夢じゃないよね。岩野田は何度も自分に問うた。
『いま氷川商に行けば、俺ら会えると思う?』
 正門前。バス停。木陰に立つ河合の姿。メッセージが示すは年下彼氏のお迎えである。

(あはは、ここに居るの、結構ハズいな)
 河合の目元が緩んでいるのが判る。自分よりまだ少し背の低い、白い大きめパーカーを着た中学男子。
「うわ、怖。オレめっちゃ睨まれてる」
「違うよ、睨んでないよ」
 眩しいだけだよ。鼻の奥がちょっと痛くて、岩野田は笑うのが遅れた。 

 放課後。日陰の雪もやっと溶けてグッと広くなった歩道。少しずつ薄い翠が広がりつつある街路樹。雪靴ではない足の音。冷たさが緩みつつある風。さあ困った。二人とも頬が熱い熱い。

「やばい。やっぱ高校って気後れする。まだ別世界だ」
 場慣れしていそうなのに「まだ別」だって。歩きながら聞く彼の言葉は一言ひとことが新鮮で。

「でも判るかも。私も上級生がオトナに見えて少し怖いよ」
 語る彼女の制服のレトロなボウタイは漆黒のボブによく映えて。お姉さん風味に寂しくなって、変化が怖い気持ちになって。

「ええと、ちょっとどこか寄ろうか」
「どこかって何処?」
「何処って、どこか」
「何処だろう」

 お互いが可笑しくて笑う。笑いながら必死で考える。放課後に過ごせる場所なんて、せいぜいが駅ビルのファーストフード、余裕があればお洒落カフェ。

 お財布の中身と相談して、結局ドーナツ屋さんに直行する事になる。
「みんな行く所って大体一緒だな」
 大澤と佐藤のお二人と、鉢合わせる事になる。


 思いがけずの合流。四人揃ったのは春休みの動物園以来。
 だが先着の隣同志に並んで座る彼等を見て河合は緊張した。彼等の机の下の恋人繋ぎ。今までなら客観的に対処するだけだったのに。

「その座り方はお互いの顔が見えなくね」
「うっせ」
「片手しか使えなくて食べにくそう」
「黙れ」
 茶化して自分を誤魔化した。ラブラブ友人達との鉢合わせは初恋チームには大難関。動物園に出掛けた時の圧倒的な傍観者、からの本日は同じ土俵の上。
 否、向こうから見たらこちらがマナ板の鯉。
 大澤の余裕のニヤニヤは河合には重責であろう。ああ楽しい。
「みかこちゃんこんにちは」
「わーミヤコさん! 会えて嬉しいです!」
 岩野田も佐藤の圧倒的な女子力を垣間見る事が出来て、決して無駄では無いでしょう。ああ麗しい。

 さあオーダーです。懐事情もわきまえてコーラとメロンソーダなぞ。
「岩野田さんはソーダ好きなの?」
「私の家、外でしかジュースは飲まないの」
 へえ。岩野田さんちって厳しいのかな。
「河合君はコーラ好きなの?」
「普段は飲まないけど、最近花粉で喉がムズ痒いから」
 そうだ、河合君は喘息があるんだった。
「なんだ。こっち来ねえのか」
「お邪魔はしねえよ」
 気遣いあって大澤達と微妙に離れた席を選ぶ二人。パーソナルスペースは大切です。

「よしっ、スケジュールぴったり、バリアも完璧。こんな風にいつも四人で集えばいいのよ!」
「河合達も何処からも邪魔されず、大澤達も二人の世界にならずコウノトリさんも来ない、と」
「先輩方あざーす!」

 片隅で親指を立てあうはスガワラ帰りのワタクシ達である。他社からは横道案件でも、弊社的にはまるで逆。大澤達にとって、河合と岩野田は最も重要かつ必要なのだ。

「さあ四人ともガンガン仲良くして頂戴!」
「その初々しさがまさに青春なんだからね!」
「先輩方マジであざーす!」

 大澤達も河合達も、ワタクシ達も勿論幸せ。三方丸く一本締めであった。

 諸問題も無くはないが、本日はこれで良しとしたいワタクシである。
 あれに見えるは放課後、性懲りもなく一年B組に現れた江口なのだが、

「大家さあん茨木さあん。岩野田さんってもう帰ったの?」
「速攻だったよ。デートじゃね?」
「マジか」
「多分デートだと思うよ」
「マジでか」

 動物的カンで三階廊下窓から昇降口を見下ろす江口。
 岩野田の後ろ姿を発見し、瞬間移動で正門前に鎮座する江口。
 更にその場で真実を知る羽目になった江口。

「おあ? アレって氷川中の河合じゃね? うおー岩野田さーんマジか!」
 一日にして失恋した江口。
「でもお似合いだな。河合はめっちゃいいヤツだぞ。岩野田さんにピッタリだ。うん、変な男じゃなくてよかった!」
 瞬時にキモチを切り替える江口。
「よっしゃ、応援しちゃろ!」
 人生初のモブキャラを決意する江口。

 以上、ワタクシが「本日はもうこれでいいんじゃないかな」と思った所以である。
 終日江口に憑いていたリンキーからの報告も「とにかく慌ただしいコだった」と、一行簡潔であった。




 砂糖菓子のようなひと時であった。非日常を彩る炭酸飲料。見落したくない動作。何気ない話。合間に眺める友人達の動画。お互いの好きな曲を聞くイヤホン。あっという間の帰宅時間。

 同じ学区在住、下校中かと錯覚しそうな街並み。別れがたい角のコンビニ。それでもお互い「じゃあね」と手を振る。それぞれ歩む姿を誰にも見られぬ様、ワタクシも粛々ヒト払いする夕暮れ。

(河合君って、放課後はあんな風に動くんだ。あんな風に話すんだ)

 帰宅後は常春モードの岩野田である。付き合う前に眺めていた「バスケ部の河合君」との圧倒的な印象の差。思っていたより怖く無くて、思っていたよりずっと普通。安心したね。自分で敷居を高くしてはいけませんよ。

 一方の河合も果てしなくボンヤリ。待望のおデートに気付けばニコニコ。春爛漫。岩野田の高校生風味に(やっぱオレの方がコドモだ)などと、考えすぎる一人相撲。

 そういえば今日の岩野田さんは前より細くて色白だった。オノレの脳内印象も上書きせねばならぬ。河合は記憶を巻き戻す。


 河合が初めて岩野田に会ったのは、入学間もない美化委員会である。ひとめ岩野田を見た途端、河合に電撃が走ったという。

(めっちゃ綺麗な先輩がいる!)

 当時中三の岩野田は美化副委員長で花壇担当、委員会活動時は学校指定のジャージである。おかっぱ頭で色素が薄め、本人曰く「ボンヤリ地味顔」のルックスは、しかし河合の好みど真ん中であった。

 その女の子は常に黙々と委員会を牽引。要領の得ない下級生に手本を示し、嫌な作業を率先し、困っている委員もカバーする。河合が落ちたのも無理はない。

 そして本日に至る河合君である。さあ、当時と比較して、先程の岩野田の揺れる髪の先まで詳細に反芻しよう!

(はあ、今日も可愛かった……)
 そうだね。キミの好みど真ん中だね。どんな風に可愛かった?
(すっげ、女の子だった)
 うん、さっきまでキミの目の前に居たよ。だからどんなだった?
(マジめっちゃ可愛かった!)
 うん可愛かったね、河合君だから語彙力。

 だが仕方あるまい。休日の見当がつかない体育会系の宿命である。
(今日、勇気出して出向いてよかった)
 これからに繋がりますように。河合は乾燥機の熱さの残る洗濯物をモソモソ畳む。

 それを横目で観察する伯母の村松早苗。村松家のリビングはお台所と同空間。
(あら、またマサキが上の空だわ)
 その早苗叔母の観察眼に気付く大澤。
(怖っ。めっちゃ怖っ。おいっマサキっ)
 だが河合の恋の病は進行まっただ中。大澤の目配せも水の泡である。
(まあ、リュウジ君がマサキに何か合図してるわ)
 思春期事情を瞬時に読み解く早苗叔母。
 もう今日はこれでは良かったよネ、と思ってしまったワタクシを許してほしい。



 何しろワタクシは今宵もサービス残業なので許してほしい。莫大なジェネリック案件に呑まれるマイメールボックスを助けてほしい。
 昨今のネットによる初恋業界の多忙化は先に記した通りだが、現在は更に因縁案件も急増しているのだ。尚、こちらの原因も先に記した通りである。

「あら、じゃあ私が悪いっていうんですかあ」
「リンキーさんそうは言ってません」
「言ってるじゃないですかあ」
 よく判っていらっしゃる。とはクチが割けても言えぬストレス。

 原因の、じゃなかった、因縁の長であるリンキーは、噂通りの凄腕であった。
 手にしたコマイ仕事を瞬時に片づけ、本来手を掛けるべき案件にはもれなく丁寧に因縁を縫った。

 例えば普通に『今世は初恋一カ月コース』カップルに『源平時代の過去世』が絡み『可愛いフリしてバッドエンド』に変更になったとか。逆に戦国時代の前世で騙し合い憎しみ合った関係を、今世は『可愛い初恋』で一気に浄化させろとか。

「あの。初恋案件は見守りが基本なのですが」
「でもそれじゃ因縁解消出来ないからね。源平の仕掛け、お願いねっ」
「因縁解消は『ちょっと振り向いてみただけ』程度を一世挟んだ方が後の反動も小さいと思うんですが」
「でも今世の課題になったからね。臨機応変でまとめてねっ」

 だが妖精さんの身体はひとつ。いざとなれば禁じ手の夢オチも辞さない覚悟でいなければ。



 更にリンキー事情は課枠を越えた。今宵同時に震えるは河合と大澤の端末である。

『氷川中だった岩野田みかこちゃん、めっさ可愛いな。河合の彼女なんだってな。オレは応援するぜー!』

「誰さ」
「エロ先輩さ」
 江口シュウトからのメールであった。
「うわあメンドくせえ。俺は既読しねえぞ」
 名前を見た瞬間大澤が吐き捨て、返信は河合のお仕事となった。

『オレ、今年から氷川商バスケ部。またよろしくな!』

 続く短文で河合の顔が曇ったのはいうまでもない。
「ええと、『ありがとうございます。先輩も高校生活ガンバってください』……と」
「辞めとけ。絡むとロクなこと無いぞ。既読ムシでいいべさ」
「そうは言っても一応先輩だしこれからも関わるだろ。江口さん、氷川商バスケ部なんだぞ」

 そうだよ氷川商なんだろ。オノレに言い聞かせた瞬間、メールの内容が河合を攻める。

『岩野田みかこちゃん、めっさ可愛いな』

 花冷えのする夜半。胸の奥にドンと詰まる何かは何だ。
「取り敢えず当たり障りなく絡むぞ。リュウジは大人しくしてろよ」
「マサキこそ困惑駄々漏れじゃんよ」
「今一番ダメージを受けてるのはオレってわかってる?」

 ポチる河合のオーラの尖りが痛い大澤は、小さな声で「なんかゴメン」と言った。



 河合と大澤、それから江口が初めて顔を合わせたのは、氷川中特待選考会も兼ねた教育プログラム、全道ジュニア選抜合宿である。

 初召集を受けた当時小六の二人。元々逸材と噂の大澤、聡明で俊敏な河合は初日から光り輝き、タチの悪い面倒事にもサクサク対処。早々に格の違いを見せていた。

「オマエら面白れえな。こっちにこいよ」
 二人の所作にいち早く感心し明るく迎え入れたのが、当時中イチ、招集二度目の江口である。
「おっ。そっちのフィジカルもトップか。オレと長さ比べるべ」
 何を比べあったかはさて置き、ヤロウ共が和み団結するキッカケになった。

 合宿後、二人は前評判通り氷川中特待生に、江口は地域強化選手の結果を受けた。彼等の競技生活の分岐点でもある。

 関係が継続していれば江口も良い先輩で済んだのだが、彼は根っからのお調子者であった。

 昨年夏、氷川中バスケ部全国大会準優勝の祝賀会にお呼ばれした江口は、ナチュラルに佐藤ミヤコに接近したのである。江口のエロ君たる所以である。その後はお察しいただきたいが、なかなかの修羅場となった。河合の「大澤マスター」たる所以でもある。

 以降、江口と聞くと微妙になる二人。河合は胸の奥にある壁を取りたい。咳ばらい。
「マサキ、喘息ヤバそうなら教えろよ」
「うん。吸入しとく」
 北の大地のアレルギーの元凶・リンゴと白樺の花粉飛散は本格的になり、各農場でも農薬散布が始まっている。季節の変わり目も相まって、体調管理は手間である。
(余計な思考は捨てよう。気にするだけ無駄だ)

 河合は淡々と前を向く。