婚約騒動のオーラスは全母連・北代表様の弊社突撃訪問であった。スタッフ要請とチューニビョン散布報告へのクレームであった。

「以前から再三申しあげておりますが、私共が非営利団体である事実を今一度お考え頂きたく存じます。現場のボランティアスタッフは体の良い駒では御座いません。当日申請報告はくれぐれもお控えくださいませ」

「誠に、申し訳ございませんでした」
 ケンジさんと共に平身低頭のワタクシ。現場スタッフ様達は「なんもなんも」とご快諾くださっていたのだが。

「この度は御尽力賜り、誠に感謝しております。改めまして、東支部の皆様にも御礼申し上げたく存じます」
「いえ……私もこんな話はしたくないんですが。最近はやりがい搾取も酷くて、スタッフは裏で疲労しておりますの。特にスガワラさんには困ってしまう」
 思いがけぬ愚痴は先日の留学ゴシップの件であろうか。ケンジさんと目配せをしあう。

「そういえばお宅様も大層な実力者様を派遣で投入なさっておいでとか」
 お鉢は弊社に回る。実力者と言えばリンキーか。
「すっかり評判ですよ。あの方はスガワラさんにもお強いですし、宜しいですわねえ」
「「スガワラさんにお強い?」」
 ケンジさんとワタクシの声が揃い、代表様は黙った。
「それは困りました。ウチのモノが何か」
「あらお口が過ぎました。けれどプライベートらしいですから宜しいのでは。では私はこれで」
 一番欲しい情報は聞けず仕舞いである。

 お見送り後、ワタクシ達はしばし沈黙した。
「スガワラに強い?」
「プライベートだから宜しい?」
 背筋が冷えるのは何の予感か。ワタクシ達は顔を見合わせ、どちらからともなく「今のは聞かなかったコトに」と頷き合った。
 その足でケンジさんは東支部にお詫び行脚に、ワタクシも粛々現場に戻った。


 気付けばリンキーは正社員時代と一切変わらぬデカイ態度である。

「江口の天然が爆裂中です。ブレーキは最大限で願います。ガッツリ止めといてくださいよ」
「おう。河合達の継続も最大でな」

 返ってリンキーにゲキを飛ばされ、どちらが上司か判らない。
 御指示の河合達にしても、当初のフェードアウトの危惧は何処へやら、現在は非常にスイートな気配なのだ。

「どうしよう、まだ心臓がバクバクするよ」
 恒例となった夜の長電話。本人達は大澤ネタに息も絶え絶え。
「でもどこまで本当なんだろ。現実的じゃないよ。オレ達騙されてんじゃね」
「河合君、大人みたい」
 岩野田は華やかな笑い声が止まらない。

 だが別室で仕事中の父親を考慮し、ベッドに潜り込んでコソコソ話す。くぐもる声は普段より甘く、十二分に河合を刺激する。
「はー布団の中って息苦しい」
「さっきからゴソゴソ音がするんだけど。一体何してんのさ」
「話し声が大きくなるといけないから、お布団に籠ったの」
「岩野田さんちのマンションって家の中も音が響くの?」
「家の中は響かないよ」
「じゃなんで」
「色々あるの」
「ナニがさ」

 勢い河合の声もくだけて甘くなる。自分達の発声の変化にそれぞれが同時に気付く。
 へえ。声にはこんな表情があるんだ。こんな表現もするんだ。端末を通す相乗効果。
 ワタクシのブレーキも効きが悪く、ずるり、ずるりと前に出る。



 不安を揺らす波もある。だが律して隠す。氷川中エースの矜持である。

 河合達が氷川商とカチ合うのは市民体育館での練習時、最近は週に一度ある。
 緑のネット越しに岩野田の姿を垣間見られるのは嬉しいけれど、ジャージ下のティシャツが白く光って、その側に江口が居ようものなら、気持ちの行方は真逆に変わる。黒い何かも沸き起こる。

(エロ先輩ってなんであんなに岩野田さんに絡むんだ?)(自分の事は自分でしろよ)(岩野田さんもほっとけよ)

 だけど決して崩さない。益々競技に集中する。誰も近寄らせない膜を張る。
(くそ、見くびんなよ)
 何を。氷川中を。それとも自分を?


 岩野田は練習中に決して目も合わせない河合に対し、その鬼気迫る集中力をむしろ見習いたいと思っている。

 自分も凛としたい。キチンと前を向きたい。夜の電話は相変わらず続いていて、だけど声だけのやりとりだけ。だけど……いつも優しくて。
(河合君カッコいいな)
(私も河合君みたいになりたいな)
 だが河合の本音は見えない。見えぬまま今日も江口のお守りをする。





 岩野田のミドルネームがオカンで定着した放課後、お空はすっかり蝦夷梅雨と化した。
「岩野田さん、江口がお行儀悪いよ」
「岩野田さん、江口の課題提出がまだだよ」
「岩野田さん、江口がまた上級生に迫られてたよ」
 上記のうちマネ業務外はどれでしょう。

「全て業務外です」
 大家達が岩野田のストレスを察したのも当然の成り行きと言えよう。お守りを押し付けた罪悪感にも苛まれ、先輩マネ・吉野への直訴に至った。

「なんとか出来ないでしょうか。江口も周りも岩野田を酷使しすぎです」
「そうなんだけど、彼のコトは昔から知ってるけど」
 歯切れの悪い吉野は江口と同じ町内住まい、同じ小中学出身であるという。

 曰く、彼は四人姉弟の三番目。内訳は上に綺麗な姉二人、二歳下の弟なのだが、
「その弟がサッカーで超有望なんだ。小さい頃から御両親が付きっ切りで、お姉さん達が江口の親代わりだったの。でも今はお姉さん達も会社や大学で忙しいから、それで余計に岩野田に甘えていると思う」
 岩野田達をトーンダウンさせてしまうのであった。

「だ、だけど、」
 お、いつも穏やかな茨木が発言しますよ。
「江口は一年のエースです。お馬鹿過ぎる方が逆に可哀想では」
 おお正論ですよ。
「そうだよね。自立してほしいよね。とにかく岩野田の負担は減らさないと」
 吉野も心から同意し、皆で一致団結したのであった。


 しかし江口は岩野田に纏わりついて離れない。
「岩野田さーん」「岩野田さーん」
 岩野田の心境は飼育実習であろうか。見かけた大澤ですら「岩野田さん大変だな」とこぼす有様なのである。

 当然だが河合は面白くない。その表情をいち早く見抜くのも当の大澤なのがやるせない。
「マサキ、顔に出てんぞ」 
慌てて眉間の皺を消す河合。
「気持ちはわかるけどな」
 憮然とする河合。
「よう、お二人さん。今週も調子良さそうだな!」
 空気を一切読まずにネット越しに話しかける江口。露骨に苦虫を噛み潰す顔をする大澤と、どう返答すべきか固まる河合。

 だがその時、何かが動いた。
「江口、ヨソサマの邪魔をしないの」
 岩野田の叱責が飛んだのだ。クールな低音ボイスである。

「レンタルコートだから時間がないよ。早くウオームアップ始めて」
 更にトーンを変えぬままクルリと向きを変え、
「練習の邪魔してゴメンなさい」
 ネット越しに河合と大澤に謝ると、ゴネる江口をサッサと所定の位置まで連れ戻したのであった。

 男児の世話をすると声がいちオクターブ低くなる傾向があるが、岩野田も既に育児発声が板についている。『岩野田・オカン・みかこ』の通り名が浸透した瞬間でもある。

 大澤は吹き出し、河合の肩も盛大に揺れるのを、岩野田は背中で感じた。そして心の中で大いに泣いた。
(だって私は氷川中卒業生なんだもの。今は氷川商マネなんだもの)
 パブリックな立場をお勉強中であった。


 成長ぶりに感涙するワタクシの目に飛び込んだのは、岩野田の後ろに憑いたエプロン姿の妖精さんである。
 あのユニフォームは全母連スタッフ様だ! 一体なぜ。ワタクシは急ぎご挨拶に伺う。

「あの、お取り込み中失礼致します」
「あ、はじめまして。私、全母連・岩野田家担当のモノです。今週から本格的に娘さんも見守る事になりまして」
 岩野田のオカン度が上がった原因はこれだったのか。お互いに頭を下げつつ御挨拶である。

「母親の病状が落ち着きましたので、今後は岩野田家の充実を図る手筈となっております」
 それは大変結構な事である。あらためて御礼をお伝えし、協力を申し出るワタクシであった。


 その夜の河合と岩野田のスイートトークには胸騒ぎを帯びていた。
「あの江口先輩をいなせるなんて」
「全然褒め言葉じゃないよ」
「低い声、迫力あった」
「しつけは低音がいいって教わったの」「しつけ?」
 河合の笑い声を複雑な思いで聞く岩野田である。

「でもめっちゃマネージャーっぽかった」
「褒め言葉として聞いておくね」
「褒めてるよ」
 ありがとうと言いそびれ、岩野田は笑って誤魔化した。

 河合は楽しい会話に徹する。心の奥底に潜む不満は胸に秘める。
 岩野田に落ち度がないのは重々承知だ。表に出しても剣呑なだけだ。不本意な真似はしたくない。
 いつだったか、江口から聞いた与太話も気になっている。折を見て彼女の口から聞いてみたい、氷川商のローカルルール。


 細やかな努力や思いやりの積み重ねで繋げる日々、そのペースを崩すのは容易である。

 早苗叔母が河合の部屋の扉をノックする。
「マサキ、お風呂がまだでしょう。早く入ってね」
 慌てて端末を押さえて「はい」と返事をしたのに、その日の早苗叔母は怖かった。

「リュウジ君もだけど、マサキも最近長電話が過ぎますよ」
 端末の向こう側の相手にギリギリ届くであろうトーンで、鋭く短く言い放つ。聞かされた岩野田の胆は心底冷える。





 端末を通じた二人の間、それから自室の河合と早苗叔母との間。共に沈黙が生じたのは言うまでもない。

「ゴメン、今日はもう切るよ。おやすみ」
 河合の声はいつになく鋭く響いた。
「うん、あの、ごめんね」
「いやこっちこそ。じゃね」
 小さい応答だけでプツリと切れた。

 岩野田は身体の芯が冷える。胸だけが早鐘を打つ。仕方ない。ずっと真面目に生活してきた大人しいムスメだ。他人に叱られた事など殆ど無い。

 通話を終えた河合の部屋の空気はもっと強く強張っていた。目の前には早苗叔母がいる。お互いにひと呼吸が必要であった。

「だらしない生活をしている点は反省します。でも叱るのは僕だけにしてほしい。友達は関係ないよ」

 河合が早苗叔母に楯突く事など、今までになかった。だけど今のは納得がいかない。叔母さんは確信犯だった。マナー違反じゃないのか。

「そうね。つい『うっかり』わきまえなかったわ。ごめんなさいね」
 早苗叔母も表面だけで冷たく謝罪を述べる。
「伯母さんもそれぞれの親御さん達から大事な息子さん達を預かっていて、責任が有るから」
 立場で河合を黙らせる。

「それに叔母さんはもう子育ても終わった只の地域の大人なの。貴方達の大事な友達のお行儀も悪かったらその子も一緒に叱りますよ」
「今の俺ら、行儀悪かった?」
「この場合は最近の貴方達の生活態度を指しています」
 有無を言わさなかった。

「貴方達は目指すものがあってここに来ているんでしょう。その長電話は必要なモノなの?」
 今の河合のココロの支えだけれど。
「休憩も大事だけど、何より身体を休めて、規則正しい生活をして頂戴。でないと貴方達のお母さんに顔向けできないわ」
 一切の容赦はなかった。

「伯母さんはね、貴方達を守る為なら誰かに嫌われる事なんてちっとも怖くないのよ」
 一切の口答えを許さなかった。

 大澤は隣室でガクブル凍結中であった。何故なら大澤の方が常に長電話をしているから。
「アレはオレに聞かせる台詞だな。とばっちりで悪かった」
「容赦なくとことんねじ伏せられた」
「マサキは身内だから余計に心配なんだ。叔母さん、オマエが息子みたいに可愛いんだべさ」
 今は腹立たしいであろうが、本質は有難い話である。懐にいる内は安全であろう。巣立ちは厄介やもしれぬ。


 夜半、気付くと岩野田から短いメッセージが届いていた。

『ごめんね。河合君、忙しいのについ甘えて、長電話ばかりしてたね』

 河合は慌てて電話を掛ける。今度は布団に潜って小さな声で。
「こっちこそ、さっきはゴメン」
「あの、こんな時間に電話、大丈夫なの?」
「うん少しなら。えっと」
「うん?」
 でも何を言えばいいのかわからなくなった。聞きたい事もあったのに。
「いや……やっぱいいや。さっきはゴメンな。おやすみ」
 声が聴きたかっただけかもしれない。

 岩野田も河合の様子が判り、僅かに気持ちがほころんだ。ワタクシは胸をなでおろす。




「江口の弟、凄いんだね」
 翌日の朝である。大家が持参した朝刊地方版は岩野田達を大いに驚かした。
 写真入りの大きな紹介記事である。
「このジュニア選手記事。江口ハヤトってコがそうらしいんだけど」
「スゴい。ナショナルトレセンに入ってるよ!」
 噂通りの有望株である。身近で例えると大澤レベルが兄弟にいるという状況だ。
「吉野先輩の言う通りだったね」
「同性の兄弟だとプレッシャーも有るだろうね」
 江口の大変さにシンミリするのであった。
「でもだからといって、私達が江口を甘やかしたらもっと良くないと思うの」
 同時にマネ業務のスタンスを確認し合うのであった。

 ただ、甘やかすのと優しさは別物であるが、往々にして混合しがちでもある。その後のマネ達が江口に緩くなるのも女子のサガであろうか。
「岩野田さーん絆創膏ちょうだいー」
「はい」
「岩野田さーんドリンク補充しよー」
「はいはい」
「岩野田さーんタオル忘れたー」
「はいはいはい」
 後ろの全母連の追い風もあり、岩野田も無駄に育児モードに入ってしまっている。仏心かもしれないが。


 帰社後のワタクシを待つ案件がソレなのは本日のサダメであろうか。
「最近スガワラの仕事が雑だった訳がわかったよ」
 マンガン社からのタレコミである。

 例の古狸は長年蹴球ジュニア枠にも並行して関わっているらしく、特に今年度はかなりご執心だとか。
「江口弟が今期イチ押しなんですって。メジャー競技は見栄えがいいですものねえ」
「それでコチラの作業が雑になったんだね。留学ゴシップといい、やけに愛が無いと思った」
 真田さんとケンジさんは呆れ、ワタクシは早々にブチ切れる。

「だったらさっさと担当を降りて下さって構わないのに」
「実際の仕事は部下で手柄は自分って腹なのよ。名前だけ連ねて、責任は部下に取らせてるわ」
「流石、出世する方は違うねえ」
 どう愚痴ってもムカつくのであった。

「それでカワイさん。実はもっと嫌がるかもしれないんだけど」
 ケンジさんが申し訳なさそうに口火を切った。
「さっき、そのスガワラから初恋申請が来たんだ。例の江口弟関連。先方はカワイさんを御指名なんだけど、ただその内容が」
 どうにも承服しかねる話であった。