春のニオイのする夕闇が降りつつあった。日が落ちると気温は未だグンと落ちるけれど、街路樹や公園、民家の庭先からは、植物の伸びる気配がある。

 河合は話す言葉が探せない。お母さんの具合なんて岩野田の表情からは聞きにくい。能天気な機転も難しい。

「ごめんね。遠回りになっちゃって」
 急に話しかけられ、慌てて「いや、全然」と返す。
「岩野田さんち、駅には近いけど中学は遠かったね。オレの下宿の方が近いかも」
「叔母さんのおうちの方、街並みが綺麗だよね」
「買い物は地味に手間らしいよ。唯一の利点はお役所への通り道があるから除雪が早い、だって」
「そっか。緊急車両用」

 会話が途切れて黙る。歩くスピードが緩む。マンションの手前でもエントランスの中でも、微妙に空間が鈍る。河合は鍵を出す岩野田の手元を眺める。小さなクマのキーホルダーが揺れる。

「あのさ」
「ん」
「ウザくて危ないヤツ覚悟で言うけど」
「ん?」
「岩野田さんが家に入るの、オレ確認するから」
 驚く岩野田に重ねて言う。
「今の岩野田さん、ちょっとやばい。オレ、玄関に鍵掛かるの見てから帰るよ。家は何階?」
 更に言う。
「自分のヤバさにも気付いてる。けど岩野田さんの方が心配だ。部屋どこ?」
「え、」
「何処さ」
「よん、階。401」

 エレベーターに入る。ボタンを押す。小さな箱は小さな音を立てる。
「私、今そんなに危なっかしい?」
「うん」
「そう」
 河合は(もう話さなくていいよ)と思う。口に出さないのは、出せないから。胸が絞られる様に痛むから。

 河合も河合で、入院経験がそれなりにある。幼少時から喘息とのお付き合いは厄介で、親元離れる氷川中入学事も、母親の心痛は押して知るべしであった。

 楽しくない記憶。突然の呼吸困難。夜中の救急外来。家族から離される心細さ。それから、母が付き添う際に他の兄弟が見せる、なんとも言えない表情。

(誰ひとり幸せじゃないんだよ、ああいうの)

 岩野田も決して良い状況ではないだろう。無理に話したくもないだろう。自分も聞いた所で何も出来ない。ただ、昔の辛さを思い出した。岩野田も今、辛いだろうなと思う。エレベーターを降りる。


 ワンフロアに二、三世帯の十階建てマンションである。共用内廊下は無機質で、あらゆる音が反射する。

 岩野田が玄関の鍵を開ける。ドアの開く音と同時に河合の声がするので、振り向くと、
「ここ。音が響くんだね」
 通る声に驚いて、慌てた岩野田は河合を玄関内に招き、扉を閉めた。
 バタン。
(え、え、あれっ、バタン?)
 河合君硬直。あの、ココ、ドコ?

「そうなの。このマンションの内廊下、反響が酷いでしょ。気をつけてないと話し声が全部筒抜けで……ゴメンね、今なんて喋ってた?」

 河合君緊張。どうしよう、ここ、岩野田さんのお家の中でえす。

「ドアの音でちゃんと聞き取れなくて」

 河合君ちょう動揺。思いがけない展開でえす。

(い、い、家にお邪魔するつもりは!)

 そうよねえ。送るだけの予定だったよねえ。

 一戸建ての立派な叔母さん宅とはまた別の、約一平米強のコンパクトかつ機能性重視の玄関である。僅かな踊り場先の壁には小さな風景画。向かって右の壁には施工された鏡、作り付けのシューズクロック。床には身軽なサンダルが一足。

 狭いなりに工夫のある清廉な気配。
 ミニマム空間故にお互い至近距離で立つ羽目になる訳ですが、
(岩野田さんがめっちゃ近いんだけど!)
 直帰予定だった河合としては、とにかく何か会話を、この間を何とかせねばと焦る焦る。

「い、岩野田さんち、綺麗にしてるね」
「そんな事ないよ、めっちゃ狭いよ」
 うん、ふた部屋たすリビングダイニングとキッチンの約六十平米。三人家族だと断捨離が欠かせなくて……あら岩野田も、
(どうしよう、河合君がめっちゃ近くにいるんだけど!)
 オノレの招いた結果に今更焦っていますけれど、ワタクシ関与しませんよ。

 動揺中の岩野田。河合に上がって貰うか否か、現在必死で分析中。自室は整頓が残念、リビングもお父さんのコーナーがあるし、続き間は夫婦の寝室だ。玄関トイレ水回りだけは毎日お掃除してあるから、今日の所はここしか無理。

 でも近い。マジでめっちゃ近い。二人とも意識満載。だけどワタクシ関与はしませんよ。

「ゴメンね、こんな狭い玄関で」
「いやそんな、こちらこそ、もう遅いし」
 内玄関の音の反響が招いた結果とは言え、不可抗力に無駄に緊張。

「え、えっと、じゃあもう遅いから。岩野田さんもちゃんと家に戻れたし」
 おう河合君、無理目だけど無難にまとめてきたな。

「お邪魔しました。オレが出たらすぐ鍵掛けて。気をつけて」と岩野田を見た途端、不安が戻る。

「また……そういう顔」
「え」
「泣きそう」
「え」
「中学の時も」
 意外なカミングアウト。

「泣きそう、って、中学でも?」
「うん」
「うそ」
「ちょくちょく見かけた」
「そんな。私そんな泣いてないよ」
「そうかな。じゃあオレが勝手に知ってるだけか。まあいいけど」

 勝手に知ってる、だって。それから、岩野田は目線の高さが同じ事に改めて気づいた。いつの間に。お昼の公園では気付かなかった。

「でもオレ、お医者さんにガチでヤバくなる前に泣いとけって言われた事あったよ。泣くのも大事だって」
「お医者さん?」
「喘息でお世話になった地元の先生。ココロが辛すぎると泣けなくなるって」

 河合も岩野田との目線に気付いた。オレと岩野田さん、背が同じだ。追いついた。至近距離だ。

「オレ小さい時、よく入院してたから」

 とっさの判断。一瞬の挨拶程度を左に速攻。
 柔らかくて温かくて、流れと意識が変わる隙。

「それと、大丈夫じゃない時は、自分で大丈夫にすればいいって」
「自分で?」

 岩野田は混乱する。色々と動揺もする。今の何。今の左は何。何が起きたの。胸の奥で風が吹いた。それに大丈夫にすればいいって何。大人はコドモにすぐ大丈夫って言うけど、本当はそうじゃない時も、大丈夫って言うけど、自分で大丈夫にするって何。 

「どういう意味?」
「わかんね。多分、視点を変えるって感じじゃね」
「本当は大丈夫じゃなくても?」
「本当はゴリ押せって意味かも」
「それもお医者さんが?」
「いや、リュウジが」
 瞬間、岩野田がフッと笑ったので、
「やっと笑った。よかった」
 また速攻、次は右に触れるだけ。
 それから少し見合って、目はクチ程にモノを語る正面。
 かしげる首の向き。お互いゆっくりそっと。

「じゃ。オレが出たら、ちゃんと鍵かけろよ」

 じゃ。今夜の件は、ワタクシ一切関与してませんから。
 関与はしていませんから。




「最初はホッペ、ダブル……とは可愛かったですね」
 朝のミーティングである。課長よりお褒めをいただくワタクシである。
「三回目でやっと小鳥の様な、という展開も秀逸でした」
 課の皆様に拍手をいただき恐縮である。
「昨今の初恋関連の加速は著しく、因縁関連もまま入りますが、我々は今後も情緒を大切に、美しい展開にこだわりたいと思います。では今週も宜しくお願いします」

 終了届や引き継ぎ業務が嵐の如く行き交い、新案件が容赦無く降り積もる黄金週間明けである。ワタクシの未処理箱も早々に満員盛況であった。

「三課案件、マジで重苦しくなってきましたね」
「うん、流石リンキーさんだね。カワイさんも五月病にならないでね」
「課長こそどうぞ御身大切に」
「アハハ、洒落にならないや」
 お互い乾いた笑いを交わし、其々の業務に戻る。

(さて、季節の峠は終わったわ)
 黄金週間は春にスタートした十代カップルの第一関門と言われ、ワタクシの手元にも残念な終了届がうず高く積まれている。
(でも続いてるコ達がいると嬉しいわ)

 有り難い事に河合と岩野田はお付き合い歴一ヶ月が過ぎていた。僅かな期間でも、無事に持ち堪えた事実を感謝したいワタクシである。


 差し当たっての山は早苗叔母か。彼女の甥っ子レーダーは更に精密に稼働しつつあった。

 あの夜。公園前図書館の閉館時間は七時、河合の帰宅は七時半だったのだが、
(スケジュール的には正しい。でも空白時間がある)
 あらゆる展開を見通すカンの良さである。

 尚、河合がお昼過ぎに自習室を退出していた件は、館内で終日活動中だった早苗叔母のボランティア友達からの情報である。
『でもその後は外で小学生とバスケしてたわよ。早苗ちゃん、心配し過ぎなんじゃない?』
(大事な大事な甥っ子ですもの。心配し過ぎなんて事ないわ)
 親身な忠告も一笑に付しサラリとお礼返信。

 西の街に住まう義理の姉にも良き報告をしたいと日々願う、叔母馬鹿の鏡とするべきか。
(だってマサキの顔付きが違ってきてるんですもの)
 男子を複数育て上げた育児経験が見逃すモノは何も無い。
(お相手は岩野田みかこちゃんなんですってね)
 ちょ、鬼女ネットワーク仕事早過ぎ!
(誰に聞いても真面目で良いお嬢さんだそうだけど、今のコってぱっと見で判断出来かねるのよねえ)
 ご時世とマイ経験から男女間に於ける空気感も着実に判断。ガクガクブルブル。


 一方、帰宅後の河合は知恵熱を出していた。致し方ないお疲れであった。

 早々にお風呂をいただき、早々に就寝体制。だがお布団は抱き枕状態でゴロンゴロン、ココロの中では(やばい)を百万回唱えている。やばい内容は言葉に出来ない悶絶風味。お年頃であろう。

 岩野田に至っては、大変良い変化を伴った。

 あの後は玄関先で暫し呆然と佇んだ。無事を案ずる父のメールに慌てて反応、しつつも何度も頰や口元を抑えるオトメ。
 ベランダの洗濯物を取り込みながらも気付けばボンヤリ。落ち着かず全力で家中の拭き掃除。勢いで冷蔵庫のシチューをドリアにアレンジ。父に夕食写真を送り喜ばせ、しかし自分は胸一杯。お腹は空けどもお食事は入らない、恋の嵐のど真ん中である。

(お、お風呂先に入ろ……)
 だが湯船内でも急にアレコレ思い出し(ひゃー)とバシャバシャ悶絶。余分な熱でのぼせる始末。

 苦あれば楽あり。落ち込んだ分のリカバリーが出来たと思います。


 ワタクシも二人の煌めきに関われ本望だが、目の前の業務も片さねば。
「カワイさあん。江口の報告書書いたから見といてえ」
 リンキーからも書類を受け取る。
 目を通している最中もやたらとワタクシを凝視するので「何ですか」と聞くと、珍しく小声で
「カワイさんこの間大丈夫だった? 河合は手間だっただろ」
 思わず顔を上げる。
「たまたま用事で近くにいた。スガワラが派手に遠隔作業してたから」
 腑に落ちる情報であった。

 先日の件は全てが成り行きだった。河合の勢いが強過ぎ、途中からはブレーキ業務に変更せざるを得なかったのだ。

 敢えて口もとは外した。河合は大人びてはいるが、実際は何があっても驚かない中学男児だ。ただ、三回目は難しかった。なんとか可愛いカテゴリーに収めたけれど。

 ワタクシが担当である以上、彼等にはこれ以上の進展はさせない。が、河合の気運は思った以上に強い。岩野田の義務教育担当の憂いも思い出す。二つの年の差と「可愛い初恋」故に成り立つ現時点。慎重にならねばならぬ。


 河合の加速は他でも顕著であった。休み明けの校内課題テストにおいて、学年先頭集団に躍り出たのだ。

「部活忙しいのにスゲえな」
 級友達にも騒がれたが、
「たまたまだって。オレも驚いてんだ」
 例の図書館自習室で課題をひと通り触れただけである。ただ河合の賢さは以前から評判だったので、周囲もあっさりと納得した。

 スガワラが本気を出してバックアップに入っている。だがワタクシは岩野田の存在も大いに関係していると信じたい。

『この間はありがとう。河合君も入院で大変だった話、大丈夫じゃなかったら自分で大丈夫にする話、聞けてよかった。元気が貰えたよ。いよいよシーズンだね。河合君も怪我に気をつけてね』

 河合は岩野田からのメッセージを、何度も何度も眺めている。