった。よくわかんないけど、二人共よくやってるんだね)
岩野田も不思議な気分になる。吉野から江口家の話を聞いたからかも。
「岩野田さん。借りたタオル、ちゃんと洗って返すから!」
「そんな事言って、洗うのは姉ちゃんだろ」
屈託のない兄弟のやり取りを皆で笑って囲む夕方。寒暖差はあるけれど、あっという間に伸びた日の入り。
岩野田はふと、河合の事も思う。頑張っている姿しか知らないけど、河合君も大澤君の側で色々思う事があるのかもしれない。浅はかに騒いでいた中学時代の時分は、ひどく無遠慮だったんだな。
あの夜から長電話は難しく、意思疎通は端末の短文応酬に戻っている。でもお互い物足りない。直接話がしたいと願う。本当はもっと会えたい。ひとたび願いが叶うと、欲は広がるものである。
(河合君、今何してるかな)
「江口兄弟の登場シーンが雑だ」
リンキーは呆れている。
「この体育会系学生の忙しい時期に親戚に出向く用事だと。進行もわざとらしい」
「そうなんです。古狸の初恋関連、万事こんな感じなんです」
「弊社、舐められてんな」
「そうなんです。専門のワタクシ達に全部任せてほしいです」
「蛇の道はヘビなのにな」
「せめて餅は餅屋って言ってください」
「ヘビといえば」
リンキーはパーカーのポケットから式神を出した。式神は彼女に握られウネウネと抵抗中である。
「社長宛てのコイツ、さっき拉致ったんだけどさあ」
「拉致らないでください!」
「あー大丈夫大丈夫、こいつアタシの言うコト聞くから。な?」
式神は無理やりウンと言わされる。なんて可哀相。
「上からの思し召しだ。何年後かに日本でサッカーワールドカップしたいんだってさ」
「ワールドカップですか!」
「そう、それで裏の強化を始めるんだと」
だからジュニア選手の後押しを始める寸法か。
「つまり通常業務は益々雑になると」
「正解。下々の妖精さん、皺寄せガンバってね」
ドライな物言いであった。
「デカい行事が来るとウチ等も忙しいんだよなあ」
リンキークラスの因縁妖精さん達は国際間の各浄化に勤しまねばならぬのだ。
「姐さん稼ぎ時ですね」
「果たしてちゃんと稼げるのかね。それにしても今回の栗饅頭は高かった。追加の袖の下よこせください」
お名前拝借の謝礼にパシらされるワタクシである。コンビニの片隅で肉まんを頬張るふた妖精に、神秘の気配は一切無い。
「そんな訳だから時間稼ぎも付け焼刃だ。河合達も保障は無いぞ」
ワタクシは小さく頷き、無言でカップコーヒーを飲む。
「それと、河合の件は気に入らないかもしれないけど」
リンキーは袋の揚げたてチキンにも手を伸ばす。
「江口弟のオファーが来たって事は、カワイさんの業務は評価されてんじゃん」
「古狸経由の言葉なんてマトモに聞けないです。うっかり近寄ったら搾取されてポイっすよ」
「ま、そうだけどな」
モグモグしながら各々の業務に戻るのであった。
最近のワタクシは会えない時間でアイを育てる作戦に変更中である。
(河合君、何してるかな)
(岩野田さん、今何してるかな)
お互い大いに悶絶すれば宜しい。河合に至ってはエンジン全開な中二の真っ盛り。
(この悩む時間が無駄なんだよ)
さっさと実働すれば宜しい。
「あらマサキ、どこ行くの?」
「ルーズリーフ無くなったから買ってきます。伯母さん何か買い物ありますか?」
「じゃあ牛乳を三本、お願いしようかしら」
サクサクお出掛けすれば宜しい。携帯電文、速攻送信。
『これから買い物に行くけど、今ってまだ下校途中?』
岩野田にもトットと受信させて、コンビニ前でハチ会えば宜しい。
「おばんです」
「白々しいね」
逢瀬が成立すれば宜しい。
「送るよ」
「うん」
お手手を繋いで帰ると尚ヨシ。指先のみの初々しさよ。
「今日ね、江口の弟を見かけたよ」
「あのサッカーで有名なコ? どんな感じのコだった?」
「江口に似てたけど、真面目そうだったよ」
江口は立派な弟がいて大変かもしれないって思ったよ。河合君もそんな気分の時がある?
岩野田は聞いてみたくなった。
けれど彼は「考えた事もない」と、きっと笑ってかわすだろう。河合は、オトコノコはいつでもそうだ。自分の弱い所なんか、絶対に見せたくない。
ワールドカップの噂は既に広まり、ワタクシ達の愚痴も止まらなくなっている。
「勘弁してほしいよ。バスケはまた片手間扱いだ。やっと陽の目を見られそうだったのに」
「私達が憤ってるんじゃないわ。マンガン社こそ長年尽力してたのよ。どうしてくれんのよ」
ヤラレっぱなしは悔しいので、踏み止まる手筈も進めたくなっている。
「河合達も現時点では非常に良好だよね」
「はい、終わらせるのは惜しいです」
真田さんも大きく頷く。
「以前は河合と岩野田とのエネルギー差が見えたけど、今は大丈夫ね。岩野田に江口弟の仮オファーが来たのが証拠よ。お母さんみも増してるし」
学校の勉強も部活も家事も、健気に頑張っているのだ。
「江口弟もとても良い少年だと聞き及んでおりますが、ワタクシは未だ河合との可能性を捨てたくありません」
「だよね」
ケンジさんは江口兄弟の報告書を眺めつつ、
「誰もが新しい因縁は作りたくないんだよ」
ワタクシに薄青の申請書を出して下さった。
「カワイさん、スガワラの返事待ちも辛いでしょう。江口の家系列調査で閻魔帳閲覧の申請出してみたら。特別措置で通るかもよ」
近代的かつ開放的な敷地内にも関わらず、資料室の目印は窓の鉄格子であった。
ワタクシは行列の出来る人気ドラ焼きを持参し、窓口に出向いた。
「初恋関係者の閲覧は二冊までだべ」
「そこをなんとか。あと一冊」
「今の仕事は複雑案件なのかい?」
「はあ、まあ、色々と」
窓口の青い猫型妖精は有名店の包装紙をチラチラ見ながら書庫の重い扉を解錠した。
「所長には内緒にするさね」
甘味は非常に有効であった。
早速ワタクシは希望の三冊を抱え、閲覧室に向かう。和綴じの厚い冊子は独特のニオイを放つ。重い木製の椅子に座ると、急ぐ手で各々の閻魔帳を開く。
閻魔帳の記載はどの人物に関しても至極簡潔なものである。行間の空白に潜む情報を読み解くのはコツが要るが、ワタクシはその作業が昔から得意であった。
江口家の冊子、江口兄弟のページは後ろから二枚。江口シュウトの配偶者欄には岩野田の名前がある。
(チッ。リンキーの言葉通りじゃん)
前世も確認せねば。眉間に気を入れると、江戸末期の若夫婦が視えた。
商家の奥座敷、大勢の親族に囲まれ神経をすり減らす細面の妻と、面倒から逃げがちな元ドラ息子が浮かぶ。結構なダメオトコだが、苦労をかけた恋女房の早世には非常に後悔したらしい。
(成る程。それで江口は今世で岩野田に尽くす予定なのね)
流れで岩野田家の冊子も開く。岩野田の配偶者欄にも江口の名がある。が、彼女の近い将来には地元進学、地元就職の気配が読めた。母親の病状も暫くは低め安定らしい。落ち着いた生活を祈念したい。
しかし岩野田の新郎の姿には靄が掛かっていた。
(閻魔帳には配偶者の記載があるのに?)
何故映像が視えないのか。
再び江口家の冊子に戻る。目の奥がバシバシと軋み出す。
今度は遠い風景である。江口弟は過去世では母親と夫婦と出た。時代は中世ヨーロッパ、父親とは商人仲間。親子間の仲の良さが垣間見えるくだりであった。
ここでワタクシのこめかみ、右側から火花が散る。次は江口兄弟の過去世の景色である。
兄弟には親友だった時代があったらしい。
平安末期、都で共に御屋敷に仕えている。そこから景色が変わる。南へ下る山道。青く光る海。不思議な形の船。
(彼の地は紀州だわ。都落ちかしら。地元民と忌地のトラブルが遭ったのね。弟が早くに亡くなってる)
江口には弟を助けられなかった悔いがあった。兄弟間の対抗意識の無さはこの負い目であろうか。
一瞬、スガワラのくだらない提案がワタクシの脳裏をよぎる。
(ここに岩野田を巡って兄弟間で何か起こったら?)
やはり辞めるべきだ。無駄に因縁が増えてしまうではないか。
頭をブンブン振る。振り出しに戻ろう。
今ワタクシが最も知りたいのは河合と岩野田の繋がりだ。
三冊目、河合家の冊子に手を伸ばす。だが河合の頁はもっと簡潔であった。
・少年期に何らかで名を馳せる
・青年期より国内外で活躍
以上であった。
(これは難儀だわ。見当がつかない)
白地図である。大いなる可能性ともいう。配偶者も当然の様に空欄。将来有望と言われたる所以であり、如何な様にも変化する為の余白である。
ならばせめて過去世を視せていただこうじゃないか。
ワタクシは目を凝らした。当然の様に、各分野で活躍する姿が、次々と現れた。
「早速来やがったぜ」
またもやリンキーは式神を握りしめていた。その式神は強く締められ過ぎた為、既にグッタリしている。
「そんな持ち方したら死んじゃいますよ!」
「でもアンタ宛だよ。スガワラ経由の辞令じゃね」
嫌な気配の茶封筒。宛先はワタクシの整理番号である。中身は見なくても分かった。
修了申請書
営業部三課〇〇年度3 51831603号
市立氷川中等学校 二年三組 河井マサキ
道立氷川商業高等学校 情報処理科 一年B組 岩野田みかこ
「本当に終わらせるんだ。上もバッカだねえ」
「リンキーさんもそうお思いですか」
「だって全然触る必要無い案件じゃん。弊社に余ってる労力あんのかよ」
何と心強い。うっかり吹き出したら、
「なんだ、思ったより冷静だね」
「閻魔帳の閲覧で肝が座りました」
「そうか。ともかく労力の無駄使い大反対いいい」
嘘偽りない言葉であろう。デスヨネーと頷きながら、ワタクシは内容を再確認する。
「あ」
「どした」
「コレ、日付が違ってます」
終了日 ○年七月三十一日
「七月じゃないのか」
「スガワラからは今月末でって頼まれてました」
「そうなんだ。あっ。発動場所も空白じゃん」
確認すると、部長経由での回答は単純に掲載ミスとの事。判断に迷い更にお伺いを立ててみれば、全て捺印済み故このまま行っちゃえとの仰せであった。
「ラフですね」
「ウチは紙は神だからな。捺印がある以上は発動されるだろ」
「だけど七月三十一日は岩野田の誕生日なんですよ。可哀想です」
「ナニ感傷に浸ってんの。それとも謀反でも起こすのか」
「しませんよ。けど」
「いいネタあんの?」
「無いっスけど」
ワタクシは先日の閻魔帳から掴んだ映像が頭から離れない。因縁カテゴリーのボーダーも見えはしない。
ふた妖精でグダグダしていたら、ケンジさんが三課にやってきた。
「カワイさんちょっといいかな。よかったらリンキーさんも」
手渡されるは一課に届いた申請書である。
「ウチに来たからには将来はゴールインなんだけどさ、どうよコレ」
「うわあ」
ワタクシ達もうっかり声を上げてしまう。
営業部一課〇〇年度1 018112201号
先手①:道立氷川商業高等学校流通ビジネス科 一年F組 江口シュウト
先手②:市立氷川北中等学校 二年B組 江口ハヤト
後手:道立氷川商業高等学校情報処理科 一年B組 岩野田みかこ
発動開始日 〇年七月三十一日 氷川市立体育館ロビー
「この①と②って何ですかイヤラシイ」
「そのまんまだよ。三角関係。または両天秤。困るよねこんな案件」
「ヒドイ。岩野田はそんなコじゃありません!」
「大体これから家庭愛に繋げるのに兄弟を揉めさせる必要があるのかね。この間のスガワラの話と随分違うじゃないよ。ねえ?」
「そうか。江口家の大いなる因縁か。あたし手伝うよ」
リンキーの恐ろしい申し出を丁重に断り、ケンジさんも部長と共に上に出向いた。だがこの件も「もう捺印済みだから」「ウチは紙は神だから」と押し切られるのはどういう事であろう。
「ねね、これってやっぱ因縁増やしたいんじゃね」
「リンキーさんは黙っててください」
「僕だってこんなのヤダよ。上層部はナニやってんだよ」
現場は困惑するのであった。
だが決定項は動かしようはなく、真田さんの悲しい表情がワタクシの胸を突く。
「カワイさんは上手くこなしていたのにね」
「ご期待に添えず申し訳ありませんでした。終了の余波が大澤達に行かぬ様、善処致します」
「美しい幕引きを祈るわ。二人の引き継ぎも宜しくね」
ケンジさんからの報告によると、先日の江口兄弟の会話の中で、弟は氷川商マネ達のことを「皆さん優しそうで良い人達っぽいね」とコメントしたそうだ。
真田さん達も今後の展開には頭が痛いという。
婚約騒動以降、プライベートの大澤は大いに浮かれていた。河合も公私の落差に振り回されがちである。尚、のべつ幕無しに惚気を聞かされ顔から火が出る日々である現状もお知らせしておきたい。
「離れてるからさあ、未来の予測が嬉しいんだよう」
「未・来・の・予・側」
歯の浮く台詞の連発。大澤ファンに知れたら阿鼻叫喚であろうか。糖度の高さに溶けるやもしれぬ。
だが醒めた目の河合に大澤は口を尖らした。
「気付けないだろうけど、マサキ達は恵まれてるんだぞ。物理的に近いって素晴らしいべさ」
言われてみればそうだ。早苗叔母の電話牽制も結果的には放課後デートの習慣化を促し、怪我の巧妙となっている。逢瀬の大切さを噛み締める硝子の十代なのである。
そう、硝子の十代なのだ。ならば思いっきり厨二路線でフィナーレを飾ってもよかろう。
「彼等の障害といえば早苗叔母ですが、今回そのネタは一切使いません。岩野田の後ろには全母連スタッフさんも待機中ですから」
「あい分かった。早苗叔母の専属は滅法恐ろしいからな」
リンキーにヘルプを要請し、ワタクシは仕掛けの構想を練り始めていた。
放課後の夕方、いつものコンビニ。下校途中の岩野田を待つ河合を草場の影から見守る。
「今日から仕掛ける?」
「まだ。まだ早いです」
薄暗闇の中、岩野田を見つけて表情を緩める河合。店舗に向かう彼女に右手で合図。出会えて心底嬉しそうな二人。
(そんな表情、きっと親御さん達も見たことないんでしょ)
少年少女の大人みの出始める瞬間である。良い思い出を作りたい。
「ようよう、今日のアイツ等はやけにくっついてんな」
「先日より間が五センチ縮まりましたね。本来なら仲が深まる時期ですから」
「早めに人払いしとく?」
「そうですね。リンキーさんは南西お願いします。ワタクシは北東を……」
指示する矢先、二人は角を曲がった小さな公園、プラタナスの木の下で立ち止まる。
「おい、ちょ、マジか。カワイさん、北東の人払い急がないと!」
「むっ、ワタクシ間に合いません……リンキーさん、全方向お願いします!」
「全部かよ、なんっだよこれだから中ボウは!」
リンキーは走った。ワタクシも急遽ブレーキ業務に勤しむ羽目になる。河合め。舌入れなぞ決してさせぬ、大人のフリなぞ百年早いぞ。
(させるかよ!)
エネルギーの強いコの担当は体力勝負である。ワタクシの額に汗が滲む。
岩野田はドキがムネムネの真っ盛りであった。
(河合君、時々違う人みたいになるね)
さっきまで普通に話していたのに、急に立ち止まって、どうしたのかなと思ったら。
(ええと……せっかちな所もあるね)
繋いだ手と手の体温が熱く感じるのは、季節が夏に向かっているからか。
(き、今日は……今日もちょっと、顔が近いなあ)
暗くなりつつあるとはいえ、人通りが無いわけじゃない。空気を変えよう。少し距離を作りつつ「あのね」と問いかける。
「何」
「前に河合君、私が中学の時によく泣いてたって言ってたでしょ」
「ん?」
「いつ見たの。そんな所」
「ああ、」
河合は脳内の記憶の引き出しを開けた。
「何回か見た。美術室とか」
受験前のセンシティブ時代ね。これは岩野田も覚えがある。
「後、その時期の校内の。廊下とか」
同じ時期なら受験前だ。これも覚えがある。赤面案件である。
「でも最初に見たのは四月最後の美化委員会」
「美化委員会?」
これは岩野田も覚えていなかった。
「五月連休の水撒き当番が決まらなくて。あの時の委員長、立候補したくせに仕事内容を全然わかってなくて。結局岩野田さんが会議を回して」
ええと、そういえばそんな事もあったような。
「でも遅れてきた顧問がクダラナイ拘りで全部やり直しさせるから、結局会議が長引いて。部活のある子達、みんな遅刻になって」
そういえば、そんな事もあったな。
「岩野田さん、遅れるとヤバい部活の顧問に謝りに行ってたでしょ。女テニとか吹奏楽とかのコに付き添って」
ああ、そんな事もあったな。
「馬鹿げたやり直しのせいで可哀想だって思った。よくやってるなあ、って」
「あの、私、泣いてたっけ?」
河合は少し黙った。それから、
「堪えてたから。偉いなあって思った」
岩野田の手を引くと、「遅くなった。送るよ」と言った。
「なあ、本当に終わらせるのか?」
リンキーに言われずともワタクシも憤っている。
「コレ、終わらせる必要あるのか?」
「全っ然! 思わないです!」
「だよな」
誰もが同意見であろう。河合の後ろに憑いておられるマンガンさんが涙目なのが見えた。
「今日は河合担当のスガワラの姿が見当たらないな」
「あの方々は本来プライベートにはお憑きにならないんですよ。お勉強や部活の時だけ」
「昔より合理主義に徹してるんだな。経費節減か」
「弊社は持ち出しが多いですよね」
溢しつつ、ワタクシはマイ管狐を召喚した。
それを見たリンキーは「ほほう」とニヤニヤし、
「持ち出しが陰徳に繋がりますように」
と、意味有りげに呟いた。
江口は江口なりに精一杯の努力をしている。
現に一年で唯一ベンチ入りを果たし、次期エースとしてのポジションも確立しつつある。お馬鹿キャラも意外性としてモテ路線に加算され、傍目にはいよいよ絶好調、マネ達も不思議な諦めと悟りを開かざるを得ない状況なのであった。
岩野田へのおマヌケ言動はひとえに初恋免疫不全だ。故に彼は現在、大層滅入っていた。
「マネの皆さん、みんな優しそうでいい人達っぽいね。ひとり綺麗な人がいたね」
ひとり綺麗な人がいたね。弟から余計な感想など聞くのではなかった。
(岩野田さんが気に入ったのかな)
昔から弟が可愛くて仕方なかった。確かにオノレのコンプレックスを刺激もするが、それ以上に有能さが眩しい自慢の弟である。いいお兄ちゃんでありたいと、無駄に力む癖もついている。
「江口どうしたの!」
長引く雨ですっかり薄ら寒い市民体育館、北側廊下である。更衣室から出た岩野田が見かけたのは、上半身濡れ鼠の江口なのであった。
「蛇口が壊れてて頭からかぶった」
「取り敢えず早く拭いて」
「タオル鞄から出してなくて」
「取り敢えずコレ使って」
タオルの貸し借りは通算何本目なのか。
「あ、この間のも返すの忘れてた。今日持ってきてるけど」
「それも今日貸すからとにかく拭いて。風邪ひくよ」
世話の焼ける次期エースであった。
その日の河合は朝からの雨で憂鬱だった。
悪天候は体調に直結するし、市大会直前で部内ムードもピリピリである。しかも今日の練習会場は市民体育館、学校からの移動も面倒だ。特に今年度の上半期コート予約が全て氷川商と同時間ときたら。
(岩野田さんを見かけられるのは嬉しいけど)
当然ながら交流環境は一切無い。むしろご遠慮したい状況ばかりなのは何の因果か。
ワタクシは同情をもって河合を見守る。
彼はそろそろ無駄に苦しむ時期だろう。弊社の「紙は神」規定。終了申請書が発行された時点で、恋の終わりが始まる。少しずつ効力が見えつつある時期であった。
(あの水色のって、岩野田さんのだよな)
本日の初手は江口が首に掛けているタオル。河合の目に入った瞬間、珍しく彼の頭に血がのぼった。
(江口さん、また借りたのか)
途端に呼吸が浅くなった。
(勘弁してくれよ)
只でさえ天候不順時の体調管理は手間なのに。
(これから練習なのに)
そうだよ、もうすぐ市大会なのに。
江口のヒトの懐に入りこむ天然ぶりを、河合は羨望していた。あの人あしらいは狙って出来るモノではない。が、今日は何故かそのユルさが癇に障った。それは今まで蓋をしていた自身の奥底に潜む暗い感情である。
(江口さん、自分の世話くらい自分でしろよ)
その自立の無さが競技に影響している事を、どうしてあの人は判らないんだろう。
(そうだよ。まずは自分の至らない部分を何とかしろよ)
いよいよ始まってしまった。
普段の河合からは想像つかない思考が引き出された。これが終了証の効力である。ワタクシはギリギリまで見守りに徹する。だが終了証は容赦が無いので、見ている方が辛いのであるが。
(オレ達を羨む奴等って、一体何なんだよ)
ひとつ感情の蓋がひらくと、次の感情の蓋もあく。その現象に河合は戸惑った。それはとうに消化された筈の、封印された葛籠(つづら)である。
氷川中の特待生は良くも悪くも注目の的で、称賛と同時にやっかみも受ける。最近では大澤の留学ゴシップが分かり易い例であろうか。
(グチャグチャ煩いんだよ)
河合も日々それなりに面倒があり、受け流すのも板に付いた。だが消化出来ない棘もある。
(いちいち馬鹿馬鹿しいんだよ)
そうさ、バカバカしいべさ。だけどオレは今ナニ思い出してんだ?
流石に河合は優秀だ。感情の起伏に違和感を察知し、直ぐに天井を見上げ息を整える。
(思い出すのよそうぜ。くだらない)
屋根に落ちる雫達だろうか。雨の音がよく聞こえる。
市民体育館、二面コートの境。緑のネットの網目から見えてしまう光景は、しかしいつも以上に不快である。先程浮かんだ影の棘は、そぐわぬ気持ちも噴きこぼす。
(なんでグチャグチャするんだ?)
意識を変えた筈なのに。暴走するシナプスは何だ。次に浮かぶは先日の放課後、角の公園の記憶であった。
(おい、なんだよ)
あの夕刻の景色であった。
目を閉じるのが遅れて見つめあった数ミリ先の彼女。ほのかな体温。睫毛が落とす影の長さ。触れた柔らかさ。記憶の無秩序な再生。同時に誰かに奪われる予感。
(今は関係ないだろ、なんで急に)
胸が軋む。息が詰まる。努めて切り離す思考をする。だが体育館という限られた空間である。彼岸と此岸がその場にあれば、多少バグるのは致し方ない。
緑のネットの幕向こう、仲間と準備中の岩野田に近づく江口。話しかけられ、細々と応じる岩野田が見える。
(なんて表情してんだ)
外は大地を潤す雨。
(岩野田さん。なんでそんな奴に)
水滴に覆われる市民体育館。
(なんでそんな風に笑うんだ)
僅かな側面に僅かな観客席を持つだけの二面のコートである。
(なんで笑うんだよ)(そんな奴に)
氷川中のコートと氷川商のコート。
(なんでそんな笑顔)(なんでそいつに見せんだよ)
岩野田に何かを催促され、緑のファイルを提出する江口。
(なんで触んだよ)
ただの手渡しである。触れるという程触れてはいないが。
(触んなよ)(触んな)
無駄な感情が隙間に入る。河合は自分のブレにも気付く。
(あ、やばい)(おかしい)
僅かな冷静さを取り戻す。
(今日の自分、すげえおかしい)
体調の落ちる時はいつもそうだった。全てに後ろ向きに、消極的に、悲観的になる。
(……いつもの自分じゃない)
無意識に穴に落ちる。下らない闇に籠る。
(体調?)(でも、発作じゃない)
河合はベンチに下がる。無駄な鼓動。
(吸入するべきか。いや違う)
顧問は声を掛ける。
「どうした、具合が悪いか?」
「いえ、まだ大丈夫です」
「そうか。無理するなよ」
後輩に椅子を借り、背筋を伸ばして深呼吸をする。
(違う)(必要なのは吸入じゃない)
目を閉じる。息を吐き切る。それからゆっくり息を吸う。順に腹の奥に入れる。意識を飛ばす。出来るだけ遠くに。
(落ち着けよ)(落ち着けよ、自分)
ちゃんと出来たつもりだった。いつも通りのつもりだった。だがいざコートに入ってみると、まるで出来てはいなかった。
「もう今日は下がれ」
大澤に指摘されるまで気づかなかった。
「マサキ、オマエおかしいぞ。怪我する前に引け」
そんなに乱れているなんて、屈辱だった。
下がって直ぐに、顧問に追い打ちをかけられたのも初めてだった。
「今日は体調だけじゃないな」
顧問は生徒の状況もよく把握していた。氷川商のコートをチラ、と眺めると、
「オレも経験が無い訳じゃない。お前達が心揺れる時期なのも承知だ」
顧問の顔色を察して、河合は歯をくいしばる。
「だが間違えるなよ。今のお前の不出来さと彼女は無関係だぞ。全部自分のせいだぞ」
自身のせい。自分の弱さのせいだ。
「もうわかってるんだな」
顧問は河合の表情を見極めると、静かに告げた。
「先に学校に戻りなさい」
河合は言われるままに荷物を纏めコートに一礼し、独りで廊下に出た。
「貴方達は目指すものがあってここに来ているんでしょう?」
廊下に出た瞬間、早苗叔母の顔が浮かんだ。
目指すものがあってここに来ているんでしょう?
(叔母さんの言葉に真理があるってこと?)
動悸は心の振動か。河合は北通路の階段に座り込み頭からタオルを被り、深く息を吸った。
自分の目指すもの。バスケが楽しくて褒められて自分の居場所が出来て、もっとがむしゃらになって、気付いたら此処にいた。それだけなのだけれど。
河合の退出に岩野田はすぐ気付き、彼の体調不良を案じた。江口は先に岩野田の様子を察し、氷川中のコートを確認して納得した。ベクトルが変化してゆくのを、ワタクシはただジッと眺めている。
河合の思考は錯綜している。
(そうだよ、自分はどうして此処に居るんだろう)
きっかけはシンプルだ。小学時代のミニバス全道大会で大澤リュウジを見たからだ。会場中を釘付けにした抜群に上手いデカいヤツ。チームの戦績はイマイチだけど、プレイヤーとして圧倒的。どうしても勝てる気がしなくて、眩しくて羨ましくて悔しかった。
選抜合宿で一緒になれた時は嬉しかった。中身も真っ当でテンションが上がった。それからヤツの彼女がまさかの歳上で超綺麗だって判明した時も面白かった。先輩達がこぞって悔しがったのが笑えた。
じゃあオレが歳上の岩野田さんに惹かれたのはアイツの影響かな。いや違う。岩野田さんを見た瞬間に、自分でちゃんと判断した。このひとだって思った。
そうだ、岩野田さんも本当はリュウジが良かったんだ。リュウジの事、いつも友達と楽しそうに見ていた。でも仕方ない。リュウジはオレ達から見ても格好いい。氷川中に来てからはいつも『河合と大澤』のセットで見られて周りに比較されて、散々ジャッジもされるけど。同じ競技者でも歩く道は全然違うけど……違うんだけどな。
調子の悪い時ってロクな事を考えやしない。折を見て彼女が廊下に来た事にも気付かない。近くに来ているのに、姿を見つけても、自分の機嫌を直すスイッチすら入らない。
(そうだよ、岩野田さんも)
岩野田さんも本当は、リュウジがいいんだろ。
岩野田は河合に話しかけるのを躊躇した。
気になって休憩を貰ったはいいけれど、彼は目が合ってもニコリともしない。具合が悪い訳でもなさそうだ。持参のドリンクをそっと出す。
「ありがと」
「体調?」
「いや、大丈夫」
「そう」
すぐ立ち去ればよかったのに、機会を逃してしまった。河合の気配は近寄り難く、迂闊な物言いもしたくない。
(今って市大会前だよね)
関わるのもはばかれた。彼には独りの時間が必要なのかも。邪魔せずにさっさと戻ればよかったかも。廊下に反響する部員の掛け声、弾むボールの音、擦れるシューズの音。こういう時って何が正解なんだろう。
だけどもう正解なんて無い。壊れる為に今があるのだから。
「なんか、情けなくてゴメンな」
河合の突拍子も無い台詞が二人の間に隙間を作る。岩野田も引き返せなくなってしまった。
「こんな風に膨れっ面されてても困るだけだろ」
「うん?」
そうだよめっちゃ困るよ、って明るく言って笑いたい。けれど今日は蝦夷梅雨でお空は暗いし、雨の粒子で空気も重い。そんな顔されたら嘘もつけない。
「何かあったのって、聞いていい?」
「岩野田さん。オレと付き合うの大変だろ」
「……なんでそんな話?」
妙な返答。おかしな波が来た。岸に戻ろうとしたら、流されてもっと離された感じ。
「岩野田さんもホントはリュウジが良かったのに。オレなんかで申し訳なかったなって」
「なんの話をしてるの?」
流れが速くて、岸辺がどんどん遠ざかる感じ。
(大澤君?)
その話をどの角度から受け取ればいいんだろう。
(中学時代に友達と騒いでいた頃のコトかな)
でも今はまるで関係の無い話だ。どこから解きほぐせばいいのだろう。沖に流されるような不安。
「河合君、どうかしたの」
「岩野田さんは」
なんで大きな声出すの。
「岩野田さんはもう、オレと無理して付き合わなくていいよ」
なんでそんな話になるの。
河合も戸惑っていた。なんて事を口にしたんだろう。確かに今の自分の気分は最悪で滅入っている。滅入ってはいるけど、こんな状況など微塵も望んではいない。だのにどうしてこんな言葉を放つんだろう。どうして口が勝手に動くんだろう。
「聞いたよ。岩野田さん、氷川商で可愛いって評判なんだろ」
「え、え?」
岩野田はもっと戸惑った。今度は何の話だろう。面白くない内容ばかり。だが放った河合本人も予測がつかなくなっている。
「江口さんも岩野田さんの事褒めてたし、いい話も沢山あるんじゃね」
「そんな話、何も無いよ」
「無理しなくていいよ、マジで」
「無理してないよ」
「オレみたいなガキじゃなくてさ、」
何を話してるんだろう。だけど吐き出す度に何故か身体はどんどん楽になる。おかしい。どうして肩が軽くなるんだろう。
「もっとちゃんとした人と付き合うといいよ」
何をやらかしているんだろう。河合は自分の言葉に胸が冷えた。浅い呼吸をすると、水分の多い空気でますます冷えた。つめたい廊下。固い階段。痛んだ床。
岩野田は河合の目の前にぺたんと座り込む。
「ごめん、あの、意味が、ちょっとよくわからないんだけど、」
彼女の小さな声を聞いて、ようやく河合も我に返った。
「河合君、なんの話をしてるの」
本当に。今何を言ったんだろう。
改めて彼女の顔を見た。自分より少し下にある目線。冷静に見えるけれど、歯を食いしばって堪える顔。この表情って、中学の美化委員の時に見た顔だ。あの時、理不尽に堪えて可哀想だと思って見ていた彼女だ。なんで自分がこんな顔させてんだ。なんで泣かそうとしてんだ。
(オレは今、何をした?)
雨の音が強くなった。湿度が上がる。ガラスが曇る。
ただ、岩野田だって以前とは違っている。ちゃんとしなやかさもしたたかさも、少しだけど身についてきた。ほんの少しだけど。
「私はそんな事、思った事ないよ」
喉が熱くて締め付けられて痛いけど、小さい声だけど、ちゃんと言えた。
「考えた事も、なかった、けど」
涙を堪えて胸が苦しくて、言葉がうまく出ないけれど。
「でも、河合君は、もう辞めたいのかな」
言われて河合はオノレの大事に気付く。そんな事ない。
「終わった方が、いい?」
そんな事は一切思ってはいない。河合の混乱がまた戻る。岩野田の言葉で、逆の錯乱が始まる。自分が自分じゃない衝動。雨の音。天井に掛かる音。今日の雨量。厚い雲。
「だけど、もしそうなら、ちゃんと自分で決めてね」
そんな事、絶対したくない。
「私、河合君の邪魔したくないよ」
全然、全然邪魔じゃない。
「でも、狡い言い方はダメだよ」
オレは狡くない。
「そういうの、河合君らしくないよ」
「らしくないって何だよ!」
絶対違う。絶対違う。しまった。八つ当たりした。何故だ。これは彼女に言う事じゃない。それにそんなんじゃない。そんな風に思ってない。だのに思っている事とまるで違う言葉が放たれるのは何故だ。勝手に口が動くのは何故だ。
「オレらしいって何だよ。オレの何を知ってるんだよ!」
岩野田さんは悪くない。全然悪くない。全部オマエのせいだって、さっき顧問も言った。
ああ、そうだよ、全部オレが悪いんだよ。だから彼女の側に居る資格なんて、オレには全然無かったんだよ。
「じゃあ、離れてくれ」
違う。そんな事一切思ってない。彼女を怯えさせた。怖がらせた。なんて顔させるんだ。言葉ってなんて鋭いんだ。
「もうオレから離れてくれよ」
違うのに。そうは思ってないのに。コレはなんの衝動だよ。
「オレは、」
舌禍だ。これは舌禍だ。堪えろよ。なんで堪えられないんだ。
(それじゃ駄目だろ、だからオレは駄目なんだろう!)
堪えろよ、堪えろよ、堪えろよ自分。
「オレは」
息が浅いぞ。落ち着けよ自分。堪えろ。
「岩野田さんが、好き過ぎて駄目なんだ」
堪え切れない自分。どうしようもない自分。熱量とブレーキの効かない、分別の無い自分。
何を言ったんだ自分は。舌を噛み切れ。
「本当に舌を噛み切ったらどうすんだ」
リンキーの音声で冷笑されたのはきっと空耳であろうが、
「さっきからマンガン社さんをお見かけしませんが」
「本日は代休だそうです」
「代休!」
スガワラ代理社員の苛々は現実であった。
「問題ありません。本日のメインは河合へのチューニビョン散布ですし、ワタクシが延長しますので」
「あ、河合が帰ってしまいますっ」
「そちらも想定内ですから大丈夫です。スガワラさんはどうぞご安全に、散布後の二十分待機を」
「薬事法なんぞ適当でいいでしょう。そもそも終了時が来月末に伸びたのは何故ですかっ」
納期変更のクレームは末端社員ではどうしようもないのであった。
「申し訳ありません、その件は当社規定の関わる話でしたので、直接お問い合わせいただけると助かります」
不服そうだがワタクシ的には知ったことではない。
「尚、今回の散布は弊社持ち込みとなっております」
「えっ」
「ちなみに散布責任者はワタクシです」
「あっ」
スガワラ社員は急に口をモゴモゴさせた。
チューニビョンの効果は絶大だが高額薬品でもある。妖精間での取扱いでは注意が必要で、更に今月より法改定で散布責任者の現場報告が義務付けられてしまった。どなたも機会に依存しがちな昨今。手足引っ張る輩に口出しする権利は全く無い。
「御承知の通り河合の行動力は侮れませんので、ワタクシも経過観察を怠らぬ様に致します。ですが部活学業面はスガワラさん無くしては語れません。どうぞ宜しくお願い致します」
深々と頭を下げ相手のメンツだけ立てた後「では二十分経ちましたので」と、散布後の清掃に入ったのであった。
可哀相に岩野田はコテンパンである。当然だ。当たられる理由が判らない。
(私、何か気に障るコトした?)
何もしてないよ。可哀想に。八つ当たりって、優しくしてくれる人に降り掛かるモノなのだよ。
(誰かにもう付き合うなって言われたかな)
運動部の交際禁止令なんて時代錯誤ね。
(全国に向けて集中したいのかも)
そちらこそ思い当たるフシがあり過ぎる。それにしても言い方。
酷い雨。心が痛くて仕方ない。冷たい空気。身体の芯が凍ってゆく。
青ざめ座り込む岩野田を見つけたのは大家だった。
「全然帰って来ないから。どうした、具合悪い?」
「……急に頭とお腹が痛くなって」
「今月来た?」
「まだ、もうすぐ」
「うん、わかった」
今度は月の面倒が岩野田に降り掛かる。大家は茨木常備の痛み止めと吉野先輩のハーフケットを調達し、観客席にリラックスシートを誂えた。
しかし枕の代用が、何の因果か河合のタオルである。厨二病のおバカさんは先程いきなり我に返り脱兎の帰宅、その際に置き忘れていったのだ。顔を埋める羽目になった岩野田は複雑そのものである。
マネ達の動きを見た江口は、そそくさと休憩時間にホットの缶入りコーンスープを購入する。
「岩野田さん寒くて冷えたでしょ。この缶お腹にあてときなよ。ホカホカだよ」
「あ、ありがと。でもなんで?」
「うちの姉ちゃんもよく寝込むからさ。女の子は毎月大変だね」
岩野田は固まった。生理痛を見透かす男子とおぼこムスメの未来に光は差すのか。
「あの男のコ、根っこはスーパーダーリンですけどね、言うタイミングがね」
岩野田後ろの全母連スタッフ様も、十代センシティブについて気を揉まれるのであった。
案の定、翌日は欠席の岩野田である。体調不良の愛娘に父は右往左往。入院中の母に携帯で指示を仰ぎ、心づくしの朝食も食卓に並べ、後ろ髪を引かれつつ出勤した。
岩野田の回復はその日の午後である。モソモソと見繕いと小さい家事を済ませ、お腹の催促で父親メイドの卵と野菜のサンドイッチを食す。洗濯機を回る音を聞きながら味わう、マヨネーズ多めのジャンク味。
(お母さんが作ると辛子バターだよね)
紅茶も追加でいただきながら小さな観察。きっと将来思い出す家庭の味だ。
食器を片付けていたら洗濯機の仕上がり音が響いた。ベランダに出ると氷川中の校舎が見える。この時間はまだ授業中。今の河合の気持ちはどんなだろう。だけど岩野田からは連絡も出来ず、当然向こうからも何も無い。途端に寂しさがまた襲う。
洗濯物の中には昨日の河合のタオルもある。岩野田はそれをむんずと掴む。
(ホントに、もう、)
岩野田だって怒りたい。
(ふざけん、な!)
パアンと弾いて日向に干す。
『岩野田さんが、好き過ぎてダメなんだ』
見よ。この厨二満載の赤面台詞。将来に渡り双方の記憶に泰然と燻る、痛い想い出の完成である。
ここで岩野田は大変な事実にも気付く。
(そういえば私、ちゃんと『好き』って言われたの、初めてなんだけど)
そうなんだよね。それ故のチューニビョン散布なのだよ。色々不首尾な河合であった。
(でも『好き』って言われたのと同時に『ダメ』って言われてるんだけど!)
思い出してまた泣きそうになる岩野田であった。
河合の邪魔にだけはなりたくない。それが彼女の矜持である。今が諦念の時期なのか。岩野田は迷い大きく揺れる。
だがワタクシは声を大にして言いたい。恋の狩人は貪欲かつ我儘身勝手であればこそ。それを相手に悟らせない技術を磨いてこそ、真の猛者と言えよう。
(岩野田、矜持と諦念は別物なのよ)
ワタクシは既に岩野田を応援出来る立場ではない。今後は彼女自身の運気の強さが鍵となる。
「それにしても痛いな」
「何が」
うっかり零したグチを聞き逃さない因縁リンキー様よ。
「チューニビョンの二割自己負担です。もう少し下げて欲しいです」
「仕方ないよ。チューニビョン高価いもん。乱発されたら会社潰れるもん」
「でも薄給だからマジで痛いです。営業手当吹っ飛びます」
「仕方ないよ。三課の査定低いもん。だからリストラ候補じゃん」
ちょっと待て。ちょっと待って。
「リンキーさん、今なんて言いました」
因縁妖精の表情が固まった。
「三課がリストラ候補って、今言いました?」
「……カワイさん、やっぱ気付いてなかったんだ」
ワタクシの衝撃を、どなたもお分かりいただけるであろうか。
「春先にあたしが来た時点で、課長は察したらしいよ」
誰か。誰か。
「もう他の社員も薄々気付いてるし」
誰か、嘘って言って。
「でもカワイさんの様子を見てると、まだ判ってないのなって、ちょっと不安だったんだけど」
空耳だよと、笑って言って。
「お願いだから嘘って言ってえ」
「そういう台詞を吐く奴、めっさ重いしめっさキモい!」
アホ丸出しのワタクシを叱責する発信元のリンキー様よ。
「リストラされたくなかったら実績作りやがれくださーい」
「実績って何ですかー今の方向性でワタクシは間違ってないんですかあー」
「読みが実績の全てに繋がっている事実に気付きやがれくださーいグッバイ!」
言い放たれて逃げやがったのであるよ。
(うー)
ワタクシの喉の奥を涙が伝う。いきなり生活がのしかかる。
(チューニビョン、今回使うんじゃなかった?)
元々安易に使う薬品でもない。リスクも恐れず走るしかない。ワタクシはちーんと鼻をかんだ。
リスク回避に余念のないのはスガワラであろう。本社より新たに派遣された黒装束の牛頭部隊は迅速かつ合理的に河合の歪みを隠蔽、瞬く間に顧問達の不安を払拭した。エネミーながら天晴れな手腕であった。
異変を見抜いたのは大澤のみである。
「岩野田さんと何かあったな」
問うても口を割る河合ではない。大澤は独自のルートで情報を入手、さっさと浄化を促すのであった。
「独自のルートってミヤコさんじゃないか」
「女子の社交は光より速いんだ。とにかくマサキが悪いからとっとと謝れ」
事実なのでぐうの音も出ない。
「土曜だって会うかもしれないのに」
今年度の氷川商バスケ部は絶好調、インターハイ予選も順調に勝ち進み、週末はいよいよ決勝戦。河合達はお勉強の為に観戦予定ときたもんだ。
「ボヤボヤしてるとまたエロ先輩が」
「わかってるよ!」
年相応にぶんむくれる河合である。踏ん張りどころであろう。
氷川商のインターハイ出場はここ数年の悲願であった。会場の総合体育館は、父兄から各年代OBまで集う盛況さである。
対戦相手が積年のライバル校なのも話題を呼んだ。稲熊高校は大澤の地元所在のスポーツで名を馳す私立校、監督もバスケ界のエライ人。各大学や企業関係者の姿も垣間見え、試合前からなかなかの熱量である。
全てに公正さを促すべく、マンガン社員は全員ヘルメットと安全靴を着用し最前線に常勤、弊社の後方支援には、全母連スタッフ様らが待機する手筈となった。
江口は今回も一年で唯一レギュラー入りを果たし、ベンチマネには吉野先輩がスタンバイ。岩野田達は他の部員と観客席に集合である。応援リーダーと打ち合わせをしながら、一年組は緊張した。関係者として迎える決勝前の独特の雰囲気。勿論全てが初経験。酩酊するのも無理はない。
天井に近い観客席上段には氷川中バスケ部が陣取った。応援の邪魔にならず、かつ全貌を見渡す位置である。岩野田は気付かぬフリをし、黙って仲間達と座る。
「稲熊高って大澤君が小学校の時に練習に行ってた学校なんだって」
「へえ、流石大澤君だね。でもなんで茨木がそんな事知ってんの?」
「弟から聞いたの。大澤君と河合君の事はみんな興味津々なんだって。大澤君は留学の噂もあったし、高校の推薦入学も沢山あるって。ね、岩野田。岩野田?」
「え、あ、うん」
茨木の声に相槌を打ちながら、岩野田は大澤達の現状に面食らう。
(推薦入学は見当がついてたけど……留学?)
思い知らされてしまう。
(……そうなんだ)
改めて客観的な現実が見えてしまう。
(そうだよね。私が河合君と仲良しになれたなんて、めっちゃ奇跡なんだよね)
世代層の最も下らない常識の筆頭は校内カーストであるが、残念ながら岩野田もその文化に浸っている。もう少し雑に過ごした方が気持ちも楽なのだが。
(もし河合君が別れたいのなら、もう潮時なんだよね)
だからそういうの、もう止しなさいってば。
岩野田が感情を押し殺す理由はもうひとつある。
母の退院が決まったのだ。打ちのめされた直後の待望の知らせに、岩野田は察した。
(お母さんが帰ってこれる。じゃあ河合君は諦めなくちゃ)
ひとつ良い事がある代わりに、大事なモノをひとつ手放す。そんなシステムは決してこの世には無いのだが。
(だって、いつでもそうだもの)
おばあちゃん達がお母さんが嫌うから、お父さんが怒って今の家に引っ越した。お母さんが可哀想じゃなくなったら、今度はお父さんの会社が潰れた。お父さんの仕事が見つかって落ち着いた途端、次はお母さんの病気が見つかって。
(でもお母さんが帰ってくる。だから私は河合君に酷いコト言われても仕方ない)
今までの岩野田家の流れが、理不尽を受け入れさせてしまう。
(仕方ないよ。お母さんが戻ってこれるもの)
本当は胸が苦しくてどうしようもないのに。
(だって私の家は、良いコトはひとつだけだもの)
決して絶対、そんな仕組みは無いのだけれど。
「あのね、これが岩野田の今の課題なんです。その思い癖を無くしてほしいの。家庭の流れは気にせずに、幸せは自ら掴みに行かないと」
岩野田担当の全母連スタッフさんも憂いていらっしゃる。前任のスガワラ社員さんと同じだ。誰もが岩野田の課題に悩む。
だがもうクリアにさせたい。ワタクシは拳を握りしめた。可愛い恋の妖精さんとして、本分を全うしたいのだ。岩野田を幸せにしてみせる。未来の相手が誰であっても。
マイ管狐はまだ戻らない。だが全てのお膳立てをしなければ。
試合は大接戦であった。誰もが声を枯らして応援し、観客席最上段の氷川中生達も身を乗り出して行方を追った。
「稲熊、そんなにヤバいか?」
「悪くない、今年の氷川商がいい」
ラスト一分。氷川商が投入したのは新人の江口である。
「氷川商、替えが無い訳じゃないよな」
「うん、敢えてのエロ先輩だ」
河合達は益々身を乗り出す。氷川商の応援はクライマックスを迎える。
「シュウトーーーーー」
声援で体育館内がビリビリ響く。これはシュートを決めろという意味ではない。江口のファーストネーム、そのままルーキーへの歓声だ。
大澤は河合の耳元で呟く。
「ミヤコから聞いたんだけど」
「ん」
「リク達、先週末に南中と練習試合したんだと」
「うん?」
「太田が伸びてきてるんだと」
南中は中学全道大会で必ず決勝リーグに上がる強豪校である。太田の存在は勿論、河合も知っている。
両校の応援と悲鳴と歓声が再び体育館を揺らし、決着のホイッスルが鳴った。
沸き起こる渦は再びみたび館内を揺らす。ラストは江口の見事なカットであった。氷川商側からまたコールが起きた。
「シュウトーーーーー」
江口への称賛が再び河合の身体にビリビリ響く。大澤が低い声でまた呟く。
「今はたまたまオレらが持ち上げられてるだけだ。これから誰が伸びるかなんてわかんね。太田だって、エロ先輩だってそうだ。これからの事なんて、そんなもん、誰にも見えないべ」
マンガン社、弊社、全母連タッグによる決勝シフトは非常に見事であった。氷川商はインターハイの切符を手にした。
試合終了後の熱気は体育館の天井をも空に押し上げそうな勢いであった。コート中央では氷川商メンバーが地方紙の取材と写真撮影を受けている。河合と大澤は体育会系の偉いヒトに拉致られ、有難いお説教を受ける羽目になる。
岩野田も興奮のるつぼの最中にいたが、それでもいち早くマネ仕事に戻った。中央玄関前のエントランスは帰途につく観客の波でごった返している。応援団の生徒や諸先輩達を見送り、部員の帰宅準備を待つ。
「岩野田さん、今日もタオルを貸してくれてありがとう!」
本日のヒーロー江口は忘れ物番長にも忘れず君臨した模様。
「本番では絶対忘れちゃダメだよ」
「うん、気をつける」
「内地の宿舎でも吉野先輩に迷惑かけないようにね」
「うん、大丈夫だよ、おかあさん」
「おかあさん?」
呼び名がオカンから進化してしまった。岩野田のコメカミに青筋が。
「うん。岩野田さん、もうおかあさんになってよ。オレおとうさんになるからさ。あ、そこに居ると邪魔だ」
江口は岩野田の右腕を掴むと、行き交う人波に当たらぬ様、彼女を壁側に寄せた。
変則的壁ドンでもある。不意の接近に焦る岩野田。
「ちょ、ちょっと江口、過保護!」
「いやいや危ないよおかあさん」
「危なくないって!」
流れるヒトの波。右腕を握る大きな手。目と鼻の前に江口のティシャツの胸元。パーソナルスペースの侵害。
「岩野田さん、いつもオレの面倒見てくれてありがとう」
江口の声がつむじの上から聞こえる。岩野田もうんと上に向かって言葉を返す。
「いいえ、マネとして当然だよ」
「知ってる。義務でもありがとう」
こんな密着の最中に交わす会話の事務的固さよ。
「オレ、誰かにこんなに優しくされたコトないよ。言い寄られるのは多いけどいつもすぐ振られるからさ」
思い当たる節があり過ぎて返事に困るよ。
「だから岩野田さんには感謝してる。面倒見が良くて率直で裏表も色気も無くて」
さりげにディスられてまたアオスジが立つよ。
「だから、河合を別れたら真っ先に教えてね」
「え」
「オレ、マジでいいおとうさん目指す」
ヒトの波が引きはじめる。江口も岩野田の腕を離す。
「もう負けたくないんだよね」
「何に?」
岩野田の問いに江口は黙って笑った。
その現場を遠巻きに河合が目撃してしまうのも、終了書の効力である。河合の腕が、握り拳が硬く強張るのを、大澤だけが横目で気付く。
さて河合と別れたら真っ先に教えてと江口に言われた岩野田だが、「彼女と別れたら次は私ね」と常に口説かれ続けているのも河合のリアルである。
本日も河合の端末に続々届くメッセージ。特筆すべきは別れの予感を嗅ぎつけた恋のハンター達であろう。
『マサキ、最近寂しそう』
『彼女と何かあったの?』
(ひいー)
硬直する河合にスガワラ牛頭部隊が更に結界を強化、ワタクシ達すら近寄らせぬスクランブル体制を取った。
「雑魚は要らぬ!」
「おととい来やがれ!」
河合を狙う色情霊を容赦無く牛刀でなぎ倒す牛頭部隊。
中には弊社の片思い案件も少なからず有るのが正直遺憾であるが、我々は彼等の真骨頂を観た。これにより河合のバリアは完璧、全国制覇に向け学業・競技に専念する手筈となった。
全母連のバックアップも盤石であった。
(マサキの周辺がいつにも増して煩いんだけど)
表に立ちはだかるは全母連・北支部長預かりの早苗叔母である。
(お行儀の悪い子は目障りなんだけど!)
自宅周辺を物欲しげに徘徊する十代女子を見かけるや否や、
「氷川中の生徒さんね。何年何組かしら。学年主任の〇〇先生に宜しくお伝えしてね。遅くなると危ないから気をつけて帰ってね。はいサヨーナラッ」
地域の大人を装いシッシッと蹴散らすのであった。
時おり「私、河合君と約束してるんです」と特攻をかます勝気女子もいたが、
「そう言ってきた女の子はアナタでもう〇人目よ。お名前伺っていいかしら。シーズン直前で大事な時なの。静かに見守ってあげてね」
一刀両断し、番号札を渡す荒技を展開した。魔除けのお札だったかもしれぬ。
そして早苗叔母は察した。
(今まで見たコ達の中で岩野田さんが一番良いわ)(マサキは見る目があったのね)(そういえば岩野田さんは良いお嬢さんだって、みんな言ってたわ)
ワタクシは早苗叔母にお願いしたい。友人知人情報を、あらためてご査収くださいませ。
七月の初めに母が退院の運びとなり、岩野田家にも安穏なる日々が戻った。
自宅のドアを開けた瞬間のひとの気配、ご飯の支度の温度、あかりの灯る部屋。待ち焦がれた家庭の風景であった。
(お母さんのいる匂いだ)
「ただいま」
「お帰り」
これは学校から帰ってきた分の挨拶。
「お母さんもおかえり」
「はいただいま。長いお留守番どうもありがとう」
こちらは退院おめでとうの挨拶。
自宅療養なので岩野田のお手伝い免除は当分先だ。だが父が帰宅時に母の好物の老舗ババロアを購入、その夜は華やかな晩餐になった。症状に一喜一憂する日々からのひと時の解放である。
「河合君とちゃんと話をした方がいいよ」
それ故だろうか。佐藤ミヤコに促されても、岩野田は多くが望めない。心の奥底に出来た枷は硬く、元来の引っ込み思案も顔を出す。
(でもミヤコさん、うち、お母さんが帰ってきたの)
だがそんな思考はとても言えない。佐藤達から見たら自分はきっと甘ったれだ。
「忙しくて……話すきっかけも無くて」
「気持ちがしんどくて動けない?」
佐藤は冷静である。
「しんどいなら仕方ないよ。そういう時もあるよね。でも、このままなのは良くないよ」
真摯な言葉は岩野田の胸に響いた。やっぱり自分は甘ったれだ。
「リュウ君も言ってたけど二人はまだ別れてないよ。これからも四人で仲良しでいたいよ。だからみかこちゃん、全道の決勝戦は一緒に観に行こうね。あのコ達は勝ちあがるよ。私、ひとりで観るのは寂しいよ」
最後に「今度一緒にお買い物に行こうか」と美少女に明るく誘われ、岩野田の背筋は思い切り伸びたのだった。
(そういえば私、最近お手入れサボってた!)
そうだよ。二人とも女子として凛々しく生きるのよ。
(ミヤコさんも忙しいのに気を使ってくれた。観戦も誘ってくれて)
そうなんだよ。佐藤だって岩野田と仲良くなれて嬉しいのだから。
(でも、お母さんが帰ってきたの)
だからそれが良くない。
とはいえ、隠してきた傷が痛むのは自然の流れ。適切に対処しようではないか。
その後のスケジュールは多忙を極めた。夏休み前の授業は前倒しになり、本番を控えた部活動は熱を帯びる。特に市民体育館で顔を合わせる氷川商・氷川中両校は、それぞれが刺激となり、各ボルテージも加速した。
岩野田に余裕はまるで無い。当然河合もそれどころではない。お互いの存在は判っていても、リアクションなど出来はしない。
ネット越しに岩野田は河合の気迫を感じる。河合にも岩野田の献身ぶりが視える。お互いがそれぞれに集中している時、少しのギクシャクが喧噪に紛れる。
どんどん切れ味が増す河合。どんどん顔つきが大人びてくる岩野田。お互いがそれぞれの成長に気付く。彼の背が伸びている。彼女の髪が伸びている。過ぎた時間が目に見える。
喧噪から逃れると、見ないフリをしていた痛みが疼きだす。何かを感じて振り向くと、さっきまで視線がこちらに来ていた気配がある。知らないフリをしていても、彼が彼女が、自分を見ているのが背中で判る。
岩野田が一番辛くなるのは、帰宅して自宅玄関に立った時である。
思い出すは春の連休。お母さんの病気で落ち込んでいて、初めて家まで送ってもらった夕刻のひととき。
相反するのが長雨の先月。酷い言葉で傷ついて帰宅した日。玄関に入った途端あの春の日を思い出し、悲しくて訳が判らなくなった。身体の具合も悪くて、河合に対しても珍しくすごく腹が立った。
今は苦しくて仕方がない。有頂天で気付けなかった過ごした時間の大切さ。泣く度に胸の奥に雪が積もって、シンシンと冷えて氷になって。自分ばかり良くしてもらった。だけど何も返せていなくて、何のお役にも立てなくて。
(でも謝る機会も、多分無いね。もし機会があったとしても、河合君はきっと嫌だね)
背伸びして気を張る姿も、いつもとても眩しかった。
成長著しい江口は、体育館での二人を見て瞬時に判断、実働に移していた。
(岩野田さん達、何かあったな)
既にオノレに正直に生きると心得た江口である。ある意味で容赦も捨てている。
「おかあさん、タオル貸してー」
「え、岩野田、とうとうおかあさんになっちゃったの」
岩野田の呼び名変更に大家達からも同情され、岩野田もキレ気味に返すのであった。
「おかあさんじゃありません」
「そんな事言わないでよおかあさーん」
「甘えるんじゃないっ」
疑似親子状態であった。
「借りる前に貸したタオル全部返して」
「うんわかった。でも早く汗拭かないと風邪ひいちゃう」
「ええい、これでも使うがいい!」
岩野田が投げるタオルは色気皆無の新聞社の粗品である。
「ウチの兄がどうもスミマセンー」
今度は高い所から声が降る。見れば江口の弟が観覧席から手を振っている。尚、その横には綺麗な社会人風女性が。
「アナタが岩野田さんね。いつも弟がお世話になってます」
大きめの紙袋を抱えて笑うのは、江口のお姉さんであった。
「シュウトがこんなに沢山のタオルを借りっぱなしで。ご迷惑掛けて御免なさいね」
有名店の焼き菓子と共にわざわざ返却にお越しくださった美女。
色めきだつのは江口の先輩同輩諸君である。
「おい芋、ちゃんと紹介しろ」
「姉上様にコートまで来てもらえよ」
顧問・部員達の鼻の下が伸びきるのは壮観である。素敵なお姉さんを前に皆のテンションが上がる。
(初めてあった気がしないけど、何処かで会ったのかな?)
コート際に下りてきた江口姉弟と楽しく会話をしながら、しかし岩野田は何も思い出せない。姉弟の登場に江口は無駄に緊張し、弟はニコニコしながら皆を見ていた。和気あいあいであった。
翻弄されるのはワタクシである。
(岩野田と江口のお姉さん、以前親友だった過去がある!)
脳内センサーが反応したのだ。浮かぶは江口と岩野田の夫婦時代。当時の江口姉は隣接する酒屋の愛娘なのであった。大所帯で苦労する若嫁の岩野田を、いつも心配し応援していたのだ。江口に苦言を呈すのは今世でもお馴染みの情景である。
江口姉も岩野田を見た瞬間に(良い子だな。弟と仲良くなってくれないかな)と願っている。ケンジさんの傍観はここも見越してかもしれぬ。慧眼である。
一方のネットの向こう側、氷川中コートの河合は沈黙を守って練習に勤しんでいる。周囲をスガワラが固め、イロコイの気配は絶賛排除中である。
(おいマサキ、ヤバいぞ。いいのかよ)
氷川商のコートの様子を察した大澤はひとり焦るが、河合は一言「集中しろ」とだけ返している。だが内心は穏やかではないらしい。チューニビョンの効力は後一カ月弱。
(何だよ意地はって。でもオレは忠告したかんな。後は知らねえぞ)
大澤も嘆息して終了している。やり取りの簡潔さから二人の信頼が判るが、こちらも深い縁があるからだ。過去で何度も親友や仲間、家族の繋がりをこなしている。
しかしワタクシの勘の冴え具合はどうだ。勝手に映像が浮かんでは消える。リンキーに感化されたのであろうか。
氷川商インターハイ壮行会は夏休み前の全校集会後であった。蒸し暑い体育館の壇上、大注目株は江口の存在が大きい男子バスケ部。
「えぐっちゃーん!」
「シュウトー!」
全女子生徒からの黄色い声が館内にコダマする。ニコヤカに佇む江口に対し、しかしマネ達は冷静であった。
(見事なオスマシですネ)
(いつもそうやって落ち着いているといいネ)
(いいか、そのままボロは出すなよ、出すんじゃないよ)
どれが誰の心の声かお分かりいただけたであろうか。
悲願は初戦突破。大きなエールと校歌斉唱に見送られ、レギュラー組と吉野マネは今年度開催地である内地の某県に旅立ち、留守番組は部室のお掃除に取り掛かった。
開かずのロッカー内にひそむ歴代思春期男子ご用達雑誌をブチ切れながら全て焼却処分にしたマネ達の武勇伝を、ワタクシは後世に伝えたい。
疲れ果てた三人はアイス屋さんに寄り道である。
「お掃除風水、効くといいなあ」
「勝ち上がって欲しいよね」
切実なる悲願であった。
「江口はお馬鹿じゃないといいなあ」
「吉野先輩を困らせないでほしいね」
悩みは堂々巡りであった。
「そういえば岩野田の呼び名、おかあさんになっちゃったんだね。大丈夫?」
大家に心配され、眉間に皺を寄せる岩野田。
「江口はきっと家庭的な暖かさに憧れてるんだね」
自分はいいおとうさんを目指すって言ってたな、と、ふと思い出す岩野田。江口の真意は迷子になっている模様。
「前から思ってたけど、おかあさん風味なら茨木が適任だよね。義務感しか無い私と違って茨木はマジの優しさだもの。母性を感じるよ」
「そ、そんなことないよ、私はコドモっぽいだけだよ、そ、それに江口の好みは岩野田みたいな冷静な女の子だよ!」
茨木の異様な慌てぶりは何だ。岩野田と大家に違和感が沸き起こる。
「あの、茨木、もしかして」
「ひょっとして」
茨木の頰は真っ赤である。二人は全てを察し、「今まで気づかなくてゴメン」と謝った。
「そんなんじゃないから!」
「でも江口の何処がいいの。天然なとこ、じゃないか、顔かな」
茨木の顔が益々赤くなった。
「そうか。顔なのか」
「だったら弟君で良いじゃん。中身が良さげだよ」
「本当にそんなんじゃないから!」
「今後の江口のお世話係は茨木にしようか。適任だよ」
「うん、今までホントにゴメン。江口を散々ディスってきたのもゴメン。好みはそれぞれだよね」
「本当に本当に違うからー!」
茨木はパニクっていたが、多数決でその場は納められてしまった。数の暴力であろう。
二日後のインターハイ初日、第三試合。氷川商は見事一回戦を突破し、岩野田達は狂喜乱舞した。氷川中もあっさりと市大会、地区大会を優勝し、全道大会のコマに進んでいる。
スガワラの河合シフトに我等の介入の余地は無かった。チューニビョンの経過確認すら憚れ、ワタクシは積まれた案件を粛々こなす日々である。出張も入る。それにしても第六感が敏感になり過ぎて困る。
「おっ。仕事進んでるねえ」
「視え過ぎてめっちゃ疲れます。リンキーさん、ワタクシに何か一服盛ったんじゃないスか」
「さあねえ」
非常に不安になり保険管理センターに駆け込んだが、診断結果は異常無しであった。
大家と岩野田は茨木の意思を尊重し、これまでの江口への評価を一掃している。
茨木の一目惚れが氷川商の合格発表時と聞き「入学前ならば仕方あるまい」「本能ならば抗えまい」と納得、今後の協力を願い出たのである。
「でも江口は岩野田を」(女子常識の建前問答)
「違うよ。私はオカンカテだよ」(江口の意向一方通行)
「岩野田には素敵彼氏がいるよ」(現時点での共通認識)
微調整を経て、今後のプランも成立した。
二回戦の対戦相手は強豪であった。
留守番組も一縷の望みを抱いて待機していたが、午後過ぎに惜敗の一報。選手達の帰校が明後日と決まり、落胆の中、急ぎ慰労会の準備に入った。
大家は会場予定の議会室と備品予約に職員室へ、岩野田と茨木は保護者代表に指示を仰ぎ、買い出しリストやOBへの連絡準備に走る。級友達とのパーティとはまた違う、パブリック会食の支度である。
明後日が例の七月三十一日なのは何の因果か。
「弟から聞いたよ。中学もこの日が全道決勝でしょ。岩野田は氷川中の応援に行かないと」
調理室で什器を数えながら、茨木にも促される。
「無理だよ。だって慰労会の日だよ」
「岩野田は誕生日だから、バースデイ休暇が取れる筈だよ。労働者の権利は守れって先輩達も言ってたじゃん」
商業高校らしい素晴らしい伝達である。
「でも一年マネが休むなんて」
「午前の設営準備までいれば大丈夫。後は私達で手は足りるし、岩野田も観戦には間に合うよ」
「でも」
「岩野田が休暇を取らないと、他の一年も取れないんだよ」
大正論であった。
「それに最近の岩野田は寂しそうに見えるよ。河合君とちゃんと会えてる?」
癒し系の茨木に優しく聞かれたら、心情を溢したくなるのも致し方なかろう。
だが全容を聞いた茨木は苦笑し、岩野田を労わった。
「八つ当たりされて大変だったね。でも『好き過ぎる』だなんてめっちゃ惚気だね」
目が覚めるような慮りである。
「河合君は責任が重いから、色々抱えて大変だろうね。話を聞く度にうちの弟と同級なのに全然違うって感じるもの。でも岩野田にあたるのは困るね」
「うん、コドモだよね」
少しホッとしたら軽口も出る。肩の力も抜けてくる。
「河合君も今頃きっと気まずいと思うよ。やっぱり岩野田は決勝に行かなくちゃ。早く仲直りしな」
茨木は岩野田の背中を押す。
「話はそこの角から全て聞かせてもらった。岩野田は観戦すべきだよ!」
いつの間にか戻った出歯亀・大家にも大いに承認され、岩野田の心は千千に乱れる。
揺れる岩野田を更に揺さぶる着信音が鳴ったのはその日の夜、発信者は江口であった。
「負けちゃった。ゴメンな」
明るく振舞おうとしているけれど、声のトーンがいつになく重い。
「江口、今どこ?」
「宿舎のランドリーコーナー。オレ、ちゃんと自分で洗濯してたんだよ」
「よしよし、お利口でした」
「良かった。おかあさんに誉められた」
お互い少し笑った後、江口はまた「ゴメン」と言った。
「江口が謝ることなんて何もないよ。活躍してたって聞いたよ。お疲れ様でした」
「でも最後、止められなかった」
試合後半のカット失敗を悔いている。今は何を言っても慰めにはならないのであろう。岩野田は端末を握りなおす。
「あのさ岩野田さん」
「ん」
「ダメ元でさ、マジに河合に頼んでよ。二年後に氷川商に来てくれって。出来たら大澤も」
江口からそんな話を聞くなんて、思ってもみなかった。
「オレ、アイツらの凄さがよくわかった。今までも理解してるつもりだったけど、自分が全国で試合して初めて実力差がわかった。オレ等、何もかも全然足りなかったさ」
江口は今どんな気持ちで言っているのだろう。
「でもアイツ等は有名校からの推薦めっちゃ来てるだろ。ウチなんか眼中にないのも分かってる」
江口だって努力していた。岩野田はよく知っている。
「わかった」
真摯な声に、出来ないとは言えない。
「河合君に必ず伝えるね。またガンバろうね。早く帰っておいで。みんな待ってるよ」
「見守りすんだかな。お疲れの所悪いけどちょっといいかい」
帰社したワタクシに遠慮がちに声掛けしたのはケンジさんである。
「茨木の指示書、三課に来たかな」
「江口への片恋ですか。本日到着分には無かったです。三課案件はもう因縁しか無くて」
ケンジさんは唸った。
「噂は本当なんだ。じゃあ本来の初恋案件は何処が担ってるの」
「リンキーさん曰く、なすがままの自己責任展開へのシフトが始まっているそうです。妖精不足だから放置も仕方ないんじゃないかって」
「そんな乱暴な。情操教育ないがしろじゃないか。上はどうしたいんだ」
「ワタクシも激しく同意します。めっちゃ不安です」
「だよね。じゃあ同意ついでに末日の打ち合わせしようか。嫌な流れだなあ」
ブツブツ言いながらもお仕事モードに入る。明後日中に河合と岩野田を終わらせ、続けて江口兄弟と岩野田の関係に移行しなければならない。ここに茨木の片恋も入るので、結構な激務になりそうである。
「ケンジさん、ワタクシ、一日で終わる気がしません」
「奇遇だね。僕もだよ。真田さんにヘルプを頼もうかなあ」
ワタクシの掴んだビジョンとケンジさんの意向を照らし合わせた上で調整に入る。ケンジさんがスガワラ、マンガン社に式神を飛ばし、ワタクシは全母連の北支部に助力申請に出向いた。
氷川中の決勝進出は至極当然であった。対戦相手は伸び盛りの太田率いる南中、予想通りであった。
真田さんに助手の快諾をいただき、河合のチューニビョン残量も微量と判った。
ワタクシは身の引き締まる思いである。始める時は勢いで突っ走れるが、片付け時はひたすら気力と労力。後は野となれ山となれ。安心立命でコトにあたる。
マイ管狐の便りは未だ無かった。本日がタイムリミットなので、ひたすら辛抱であった。
「みかこおはよう。お誕生日おめでとう」
岩野田の十六歳は母の起こす声で始まった。父は愛娘リクエストのスニーカーとベリータルトの夕方着を約束し、登校した部室では、大家と茨木がジュエルクラッカーで祝福する。
二人からのプレゼントはお高め人気ブランドのキラキラボトル、可愛い水色ネイルである。
「ちゃんと岩野田の欲しがってたカラーでしょ」
「夏休みに塗るといいよ」
「嬉しい、二人ともありがとう!」
三人揃って楽しい気分で慰労会の会場設営をこなす。
(よし、今日はみんなの気持ちを無駄にしないぞ!)
そうだよそうだ。十六歳のスタートダッシュ、とくと見せていただこう。
市民公園内にある総合体育館では、河合達が決勝前の調整真っ最中である。ここまで全戦快勝。対する南中は街中あげての応援団。強すぎる氷川中はヒール役であった。
だが氷川中にとって、妬みなぞ痛くも痒くもない。全国制覇を目指す意識は既に遥か彼方を向いている。
「太田は要注意だけどな」
「全試合いい動きしてたしな」
睨む大澤の目は鋭く、円陣の中心でハンドサインの確認をする河合は首長の貫禄である。
外は快晴であった。北国の本格的な夏が館内冷房を跳ね飛ばす。集う生徒達の生命力の強さに似ている。ワタクシ達も汗だくであった。
「真田さんは今どこだって?」
「佐藤に憑いてこちらに向かっているそうです」
「そうか。今日は分刻みだけど皆で踏ん張ろうね」
言いながらもケンジさんは確認作業で走り回り、ワタクシも河合の最終調整を試みた。
スガワラの結界故に動けなかった昨今。なけなしのチューニビョンに掛けるべく、隙を見て結界のほころびを作る。
河合は心の枷を払いたい。本日が目標達成へのひと区切り、佳境も重々承知である。無人の更衣室で河合は端末に触れる。校外活動中も所持は禁止の筈が、本日は偶然にも鞄のポケットに入っていた。ワタクシの采配ではあるが、表向きにはあくまでも偶然である。
指がスライドする。頭の中で何度も打っていた文字が並ぶ。
『岩野田さん、今更だけど、あの時はごめん。ずっと謝りたかったけど、言えなくてごめん』
誰も入ってこないのを確認しながら、続けて打つ。
『今日、これから決勝です。終わったら、どこかで会えるかな』
もう遅いかもしれないと覚悟をしながらも、
『出来たら話がしたいです。それから、お誕生日おめでとう』
送信した後ロック、鞄の奥に隠す。ポーカーフェイスで会場に戻る。
岩野田の端末が受信したのは地下鉄の公園駅改札前なのだが、残念ながら気付かずじまいであった。外気の熱風が地下鉄構内の湿度と絡み、更に人いきれが音を消したのである。
(ヤバいな。チューニビョンはもう切れてるわ)
ここでアポを成立させたかった。江口兄弟との案件は氷川商慰労会後に発動予定である。
更に終了書の効能も容赦が無い。岩野田に立ちはだかるは、応援に向かう氷川中の女子生徒達である。
河合達のファンであろうか、岩野田を見かけるや否や、すれ違いざまに意地悪を飛ばす。
「あ、アイツ河合の」
「ええ、あの制服って氷川商?」
「マジか。河合の彼女ならもっと賢いとこ行けよ」
なんたるお行儀の悪さ。ワタクシは苛立ちを覚えた。
(あのディスりって私の事かな)
案の定、岩野田も突然の噛ませ犬の登場に面食らう。
(そうか、周りから見るとそう見えるのか)
一瞬へこんだが、時間が押していたので見ないフリで通り過ぎる。
「は。ムシだし」
「だってオバサンだし」
「しかも氷川商だし」
おいちょっと待て。オバサンとは何だ。「しかも氷川商」とはどういう了見だ。進学校だけが優秀と誰が決めた。許すまじ。言っていい事と悪い事があるぞ。
ワタクシは女学生達の側面観を速攻で受信、管理センターに式神を飛ばした。彼女達には今後三年『ハズレコスメを選んでしまう呪い』を授けようではないか。良くない所業で妖精さんを怒らせると後が怖いのである。皆さんもよく覚えておくように。
けなげな岩野田は無視を決め込む。調子に乗ったモヴ女子が更に罵ろうとした矢先、そこに素晴らしい助け舟が入った。
「みかこちゃん、会えてよかった!」
ガチの美少女・佐藤ミヤコの登場である。華やかオーラに周囲の不快指数が一気に低下したのは壮観であった。
「わっ綺麗すぎる」
「可愛すぎる」
「勝てなさすぎる」
一般モヴ女子の目が眩む。更に続けて
「岩野田さんこんにちは、合同練習会以来ですね」
佐藤弟のリクも現れた。春先よりまた背が伸び、いい塩梅にキュートイケメンに成長を続けている。
王子様は燦然と輝く笑顔でレモンミストに似た清涼感をまき散らした。
「うっそ」
「やばくね」
「最高姉弟かよ」
文句のつけようのない魅力を目の当たりにし、件の女子生徒は紅潮し硬直した。
佇まいを整えお淑やかにならざるを得ない魔法。誰もが本能に忠実になるであろう。
「カワイさんお疲れ様。今日のモヴはタチが良くないわ。終了書のせいね、きっと」
姉弟の背後には、真田さんがデカいバズーカを所持して不敵に笑っている。
「こんなこともあろうかと、今日は佐藤姉弟に後光バリアを足しておいたの」
「あ、ありがとうございます!」
「普段の佐藤姉弟には要らないんだけどね。岩野田にも必要なさそうだけど、今日は特別な日だったわね。ハッピーバースデー」
真田さんはバズーカを構えると、岩野田に向かいラメ入り弾丸を発射した。
ぴちぴちの十六歳はいつも以上にピカピカになった。
試合直前の会場の熱気は益々高まる。本日もマンガン社が全母連とタッグを組み増員体制で待機、決勝に相応しいエネルギー調整に徹している。
南中の太田は街中応援も納得の体躯である。マンガン社のバックアップも非常に手厚く、将来性は一目瞭然。コートに立つ姿は会場の注目を浴び、氷川中のヒール度は加速の一途であった。
「上等じゃん。やったろうじゃんよ」
「くれぐれも怪我とファウルには気をつけろ」
大澤と河合の物騒な会話である。試合開始のホイッスルが響いた。
岩野田は会場入りしてからもずっと、コートに目が落とせない。
「みかこちゃん目が泳いでるよ」
「だって怖いです」
ずっと河合と接する機会もなかったせいで、引っ込み思案がぶり返したのだ。
「そっか。でも確かにそうだよね。私も毎回怖いもの」
「嘘。ミヤコさんが?」
「いつも緊張しちゃうよ。今日はみかこちゃんと一緒で本当に良かった」
途端に佐藤弟が笑う。
「姉ちゃんめっちゃ怖がりなんだよ。毎回隅っこ観戦だからリュウジが何処に居るか判らないって嘆いてた。今日はもっと前で観ようぜ」
観客席二階の中央に引っ張られ、三人で並んで座る。見通しのよい席であった。
「マサキはベンチスタートか。体調も良いって聞いたから温存だね」
言われてようやく岩野田もコートを見た。手前のベンチには四番を背負った河合の背中が見える。観客の拍手と歓声が、気温や熱気に紛れて溶ける。
(私、河合君の公式試合を観るの初めてだ)
去年も今年も、部活の練習風景を眺めていただけだったから。
(一年からレギュラーだったよね)
ふいに茨木が「河合君は色々抱えているだろうね」と言っていたのを思い出した。
(そうだよね。普通に大変だよね)
全道決勝、氷川中対南中。自分はもう高校生になって、しかも自分の所属する部はインターハイに行ったのに。どうしてこんなに落ち着かないんだろう。春先の日差しで光る雪を思い出す。
そうだ春先。初めて一緒に出掛けた動物園。胸の鼓動が煩かった。受験前に借りた合格ジンクスのあるリストバンド。ネームと当時の背番号八の刺繍が入っていた。返そうとしたら、
「よかったら、持ってて」
岩野田の左手に付けながら、
「オレ、次は四番貰うから」
お互いの耳が真っ赤だったのは、決して寒かったからじゃない。
そして有言実行。今年の河合のリストバンドは四番の刺繍入り。岩野田は思う。
もしも。もしも今のリストバンドを、今度は他の女の子が貰っても。
今日の、今の気持ちは、忘れない様に覚えておこう。身体中がばくばく煩くて、首筋の手首の、手足の指先の細い血管までもが、どんどん勝手に騒いで震える時間。今まで思考は頭でするものだと思っていた。けれど本当は胸の奥、心臓のもっと深い所で、無意識になにかと会話する。
(知らなかった。私はお喋りが好きだ)
黙っているのに心がお喋りだ。ドキドキだとかザワザワだとかで、全身騒がしくて仕方ない。
(あ、タオル忘れた)
預かっている河合のタオルを、部屋に置いたままだった。
岩野田を見守るワタクシの背中を突いたのは、黒いがま口鞄を斜め掛けしたリンキーであった。
「どうしたんですかその恰好。昭和の集金みたいですよ」
「借金回収してんの。カワイさん、スガワラ古狸を見なかった?」
「借金ってなんスか。あっ、まさかリンキーさん副業」
「アタシは正社員じゃないからサイドビジネスオッケーでえす。だから古狸どこ」
リンキーがプライベートでスガワラに強い理由はこれか。薄々察してはいたが。
「現場ではもう全然見ませんよ。てか最近のスガワラ社員、超横暴なんですよ」
「ふん横暴か。させるかよ」
リンキーの顔がみるみる鬼になった。怖い。めっちゃ怖い。
「まずは期限厳守させようか。あっ、社員いたっ。アタシちょっと聞いてくる!」
がま口鞄の中身をガシャガシャいわせながら、リンキーは颯のように去って行った。トイチどころかトサンでも済まない高利貸しではあるまいか。
(まさか……トゴ?)
ワタクシは身震いする。瞬間、ワタクシの肩に何かが当たった。
見れば待ちわびていたマイ管狐ではないか。やっと帰ってきた!
「何さオマエ、今着いたのかい?」
管狐は尻尾を震わせキューキュー鳴いた。
「おかえり、よく戻ったね。待っていたんだよ」
管狐は疲労困憊であった。ゼエゼエと息をし、毛並はボロボロである。ワタクシは管狐をハンカチに包み丁寧に背中を撫で、携帯用フードと飲み水を与える。
だが息ついた管狐からの情報はワタクシを震撼させた。巨大なブーメランがワタクシを襲ったのである。
玄関ホールでは妖精さんの人だかり(語弊)でフェアリーリング(語弊)が出来ていた。輪の中心に対峙するはリンキーとスガワラ古狸である。
「待ってください待ってください」
「もう待てぬ。耳を揃えて返してもらおう」
「待ってください、蹴球関連が通ったらきっと」
「そもそもその蹴球の元が貸付のキッカケだったな」
リンキーの形相は鬼そのものだ。古狸に至っては尻尾がはみ出す始末である。
季節外れの寒気がホールを襲う。
「ひいー白魔!」
敏感な人間でなくとも感知してしまうであろう凄まじい霊気であった。真夏にも関わらずイタチ型の風雪が我らをも狙う。物見遊山の妖精達も身の危険を感じ、ジリジリと後退しつつあった。
リンキーは尚も古狸に迫る。
「何なら身体で返してもらっても構わんよ」
「ひいい」
「我がしもべとして永遠に従うがよい。いや、だがスガワラ社員は既に我が手中だったな」
「えっ、」
「ふん古狸。既に詳細は御存じか」
「それは……まさか」
群衆に居たスガワラ社員達の顔色も変わり、他社の妖精達は困惑した。
途端に館内にいる全妖精の携帯端末が一斉に鳴り響き、当社員には式神がバラバラと舞い降りた。
「ちょっとなんだよ全員こんな所に集まって。仕事そっちのけじゃないか。今日の試合は展開が早いんだ。みんな持ち場に戻って!」
競技進行に携わるケンジさんもホールに怒鳴り込んで来た。だがいち早く式神の封書を確認した真田さんが耳打ちし、ケンジさんですら茫然と立ち尽くしたのであった。
「事業……買収?」
「経営統合?」
出来れば有利な立場で関わりたいビジネス用語である。プレス発表で現実を知る我等末端社員である。
ケンジさんがいち早く我に返り「みんな早く持ち場に!」と怒鳴ったが、誰も動ける状態ではなかった。
「買収って何ですか!」
「噂は本当だったんだ!」
上記の台詞はスガワラ社員ズである。
「そうなのよお。会長自ら会社をたたみたいって言うからあ。弊社が買い取ったのお」
リンキーの声が響く。
「スガワラコーポレーションはフェアリー・スキル・ジャパンに事業買収される運びとなりましたあ」
全員に激震が走った。
「フェアリー・スキル・ジャパンって表向きは派遣会社だけど、母体が色々黒いんだったよね」
「しっ。それ以上口に出すなっ。誰が聞いてるかわからないぞっ」
スガワラ社員ズがボソボソと囁き合っている。フェアリー・スキル・ジャパンって一体ナニ。
「弊社も成果主義上等だからねっ。スガワラさんとの交渉も円満よっ」
所でリンキーの立場って一体ナニ。
「アタシは只の雇われ社員でえす」
だからその肩書きってナニ。おいコラ無視すんな。
「現在進行中のプロジェクトにも変更が出まあす。デカい案件はそのまま継続ですがコマイ仕事は現場の判断になりまあす」
当然社員達から質問が相次いだ。
「デカい案件ってどこまでですかー」
「判断基準は何ですかー」
「この現場は継続でえす。個々の担当案件は各自が超法規的措置で乗り切ってくださあい」
回答が雑であった。
「満願成就ホールディングスさん方にも直に詳細入りまあす」
「満願……成就……」
「ホールディングス?」
唐突な経営統合に困惑する両社員ズ。瞬間またもやマンガン各社員の端末が鳴り響き、弊社社員には式神が届いた。
「どういう事ですか」
「何が起きてるんですか」
「母体が愛系列なら実質は合併じゃないですかっ」
マンガン社員ズが端末を握りしめ事の成り行きを詰問していた。
「案件の殆どが因縁めいてますよ。本当に超法規的措置でいいんですか?」
当社員も錯乱の極みであった。ワタクシも頭が真っ白である。
「思い出しちゃった。以前もこういうコトあったわ」
式神を飛ばし終えた真田さんが暗い顔をして呟いた。
「試される大地開拓の時分に合併が相次いだ話、前にしたでしょ。あの時も酷かったのよ」
そうであった。スガワラとの確執と共に伺ったのを思い出した。
「最近のウチの指示書のアバウトさはこの展開を見越していたのね」
「あの、では例えば河合や岩野田あたりの案件なんて」
「超法規的措置でいいんでしょうね」
だが我々の不安が鎮まる気配はない。今度は寄ってたかってヒソヒソ話である。
「愛とエネルギーの融合企業?」
「表向きは老舗を立てて経営統合で押し切るってさ」
「それでマンガン社の名前が先に来るんだ。社名も昔の漢字表示に戻したんだ」
「会長はマンガン社からだって。その代わり社長は成就からなんだって」
「規模的には業界トップスリーに入るよ。元々両社は古い妖精集合体から分かれて始まった会社だったんだし」
「仕方ないのかなあ。諸外国のエネルギー系列は強いからなあ」
「いい加減に持ち場に戻れっ。氷川中の全国制覇は重要案件だ。今後の査定に響くんだぞ!」
再びケンジさんの声が響き、実のある言葉に誰もが我にかえった。どのような形であれ、システム変更に伴うは人員ならぬ妖精整理である。
リストラの瀬戸際を察し、各々が散り散りと現場に急ぐ。会場の歓声が響いている。試合は今現在も動いている。
妖精けの去ったホールに試合展開の流れが漏れ伝わる中、リンキーは古狸を締め上げ続け、とうとう尻尾を取り上げてしまっていた。
「その身は未来永劫アタシ預かりだ。貴様は取り急ぎ蹴球プロジェクトに戻るがいい。今後の予定はおって連絡しよう。くれぐれも変な気は起こさぬ様」
尻尾を取られた古狸はしおしおと現場に戻った。刈られた尻尾はそのままリンキーのがま口鞄にキーホルダーの如くぶら下げられ、ますますリンキーの昭和ヤンキー風味が増した。
その姿は全ての妖精さんを震撼させるであろう。ワタクシもガクブルである。
「ふ、古狸ってナニしたんスか」
「八百年位前かなあ。アイツ紀州特派員時代に大ポカやらかして忌地が焦げ付いたのよ。その時にアタシが納めてやったの。でも始末の悪いヤツは何やってもダメだね。取り立ても焦げ付いて、その最終返済が先月末。更に一か月待ってやったのに、あのクソタヌキが」
「紀州の忌地?」
ワタクシの脳裏に浮かぶは江口弟であった。
「古狸、江口弟の前世に借りがあるんですか」
「おっ、視えたか」
「閻魔帳閲覧した際に視ました。江口弟、蹴鞠の名手だったんですよね」
「そう、古狸の蹴球いっちょ噛みは江口弟の今世応援の為らしいね。でもアイツ実働下手。ヨソサマの手柄横取りは天下一品なんだけどねえ」
妖精さんのお仕事はヒトの人生に寄り添い見守り助けるコトである。確かに間際のやっつけ感は如何なものか。
「だけど借りは借り。今世は最後までキチンと面倒見てもらうわよ。江口弟にはドシドシ成功していただきます。この古狸の尻尾にかけてね」
リンキーが言い切るのならそうなのであろう。だがしかし。
(待って。ならば江口兄弟と岩野田の案件はどうなるの?)
ケンジさんの采配では本日の放課後に執行予定である。リンキーの名が掛かった時点で既にこちらが重要案件扱いなのでは。
(待って待って待って。間違いなく河合と岩野田の件は吹っ飛ばされるんじゃない?)
やばいドキがムネムネしてきた。どうすればいい? 早い者勝ちで動けばいい?
イエス、やったもん勝ちであろう。武者震いがする。ワタクシの矜持に掛けて、まずは帰還した管狐からの情報を生かさねば。
経営統合しようがリストラされようが、今のワタクシは未だ、『可愛い初恋』の妖精さんなのである。
「リンキーさん、個々のコマイ案件は超法規的措置でオッケーと仰いましたね」
「おう、二言はせんよ」
ワタクシはリンキーの首根っこをつかんだ。
「ひっ、何すんだ!」
「ではお腰につけた半貴石」
「あ?」
「ひとつワタクシにくださいな」
「ああ?」
「超法規的措置、取らせていただきます。リンキーさんって弊社には派遣でいらしてるんですよね。今はまだワタクシの部下ですものね。ひとつワタクシにくださいな」
「チョ、待てよ、貴様価値分かってんのか」
リンキーは慌ててがま口鞄を胸に抱えた。が、ワタクシも一切の容赦はしなかった。
「今は貴様呼ばわりされる筋合いございません。さあいい子ねーおとなしくしてねー直ぐ済むからねー」
「ギャーヤメロー」
ジタバタ暴れた。
「はい動いちゃダメよー後でアイス買ってあげるからねー。黄玉石(トパーズ)、持ってるんでしょ。発色が薄い水色のヤツ。それ出して」
「児童虐待ー誰か通報してー」
「時間が無いから早く出してっ。グズグズしないっ。あっ、やっぱり持ってた。管狐がいくら探しても見つからない筈だわ」
ワタクシはリンキーにコインを渡した。
「じゃ、コレいただくわ。はいお代。正門の東角にコンビニがございましたよ。どうぞいってらっしゃいませ」
探していた半貴石。リンキー所蔵と聞いた時には硬直したが、今は気にしてはいけない。大きな変化と書いて大変と読むのだ。この時期は雑な仕事ほどまかり通るのである。