春の花が咲き揃い、夏の花も勢い出した蝦夷梅雨間際。母も回復傾向となり、放課後は大家と茨木を手伝う岩野田である。元々労を厭わないタイプなので、気分転換にはもってこいである。

「岩野田、マネージャーめっちゃ向いてる」
「もう入部しちゃいなよ。誰も異論はないよ」
 二人に何度もボソボソ呟かれ、
「顧問のセンセイもマネ業務の軽減を目指すそうだよ。一緒にやろうよ」
 二年マネの吉野サトミからも誘われ、
「そうだよ。芋もその方が嬉しいよな?」
「おっ、芋が照れてる。とっくにバレてんだよ芋」
 諸先輩方も芋……じゃなかった、江口を茶化しながら入部を促すのであった。
「でも岩野田さんの彼氏スゲーよな。芋に勝ち目はねえな」
「再来年はウチに来てって河合君に伝えといてね」

 返答に困るお願いまで押し付けられてしまった。


(氷川商、バスケ部、マネージャー?)
 複雑なのは当の河合である。

「誘って貰えて嬉しいけど大変だろうし。ちゃんと出来るかなって」
 最近の二人のやり取りは直電に昇格。脳裏に浮かぶは自分だけが知っている(と思っている)美化委員時代の岩野田のジャージ姿である。悶々ツライ。

「……岩野田さんはマネに向いてるとは思うよ」
 ああ、でも嘘もつけない。誰よりも適任だと気付いているから。
「向いてるかな」
「けど氷川商は強豪校だから、大変なのも本当だと思う。お母さんの事もあるから家で相談した方がいいよ」
 考え込む岩野田に、
「美化委員みたいに全部抱え込んだら駄目だよ」
「あ、うん、え、美化委員?」
「うん、や、別に」
「別に?」

 ひと時のスイートトークであった。ただ、電話を切った後に河合が「……マジかよ」と呟いたのは、誰も聞いてはいない。



 翌日の放課後も大家と茨木に拉致られる岩野田である。

「今日の活動場所、市民体育館なんだよ」
「是非見学するといいよ」
 有無を言わさぬ態度である。
「でも使用コートは一面だからキミは観客席に居るといいよ」
「後の一面は氷川中のバスケ部だから存分に眺めるといいよ」
 断る理由が何処にもなかったのは言うまでもない。

 市民体育館でフリーズするのは河合であった。
 昨日の今日でこの展開。はさむ緑の網ネットの向こう側コートに氷川商バスケ部。大澤にも顔を覗き込まれウッカリ憮然。

「よう久しぶり」
 江口にも手を振られ、ご挨拶を返さねばならぬ複雑さ。
「岩野田さんも観客席に来てるぜ」
しっかり表情に出る河合。
「もうすぐうちのマネになると思うけどな」
存分に顔に出してしまう河合。
「オマエらがウチに来てくれるのも待ってるぜ。じゃあな」
返事を返し忘れた河合。
「エロ先輩、相変わらず変わんねえな」
 大澤のボヤキにすら反応の河合。

 危惧した『氷川商の江口先輩』と練習会場でのご対面。合同練習会の時は何とも思わなかったのに、今日の結構な衝撃は何故だ。

 落ち着けよ。なまじ初恋進行中だからだ。落ち着け。なまじ手に入ったから余計だ。
 そっと息を吐き切る。腹の奥まで空気を入れる。中学と高校の差。面倒な上下関係。でも予想済みだっただろ。昨日の今日なのが微妙だけれど。
(さあ切り替えろ)
 河合の背筋が伸びたのを確認して、大澤も後に続く。

 中イチ時代、河合は岩野田がバスケ部を見ているのが嬉しかった。大澤を見ていたのは承知だけれど、自分も彼女の視界に入ると思うだけでテンションが上がった。煩い鼓動が収まらない。さあ、久しぶりにガチな自分を見て貰おうじゃないか。


 結果は予想通りであった。彼等の見事な競技風景は、周囲は当然の事、氷川商の皆様をも釘付けにした。

「あの二人が断然ずば抜けてるねえ。将来は海外留学だねえ」
 氷川商顧問が呟く言葉に全員が同意した。
「河合君、ちゃんと大きくなれるといいねえ」
 誰もが深く頷いた。

 観客席の岩野田は放心していた。中学時代を思い出して、でもその時よりも、何もかもが全然違って。

 一瞬河合は上を見る。観客席の岩野田は氷川商の制服。襟元のボタンをひとつ外して、水色のボウタイを緩めに結ぶ放課後仕様。
(見てた?)
(うん)
 視線を合わせた瞬間に、多分、そんなやり取りをした。

(岩野田さんは今オレを見てんだぜ)(オレを見てくれてるんだぜ)
 河合はそっとティシャツの裾を握る。



「みかこ、最近楽しそう」
 母は全てお見通しだった。学校帰りの病室、もうオレンジのプレートの大部屋である。促され、バスケ部の話もポツポツとする。

「やりたい事が有るのなら少しでもやってみなさい。応援するから」
「でも」
「バレエも本当は続けたかったんでしょう。もう我慢しないで。学校生活をちゃんと楽しんでほしいの」
 お父さんも同じ気持ちだよ。母の言葉に岩野田は背中が広がる様な気持ちがした。

 そうだよ。岩野田にだって追い風は来ている。スガワラの提示プランは河合が中心だけれど、岩野田だって人生の幸福期なのだ。だからこそ河合と仲良くなれている。その運の強さも鑑みてほしい。


 リンキーが提出した江口の報告書も気になる。
 競技への執着が増している事。河合達へのライバル心が多大にある事。それから、岩野田がどうしても気になる事。意識し過ぎてうまく自分が出せなくて、本来の天然より更に、敢えて幼く振る舞う事。

 ワタクシも本日分を付け加える。
 自分が河合達より圧倒的に劣るのが悔しくて悔しくて、息が出来なくなった事。二人が視線を合わせるのを見て、胸がキリキリ痛んだ事。




 忘れがちだが江口はイケメンである。だが中身は真性天真爛漫、永遠の小学男児でもある。
「えぐっちゃーん!」
「しゅーとー!」
 黄色い声援も多々上がる。

 全女性の心を鷲掴み、しかし身近な者にはお手間なイキモノ。部内でのフォローは二年マネの吉野先輩と大家、茨木達が担う訳だが、如何なる工夫も功を成す事は無かった。

「という訳で、岩野田にお世話係を頼みたいんだ」
「キミの前でだけお利口なんだよ、江口」
 無事バスケ部マネージャーに就任した岩野田に、早々に無理難題が降りかかる。

「私の前でだけなんて……たまたまだと思うよ」
 遠回しに、しかし丁重にお断りしたのにも関わらず、
「タマタマでもいいんだよ」
「対処療法で充分だよ」
「日常は付け焼き刃の連続だよ」
 のべつ幕無しに却下されたのであった。


「実は『仔犬のしつけ方』がとても役に立ったの」
 物騒なブックレビューを語るのは佐藤ミヤコである。初夏の夜、バスケ部マネ相談への電話回答である。

「大澤君イヌ扱いなんだ!」
 驚愕の岩野田に佐藤は焦った。
「待って待って、決して全部じゃないよ。でも時々、よく、もう一人弟がいる気分になって、つい」
(何ソレもっと詳しく!)
食らいつく岩野田。
「だからどうしても保護者になってしまうよね」
(ほう……)
またもやモブな気持ちで聞いてしまう岩野田。

「とにかくヤンチャ君には冷静に穏やかに、ノーはハッキリと。でも河合君には関係ないね。いつも落ち着いてるもの」
 岩野田のシャーペンの芯が折れる。ベタな展開で恐縮です。
「か、河合君の方がいつも私より冷静です」
 赤面する岩野田を見透かされたらしく、向こう側で笑われます。
「もう試合シーズンに入るね。私達も会えなくなって寂しくなるね」

 そうだった。岩野田も予定ギッシリのバスケ部スケジュールを見る。今度はいつ何処で会えるんだろう。



(どうしてこんなに忙しいの?)
 案の定であった。江口の猫かぶりは最初だけであった。中身が小学男児なので仕方がなかろう。

 だが愉快な現象も見受けられた。おバカとはいえ女子に圧倒的人気の江口である。絡めば周囲からの嫉妬も受けそうなのに、何故か岩野田にはそれが無い。
「だって岩野田さん、中身がおばちゃんだもの」
「誰よりもハタキと三角巾が似合うもの」
 根っこのイロケの無さが露見し、皆様からオカン認定を頂戴したのである。
 本人も落ち込むどころか「キャラ的にはそれでいいです」と了承するのは何故だ。しかもこの二人将来結婚するんだってよ。嘘じゃなかろうか。

(やはり因縁に気をとられるのは宜しくないわよねえ)
 唸るワタクシの肩に何かが止まる。
「カワイさん、うちのボスが呼んでる」
 ケンジさんの管狐である。



「計画前倒しだなんて困るよ。絶対行かせないよ」
 スガワラから大澤のプラン変更の要請があったそうだ。
 中学卒業後に海外留学のご提案だという。
「返済不要の奨学金でも母子家庭の大澤家には持ち出しが大きいし、本人の器もまだ全然だ」
 机上はマンガン社との式神のやり取りで大混乱である。
「ほらマンガンさんだって反対してる。スガワラは先走り過ぎなんだよ」

「大澤には時期尚早なんですか?」
 先日の氷川商顧問も大澤を絶賛していたが。
「心技体が揃わないと美しくないよ。彼はまだフィジカルだけだ。元々競技への執着も少ないコだし」
「そうなんですか!」
「無意識は中庸を求めているわ。それに地縁の深い子なの。だから北支店の私達が主任なの」
 真田さんも書類作成で目が血走っている。
「今だって実際は河合が大澤を引っ張ってるのに。カワイさん、この意味がわかる?」
「河合の重要性、でしょうか」
「そう、あのコは山椒の実、かつ大きな原石よ。ケンジさん用意出来ました」
「よっしゃ行こうか」
 お二人はバタバタと支度をするとガタガタと出掛ける準備をした。

「そんな訳だからカワイさんも気を引き締めてね。最も河合はまだ身体が出来てないからスガワラも無茶振りはしないだろうけど」
「実は河合にも強い波が来てるんです」
「ああ、そう」
 ケンジさんが怖い顔をした。
「あの古狸、何をそんなに急ぐかね」


 スガワラの執着もあろうが、彼等の成長は際立っていた。だが良い作用だって勿論あった。

(なんて格好いいの二人とも!)
 早朝朝練に出掛ける大澤と河合を見て有頂天になったのは村松早苗である。
 アドレナリン全開の中学男子の顔付きは日増しに凛々しくなっている。これは独り占めしたら申し訳ない。

「じゃあ行ってきます」
「ちょっと待ってアナタ達! 写真撮るから!」
「何でですか」
「お母さん達に送るのよ。ほら、こっち向いて」
 玄関で無理やりショット。練習前の気合のせいで目付きは鋭く、反面母親への画像と聞いた困惑と恥じらいの表情も混じって大変宜しい。
「はい、イイ顔撮れました。早速送るわね。今日も気をつけて行ってらっしゃい」
 早苗叔母、右手を降りつつ左手で器用に送信。


 西の街と東の街では、二人の母達が受信画像を眺めて目元を潤ませた。
 添付された息子達の成長に嬉しいやら誇らしいやらホッとするやら。液晶画面をそっと撫でる。

 早苗叔母の後ろには、全鬼子母神連合の妖精さんが御憑きあそばしている。
 略して全母連という。大層慈悲深く、大層おっかないオバちゃん妖精さん達である。
 その迫力の前では、スガワラだってマンガンだって、尻尾を巻いて逃げるのだ。





 全母連の底力は凄まじく、スガワラの先走り案件を一括で白紙に戻した。そして誰もが痛手を背負う羽目にもなった。

 真田さんが満身創痍で帰社された。ワタクシは慣れぬ手付きでドリップ珈琲を入れる。
「全母連さまから大クレームだったわ。公正さに欠けるって」

 昨夜、学校関係者間において、大澤の公費留学の噂が拡散された。発信元は勿論スガワラである。大澤ファンの言霊を利用してゴリ押しを狙ったらしいが、
「時期尚早、逆効果よ。全国制覇もまだだし、世間様が出る杭を許さないわ」
 父兄関連のネットワーク管轄は全母連なのである。

「大澤レベルですら依怙贔屓になるんですか」
「難癖つけるのはごく一部よ。ただ声の大きいヒトは周囲を振り回すし、厄介なのよね」
 随分お疲れなのであろう、普段は召し上がらないチョコレートにまで手を伸ばす。
「不景気で誰もが繊細だし、今回は全面撤廃が妥当よ。こっちまでトバッチリだわ」

 話す側から東の街で残務処理中のケンジさんの式神が届く。真田さんの眉間が益々深くなる。
「やっぱり私も行くわね。佐藤が参ってるの。可哀相に。あの子も本当は余裕なんて無いのよ」
「あの、ご迷惑でなければご一緒しても宜しいでしょうか」
 真田さんはワタクシをまじまじと見、机上を確認する。
「だけどアナタも紙仕事が溜まってるでしょう」
「平気です」
「嬉しい事言ってくれるのね。ありがと」
 小さく笑いチョコレートの封を締め、一気に珈琲を空けた。
「じゃあ今日はお言葉に甘えようかしら」


 留学の噂は無責任に盛り上がり、全方面の友人知人から詮索される河合も複雑であった。
(リュウジが怖くて直接聞けないからって。わかるけどな)
 ありとあらゆる面倒を丸く収める立場も大変である。

 無論大澤ならどんな特待話があっても不思議はない。だがその圧倒的な差を常に目の当たりにする河合の重圧には、誰もがまるで気付かない。
(オレだってヘコむんだけどな)
 入学以降、大澤の隣で過ごす一年強。身体が小さいハンデを創意工夫で乗り越える日々なのだ。

 昨夜、当の大澤はずっと電話中だった。小声でボソボソ呟いたり時々声を荒げたり、電話を切ったりまた繋げたり。噂は本当かもしれない。
(でも、ヒトを羨むだけ無駄だ)
 河合は自分に言い聞かす。時間は有効に使え。苛々するだけ不合理だ。

 思考を巡らす河合の隣には大澤がいる。
 大澤も大澤で何なりと有るだろう。だが周囲から見たら「いつも一緒にいるバスケ部の仲良しさん」である。
「腹減った」
「まだ二限目前だぞ」
「水飲もうぜ」
 淡々といつも通りに過ごす。廊下を進む。

 人気のないウオータークーラーの前。だが大澤はそこから動こうとはしなかった。
「どした」
「マサキにだけは話しときたい事がある」
 河合は身構える。改まった大澤なんて初めてじゃないか。
「みんなには黙ってて欲しい話だ」
「なんだよ」
 言いよどむ大澤。二人の間に無駄な緊張感が走る。

「夕べからオマエの様子がおかしいのは知ってたよ」
 また言いよどむ。そんなに深刻な話なのか。
「本当に、マサキにしか言わないから」
 固い表情の大澤を前に、河合にも緊張が走る。やはり留学の噂は本当なのか。衝撃に備える覚悟をした瞬間、別の衝撃が河合を襲った。

「オレとミヤコ、婚約した」
「は」
「正式な結納とかは出来ないけど、でも親には了解もらったんだ」
「は?」

 盛大な攻撃であった。頭上からの爆撃に備えていたら両脇腹をくすぐられた様な。こちょこちょ。
「わはー言えたーあー恥ずかし」
 真っ赤な大澤に絶句する河合であった。親を巻き込む結婚の約束とは。
「オマエに言えてよかったよー」
「聞かされる方が恥ずかしいぞ。戦国かよ。二人共まだコドモじゃないか」

 激震である。だが予想もつく。昨夜の大澤の散々なる長電話。暴れだすと止まらない氷川の闘将。御両家はさぞかし揺れたのではあるまいか。

「それを聞かされたオレは何すりゃいいのさ」
「いやなんも。ただ聞いて貰いたかったんよ」
 どうしようもない情報であった。
「い、岩野田さんには速攻で話すからな」
「えー」「えー、じゃねえし」

 ヒトのクチに戸など立たぬ。その後もお互いの表情に改めて困惑し赤面し、モジモジし合う二人であった。


「思春期の悩みにはノザラシ製薬のチューニビョン散布が最も有効ですよね」
「カワイさん、在庫が品薄なのにありがとう!」
「取り扱い有資格者が来てくれて助かったよ。経費は勿論こっちに回してね」

 お二人にはずっと助けて戴くばかり。お返しの機会を得、ワタクシも大変幸福である。
 反面、けしかけておきながら、御両家の親御さんには申し訳ない限りである。さぞかしお困りであったろう。

「破天荒なオママゴトだったなあ」
「いいじゃない、壮大で尊大、大澤らしいじゃない」
「佐藤の今後の受難を憂うけど、二人は益々コソコソ出来なくなるね」
「私達も安心して驀進出来るわね!」
 お二人は大いに盛り上がっておいでであった。


 あの後河合は大澤に「てっきり今評判の留学話かと思ったのに」と零した。

 だが大澤は「そんな話、オレに来る前にオマエに来るしょや」と返した。判るヒトは必ずオマエを評価している……と、これは大澤の心の中の声である。