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はい、こちらはハルヤマ動物園です。名物のトビのフリーフライトは本日も皆を魅了しています。私の隣には河合君がいます。私に何が起きたのでしょう?
全国選抜大会を終えた河合君から地下鉄の駅に呼び出されたのは、春休み後半の朝だった。
リストバンドをお返しするのに駅? と訝りつつ出向いたら、そこには河合君と、何故か大澤君の姿も。動揺していたらあの美少女の彼女さんまで合流し、更にパニクる私。
「動物園の入場券が四枚あるから」
河合君は笑顔でそう言うと、私にこっそり耳打ちする。
「それに岩野田さん、大澤を観察するの好きでしょう」
イタズラ大好き!って顔をする。
でも待って待って。これってダブルナントカみたいじゃない?
「なんで私が大澤君を観察してたの知ってるの?」
「そんなこと」
河合君はお目目をキラッとさせた。
「見てればわかるよ」
そう言って笑った。
日々の生活に恥じる事はないけれど……オノレの嗜好を見透かされて顔が赤くなった。なんで見ていたのかな……。
でもでもとっても楽しかった。動物園も勿論だけど、大澤君の観察はサイッコーに楽しかった!
だってアリーナ席でずっと大澤君カップルを見られるなんて。しかも河合君の解説付だなんて。もう可笑しくて楽しくて、ずっと河合君の隣で笑ってた。
大澤君は典型的なツンデレさんだった。学校ではドーベルマンとオオカミの掛け合わせみたいな風貌なのに、彼女さんの前では躾の足りないラブラドールみたいに可愛いワンコちゃんなんだ。
彼女さんが大澤君の地元の友達のお姉さんで、四つも年上だとか。デートが月に一回出来るか出来ないかで、出かける前はいつも「今日こそオレは棄てられるんじゃないか」とビクビクして萎縮三昧だとか。
「アイツ、この件に関しては恐ろしくヘタレだよ」
河合君は心底可笑しそうに笑って言う。
「でもこんな話、岩野田さんにしか言わないから。内緒ね」
ハイ、了解。
でも今日私がずっと、河合君の隣にくっついて歩いている事も、みんなには内緒。肩が触れ合ったのも内緒。
彼女さんの名はミヤコさんといった。
「私達の名前、似てるね」
私はみかこ。名前だけはそっくりだ。
「私もミヤコさんみたく可愛くなりたいな」
思わず言ったら、
「あれ? 河合君は氷川中で一番可愛いのはみかこちゃんだって言ってたけど」
極上の笑顔で返された。
内面まで完璧な美少女ぶりに思わず赤面。大澤君も溶けるよね……じゃなくて。
ええと、ミヤコさん、今、なんて?
動物園の奥には爬虫類館がある。散々歩き疲れたけれど、コモドオオトカゲを見たい男子チームに、私達はこわごわついていく。
落とした照明とムワッとした亜熱帯の空気がちょっと不気味っぽくて異空間で怖い。しかもさっきから大澤君達が甘すぎなので、私達は距離をとる。
「イチャイチャはもうご勘弁。チューなんか見たくなくね?」
河合君の読みはかなり正しい。
「実は私、さっきもその角で」と告発したら、「それは災難」と、察しよく気の毒がられた。
展示室の中央には白い大きなヘビさんがいた。目と舌がルビー色で、元気にニョロニョロ動く。
「あ、この子は怖くない」
「ホントだ。なんか可愛い」
大澤君達はまた行方不明だけど、もう気にしない。
「ここにいるとハリーポッターだね」
「でもガラスがなくなったら困るよ」
「魔法使いにはなりたいけどね」
「あ、魔法で思い出した」
忘れるところだった。ジンクスのリストバンドを鞄から出した。
「どうもありがとう。助かりました」
返そうとしても受け取らないんだ。なんで?
「河合君?」
そうしたら、ひどく早口で言うんだ。
「よかったら持ってて」
そうして慌ててヘビさんを見るフリをする。
「オレ、次は四番もらうから」
四番。河合君の、次期キャプテン候補の噂を思い出した。
横顔を見た。綺麗なオデコで賢そうで。それから、頰が赤くなっている。
でも多分、私も真っ赤だ。
だって氷川のリストバンドにはもうひとつお話がある。
昨年度のをもらう事は、カノジョの証なんだ。
「私、もう高校だよ」
「大澤達のコト見てきてるから、出来ると思う」
河合君が、私にリストバンドをはめながら言う。
それからちょっと考えて、付け加えるんだ。
「続くよ。きっと」
だからドキドキで聞いてみる。
「去年、夏休みの当番、来てた?」
「うん、一回だけ」
小柄な男の子が「大丈夫ですか」と聞いてくれたのを思い出した。
白いヘビさんがよかったね、と言った。ヘビ語、わかんないけどね。
❇︎
❇︎❇︎❇︎
恋は突然である。お子様から御年輩の皆様まで、誰もが落ちる謎の魔法である。
我を忘れ冷静さを蹴散らし、時として未来をも揺らす。殆どが露の如く消え、心に燃え滓が残る事もある。
取り敢えず、ヒトの恋路は笑ってはならぬ。
「一緒に歩くの、なんだか申し訳なくなるよ」
「なんで。なんか嫌だった?」
「ち、違うよ、だって……釣り合ってないんだもの。私、地味だし」
「そんな事ないよ、全然地味じゃないよ。岩野田さんは、せ、清楚っていうんだよ!」
右は交際開始直後の十代初恋カップルの会話だが、くれぐれも笑ってはならぬ。「こっぱずかしい」「馬鹿みたい」などと、茶化す事もならぬ。
素直に「羨ましい。自分もこんな時間が欲しい」とオノレの心に正直になるが良い。もしくは「自分も若い時分に経験したかった」と悶絶し、のた打ち回り渇望するのが、真っ当で大変好ましい。
いにしえより伝わるは、真っ赤な林檎とネイビーブルーのティシャツの逸話であろう。いつの世の女子にも、可愛らしさを貫くは年下の男子であろう。
セオリー通りの生徒が今、氷川商業高校入学式の会場にいる。岩野田みかこという名の、アーモンド型の奥二重が印象的な、スラリとした和風女子である。
(河井君の始業式は昨日だったよね)
集中力が途切れて少し下を向くと、顎より少し伸びた漆黒のボブが緩く揺れた。
(今は授業中かな)
彼女が思いを巡らすのは案の定、年下の彼氏の事である。北国の春は遅く、日陰にはまだ根雪の名残が残っている。
「お、何だよ」
所変わり同市内、市立氷川中学の二年三組教室。親友の大澤リュウジの背中をシャーペンで突いているのが、件の河合マサキである。がっつり眼力とキュートなおデコを持つ、利発なちびっこ男子である。
「ちょっとズレて座れや。お前の背中で前が見えねえ」
「おう悪かったな。変わるべ。センセー席替えしていーですかー」
ガタガタと移動する二人の身長差は三十センチはあろうか。
「小さいと難儀だべ」
「テメエ様がデカ過ぎるんだべ」
こう見えてどちらも全国中学バスケのエース格、学校の看板選手。しかし中身はまだまだコドモ。机上には真新しい教科書とノート。どれもピカピカ初々しく、角は尖って痛いのであった。
市立氷川中学は全国に名をはす教育指定校である。教育熱心な御家庭が校区を目指して転居する、不動産価値もうなぎ上りの御立派な中学校である。
その第二学年に河井マサキは在学中だ。岩野田みかこの在籍は昨年度まで。
そしてワタクシの手元には今、薄い茶封筒がある。中には捺印の並んだ書面が一枚、ヒラリと入っている。
営業部三課〇〇年度3 51831603号
先手:市立氷川中等学校 二年三組 河井 マサキ
後手:道立氷川商業高等学校 情報処理科 一年B組 岩野田みかこ
発動開始日 〇年三月吉日 ハルヤマ動物園 爬虫類館 白ヘビ前
初恋案件の指示書である。尚、当日はワタクシも現場に立ち会っていた。
白ヘビ舎の前での告白は正直ナニでソレであったが、昨今は予算カットも甚だしく、前任者はネットでの春休み無料配信映画を布石とした。某英国魔法使い作品である。
「色々ギリギリで無理ヤリ感は承知だったのですが」
「ご英断です。この時期の動物園は混雑も有りませんし、邪魔も入らず何よりでした」
「しかも白ヘビさんは恋愛運じゃなくて金運でしたね」
「このご時世です。銭が無くては色恋も進みませんし、昨今の不景気にはピッタリですよ」
笑顔で引き継ぎをした早春の午後であった。気温は低いが快晴で、動物園名物のトビのフリーフライトは、二人の門出を祝うように舞った。
我等は恋の妖精さんである。ヒトの繋がりに纏う様々な流れを管理運営、日々の成長を促し見守るのが、我が成就株式会社の業務である。
尚、ワタクシは北支店営業三課、初恋部門の中堅である。ルックスは蕾のままミイラになったアラサー女子。可愛い恋の担当なので、通称名はカワイという。
響きが奇しくも河井と似ている。素敵な御縁となりますよう、心より祈念致す次第であります。
道立氷川商業高校は創立百年越えの地域の伝統校である。文武両道、質実剛健。大学推薦枠は進学校にも引けを取らず、入学偏差値はうなぎ登りである。
校内ローカルルールもある。例えば校内カップルは制服の水色ネクタイとボウタイを交換するとか、学年ミス・ミスターの称号が『シード』とか。
「岩野田、キミ、シード八強入りだそうだよ」
「わースゴい! 良かったじゃん!」
「やめてやめて! 何かの間違いだよ」
なんと岩野田がシード入りだそうな。囲むクラスメイトは姉御肌な大家ミサオとほんわか女子の茨木ハルカ。尚、この賛辞と交際運は弊社開発課案件である。
「そんな全力で否定しなくともいいのに」
「うん、まじでイケてるよ。透明感のある和風美人」
「あのでも私、本当に違うから……」
友人達は岩野田のモブ属性に気付くと、早急に態度を改めた。
「わかった。言われるのが嫌ならもう言わないよ。事実は見ればわかるからね」
「でもその可愛さなら当然彼氏も絶対居るよね。画像も有るよね。はい、見せて」
岩野田は再び崩れ落ちるのであった。
岩野田の保存データはワタクシの初恋采配による動物園でのツーショット、大澤カップルとのダブルデート集合写真である。どちらも自然光の素直な画像、恋の小道具の王道であろう。
お披露目を迫られる状況を見張っていると、今度は後ろからワタクシを呼ぶ声が。
「恐れ入ります、今お取込み中でしょうか」
梅の花の社員章を付けた同世代リーマン風妖精さんである。
「一度ご挨拶させていただけたらと思っておりましたので」
岩野田の義務教育を長年担当していたスガワラコーポレーション社員さんであった。
スガワラコーポレーションは学業を司る老舗会社である。キャッキャうふふな教室の隅で、ワタクシ達はヒソヒソ話し込む。
「今年度入学試験は近年稀に見る高倍率だったそうで。岩野田の補欠合格までの御苦労推察致します。本当にお疲れ様でした」
「御心配をお掛けしました。後半の成績降下がありましたが内申が良かったので」
学力低迷には事情があった。晩秋の大事な時期に身体の弱い母が入院したのである。父も数年前の会社倒産による転職で収入は頭打ち、歴代担当が抱える岩野田家の懸念事項でもあった。
「小学時代には家計を心配して好きなバレエも辞めた健気なコです。お手伝いも頑張りますし、我慢も沢山しています。ですから氷川商の合格は僕、心底嬉しくて。しかも可愛い初恋も始まって、僕は、僕は」
目から出る汗を拭くティッシュは瞬く間に山となる。北国では林檎とシラカバ花粉も飛ぶ時期だ。
「相手が河合と聞き不安感は否めませんが、岩野田の素敵な青春の彩りとなってほしいです」
予想外である。ワタクシの第一印象は非常に良かったのだ。
教育妖精機構では才能と運気溢れる十代に対し、社枠を越えた応援プロジェクトを始めたそうだ。河合と大澤にはスガワラ本社直々の指示が有り、弊社にも現在協働案の打診中とか。
未見のワタクシは頭を下げる。
「申し訳ありません、すぐ社に戻って確認します」
「カワイさん達は今が繁忙期ですから。余計な事を申して大変失礼致しました」
ペコペコと労わりあうのであった。
「何より僕は、有望な河合にこそ岩野田の様な女の子が一番だと確信しております」
お互いに強く頷きあうのであった。
「僕、明日から有給消化でその後も内地で社内研修なんです。今日は彼女の笑顔が見られてホッとしました。こうしてカワイさんともお話出来ましたし」
彼はもう一度岩野田を見た。
「でも、本音はもう少し見守りたかったな」
「どうぞお任せください。ワタクシ、全力を尽くします」
「是非とも宜しくお願いします! 岩野田、素直な良い子なんです。幸せにしてやってください」
再び涙目であった。
「河合に恋を育む余裕があるといいのですが」
岩野田がお披露目したのは素朴なツーショット写真である。
「年下の彼ぴっぴ可愛い! まだ岩野田より背が低いんだね」
「私この子知ってる。氷川中の河合君でしょ」
「あっホントだ、有名選手だ、ナイス彼氏じゃん!」
弟がバスケ部だという茨木の一言から、大家にもあっさり正体がバレる。
「じゃあ岩野田のボウタイは河合君に渡さなくちゃ」
「そういえば氷川中バスケ部の彼女って、リストバンド貰うって話じゃん」
真っ赤に染まる岩野田を友人達が一層イジる。楽しい環境も含めた上で、可愛い初恋に磨きが掛かる。
河合に恋を育む余裕があるといいのですが。
先程聞いた言葉は、ワタクシの胸に妙に引っ掛かったのであった。
妖精産業の歩みは有史よりも古く、今日までの至る所での我々の暗躍は、言わば公然の秘密であろう。
ワタクシの属する成就株式会社北支店は、吸収合併される前は北国一の老舗であった。コロボックル出身の創設者を礎に、長く厳しい風雪に耐えた逞しい歴史を持つ。
営業三課の主な業務は所謂はじめの愛、初恋関係が主流である。一見派手だが要はひたすら見守り、非常に地味な業務なのだ。
今年度初めは特に多忙を極めた。昨年末の早期退職募集で正社員を削減した為である。
「労働力減らして重大ミスが出たら誰が責任取るんでしょうね」
「だよね。みんなそう思うよね。勿論僕も思ってるよ」
書類に埋もれた課長も暗い顔である。
「来週から派遣さんも入るから、それまでなんとか頼むよ」
三課の重要任務には数多の初恋案件に埋もれた一生モノの愛の発見、発掘、研磨といった、所謂サベレージ作業がある。
だが近年のネット環境はジェネリックラヴを肥大させ、我々を過剰勤務に追いやった。初恋終了を知らせる式神は容赦無く机上に着陸、膨大な雑案件は瞬く間に山となる。更に弊社は『紙は神』の教えが根強く、ペーパーレス化も未定である。
書類と格闘するワタクシの肩に馴染みの管狐(クダギツネ)が留まる。営業二課長・ケンジさんの専属狐であった。
「カワイさん、うちのボスが『昼休みに会議室に来てね』だって」
「ありがとう。了解ですって伝えて」
時は金である。急ぎ目前の業務を片づける。
「おうお疲れさん。今年度も宜しくね」
社内きっての家庭愛エキスパート・ケンジさんは海苔弁で昼食中であった。
通年着用の上下ジャージにビーサン風情は世を忍ぶ仮の姿。妖精さんは各々で容姿を誂えるが、このジャージおっさんの捌く仕事量は業界でも有名だ。
「もうお二方いらしてたの。遅れてごめんなさいね」
次に入室するは真面目なラブを扱う営業一課の長身美女、通称『真田さん』。ワタクシが入社以来ずっとお世話になる大先輩。
「真田さん、佐藤はどうだった?」
「取り敢えず今回も大丈夫でした」
ケンジさんは頷き「ありがとう」と真田さんを労った。
彼等の担当は河合の親友の大澤とその彼女・佐藤ミヤコである。真面目アンド家庭愛の妖精さんズが憑く時点でお察しだが、彼等の未来はゴールインである。
「初素敵、まさに恋成就の王道だわ! ワタクシも彼等のスタートに関わりたかったな」
「これから存分に関わってね。二人とも苦労人なの」
聞くと大澤家は離婚による母子家庭、佐藤家は死別による父子家庭、しかも現在は遠距離で試練だらけとか。
河合と大澤の友情は生涯続く。その経緯もあってお声がけいただいた本日。ワタクシで良ければ何なりと、キュートでラヴリーな展開をお約束する次第である。
それにしても大澤カップルは非常に興味深い。
長身の大澤はバスケで将来有望、佐藤も優秀な頭脳とアイドル並の可愛らしさを併せ持つ、超華やか最強十代なのである。
「佐藤の弟と大澤が小学校の親友なんだよね」
親友のお姉さん。
「ちなみに大澤の四つ年上よ。今は地元の進学校の高三」
よっつ上!
なんという全思春期男女の羨望設定。岩野田も氷川中在学時はさぞかしモブを堪能したであろう。
「そんな訳で、河合も刺激は受けてたみたい」
どんな刺激を受けていたのであろう。
「化学反応が楽しみね」
どんなバケ学になるのであろう。
「だのに大澤達、見かけに寄らず可愛いんですよね。微笑ましいというか」
打ち合わせのホワイトボードを消しながら、ワタクシは先日の動物園での感想を漏らした。
「可愛い?」「あの二人が?」
目撃妖精によると、大澤が佐藤に「シタ入れた事まだ怒ってんのか」とボヤくシーンが有ったとか。
「大人びて見えるから進展も早いと危惧していたんですが、舌の挿入で揉めるのならまだ想定内です。ホッとしました」
「ああ、それは」
ケンジさんが渋い顔をした。真田さんもアタマを抱えた。
「カワイさん、それ、シタ違いだから」
「え」
「だから、舌じゃなくて……下だから」
「え、えっ」
ワタクシは赤面した。真田さんの佐藤関連の出張の大半は、彼等の元に出向きたがるコウノトリさんに御引取願う為であるという。
「……最初に二人を見た時にナマ臭さは感じたのですが」
「うん、でも未成年での子持ちは駄目だろ。大澤も体格はもう大人だけどね、理性第一だからね」
ケンジさんはハアと嘆息し
「私の目の黒い内は決してフシダラな真似はさせません。大澤にはギリッギリまで堪えさせてやるわ!」
真面目な真田さんが更に吠え、大層怖かったのであった。
「そ、そっか。どこも何なりとあるんですね」
可愛い案件しか携わらないワタクシには縁の無い世界であった。オボこい河合と岩野田にも無さそうな展開である。
(何よりスガワラさんから聞いてた話、ワタクシには届いてなかったわ)
縁がなさそうな河合は愁い悩んでいた。彼の環境は男女交際に非常に不向きなのだ。
(春休み中にもっと会っとけばよかった)
後悔は決して先には立たないものである。
氷川中では校内での携帯関係の使用は一切禁止である。連絡を取り合えるのはプライベートでの早朝、放課後から就寝時までの僅かな時間だが、
(叔母さん、鋭いしコワイんだよな)
リビングで大澤と本日の学校の課題をこなしながら、河合はキッチンに立つ村松早苗をそっと見た。
廊下奥から洗濯機の音が響く。
「あ、終わった。今週はリュウジが干す係、俺はアイロンな」
「ういっす」
大澤がのっそり立ち上がり、河合は机の脇にアイロン台を出した。
「二人ともお利口ね。そっちが終わったらお夕飯にするわよ」
早苗叔母の声が飛んだ。
彼等は河合の親戚にあたる村松家の下宿生である。河合の故郷は氷川市より西部の海沿いの街、大澤の街は東の山脈の向こう側だからだ。
地方の文武に優秀な生徒のフォローに積極的な氷川中には、各企業・教育・支援団体と提携した特待生制度がある。
そのスポーツ特待に河合が選抜された時、早苗叔母は狂喜乱舞した。筋金入りの叔母バカに加え、先年度末には彼女の末息子が独立したばかり。入れ替わりに彼等を迎えるのに何の抵抗があろう。
(むしろ大歓迎。リュウジ君もいい子だし、二人の成長をこの目でガッツリ見届けてやるわ!)
過干渉が心配であった。
本日のお夕飯は山盛り唐揚げにポテトサラダ、タコの三杯酢、けんちん汁である。わしわしと戴いていたら、まず大澤の端末がフルフル鳴った。
「あ、ミヤコからだ」
「まあミヤコちゃん元気?」
「元気だと思います」
「また会いたいわ。宜しく伝えてね。でもやりとりはお夕飯の後ですよ」
今度は河合の端末がベエベエ鳴いた。
「あ」(岩野田さんだ)
「まあ今度はマサキ? 誰からなの?」(む、いつもと反応が違うわ)
「ちゅ、中学の先輩」(嘘は言ってないぞ)
早苗叔母はしばし河合を見つめ、厳かに「やりとりは後ですよ」と伝えた。
大澤は早苗叔母の感知に気付いた。河合に合図を送るが、熱に浮かされる河合は目前のお夕飯に精一杯。
(昨日くれた制服の画像、めっちゃ似合ってたな)(おい、マサキ)
(クラスにバスケ部の人いるかな)(マサキ)
(そういえば月末の練習会場、氷川商だ。会えないかな)(マーサーキー)
大澤は「氷川の闘将」の二つ名を持つ勝気な体育会系中坊だが、同時に平凡なセンシティブボウズでもある。早々に食事を片付け自室に向かう河合を見て、大澤に一抹の不安がよぎる。
だが恋の病に抗えるモノなど居ない。密かに嘆息した矢先、早苗叔母は大澤に静かに問うた。
「ねえリュウジ君」
「あ、は、はい」
「今日のマサキ、随分落ち着きが無いのねえ」
「え、そ、そうでしたか」
「何だかうわの空だったわ。学校で何かあったのかしら」
大澤は早苗叔母の保護者電波が張り巡らされる気配を察した。普段の河合は冷静沈着、時期主将の呼び声も高いのだが。
(でも仕方ねえよ。岩野田さんに一年片思いして、やっと仲良くなれた所だもん)
恋の先輩の分別である。親友のハッピーは始まったばかりなのだ。
さて当の本人は自室ベッドにゴロン。マイラバーと端末で短文のやり取りである。
『友達とクラフト部に入る事にしたよ。調理も手芸も活動自由だって』
岩野田の本日の報告に、先手河合、家庭みを妄想してニコニコ。
『河合君は今日はどうだった?』
『またヤンチャな新入生がゴネた。でも今日のリュウジはキレなかった』
『何事も無くて良かったね』
『三年の先輩達、速攻で逃げたよ。「オマエが大澤マスターだろ」って』
後手岩野田が可愛い困り顔のウサギのスタンプを貼った。河合も困り顔のわんこスタンプを返す。岩野田が慰め顔のウサギスタンプを。河合は泣き顔のわんこスタンプを。スタンプスタンプ。
(あ、今誘おう)
応酬の振動に揺れながら河合は意を決する。
『今月末の中高選抜練習会、会場が氷川商の体育館だけど、よかったら見に来る?』
思いがけないお誘いである。焦る岩野田に追い討ちを掛けるのは自室ドアのノック音。
「みかこ入るわよ」
母親が湯たんぽを誂えて入室したのだ。端末を伏せる岩野田。
「お母さん動いていいの?」
「さっきお薬飲んだから大丈夫。みかこも冷やさないようにね」
タオル地のカバーを掛けたゴム製湯タンポは安眠の御伴である。
「うん。私、明日も自分で起きるから、お母さんは寝ててよ」
「ありがとう。お母さんも少しずつ動くね」
季節の変わり目。まだまだ冷える北国の春。しかし心はフワフワする。岩野田は湯タンポを抱くと、了解ウサギのスタンプを河合に返した。
氷川商流通ビジネス科に入学した江口シュウトは誰よりも目立っていた。
細筋系の長身に整ったアイドル小顔はひと目で女子を釘付けにし、容姿にそぐわぬ天然性格は周囲を笑わせ和ませた。
今年度の一年男子シードワン君臨も必然だが、その評判とは裏腹に、本人は硬派を気負っている。
(バスケ部で必ず活躍するぞ!)
彼は小学時代、長姉の本棚にあった某漫画に感動して競技を始めたクチである。シュウトという命名はサッカー好きの両親の想い故だが、いずれにせよシュートを決めるのに変わりはない。
上背のある彼は、地域のミニバス少年団で充実した競技生活を満喫した。しかし中学時代は挫折の連続であったという。
この界隈のエリートコースは氷川中の特待生、憧れるは氷川中バスケ部所属である。だが世間はオノレが思うより広く、どんなに望み挑んでも、特待生に選抜される事はなかった。どんなに練習しても対氷川中戦は全戦全敗、まるで歯が立たなかったのである。
その悔しさは彼を氷川商受験に向かわせた。氷川商はインターハイ常連の公立校、しかも余裕の通学圏。足りない内申と学力を全力で底上げし、見事合格した勇姿は賞賛に値する。
(必ず勝ちあがるぞ!)
青い春。江口の目は燃えていた。雑草魂を見せてやろうじゃないか。オトコを上げてやろうじゃないか。
だが廊下で岩野田みかことすれ違った瞬間、もうひとつの野望が芽生えてしまった。
(初恋を成就させてやろうじゃないか!)
あくまでも本人は、硬派のつもりなのである。
誰よりも困惑しているのは当のワタクシであった。
(江口って誰。岩野田が初恋って何。てか、江口の後ろに憑いてるのって……!)
因縁妖精・通称リンキーであった。昨年度の早期退職募集に真っ先に挙手し、全力で引き止められながらも大幅増額の退職金と共にバックれた、弊社の元社員である。
「はあい、お久しぶり」
「どうなさったんですかこんな末端に」
「三課に配属された派遣でえす」
「派遣?」
「今は『フェアリー・スキル・ジャパン』の登録社員でえす」
「聞いてないです」
「嘘。今週からヘルプが入るって課長から聞いてる筈よ」
「リンキーさんがお出ましだなんて一切聞いてないです。てか何故に派遣」
「世は人手、じゃなかった、妖精不足らしいからあ」
「身の振り方なぞリンキーさんなら引く手数多でしょう。現に古巣のウチだって」
「御社の再雇用枠には定年退職のジジイ達が入りまあす。ご時世ねえ」
御社って言うな。
「あっ。まさかどっかの産業スパイじゃ」
「だったらもっと賢く潜入します。アナタもいい加減その短慮な言動を何とかしなさい頭悪い」
クソ姐御は眉間に皴を寄せた。元々怒ると怖い『悋気の長』と呼ばれる妖怪、じゃなかった、妖精さんである。因縁カテゴリーのスペシャリストでありながら、ドピンクパーカーにツインテールの小学女子を模した曲者。本来なら上層部に居る野郎、じゃなかった、お方だが。
「失礼しました。所で何故リンキーさんは江口に憑いておられるのですか」
「知らないけど担当になっちゃったわ。課内で書類整理してたら、丁度コレが届いて」
パーカーのポケットに拉致られた式神は薄い茶封筒を抱えている。式神はガクブル震えている。リンキーの懐はさぞかし怖かったであろう。
営業部三課〇〇年度3 51873003号
先攻 道立氷川商業高校流通ビジネス科 一年F組 江口シュウト
後攻 道立氷川商業高校情報処理科 一年B組 岩野田みかこ
発動場所 道立氷川商業高校三棟校舎三階廊下
「この整理番号。ワタクシ担当。の、片思い案件」
「課長も『リンキーさん是非お願いします』って」
「『お願いします』」
「『カワイさんも大変そうだから』って」
「『大変そうだから』」
「だから来たわ。あはは」
あははじゃねえよ。可愛い初片思いに因縁憑けるって何だよ。だが課長もまさかのリンキー降臨で扱いに困ったのであろう。皺寄せは弱い立場に寄せられ連鎖し疲労する団体の定石に眩暈がする。
「えーと、つまり江口に『可愛い片思い』させる訳ですが」
「うん、そうだよね」
「でも因縁専門のリンキーさんが担当すると、そうならないじゃないですか」
「そうだね」
「やっぱ担当外れませんか」
「嫌だね」
「外れてください。江口も岩野田も可哀想です。何より合理的ではありません」
「そこを情緒で何とかするのがカワイさんの仕事でしょう。スキルアップなさいな」
「勝手にワタクシのハードル上げないでください」
「そういえば真田さんがカワイさんの事探してたわよ」
「話を逸らさないでください」
既に厄介の気配が充満している。彼等の未来にも暗雲が広がるのではないか。
「朝来たら三課にリンキーさんが居るじゃない。社内騒然だったわよ」
空きの会議室で十穀米弁当を食しながら真田さんはボやいた。
「三課、一気に因縁めいたよね。一番爽やかな島に過去世ドッサリでさ」
カツ丼の容器を片付けながらケンジさんも溢した。
「ま、でも、お互い踏ん張ろうか。今解消した方がいい因縁事もママ有るさ」
「そうね。私達に落ち込む暇はないわ。ピンチはチャンス、お昼片したらすぐ行くわよ」
真田さんにも促され、モソモソと焼そばパンと珈琲牛乳をいただくワタクシ。本日午後イチのお仕事はお二人の御伴である。
リンキーの影響は分かり易かった。
「岩野田さんだっけ、友達になろうぜ!」
今朝のホームルーム前の一年B組教室に、輝く笑顔で突進した江口である。
「あ、江口君だ」
「江口だ」
「今年のシードワンだ」
当然周囲も騒然となった。
「岩野田さんを口説いてる」
「岩野田さん可愛いもんね」
クラスの盛り上がりを余所に、しかし岩野田はドン引きである。
(この人誰、何なの?)
女子ならば当然の第一印象であろう。江口も初恋に向けてがっつき過ぎである。
「江口、他の可愛いコも口説いてたよ」
「女子のシードは全部網羅してるでしょ」
「だって江口はエロ君なんだろ」
「同じ中学のヤツも言ってたな。彼女が途切れた事ないって」
ちょっと待て。周囲の情報によるとかなり不穏ではないか。
「そんなにいっぱい居たの?」
「人数は知らんけど。でもいつも可愛いコだった」
「私の友達が元カノだよ。めちゃ美人だった」
ちょっと待て。江口は百戦練磨じゃないか。
「そうなのお。江口の初体験は中イチでえ、相手は中三の先輩でえ、押し倒されたんだってえ」
「リンキーさん、見てないで江口を止めてください!」
「でもコレ因縁だからあ。今出さないといけないからあ」
「初手から全っ然可愛い片思いじゃないじゃないですか。てか、江口って既に初恋終わってるじゃないですかっ!」
「やだ、カワイさん何いってるの?」
一向に動く気のないリンキーはしめやかにワタクシを見下した。
「本人が初めて能動的になった恋よ。今回が初恋に決まっているでしょう」
あくまでも江口にとっては、初恋なのであった。故にアプローチが不器用であるという。
午後から出向いた先はスガワラコーポレーション小会議室であった。
受付の案内嬢はワタクシ達を見るや否や、困った表情を浮かべ、確認の管狐を飛ばしていた。
およそワタクシが訪問数に入っていなかったのであろう。此度はワタクシのプロジェクト未見を知った先輩方が「河合担当者も伺いまーす」とゴリ押しした故の同行なのだ。
「初恋関連っていつでも何処でも足切り対象ですね」
「全く。ヒトは機械じゃないんだけどな」
「愛は勝つって壁に刻んでやろうかしら」
待たされるロビー。侮蔑のニオイに鋭く小声で異を唱えてみたが、当事者は間違いなく耳を塞いでいる違いない。
本日は社枠を越えた『河合・大澤シフト』始動の一環、『氷川中全国制覇』第一回ミーティングである。
集うはスガワラより二人の各技術学力担当者、エネルギー業界の大手マンガン北部支店より十代専門課長と団体競技課長、弊社からは大澤担当のケンジさんと真田さん、プラス河合担当のワタクシである。尚、司会進行はスガワラ本社よりお出ましの社員様であった。
噂通りのテコ入れと言えよう。スガワラ本社の育成した逸材は古今東西数知れず。ワタクシの場違い感、お呼びでない度が激しく理解出来る、ド緊張空間である。
在席は休憩を挟んで二時間強。交わされる質疑応答をひたすら黙って見つめ理解に努め、確認し頷くだけで精一杯。たまに促される発言も承知しましたと呟くのみ。
「初恋なんてさっさと終わる思い出でしょ。緩く頼むよ。くれぐれも私共の邪魔はしないでね」
ワタクシへの要望は至極残念であった。
だがケンジさん達は見事であった。要望殆どがドカドカ即決、ガンガン承認。物事が動く半端ないスムーズさを垣間見られ、非常にお勉強になった次第である。
「当然でしょ。大澤達には大地の未来が託されているのよ。明朗進取、子孫繁栄。誰にも邪魔はさせないわよ!」
帰り道でも真田さんの激はまるで治まらなかった。
「あの方達、常に真を忘れるのよね」
「全く。相変わらずだったね」
普段は飄々としたケンジさんもウンザリ顔なのは、スガワラ本社社員の意識高い系がナニでソレだったからであろう。
「社枠を越えた云々ね。本音は成果の奪い合いなのに」
「鼻で笑えるな。返り討ちにしようか」
いつも以上の雄々しさに、しげしげとお二方を見つめたら、
「そういえばカワイさんは知らないんだっけ」
逆に真田さんに顔を覗き込まれてしまった。
「何をですか?」
「昔、スガワラに手柄を全部持ってかれた話よ。会社が吸収合併される直前、私達の若い時ね」
詳細は省くが、試される大地開拓アレコレの際、多角面での妖精支援計画が何故か経済面に集中させられていたのだそうだ。結果、歴史の流れが酷く変わってしまったとか。
「全国的にも嫌な流れだった。今でも遺憾だ」
「社の管狐と式神も軒並み拐かされて、ほぼ壊滅」
「壊滅?」
「その隙に愛関連がまるっと現実成果関連に持っていかれて大打撃」
「まるっと?」
「そこで独り勝ちして急成長したのが今のスガワラの前身だよ。あの直後からだよね。ウチも含めて愛系列会社の吸収合併が相次いだのも」
直後から国内現世は圧倒的な現実・拝金主義に支配され、愛関連は斜陽産業と相成ったそうだ。
ケンジさん自身もオノレの不首尾を猛省し心機一転、出来る系青年から今のオッサン姿にルックスチェンジしたという。
「見た目も大事だと思い知らされてね。リンキーさんとかそうでしょ。誰もが油断する」
お言葉が響く。
「因みに今日の青二才風本社司会、その当時から居る古狸だから」
「古狸なんですか!」
「太平洋側の海運業務に便乗しながら出世したって。腹黒いわよ」
お言葉は響いたのであった。
「ウチの会社、スガワラとそんな遺恨が……」
「余りにも露骨だったからね。勿論、憶測の域も無くは無いよ」
「それに今は今。蒸し返してたら仕事にならないもの。ただ古株には旧知の事実。アレがあったからこそウチは未だにアナログ仕様。重要案件は直接手渡しなの」
「紙は神」のまさかの出典先であった。
「結局有事には手仕事が強いから」
だからこのご時世でも会社研修にノロシや合言葉講習が付き物なのか。
肩と腕にくい込むトートバッグの重さが沁みるのも、書類が紙故の悲劇。ちっこい端末機器でスマートぶるエリート共が心底憎いのであった。
肩に食い込むスクールバッグの重さが沁みるのも、親友をお守り役なのも、河合の宿命であろうか。
「早く歩けや。時間ねえぞ」
「オマエとは歩幅が違うんだよ」
「ああ、もう、なんで信号待ちなんだよ!」
「誰かさんがミシンが苦手で居残りになったからだろ。提出間に合ってよかったな」
「お手伝いありがとうございましたっ! なして時間の減りが早いんだべさ!」
お国言葉で愚痴りつつ強歩の如く急ぐ大澤。必死で追う河合。なんの訓練かと思わなくもないが、河合も心底嫌な顔ではない。
何故なら本日は休部日。大澤はこれから氷川に来訪中のマイカノ佐藤と貴重なデートである。下宿に戻り速攻で着替え再度外出する大澤と連なる河合を前に、村松早苗がクチを挟む間は無かった。
(あのコ達毎日忙しいからね。少しでも息抜き出来るなら何よりだわ)
そうね。息抜きって大事よね。
「じゃな!」
「お!」
二人は交差点で別れると、大澤は駅前へ、河合は氷川商正門前に向かった。疾風のような二人。
(全然会えないんならさ、会いに行けばいいさ)
そうともさ。河合君だってやるときゃやるのである。
氷川商一年B組教室。岩野田の携帯が短文を受信する。大家や茨木に先に帰ると告げ、急ぎ髪を整え、靴を履く。
薄い色つきリップは校則違反ギリギリだけど、問題無いと思います。
夢じゃないよね。岩野田は何度も自分に問うた。
『いま氷川商に行けば、俺ら会えると思う?』
正門前。バス停。木陰に立つ河合の姿。メッセージが示すは年下彼氏のお迎えである。
(あはは、ここに居るの、結構ハズいな)
河合の目元が緩んでいるのが判る。自分よりまだ少し背の低い、白い大きめパーカーを着た中学男子。
「うわ、怖。オレめっちゃ睨まれてる」
「違うよ、睨んでないよ」
眩しいだけだよ。鼻の奥がちょっと痛くて、岩野田は笑うのが遅れた。
放課後。日陰の雪もやっと溶けてグッと広くなった歩道。少しずつ薄い翠が広がりつつある街路樹。雪靴ではない足の音。冷たさが緩みつつある風。さあ困った。二人とも頬が熱い熱い。
「やばい。やっぱ高校って気後れする。まだ別世界だ」
場慣れしていそうなのに「まだ別」だって。歩きながら聞く彼の言葉は一言ひとことが新鮮で。
「でも判るかも。私も上級生がオトナに見えて少し怖いよ」
語る彼女の制服のレトロなボウタイは漆黒のボブによく映えて。お姉さん風味に寂しくなって、変化が怖い気持ちになって。
「ええと、ちょっとどこか寄ろうか」
「どこかって何処?」
「何処って、どこか」
「何処だろう」
お互いが可笑しくて笑う。笑いながら必死で考える。放課後に過ごせる場所なんて、せいぜいが駅ビルのファーストフード、余裕があればお洒落カフェ。
お財布の中身と相談して、結局ドーナツ屋さんに直行する事になる。
「みんな行く所って大体一緒だな」
大澤と佐藤のお二人と、鉢合わせる事になる。
思いがけずの合流。四人揃ったのは春休みの動物園以来。
だが先着の隣同志に並んで座る彼等を見て河合は緊張した。彼等の机の下の恋人繋ぎ。今までなら客観的に対処するだけだったのに。
「その座り方はお互いの顔が見えなくね」
「うっせ」
「片手しか使えなくて食べにくそう」
「黙れ」
茶化して自分を誤魔化した。ラブラブ友人達との鉢合わせは初恋チームには大難関。動物園に出掛けた時の圧倒的な傍観者、からの本日は同じ土俵の上。
否、向こうから見たらこちらがマナ板の鯉。
大澤の余裕のニヤニヤは河合には重責であろう。ああ楽しい。
「みかこちゃんこんにちは」
「わーミヤコさん! 会えて嬉しいです!」
岩野田も佐藤の圧倒的な女子力を垣間見る事が出来て、決して無駄では無いでしょう。ああ麗しい。
さあオーダーです。懐事情もわきまえてコーラとメロンソーダなぞ。
「岩野田さんはソーダ好きなの?」
「私の家、外でしかジュースは飲まないの」
へえ。岩野田さんちって厳しいのかな。
「河合君はコーラ好きなの?」
「普段は飲まないけど、最近花粉で喉がムズ痒いから」
そうだ、河合君は喘息があるんだった。
「なんだ。こっち来ねえのか」
「お邪魔はしねえよ」
気遣いあって大澤達と微妙に離れた席を選ぶ二人。パーソナルスペースは大切です。
「よしっ、スケジュールぴったり、バリアも完璧。こんな風にいつも四人で集えばいいのよ!」
「河合達も何処からも邪魔されず、大澤達も二人の世界にならずコウノトリさんも来ない、と」
「先輩方あざーす!」
片隅で親指を立てあうはスガワラ帰りのワタクシ達である。他社からは横道案件でも、弊社的にはまるで逆。大澤達にとって、河合と岩野田は最も重要かつ必要なのだ。
「さあ四人ともガンガン仲良くして頂戴!」
「その初々しさがまさに青春なんだからね!」
「先輩方マジであざーす!」
大澤達も河合達も、ワタクシ達も勿論幸せ。三方丸く一本締めであった。
諸問題も無くはないが、本日はこれで良しとしたいワタクシである。
あれに見えるは放課後、性懲りもなく一年B組に現れた江口なのだが、
「大家さあん茨木さあん。岩野田さんってもう帰ったの?」
「速攻だったよ。デートじゃね?」
「マジか」
「多分デートだと思うよ」
「マジでか」
動物的カンで三階廊下窓から昇降口を見下ろす江口。
岩野田の後ろ姿を発見し、瞬間移動で正門前に鎮座する江口。
更にその場で真実を知る羽目になった江口。
「おあ? アレって氷川中の河合じゃね? うおー岩野田さーんマジか!」
一日にして失恋した江口。
「でもお似合いだな。河合はめっちゃいいヤツだぞ。岩野田さんにピッタリだ。うん、変な男じゃなくてよかった!」
瞬時にキモチを切り替える江口。
「よっしゃ、応援しちゃろ!」
人生初のモブキャラを決意する江口。
以上、ワタクシが「本日はもうこれでいいんじゃないかな」と思った所以である。
終日江口に憑いていたリンキーからの報告も「とにかく慌ただしいコだった」と、一行簡潔であった。
砂糖菓子のようなひと時であった。非日常を彩る炭酸飲料。見落したくない動作。何気ない話。合間に眺める友人達の動画。お互いの好きな曲を聞くイヤホン。あっという間の帰宅時間。
同じ学区在住、下校中かと錯覚しそうな街並み。別れがたい角のコンビニ。それでもお互い「じゃあね」と手を振る。それぞれ歩む姿を誰にも見られぬ様、ワタクシも粛々ヒト払いする夕暮れ。
(河合君って、放課後はあんな風に動くんだ。あんな風に話すんだ)
帰宅後は常春モードの岩野田である。付き合う前に眺めていた「バスケ部の河合君」との圧倒的な印象の差。思っていたより怖く無くて、思っていたよりずっと普通。安心したね。自分で敷居を高くしてはいけませんよ。
一方の河合も果てしなくボンヤリ。待望のおデートに気付けばニコニコ。春爛漫。岩野田の高校生風味に(やっぱオレの方がコドモだ)などと、考えすぎる一人相撲。
そういえば今日の岩野田さんは前より細くて色白だった。オノレの脳内印象も上書きせねばならぬ。河合は記憶を巻き戻す。
河合が初めて岩野田に会ったのは、入学間もない美化委員会である。ひとめ岩野田を見た途端、河合に電撃が走ったという。
(めっちゃ綺麗な先輩がいる!)
当時中三の岩野田は美化副委員長で花壇担当、委員会活動時は学校指定のジャージである。おかっぱ頭で色素が薄め、本人曰く「ボンヤリ地味顔」のルックスは、しかし河合の好みど真ん中であった。
その女の子は常に黙々と委員会を牽引。要領の得ない下級生に手本を示し、嫌な作業を率先し、困っている委員もカバーする。河合が落ちたのも無理はない。
そして本日に至る河合君である。さあ、当時と比較して、先程の岩野田の揺れる髪の先まで詳細に反芻しよう!
(はあ、今日も可愛かった……)
そうだね。キミの好みど真ん中だね。どんな風に可愛かった?
(すっげ、女の子だった)
うん、さっきまでキミの目の前に居たよ。だからどんなだった?
(マジめっちゃ可愛かった!)
うん可愛かったね、河合君だから語彙力。
だが仕方あるまい。休日の見当がつかない体育会系の宿命である。
(今日、勇気出して出向いてよかった)
これからに繋がりますように。河合は乾燥機の熱さの残る洗濯物をモソモソ畳む。
それを横目で観察する伯母の村松早苗。村松家のリビングはお台所と同空間。
(あら、またマサキが上の空だわ)
その早苗叔母の観察眼に気付く大澤。
(怖っ。めっちゃ怖っ。おいっマサキっ)
だが河合の恋の病は進行まっただ中。大澤の目配せも水の泡である。
(まあ、リュウジ君がマサキに何か合図してるわ)
思春期事情を瞬時に読み解く早苗叔母。
もう今日はこれでは良かったよネ、と思ってしまったワタクシを許してほしい。
何しろワタクシは今宵もサービス残業なので許してほしい。莫大なジェネリック案件に呑まれるマイメールボックスを助けてほしい。
昨今のネットによる初恋業界の多忙化は先に記した通りだが、現在は更に因縁案件も急増しているのだ。尚、こちらの原因も先に記した通りである。
「あら、じゃあ私が悪いっていうんですかあ」
「リンキーさんそうは言ってません」
「言ってるじゃないですかあ」
よく判っていらっしゃる。とはクチが割けても言えぬストレス。
原因の、じゃなかった、因縁の長であるリンキーは、噂通りの凄腕であった。
手にしたコマイ仕事を瞬時に片づけ、本来手を掛けるべき案件にはもれなく丁寧に因縁を縫った。
例えば普通に『今世は初恋一カ月コース』カップルに『源平時代の過去世』が絡み『可愛いフリしてバッドエンド』に変更になったとか。逆に戦国時代の前世で騙し合い憎しみ合った関係を、今世は『可愛い初恋』で一気に浄化させろとか。
「あの。初恋案件は見守りが基本なのですが」
「でもそれじゃ因縁解消出来ないからね。源平の仕掛け、お願いねっ」
「因縁解消は『ちょっと振り向いてみただけ』程度を一世挟んだ方が後の反動も小さいと思うんですが」
「でも今世の課題になったからね。臨機応変でまとめてねっ」
だが妖精さんの身体はひとつ。いざとなれば禁じ手の夢オチも辞さない覚悟でいなければ。
更にリンキー事情は課枠を越えた。今宵同時に震えるは河合と大澤の端末である。
『氷川中だった岩野田みかこちゃん、めっさ可愛いな。河合の彼女なんだってな。オレは応援するぜー!』
「誰さ」
「エロ先輩さ」
江口シュウトからのメールであった。
「うわあメンドくせえ。俺は既読しねえぞ」
名前を見た瞬間大澤が吐き捨て、返信は河合のお仕事となった。
『オレ、今年から氷川商バスケ部。またよろしくな!』
続く短文で河合の顔が曇ったのはいうまでもない。
「ええと、『ありがとうございます。先輩も高校生活ガンバってください』……と」
「辞めとけ。絡むとロクなこと無いぞ。既読ムシでいいべさ」
「そうは言っても一応先輩だしこれからも関わるだろ。江口さん、氷川商バスケ部なんだぞ」
そうだよ氷川商なんだろ。オノレに言い聞かせた瞬間、メールの内容が河合を攻める。
『岩野田みかこちゃん、めっさ可愛いな』
花冷えのする夜半。胸の奥にドンと詰まる何かは何だ。
「取り敢えず当たり障りなく絡むぞ。リュウジは大人しくしてろよ」
「マサキこそ困惑駄々漏れじゃんよ」
「今一番ダメージを受けてるのはオレってわかってる?」
ポチる河合のオーラの尖りが痛い大澤は、小さな声で「なんかゴメン」と言った。
河合と大澤、それから江口が初めて顔を合わせたのは、氷川中特待選考会も兼ねた教育プログラム、全道ジュニア選抜合宿である。
初召集を受けた当時小六の二人。元々逸材と噂の大澤、聡明で俊敏な河合は初日から光り輝き、タチの悪い面倒事にもサクサク対処。早々に格の違いを見せていた。
「オマエら面白れえな。こっちにこいよ」
二人の所作にいち早く感心し明るく迎え入れたのが、当時中イチ、招集二度目の江口である。
「おっ。そっちのフィジカルもトップか。オレと長さ比べるべ」
何を比べあったかはさて置き、ヤロウ共が和み団結するキッカケになった。
合宿後、二人は前評判通り氷川中特待生に、江口は地域強化選手の結果を受けた。彼等の競技生活の分岐点でもある。
関係が継続していれば江口も良い先輩で済んだのだが、彼は根っからのお調子者であった。
昨年夏、氷川中バスケ部全国大会準優勝の祝賀会にお呼ばれした江口は、ナチュラルに佐藤ミヤコに接近したのである。江口のエロ君たる所以である。その後はお察しいただきたいが、なかなかの修羅場となった。河合の「大澤マスター」たる所以でもある。
以降、江口と聞くと微妙になる二人。河合は胸の奥にある壁を取りたい。咳ばらい。
「マサキ、喘息ヤバそうなら教えろよ」
「うん。吸入しとく」
北の大地のアレルギーの元凶・リンゴと白樺の花粉飛散は本格的になり、各農場でも農薬散布が始まっている。季節の変わり目も相まって、体調管理は手間である。
(余計な思考は捨てよう。気にするだけ無駄だ)
河合は淡々と前を向く。
市内公園の蝦夷桜が咲き揃ったのは月末であった。
土曜日の昼下がり、岩野田が向かうは保健室である。手には小さな保冷バッグ。中身はミネラルウオーターと、ほかほか棒茶入りタンブラー。
本日は第一体育館でバスケ競技者対象の中高合同練習会である。茨木が弟の見学に付き添うのを幸いに、大家と岩野田も見学に潜り込んだのだ。
だが体育館に河合の姿は無かった。
昨日まで天気が崩れていた。もしかしたら。岩野田は友人達に断りを入れ、ひとりで体育館を出る。
授業のはけた午後の静寂した廊下。階段から自分と違うスリッパの音が響いたと思ったら、二段跳びで下りてきたのはバスケ部ジャージの江口である。
「あ、岩野田さん」
江口は察しが良かった。
「河合、いま保険室にいるよ」
岩野田の顔が曇る。嫌な予感は当たるものである。
ワタクシは憤りを感じる。現時点での河合の健康運は良好の筈だ。だのに氷川商に着くなり発作が起こるのが解せない。症状も軽く見学も可能なのに、顧問の指示が退席なのも不自然だ。
体育館内は召集された強化選手をはじめ、地域の部活生や少年団、関係者各位の見学で満員盛況であった。毎年プロの指導者を招く練習会。裏主催はマンガン社だが、今年度はスガワラ本社も名を連ねる。
間違いなく古狸の仕業である。
『もう岩野田にはイケてる河合を見せてやらないよ。河合も岩野田の前で恰好付ける暇などないよ。この意味がわかるよね。わきまえなさいよ』
無言の威圧がワタクシを襲う。しかも他の皆様の手前、下手に動けぬ。だが道理が通らぬ。どうしてくれよう。
岩野田に憑いて保健室に向かう途中、江口に憑くリンキーともすれ違う。
「コレはスガワラの古狸の仕業か」
「お気づきでしたか」
「分かり易くエゲツナイからな。創業者も草葉の陰でお嘆きだぞ」
去り際に「きっちりお返しして差し上げろ」と呟くリンキーの表情はどう見ても派遣社員風情はなかった。「ういっす」と返答するワタクシも品など無かった。
だってえ、北国で内地さんに勝手されると困るんですう。当社には当社の方針が有るんですう。
河合は保険室のベッドに腰掛け、窓の外をボンヤリ眺めていた。
体調管理はよかったのに、今日のツキの無さはなんだろう。新しい情報の習得。自己の上達度の確認。他チームの観察。それから、彼女に自分を見て貰いたかった欲。こぼした運は幾つだろう。
保健室のドアがノックされ、岩野田が入室してきたのを見て、河合はますます自分を情けなく思った。
岩野田は岩野田で躊躇する羽目になる。保健室に突撃したはいいが、憮然と佇むマイラバーを前に足が止まるのも道理であろう。沈黙のスタートであった。
「喘息だった?」
「うん。でももう大丈夫」
ようやく発した言葉も即凍結。
「お水やお茶があるけど、飲んでみる? うちのお母さんも喘息気味なの」
「お母さん、今朝は大丈夫だった?」
「うん、今朝は普通だった」
「そっか。飲み物は今はいいよ。ありがとう」
また会話終了。ああどうしよう。岩野田は途方にくれる。
えっとえっと。思い出そうか。いつもお母さんが具合の悪い時、君はどうしているのかな?
「そ、ういえばツボ押しって興味あるかな。結構効くよ。手のひらの真ん中」
「どこ?」
「手をギュッと握った時の中指と薬指が重なる所、あ、そうじゃなくて」
岩野田は保冷バッグをベッドの脇の机に置くと、河合の目の前に立ち、フォークダンスの如く両手を繋ぐ。
「ここをこうして。ゆっくり押すね、ギューって」
(………!)
互いのお手手の永久磁石。謎のサブいぼが河合を襲う。河合君、呼吸を忘れるの巻。
「私、時々お母さんの手を指圧するの。気持ちいいって感じる強さで押すのが大事なの。力加減どう?」
彼女のお手々は白く温かいではありませんか。河合君、心拍数が暴れるの巻。
「もうちょっと強くても大丈夫かな。痛かったら教えてね」
しかし絶賛絶句中である。河合君。河合くーん。
「あ。耳が赤いね。痛いかな、少し緩めようか」
「いや痛くな、いよ、気持ちい、いよ」
うん、気持ちイイよね。
「良かった。段々身体があったまってくると思うよ。楽になるといいね」
いえいえ、ばくばく恍惚ですよ。どうにもヤバくて落ち着きたくて、気付かれない様に小さく息を整える河合君ですよ。
「あ、あったかくなってきた」
「そう、良かった」
「もう大丈夫だと思う。ありがとう」
「うん」
お礼を言いつつも、手を離された時には違う意味でドギマギしたのも付け足しておきたい。正直ホッとした様な、残念な様な、緊張が取れたような。
岩野田もフーと息を吐いて、手で顔をぱたぱた。
「ツボ押しで疲れた?」
「そうじゃなくて、あの。なんか照れちゃった。夢中で押してたけど段々ハズくなって。河合君の手、すごく柔かいね」
言ったそばからまた岩野田が照れるので、改めて河合も赤面するのであった。
あはははは。スガワラさあん。御社の御蔭で有意義なお時間頂戴致しましたあ。心より感謝申し上げますう。あははははー。
「お、オレさ、手もだけど、筋肉自体が柔らかいんだって」
「筋肉が柔らかい?」
今度は岩野田にはさっぱりわからないお話が始まりました。
「ええと、例えばね」
河合君、ヨイショと腕まくりをしてギュッと拳を握ってみせた。
「見てて。例えばこれが力を入れた状態ね。触ってみてよ」
まだ細いけど、うっすらと筋肉のついた綺麗な腕です。手首も驚く程細い。でも明らかに女の子とは違う形。
(うわあ)
これも直視すると改めてハズくなる岩野田。河合君のふれあい動物園の巻。恐る恐る。
「あ、う、うん、力が入ってるから固いね」
「そうだろ。で、これが力を抜いた状態」
また触れてみます。恐る恐る。
「わあ、フワフワのヤワヤワだ」
「そうなんだよ。俺んち、父親も爺ちゃんも柔らかいんだ」
へえ、そうなんだ。岩野田が関心していると、保健室のドアが乱暴に開きましたとさ。
「ひょーう。オマエら密室でやっらしいなあ」
顧問に頼まれて様子を見に来た大澤君でしたとさ。
「なんだ邪魔すんなや」
「なんだ元気そうだな」
大澤君、遠慮せず河合の隣にどっかり座ります。
「うっわ、このベッドってギシギシじゃん。えっちくさ」
自分基準で語らないでください。二人が困っていますよ。
「もう大丈夫そうだな。よかった」
「練習会どうよ。今からでも見学しようかな」
「顧問が今日は休めだと。叔母さんにも迎えを頼むって言うんだけどさ」
「大げさだな。自分で帰れるべ」
「だよな」
大澤はさっさとベッドから降りると、退室の為にドアに向かった。
「今日は現地解散だからオレと帰るって事にしとこうか。岩野田さん、マサキを送ってやって」
大澤は岩野田に「頼むね」と言うと、河合の腕をチラと見てニヤリ笑う。
「マサキ柔らかいしょ。昔、合宿で先輩に揉まれそうになって迷惑したな」
「余計な事言うなや!」
「お大事にね。関節も筋肉もフワフワのマサキきゅうん」
ちなみに昔の合宿とは小六時代の特待生選抜で、先輩とは当然江口である。エロ君たる所以があちこちに蔓延。
その江口は体育館で圧倒的な刺激を受けている。首都圏からお出ましの指導者の話は非常に有意義で、久しぶりに見た大澤の技術も、江口の闘争心に大いに火をつける。
(大澤の上達からすると、河合もかなり、だよな)
珍しく真面目にダンマリを決めこんでいると、後ろから先輩連中にドツかれコケさせられる羽目に。
「いってえ」
「何カッコつけてんだ芋。ちょっとコイ」
「芋ってなんスか」
「エロ男爵だから今日からオマエは芋だ」
「わはは。オレ進化っスか」
「よかったな。ガチの芋には芋って呼べねえからな」
ゴツゴツと可愛いがられつつ、バスケ部先輩ズに拉致られる江口。
「という訳でオマエ、あちらで見学中の我が校一年女子様をマネージャーに誘ってこい」
「あ、大家さんと茨木さんだ」
「顔見知りか。なら好都合だ。見学会に居るって事はバスケに興味あるコ達だろ。話してこい」
「でも彼女等、確かクラフト部に入るって」
「そこを何とかするのがオマエの仕事。うちだって今年の一年で補充しないと今後が辛いんだよ」
「あれ? 二年マネはお二人いるんじゃ」
「ひとりご家庭の都合で退部するんだ。いいか、必ず入部させろよ。芋は今年の男子シードワンなんだから」
「でもお。大家さん達入るかなあ」
「うっせ。男子には可愛いコ、女子にはイケメンが勧誘の基礎なんだよ。オマエ流通ビジネス科だろ。ちゃんと引っ張ってこい!」
新入生に課せられる営業ノルマである。
営業部三課の重要案件は軒並みうごめく暗雲に苛まれていた。
「うわあ。因縁で真っ黒!」
空気を読まぬ明るい声は、かの派遣社員である。
それ以外の社員達は生ける屍と化し、ワタクシも青色吐息である。
一昨日は下関、昨日は関ヶ原に急な出張。見守りとフォローが主体だった初恋業務は押し並べて因縁関連のイベント投下に業務変更。旅費精算は待てと言われ、営業手当も足が出る今日この頃、懐は壊滅状態なのだ。果たしてワタクシは給料日まで耐え難きを耐えられるであろうか。
本日の内勤ランチは連投四回目の即席焼きそばであった。給湯室で湯がいていたら、ステンレスの洗い場が熱湯で叩かれバコンと鳴った。
「カワイさん、最近いつもソレじゃない。私のサラダでよかったら御一緒に」
真田さんが差し出すランチボックスには季節の温野菜が笑っている。
「心の栄養も必要だよ。ほら」
ケンジさんは高級スーパーのプリンを調達してくださる。先輩方のお心遣いに涙が溢れそう。
「そんなに悔やまないのよ」
「そうだよ。経験は全て学びだよ」
励ましのお言葉にもっと落ち込みそう。代わりに安価なランチの過酸化脂質がオノレのふがいなさに追い打ちをかける。お肌がくすみつつあった。
あの日体調が回復した河合は、顧問の手前、大澤と共に帰途についた。が、校門前のバス停で岩野田と合流した後に大澤が退場、カップル帰宅成立はお察しであろう。
道中は大澤の小学時代の親友かつ佐藤ミヤコの弟、リクの話題で盛り上がる。
「リク君も綺麗なコだね。ミヤコさんとそっくりだね」
「姉弟揃って美形だろ。中学の文化祭、出し物で女装したらミスに選ばれたってさ」
「ミス……わかりみがスゴイ」
「中身はめっちゃ漢で気が強いよ」
共通の友人も増えて楽しいばかり。いつものコンビニでも別れ難くて立ち話。
だがその直後に悲劇が襲った。
去りゆく岩野田の後ろ姿を惜しみながら見つめ帰途に着こうとした途端、河合の肩を叩く人影が。
逢魔が時。そこには悠然と微笑む早苗伯母の姿が。コンビニ駐車場の隅には村松家の愛車が。
(嘘だろ。気づかなかった!)
河合君、硬直。
「アナタを病院に連れて行きたくて、ここで待機してたの」
河合君、硬直ふたたび。
「予約してあるから診察して貰いましょうね」
河合君、硬直みたび。
「さあ早く乗って」
河合君、後部座席に拉致られるの巻。運転席からバックミラー越しに覗かれる早苗叔母の鋭い視線に、君は耐えられるか。
「今日はリュウジ君とは一緒じゃなかったのね」
「リクも参加してたから……駅まで送るって」
「そう。それでマサキは氷川商の先輩に送ってもらってたのね」
尋問タイム来た来た。
「清楚で可愛らしいヒトね。バスケ部関係かしら、伯母さん覚えがなくて」
「ちゅ、中学の委員会でお世話になった先輩」
嘘ではない。部活がハードな河合は、当時岩野田に何度も花壇当番を代わって貰っていた。
「ふうん」
河合は崖っぷちを悟る。早苗叔母の「ふうん」は怖い。
(マサキは昨年は確か前期が美化委員、後期は福祉委員だったわね)
村松早苗の脳内は瞬時に「昨年度氷川中卒業生保護者会会員名簿」を検索する。
(オッケィ。○○さんに聞けば当時の委員会のコトは全部解るわ!)
既婚女性、もとい鬼女能力の発動である。
「ワタクシの不注意でした。保健室での人払い中に出張予定が入るなんて。スケジュール調整を怠りました」
「不注意だけかなあ」
ケンジさんの物言いは穏やかだが鋭かった。
「……スガワラに一杯食わされた部分もあると思います」
ワタクシが浅はかであった。全て仕組まれていたのだ。仲良しタイムでこちらを油断させた隙に、現時点で最も重要かつ危険人物に彼等の関係をバラす。
「早苗叔母だけは慎重と気をつけていたのに。それにしても」
ワタクシは突っ伏した。
「罠にハメるってこうやるんですねースゴイわあースガワラ根性悪ーい」
「カワイさん、それは感心する所じゃないから」
そうだ。感心している暇もない。スガワラの罠はそれだけではなかったからだ。
江口のドナドナ振りも半端なかったのである。大家と茨木をあっという間に陥落、バスケ部マネージャーに就任させたのだ。
尚、背後にスガワラ古狸がニヤニヤ立っていたのは既に確認済みである。ひとり困惑する岩野田。
「二人共もう入部しちゃったんだ」
「だって……余りにも江口が可哀相だったんだもの」
茨木は申し訳なさそうに目をそらし、
「江口の後ろを先輩達が囲んで威嚇してるから、気の毒で」
大家も普段とは随分違う歯切れの悪い物言いをした。
「で、でもマネージャー、今は二年の先輩がひとりだけなんだって。マジで困ってるんだって。一年生は何人でも歓迎らしいよ」
「もし良かったら三人でやろうよ。岩野田もバスケに関われば河合君に会える機会が増えるんじゃない?」
「本当だ、二年後に河合君が氷川商に来てくれたら最高だよね!」
十二分に岩野田を揺さぶったのであった。
(早苗叔母もだけど、岩野田と江口の接触って一番の障害じゃんよ。あの古狸めえ!)
ワタクシの苛々も止まらない。大体家のお手伝いが忙しい岩野田の放課後に余裕は有るのか。反面、大家達との今後の絡みにも気を配らねば。単科高校アルアルだが、氷川商は三年間クラス替えが無い。友情熱量の再計算が必要だ。
「カワイさん、ゴメンねえ、カワイさあん、カワイさあん」
先程からリンキーが後ろでうざいのだが、ワタクシには返事をする気力も無かった。リンキーこそ真の的ではないのか。スガワラからの刺客とか。
疲れているとロクな事を考えない。だが身内に足を引っ張られるのが三課の実情である。誰か助けてください。
このリンキーの首根っこをひっ捕まえた社員は、後にも先にもワタクシだけであろう。
「ずっと言おうと思ってたんだけど」
「何ですか」
「岩野田は将来、二十五歳で江口と世帯を持つ運命なんだよね。在学中は江口の片思いだけど、卒業五年後のバスケ部同窓会で二人は再会、その二年後にゴールイン。更に結婚後の江口は高収入の子煩悩パパ、親戚付き合いもバッチリ、岩野田は超安泰!」
「何故それを最初に言わないんですかっ!」
真田さんが三課に飛んできたのは、ワタクシの管狐が助けを求めたからだという。
「リンキーさんて昔、研修センター所長も務めてたわ。実務でアナタを鍛えてるのかしら」
真田さんに給湯室に引っ張り込まれたワタクシである。息切れのマイ管狐に給水する為である。
「まさか。どう考えてもワタクシで遊んでるんですよ。江口と岩野田が前世で夫婦だなんて、最も大事な情報じゃないですか!」
先に知っていればもっと上手く出来たのに。スガハラの陰謀にも冷静に、隙間も狙って行けたのに。
「まあまあ落ち着いて。お茶淹れるわ。羽二重餅もあるわよ」
一課に配られたオヤツを頂戴するのであった。
「ワタクシ最初に河合達を見た際、とても良い印象を持ったんです。これからの積み重ねの穏やかな気配というか」
真田さんの優しさに、ついダラダラと吐露してしまう。
「大澤達との繋がりやスガワラの妨害は、逆に岩野田の重要性を示唆していないかって。でも前世の江口には岩野田に借りがあって今世は尽くすサダメとなると、河合との成就はない訳ですよね。読み違えたのかしら」
「まだ判らなくて当然よ。運命は日々変わるもの。何より妖精の『閻魔帳』の一般閲覧が制限されたのも最近だし」
『閻魔帳』とはいわずと知れたヒトの生前の行いを記した書物である。生者に関してもコツさえ掴めば未来の予測も容易な為、以前は適宜活用せよと言われていたのだが。
「閲覧制限の理由は覚えてる?」
「はい、ヒトの今世に重点を置く為です。全妖精は常に臨機応変に、と」
「そうね。何事にも囚われず柔軟であれ、と」
真田さんの顔つきを見ているとオノレの入社時を思い出す。
「だから気にしなくていいのよ。今はたまたま前世情報を得ただけ。采配は別でしょ」
羽二重餅の二個目を勧められる。トロふわ甘い。
「前世は誰でも幾つもあるし、何処がピックアップされるかでヒトの運命なんて簡単に変わるわ。リンキーさんは相手を動揺させるのが趣味で教官時もそれで新入社員の離職率が凄くて、あ、お茶熱いわよ」
ワタクシの単純粗野が弄ばれただけなのか。煎れてくださった緑茶は美味である。
ともかく対応せねばならぬ。
「お忙しいのに貴重な時間をありがとうございます。頭を冷やして見直します」
「いいえ何にも。それにしても因縁関連は厄介だわ。三課の業務も攻めに回るわね。私達も気を引き締めないと」
因縁なのか季節の変わり目か、岩野田家の健康運にも影響があった。母親が再入院したのである。
岩野田はコッソリ溜息をつく。今回はどれくらい掛かるだろう。
(みんな大丈夫だって言うんだよね。すぐ治る、すぐ戻る、って)
実際は少し掛かるのが通例だ。それから家の中が暗くなって、ガランと寂しいのもお約束。
大家と茨木も賢い友人達であった。
「そっか、お母さんが……無理に誘ってゴメンね」
「バスケ部話は毎日報告するからね。江口の様子を見てると守秘義務も無さげだし。ほら噂をすれば」
江口がルリラリとスキップして来るのであった。
「お三人さあん、五月の男バス日程表だよー」
しかし岩野田が家庭の事情で入部出来ないと聞くと、ガックリと肩を落とす、かと思いきや、
「うんわかった。じゃあ三年夏休み前までに入ってくれればいいから。待ってるよ!」
ウルトラスーパーポジティブ思考である。
大家と茨木は爆笑し同意し、岩野田の肩の荷もストンと降りた。
確かにこの単純軽薄さは生真面目な岩野田を救う。ワタクシも一瞬リンキーの言葉に傾きそうになり、慌てて居ずまいを正す。オノレを信じなければならぬ。
「みかこちゃん、無理しないでね。私の母もよく入院してたから、愚痴りたくなったらいつでも言ってね」
黄金週間の中日、まどろむ午後の小時間。老若男女で混み合う駅ビルカフェで岩野田と語らう美少女は、某塾の短期講習に通う佐藤ミヤコであった。
スケジュールを工面したミニ女子会は、勿論ワタクシの采配である。良かったね。小さな声でお話しましょう。
「くれぐれも無理は禁物ね。私、頑張り過ぎて倒れた事があるんだよ。みかこちゃんと同じ高一の時だったけど、周りにも心配かけちゃって」
母を早くになくしている佐藤家はどんなに大変だったろう。疲労で倒れたのが高一ならば、弟や大澤達は小六の時だ。今だって大変だろう。岩野田は自分に置き換える。スチームミルクを可憐に楽しむ姿から想像つかない事情である。
でも憂鬱な話を聞くのもアレだ。モブ視点でレッツトーク。
「あの、ミヤコさん」
「なあに」
「そんなに大変な中で、どうやって大澤くんと仲良くなったんですか」
佐藤も楽しく答えてくれたまえ。惚気奨励。
「えっと、リクの友達だったから、時々学校まで迎えに来てくれたり」
「わー」
「でも家ではいつもリクとカードバトルしてた……」
「あはは!」
真っ直ぐな反応でお互いリラックス。全てを笑い飛ばそうか。
「お互いゆっくりいこうね。これ、私が刺繍したの。受験で趣味も暫く出来ないから。使ってくれると嬉しいよ」
思いがけないプレゼントに岩野田の目が輝く。綺麗なハンカチタオルである。
「ありがとうございます、可愛い、嬉しい!」
ハンカチの両隅には薄緑の蔦と葉っぱ、青のお花、それから、白いことりがふたつ。
「またみんなで出掛けたいな。これからも仲良くしてね」
岩野田は主軸をかいま見た。
佐藤は綺麗で可愛いだけじゃない。大澤も格好いいだけじゃない。誰も知らない部分、二人で積み重ねてきた何かがあって、続ける互いの努力もあって。大事な話が聞けたと思った。胸の奥に何かが灯る。
本日の夜、佐藤は大澤と共に帰省予定だそうだ。乗車時間の長さが今日は嬉しいと話す佐藤に眼福、更にモブる岩野田である。
「みかこちゃんも明日は河合君に会うんでしょ。楽しんできてね。じゃあまたね」
受講の為に席を立つ佐藤の白いスニーカーは眩しかった。
(みかこちゃん、清楚で素直で可愛いな。河合君が夢中なのもわかるな)
佐藤も岩野田をしっかり女子チェック済み。ワタクシの采配通り、友情基盤は盤石なのだ。
居合わせた妖精さん方からも、思いがけない反応を頂戴した。
素敵女子のさざめきは、周囲に着席していた疲労困憊ビジネスパーソンの一服の清涼剤となった模様。
「カワイさん、本日の隣席を感謝します。僕の受け持ち社会人、連休返上でダレ気味だったんです。でも愛らしいお嬢さん達を垣間見られてモチベ上がりました」
「ウチのもです。見かけた瞬間、高校時代のマドンナを思い出して。甘酸っぱいですね」
マンガン社北部支店の医療、保険金融機関担当の妖精さん達である。
「とんでもありません、こちらこそ大人の空間に失礼しました。皆様の御武運お祈り申し上げます」
どの世界でも持ちつ持たれつ。他所は他所、ウチはウチ、されど仲良しであった。
(なんだなんだ。今日はめっちゃ暑いぞ!)
所変わって翌日、図書館前。バスケゴールの設置された公園広場である。着ていた白パーカーを脱ぎすてて、既にティシャツ一枚の河合である。
夕べは浮き足立った大澤がランラン帰省した。
本日は部活のない休日。早苗叔母との息苦しい時間が辛くて図書館の自習室に逃げ込んだ午前中。コンビニのパンをもぐもぐしながら学校の課題もさっさと片付け、後は岩野田を待つばかり。
だったのに。
「あっ河合さんだ!」
「遊んでー遊んでーシュートしてー」
顔見知りのミニバス少年団のちびっこ諸君に囲まれて、即興試合をする羽目に。
(いや、楽しいからいいけどさ)
請われるままに動いてみれば、いつの間にかデモンストレーション状態、からの、老若男女の皆様にも注目され取り囲まれ、気付けば人だかりの出来上がり。
「ええと、今日は、もう終わり」
「わー河合さん、もっとやってー」
「河合さん、河合さあん」
「オレ用事あるから、またな」
外で目立つのは本意じゃない。図書館のロッカーの鞄も引き取らなくちゃ。脱いだパーカーを拾って抜ける。目を向けた先には、岩野田がいる。
(すぐ行くから、もうちょっと、待ってて)
手で合図して、慌てて図書館のロッカーに向かう。
岩野田は太陽を直視したかと思った。久方振りに競技をする彼を見たせいだ。
青空の下に響くボールの音。コートにスニーカーの擦れる音。ずっと聞きたかった音。近くに行きたかったけれど、照れくさくて離れて眺めた。そうしたら彼は「そっちに行く」とジェスチャーをした。「そこで待ってて」と。
だから待っていた。待つ時間、嬉しい時間、長いようで短い時間。
「ごめん、待たせた」
「ううん、なんにも」
さっきまで岩野田はうっすら涙目だったけれど、今の河合は気付かない。
しかし河合には違和感はあった。まだまだ僅かな付き合いだけれど、引っかかる何かが否めない。
蝦夷桜の開花も良い塩梅、来園者も程々。広場の屋台のイチゴ飴、歩きながらの流れる会話、印象に残るは手洗い後に貸りた、真新しく綺麗なハンカチタオル。
「ミヤコさんが刺繍してプレゼントしてくれたの。可愛いよね」
「上手だね。売ってるのみたいだ」
「ね。ミヤコさん、あんなに綺麗で可愛くて、でもそれだけじゃないんだね。見習いたいな」
(ん、今日どうした?)
やはり岩野田はどこと無く寂しげの様な。
それから程なく家の用事がある岩野田と早めの解散。いつものコンビニまで送ろうとすると、今日は他所に出向くという。
「じゃあ、少しだけ送る」
「うん、ありがとう」
どうにも変だ。それに用事って何だ。ほんの僅か許された見送り。「じゃあまたね」と別れた岩野田の後ろ姿を眺めながら、河合に一抹の不安がよぎる。
(ひょっとして今日、オレ呆れられた?)
いきなり自己嫌悪の扉の前に立つ河合。
(調子に乗った自覚が……ある!)
揺れる自意識の大波小波。今日の自分は落ち着きがなかった。ちびっこ達と絡んだノリのまま、例えばひとり勝手にダーッと走り出したり、急にかくれんぼをしたりした。
最初は笑って見ていた岩野田も、みるみる呆れた表情を見せ、遂には怒ったのも当然というか。
「どうして勝手に先に行っちゃうの?」
急いで戻って謝った恥ずかしみ。岩野田から「おすわり」と叱られたのは御褒美カテか。まさかの躾けにエム気質開花、脳内フォルダに名付け保存。街なかでニヤニヤしたら怪しいですよ。
しかし河合の杞憂で終わるだろう。岩野田は今日も満足している。出来事をひとつずつ思い出して、クスクス笑えてきたりする。
河合のちびっこ風情には、正直引かなくはなかった。だが佐藤による気付きのお陰で、全てが楽しいシーンとなった。
(河合君って、特待生の優秀な面だけじゃないね)
やっぱり歳下なんだね。そう思うと楽になって、平凡な自分を許せる気になる。
それから、久しぶりに見たバスケシーン。彼が本気で動いたら。どうしよう、どんなに素敵なんだろう。
ほら、今日は楽しかった。全然悪いコトばかりじゃない。
岩野田は山口総合病院の正面玄関に入る。もう総合受付は閉じていて、自販機のモーター音が、時々廊下に低く響く。
エレベーターで六階に上がる。オレンジのプレートの並ぶ病室を通り過ぎて更に奥。進むと新築の二号館、緑のプレートには岩野田の母の名札がある。小さくノックした後、入り口の消毒液で手をなぞる。
「お父さん、どう?」
「おかえり。お母さん、落ち着いてるよ」
病室のオレンジのプレートから緑のプレートになる意味を、岩野田は知っている。オトナが説明する「落ち着いている」状況がどの程度なのか、言葉通りに取れなくて、その度に判断に迷う。
「善処致します」
緑のプレートの前、先日のカフェで御一緒したマンガン社の医療妖精さんに頭を下げられるワタクシである。
「まさかこちらのクランケがあのお嬢さんの御母堂とは。取り敢えずリスクは避けます。新薬は回しません」
「新薬?」
「投与予定でしたが、変更します。本来は大変有効な治療法の予定です。ただ、今の段階では」
彼は言葉を濁した。
「しかし、岩野田家は未だ最悪の展開はありませんのでご安心ください。御母堂の今世は健康面で周囲に学びを促すお役目で」
再び語尾を濁し、岩野田を見ながら、
「そう言えば僕、以前あの子を入院病棟で見かけた事がありました。お年頃ですね。すっかり綺麗になられて」
「岩野田、元々はお父さん似ですが、段々お母さんにも似てきましたね」
「ああ、本当だ。柳腰の美人さんだ。目元や耳の形はお父さんですね」
付き添う父には白髪が目立つ。元々ロマンスグレーの家系ではあるが。
「兎に角、あんな表情ばかりさせたらいけませんね」
その後もう一度「善処致します」と言い残し、彼は足早に去っていった。
岩野田は落差に滅入る。闘病の経過生々しい白い病室と、晴天の公園での花見の対比。でも仕様が無い。今日はお昼間だけでも楽しかった。仕方無いと思う。
「六時過ぎたよ。みかこは先に帰りなさい」
「もうちょっと居るよ」
「暗くなるとおとうさん達も心配だから」
父は財布から千円札を出した。
「昨日のシチューが残ってるし、パンは冷凍してあるから。豆乳は無くなっていたから欲しいなら買って。後は好きな果物でも選びなさい。家に着いたら連絡するんだよ」
グズグズしている岩野田の手に握らせる。
「本当に大丈夫だから」
でも、と岩野田は思っている。大丈夫と言い聞かされる程、本当の事情は大丈夫じゃない。
だけど大人はいつでも大丈夫と言う。だから岩野田もコドモの役目を果たす。
「うん、もう少ししたら帰る」
横たわる母の胸元が小さく上下に動く。か細い身体がベッドに溶けている。目を離した隙に、ぼたん雪みたいに消えてしまいそうで。
「そうか。じゃあ母さんの傍に来るかい」
父は自分が座っていたパイプ椅子を岩野田に譲った。
河合は帰り損ねていた。
駅ビルの本屋で新刊コミックの表紙をボンヤリ眺め、参考書と辞書、絵本の棚の前を所在無げに通り、愛用のシャーペンの芯を購入した。ひと通り膨れ上がった自我に七転八倒した後の冷静タイムである。
やっぱり、どうしても気になるのだ。今日の彼女の様子は妙だった。だからといって、自分に出来る事なぞ無いけれど。でもここに居ればまた、用事帰りの彼女に会えるかも。
(あ、これってストーカーじゃね?)
自覚があるからまだ大丈夫ですよ。
本屋を出る。途中で級友に会い、二言三言と言葉を交わし、ドーナツショップと雑貨屋を通り抜ける。南口の広場、噴水前に集う集団を避け、バスターミナルを抜けた時、向こうを通る岩野田を見つける。
(ほら来た)(やっぱオレってストーカー?)
羞恥心に気付く冷静さに乾杯。鉢合わせポイントを瞬時に見極め移動する周到さに感嘆。
さて次の課題は偶然を装い鉢合わせた際、涙目の岩野田に動揺しない平常心なのだが、そんな表情は間近で見た経験が当然無くて、途方にくれる羽目になる。
困ったのは岩野田も同様である。思いっきり憂鬱のオーラを纏ってトボトボ歩いていたら、目の前にマイラバーが居るなんて。
「びっくりした。どうしたの?」
「買い物。岩野田さんこそ、用事すんだの?」
お互いとってつけた様な会話。何を話したらいいのか判らない。
だから河合が無意識に「何かあった?」と聞いたのは、逆によかったとワタクシは思う。岩野田も自然に「今お母さんが入院してるの」と打ち明けられたのは、とてもよかったと強く思う。
当然河合は動揺するけれど。岩野田のお母さんが病弱なのは、何となく知ってはいたけれど。
「じゃあ今日、本当は忙しかったんじゃないの?」
「ううん、楽しくてよかったよ。誘ってもらえてよかった」
駅に向かう、駅から家路につく人の波が増えてきた。流れから逃れて壁画の隅にもたれて話す。
「もう帰るなら送るよ」
「うん」
そういうやり取りが板についてきたのは、いい案配だと、とても思う。
何と言っても河合が良い意味で冴えている。いつものコンビニの前でも、
「ここでいいよ。今日もありがとう」
「買い物はよかった?」
「あ、豆乳」
「わかった」
すぐ最寄のスーパーまで付き添うので、ワタクシも近隣の人払いを急いだ。
レジを待つ時も、河合の脳内は目まぐるしく動く。街灯のあかりを確認すると、
「家の方角ってこっちだよね。もう暗いから急ごう」
買い物袋を取って、岩野田より先に歩く。有無を言わさず送迎にはいる。
岩野田の家は氷川学区の東の集合住宅群の角、築二十年の中古マンションである。
河合は今日は少しくらい帰りが遅くなってもいいと思った。
早苗叔母には「閉館まで図書館にいる」と、既に連絡済みである。
春のニオイのする夕闇が降りつつあった。日が落ちると気温は未だグンと落ちるけれど、街路樹や公園、民家の庭先からは、植物の伸びる気配がある。
河合は話す言葉が探せない。お母さんの具合なんて岩野田の表情からは聞きにくい。能天気な機転も難しい。
「ごめんね。遠回りになっちゃって」
急に話しかけられ、慌てて「いや、全然」と返す。
「岩野田さんち、駅には近いけど中学は遠かったね。オレの下宿の方が近いかも」
「叔母さんのおうちの方、街並みが綺麗だよね」
「買い物は地味に手間らしいよ。唯一の利点はお役所への通り道があるから除雪が早い、だって」
「そっか。緊急車両用」
会話が途切れて黙る。歩くスピードが緩む。マンションの手前でもエントランスの中でも、微妙に空間が鈍る。河合は鍵を出す岩野田の手元を眺める。小さなクマのキーホルダーが揺れる。
「あのさ」
「ん」
「ウザくて危ないヤツ覚悟で言うけど」
「ん?」
「岩野田さんが家に入るの、オレ確認するから」
驚く岩野田に重ねて言う。
「今の岩野田さん、ちょっとやばい。オレ、玄関に鍵掛かるの見てから帰るよ。家は何階?」
更に言う。
「自分のヤバさにも気付いてる。けど岩野田さんの方が心配だ。部屋どこ?」
「え、」
「何処さ」
「よん、階。401」
エレベーターに入る。ボタンを押す。小さな箱は小さな音を立てる。
「私、今そんなに危なっかしい?」
「うん」
「そう」
河合は(もう話さなくていいよ)と思う。口に出さないのは、出せないから。胸が絞られる様に痛むから。
河合も河合で、入院経験がそれなりにある。幼少時から喘息とのお付き合いは厄介で、親元離れる氷川中入学事も、母親の心痛は押して知るべしであった。
楽しくない記憶。突然の呼吸困難。夜中の救急外来。家族から離される心細さ。それから、母が付き添う際に他の兄弟が見せる、なんとも言えない表情。
(誰ひとり幸せじゃないんだよ、ああいうの)
岩野田も決して良い状況ではないだろう。無理に話したくもないだろう。自分も聞いた所で何も出来ない。ただ、昔の辛さを思い出した。岩野田も今、辛いだろうなと思う。エレベーターを降りる。
ワンフロアに二、三世帯の十階建てマンションである。共用内廊下は無機質で、あらゆる音が反射する。
岩野田が玄関の鍵を開ける。ドアの開く音と同時に河合の声がするので、振り向くと、
「ここ。音が響くんだね」
通る声に驚いて、慌てた岩野田は河合を玄関内に招き、扉を閉めた。
バタン。
(え、え、あれっ、バタン?)
河合君硬直。あの、ココ、ドコ?
「そうなの。このマンションの内廊下、反響が酷いでしょ。気をつけてないと話し声が全部筒抜けで……ゴメンね、今なんて喋ってた?」
河合君緊張。どうしよう、ここ、岩野田さんのお家の中でえす。
「ドアの音でちゃんと聞き取れなくて」
河合君ちょう動揺。思いがけない展開でえす。
(い、い、家にお邪魔するつもりは!)
そうよねえ。送るだけの予定だったよねえ。
一戸建ての立派な叔母さん宅とはまた別の、約一平米強のコンパクトかつ機能性重視の玄関である。僅かな踊り場先の壁には小さな風景画。向かって右の壁には施工された鏡、作り付けのシューズクロック。床には身軽なサンダルが一足。
狭いなりに工夫のある清廉な気配。
ミニマム空間故にお互い至近距離で立つ羽目になる訳ですが、
(岩野田さんがめっちゃ近いんだけど!)
直帰予定だった河合としては、とにかく何か会話を、この間を何とかせねばと焦る焦る。
「い、岩野田さんち、綺麗にしてるね」
「そんな事ないよ、めっちゃ狭いよ」
うん、ふた部屋たすリビングダイニングとキッチンの約六十平米。三人家族だと断捨離が欠かせなくて……あら岩野田も、
(どうしよう、河合君がめっちゃ近くにいるんだけど!)
オノレの招いた結果に今更焦っていますけれど、ワタクシ関与しませんよ。
動揺中の岩野田。河合に上がって貰うか否か、現在必死で分析中。自室は整頓が残念、リビングもお父さんのコーナーがあるし、続き間は夫婦の寝室だ。玄関トイレ水回りだけは毎日お掃除してあるから、今日の所はここしか無理。
でも近い。マジでめっちゃ近い。二人とも意識満載。だけどワタクシ関与はしませんよ。
「ゴメンね、こんな狭い玄関で」
「いやそんな、こちらこそ、もう遅いし」
内玄関の音の反響が招いた結果とは言え、不可抗力に無駄に緊張。
「え、えっと、じゃあもう遅いから。岩野田さんもちゃんと家に戻れたし」
おう河合君、無理目だけど無難にまとめてきたな。
「お邪魔しました。オレが出たらすぐ鍵掛けて。気をつけて」と岩野田を見た途端、不安が戻る。
「また……そういう顔」
「え」
「泣きそう」
「え」
「中学の時も」
意外なカミングアウト。
「泣きそう、って、中学でも?」
「うん」
「うそ」
「ちょくちょく見かけた」
「そんな。私そんな泣いてないよ」
「そうかな。じゃあオレが勝手に知ってるだけか。まあいいけど」
勝手に知ってる、だって。それから、岩野田は目線の高さが同じ事に改めて気づいた。いつの間に。お昼の公園では気付かなかった。
「でもオレ、お医者さんにガチでヤバくなる前に泣いとけって言われた事あったよ。泣くのも大事だって」
「お医者さん?」
「喘息でお世話になった地元の先生。ココロが辛すぎると泣けなくなるって」
河合も岩野田との目線に気付いた。オレと岩野田さん、背が同じだ。追いついた。至近距離だ。
「オレ小さい時、よく入院してたから」
とっさの判断。一瞬の挨拶程度を左に速攻。
柔らかくて温かくて、流れと意識が変わる隙。
「それと、大丈夫じゃない時は、自分で大丈夫にすればいいって」
「自分で?」
岩野田は混乱する。色々と動揺もする。今の何。今の左は何。何が起きたの。胸の奥で風が吹いた。それに大丈夫にすればいいって何。大人はコドモにすぐ大丈夫って言うけど、本当はそうじゃない時も、大丈夫って言うけど、自分で大丈夫にするって何。
「どういう意味?」
「わかんね。多分、視点を変えるって感じじゃね」
「本当は大丈夫じゃなくても?」
「本当はゴリ押せって意味かも」
「それもお医者さんが?」
「いや、リュウジが」
瞬間、岩野田がフッと笑ったので、
「やっと笑った。よかった」
また速攻、次は右に触れるだけ。
それから少し見合って、目はクチ程にモノを語る正面。
かしげる首の向き。お互いゆっくりそっと。
「じゃ。オレが出たら、ちゃんと鍵かけろよ」
じゃ。今夜の件は、ワタクシ一切関与してませんから。
関与はしていませんから。
「最初はホッペ、ダブル……とは可愛かったですね」
朝のミーティングである。課長よりお褒めをいただくワタクシである。
「三回目でやっと小鳥の様な、という展開も秀逸でした」
課の皆様に拍手をいただき恐縮である。
「昨今の初恋関連の加速は著しく、因縁関連もまま入りますが、我々は今後も情緒を大切に、美しい展開にこだわりたいと思います。では今週も宜しくお願いします」
終了届や引き継ぎ業務が嵐の如く行き交い、新案件が容赦無く降り積もる黄金週間明けである。ワタクシの未処理箱も早々に満員盛況であった。
「三課案件、マジで重苦しくなってきましたね」
「うん、流石リンキーさんだね。カワイさんも五月病にならないでね」
「課長こそどうぞ御身大切に」
「アハハ、洒落にならないや」
お互い乾いた笑いを交わし、其々の業務に戻る。
(さて、季節の峠は終わったわ)
黄金週間は春にスタートした十代カップルの第一関門と言われ、ワタクシの手元にも残念な終了届がうず高く積まれている。
(でも続いてるコ達がいると嬉しいわ)
有り難い事に河合と岩野田はお付き合い歴一ヶ月が過ぎていた。僅かな期間でも、無事に持ち堪えた事実を感謝したいワタクシである。
差し当たっての山は早苗叔母か。彼女の甥っ子レーダーは更に精密に稼働しつつあった。
あの夜。公園前図書館の閉館時間は七時、河合の帰宅は七時半だったのだが、
(スケジュール的には正しい。でも空白時間がある)
あらゆる展開を見通すカンの良さである。
尚、河合がお昼過ぎに自習室を退出していた件は、館内で終日活動中だった早苗叔母のボランティア友達からの情報である。
『でもその後は外で小学生とバスケしてたわよ。早苗ちゃん、心配し過ぎなんじゃない?』
(大事な大事な甥っ子ですもの。心配し過ぎなんて事ないわ)
親身な忠告も一笑に付しサラリとお礼返信。
西の街に住まう義理の姉にも良き報告をしたいと日々願う、叔母馬鹿の鏡とするべきか。
(だってマサキの顔付きが違ってきてるんですもの)
男子を複数育て上げた育児経験が見逃すモノは何も無い。
(お相手は岩野田みかこちゃんなんですってね)
ちょ、鬼女ネットワーク仕事早過ぎ!
(誰に聞いても真面目で良いお嬢さんだそうだけど、今のコってぱっと見で判断出来かねるのよねえ)
ご時世とマイ経験から男女間に於ける空気感も着実に判断。ガクガクブルブル。
一方、帰宅後の河合は知恵熱を出していた。致し方ないお疲れであった。
早々にお風呂をいただき、早々に就寝体制。だがお布団は抱き枕状態でゴロンゴロン、ココロの中では(やばい)を百万回唱えている。やばい内容は言葉に出来ない悶絶風味。お年頃であろう。
岩野田に至っては、大変良い変化を伴った。
あの後は玄関先で暫し呆然と佇んだ。無事を案ずる父のメールに慌てて反応、しつつも何度も頰や口元を抑えるオトメ。
ベランダの洗濯物を取り込みながらも気付けばボンヤリ。落ち着かず全力で家中の拭き掃除。勢いで冷蔵庫のシチューをドリアにアレンジ。父に夕食写真を送り喜ばせ、しかし自分は胸一杯。お腹は空けどもお食事は入らない、恋の嵐のど真ん中である。
(お、お風呂先に入ろ……)
だが湯船内でも急にアレコレ思い出し(ひゃー)とバシャバシャ悶絶。余分な熱でのぼせる始末。
苦あれば楽あり。落ち込んだ分のリカバリーが出来たと思います。
ワタクシも二人の煌めきに関われ本望だが、目の前の業務も片さねば。
「カワイさあん。江口の報告書書いたから見といてえ」
リンキーからも書類を受け取る。
目を通している最中もやたらとワタクシを凝視するので「何ですか」と聞くと、珍しく小声で
「カワイさんこの間大丈夫だった? 河合は手間だっただろ」
思わず顔を上げる。
「たまたま用事で近くにいた。スガワラが派手に遠隔作業してたから」
腑に落ちる情報であった。
先日の件は全てが成り行きだった。河合の勢いが強過ぎ、途中からはブレーキ業務に変更せざるを得なかったのだ。
敢えて口もとは外した。河合は大人びてはいるが、実際は何があっても驚かない中学男児だ。ただ、三回目は難しかった。なんとか可愛いカテゴリーに収めたけれど。
ワタクシが担当である以上、彼等にはこれ以上の進展はさせない。が、河合の気運は思った以上に強い。岩野田の義務教育担当の憂いも思い出す。二つの年の差と「可愛い初恋」故に成り立つ現時点。慎重にならねばならぬ。
河合の加速は他でも顕著であった。休み明けの校内課題テストにおいて、学年先頭集団に躍り出たのだ。
「部活忙しいのにスゲえな」
級友達にも騒がれたが、
「たまたまだって。オレも驚いてんだ」
例の図書館自習室で課題をひと通り触れただけである。ただ河合の賢さは以前から評判だったので、周囲もあっさりと納得した。
スガワラが本気を出してバックアップに入っている。だがワタクシは岩野田の存在も大いに関係していると信じたい。
『この間はありがとう。河合君も入院で大変だった話、大丈夫じゃなかったら自分で大丈夫にする話、聞けてよかった。元気が貰えたよ。いよいよシーズンだね。河合君も怪我に気をつけてね』
河合は岩野田からのメッセージを、何度も何度も眺めている。
春の花が咲き揃い、夏の花も勢い出した蝦夷梅雨間際。母も回復傾向となり、放課後は大家と茨木を手伝う岩野田である。元々労を厭わないタイプなので、気分転換にはもってこいである。
「岩野田、マネージャーめっちゃ向いてる」
「もう入部しちゃいなよ。誰も異論はないよ」
二人に何度もボソボソ呟かれ、
「顧問のセンセイもマネ業務の軽減を目指すそうだよ。一緒にやろうよ」
二年マネの吉野サトミからも誘われ、
「そうだよ。芋もその方が嬉しいよな?」
「おっ、芋が照れてる。とっくにバレてんだよ芋」
諸先輩方も芋……じゃなかった、江口を茶化しながら入部を促すのであった。
「でも岩野田さんの彼氏スゲーよな。芋に勝ち目はねえな」
「再来年はウチに来てって河合君に伝えといてね」
返答に困るお願いまで押し付けられてしまった。
(氷川商、バスケ部、マネージャー?)
複雑なのは当の河合である。
「誘って貰えて嬉しいけど大変だろうし。ちゃんと出来るかなって」
最近の二人のやり取りは直電に昇格。脳裏に浮かぶは自分だけが知っている(と思っている)美化委員時代の岩野田のジャージ姿である。悶々ツライ。
「……岩野田さんはマネに向いてるとは思うよ」
ああ、でも嘘もつけない。誰よりも適任だと気付いているから。
「向いてるかな」
「けど氷川商は強豪校だから、大変なのも本当だと思う。お母さんの事もあるから家で相談した方がいいよ」
考え込む岩野田に、
「美化委員みたいに全部抱え込んだら駄目だよ」
「あ、うん、え、美化委員?」
「うん、や、別に」
「別に?」
ひと時のスイートトークであった。ただ、電話を切った後に河合が「……マジかよ」と呟いたのは、誰も聞いてはいない。
翌日の放課後も大家と茨木に拉致られる岩野田である。
「今日の活動場所、市民体育館なんだよ」
「是非見学するといいよ」
有無を言わさぬ態度である。
「でも使用コートは一面だからキミは観客席に居るといいよ」
「後の一面は氷川中のバスケ部だから存分に眺めるといいよ」
断る理由が何処にもなかったのは言うまでもない。
市民体育館でフリーズするのは河合であった。
昨日の今日でこの展開。はさむ緑の網ネットの向こう側コートに氷川商バスケ部。大澤にも顔を覗き込まれウッカリ憮然。
「よう久しぶり」
江口にも手を振られ、ご挨拶を返さねばならぬ複雑さ。
「岩野田さんも観客席に来てるぜ」
しっかり表情に出る河合。
「もうすぐうちのマネになると思うけどな」
存分に顔に出してしまう河合。
「オマエらがウチに来てくれるのも待ってるぜ。じゃあな」
返事を返し忘れた河合。
「エロ先輩、相変わらず変わんねえな」
大澤のボヤキにすら反応の河合。
危惧した『氷川商の江口先輩』と練習会場でのご対面。合同練習会の時は何とも思わなかったのに、今日の結構な衝撃は何故だ。
落ち着けよ。なまじ初恋進行中だからだ。落ち着け。なまじ手に入ったから余計だ。
そっと息を吐き切る。腹の奥まで空気を入れる。中学と高校の差。面倒な上下関係。でも予想済みだっただろ。昨日の今日なのが微妙だけれど。
(さあ切り替えろ)
河合の背筋が伸びたのを確認して、大澤も後に続く。
中イチ時代、河合は岩野田がバスケ部を見ているのが嬉しかった。大澤を見ていたのは承知だけれど、自分も彼女の視界に入ると思うだけでテンションが上がった。煩い鼓動が収まらない。さあ、久しぶりにガチな自分を見て貰おうじゃないか。
結果は予想通りであった。彼等の見事な競技風景は、周囲は当然の事、氷川商の皆様をも釘付けにした。
「あの二人が断然ずば抜けてるねえ。将来は海外留学だねえ」
氷川商顧問が呟く言葉に全員が同意した。
「河合君、ちゃんと大きくなれるといいねえ」
誰もが深く頷いた。
観客席の岩野田は放心していた。中学時代を思い出して、でもその時よりも、何もかもが全然違って。
一瞬河合は上を見る。観客席の岩野田は氷川商の制服。襟元のボタンをひとつ外して、水色のボウタイを緩めに結ぶ放課後仕様。
(見てた?)
(うん)
視線を合わせた瞬間に、多分、そんなやり取りをした。
(岩野田さんは今オレを見てんだぜ)(オレを見てくれてるんだぜ)
河合はそっとティシャツの裾を握る。
「みかこ、最近楽しそう」
母は全てお見通しだった。学校帰りの病室、もうオレンジのプレートの大部屋である。促され、バスケ部の話もポツポツとする。
「やりたい事が有るのなら少しでもやってみなさい。応援するから」
「でも」
「バレエも本当は続けたかったんでしょう。もう我慢しないで。学校生活をちゃんと楽しんでほしいの」
お父さんも同じ気持ちだよ。母の言葉に岩野田は背中が広がる様な気持ちがした。
そうだよ。岩野田にだって追い風は来ている。スガワラの提示プランは河合が中心だけれど、岩野田だって人生の幸福期なのだ。だからこそ河合と仲良くなれている。その運の強さも鑑みてほしい。
リンキーが提出した江口の報告書も気になる。
競技への執着が増している事。河合達へのライバル心が多大にある事。それから、岩野田がどうしても気になる事。意識し過ぎてうまく自分が出せなくて、本来の天然より更に、敢えて幼く振る舞う事。
ワタクシも本日分を付け加える。
自分が河合達より圧倒的に劣るのが悔しくて悔しくて、息が出来なくなった事。二人が視線を合わせるのを見て、胸がキリキリ痛んだ事。
忘れがちだが江口はイケメンである。だが中身は真性天真爛漫、永遠の小学男児でもある。
「えぐっちゃーん!」
「しゅーとー!」
黄色い声援も多々上がる。
全女性の心を鷲掴み、しかし身近な者にはお手間なイキモノ。部内でのフォローは二年マネの吉野先輩と大家、茨木達が担う訳だが、如何なる工夫も功を成す事は無かった。
「という訳で、岩野田にお世話係を頼みたいんだ」
「キミの前でだけお利口なんだよ、江口」
無事バスケ部マネージャーに就任した岩野田に、早々に無理難題が降りかかる。
「私の前でだけなんて……たまたまだと思うよ」
遠回しに、しかし丁重にお断りしたのにも関わらず、
「タマタマでもいいんだよ」
「対処療法で充分だよ」
「日常は付け焼き刃の連続だよ」
のべつ幕無しに却下されたのであった。
「実は『仔犬のしつけ方』がとても役に立ったの」
物騒なブックレビューを語るのは佐藤ミヤコである。初夏の夜、バスケ部マネ相談への電話回答である。
「大澤君イヌ扱いなんだ!」
驚愕の岩野田に佐藤は焦った。
「待って待って、決して全部じゃないよ。でも時々、よく、もう一人弟がいる気分になって、つい」
(何ソレもっと詳しく!)
食らいつく岩野田。
「だからどうしても保護者になってしまうよね」
(ほう……)
またもやモブな気持ちで聞いてしまう岩野田。
「とにかくヤンチャ君には冷静に穏やかに、ノーはハッキリと。でも河合君には関係ないね。いつも落ち着いてるもの」
岩野田のシャーペンの芯が折れる。ベタな展開で恐縮です。
「か、河合君の方がいつも私より冷静です」
赤面する岩野田を見透かされたらしく、向こう側で笑われます。
「もう試合シーズンに入るね。私達も会えなくなって寂しくなるね」
そうだった。岩野田も予定ギッシリのバスケ部スケジュールを見る。今度はいつ何処で会えるんだろう。
(どうしてこんなに忙しいの?)
案の定であった。江口の猫かぶりは最初だけであった。中身が小学男児なので仕方がなかろう。
だが愉快な現象も見受けられた。おバカとはいえ女子に圧倒的人気の江口である。絡めば周囲からの嫉妬も受けそうなのに、何故か岩野田にはそれが無い。
「だって岩野田さん、中身がおばちゃんだもの」
「誰よりもハタキと三角巾が似合うもの」
根っこのイロケの無さが露見し、皆様からオカン認定を頂戴したのである。
本人も落ち込むどころか「キャラ的にはそれでいいです」と了承するのは何故だ。しかもこの二人将来結婚するんだってよ。嘘じゃなかろうか。
(やはり因縁に気をとられるのは宜しくないわよねえ)
唸るワタクシの肩に何かが止まる。
「カワイさん、うちのボスが呼んでる」
ケンジさんの管狐である。
「計画前倒しだなんて困るよ。絶対行かせないよ」
スガワラから大澤のプラン変更の要請があったそうだ。
中学卒業後に海外留学のご提案だという。
「返済不要の奨学金でも母子家庭の大澤家には持ち出しが大きいし、本人の器もまだ全然だ」
机上はマンガン社との式神のやり取りで大混乱である。
「ほらマンガンさんだって反対してる。スガワラは先走り過ぎなんだよ」
「大澤には時期尚早なんですか?」
先日の氷川商顧問も大澤を絶賛していたが。
「心技体が揃わないと美しくないよ。彼はまだフィジカルだけだ。元々競技への執着も少ないコだし」
「そうなんですか!」
「無意識は中庸を求めているわ。それに地縁の深い子なの。だから北支店の私達が主任なの」
真田さんも書類作成で目が血走っている。
「今だって実際は河合が大澤を引っ張ってるのに。カワイさん、この意味がわかる?」
「河合の重要性、でしょうか」
「そう、あのコは山椒の実、かつ大きな原石よ。ケンジさん用意出来ました」
「よっしゃ行こうか」
お二人はバタバタと支度をするとガタガタと出掛ける準備をした。
「そんな訳だからカワイさんも気を引き締めてね。最も河合はまだ身体が出来てないからスガワラも無茶振りはしないだろうけど」
「実は河合にも強い波が来てるんです」
「ああ、そう」
ケンジさんが怖い顔をした。
「あの古狸、何をそんなに急ぐかね」
スガワラの執着もあろうが、彼等の成長は際立っていた。だが良い作用だって勿論あった。
(なんて格好いいの二人とも!)
早朝朝練に出掛ける大澤と河合を見て有頂天になったのは村松早苗である。
アドレナリン全開の中学男子の顔付きは日増しに凛々しくなっている。これは独り占めしたら申し訳ない。
「じゃあ行ってきます」
「ちょっと待ってアナタ達! 写真撮るから!」
「何でですか」
「お母さん達に送るのよ。ほら、こっち向いて」
玄関で無理やりショット。練習前の気合のせいで目付きは鋭く、反面母親への画像と聞いた困惑と恥じらいの表情も混じって大変宜しい。
「はい、イイ顔撮れました。早速送るわね。今日も気をつけて行ってらっしゃい」
早苗叔母、右手を降りつつ左手で器用に送信。
西の街と東の街では、二人の母達が受信画像を眺めて目元を潤ませた。
添付された息子達の成長に嬉しいやら誇らしいやらホッとするやら。液晶画面をそっと撫でる。
早苗叔母の後ろには、全鬼子母神連合の妖精さんが御憑きあそばしている。
略して全母連という。大層慈悲深く、大層おっかないオバちゃん妖精さん達である。
その迫力の前では、スガワラだってマンガンだって、尻尾を巻いて逃げるのだ。
全母連の底力は凄まじく、スガワラの先走り案件を一括で白紙に戻した。そして誰もが痛手を背負う羽目にもなった。
真田さんが満身創痍で帰社された。ワタクシは慣れぬ手付きでドリップ珈琲を入れる。
「全母連さまから大クレームだったわ。公正さに欠けるって」
昨夜、学校関係者間において、大澤の公費留学の噂が拡散された。発信元は勿論スガワラである。大澤ファンの言霊を利用してゴリ押しを狙ったらしいが、
「時期尚早、逆効果よ。全国制覇もまだだし、世間様が出る杭を許さないわ」
父兄関連のネットワーク管轄は全母連なのである。
「大澤レベルですら依怙贔屓になるんですか」
「難癖つけるのはごく一部よ。ただ声の大きいヒトは周囲を振り回すし、厄介なのよね」
随分お疲れなのであろう、普段は召し上がらないチョコレートにまで手を伸ばす。
「不景気で誰もが繊細だし、今回は全面撤廃が妥当よ。こっちまでトバッチリだわ」
話す側から東の街で残務処理中のケンジさんの式神が届く。真田さんの眉間が益々深くなる。
「やっぱり私も行くわね。佐藤が参ってるの。可哀相に。あの子も本当は余裕なんて無いのよ」
「あの、ご迷惑でなければご一緒しても宜しいでしょうか」
真田さんはワタクシをまじまじと見、机上を確認する。
「だけどアナタも紙仕事が溜まってるでしょう」
「平気です」
「嬉しい事言ってくれるのね。ありがと」
小さく笑いチョコレートの封を締め、一気に珈琲を空けた。
「じゃあ今日はお言葉に甘えようかしら」
留学の噂は無責任に盛り上がり、全方面の友人知人から詮索される河合も複雑であった。
(リュウジが怖くて直接聞けないからって。わかるけどな)
ありとあらゆる面倒を丸く収める立場も大変である。
無論大澤ならどんな特待話があっても不思議はない。だがその圧倒的な差を常に目の当たりにする河合の重圧には、誰もがまるで気付かない。
(オレだってヘコむんだけどな)
入学以降、大澤の隣で過ごす一年強。身体が小さいハンデを創意工夫で乗り越える日々なのだ。
昨夜、当の大澤はずっと電話中だった。小声でボソボソ呟いたり時々声を荒げたり、電話を切ったりまた繋げたり。噂は本当かもしれない。
(でも、ヒトを羨むだけ無駄だ)
河合は自分に言い聞かす。時間は有効に使え。苛々するだけ不合理だ。
思考を巡らす河合の隣には大澤がいる。
大澤も大澤で何なりと有るだろう。だが周囲から見たら「いつも一緒にいるバスケ部の仲良しさん」である。
「腹減った」
「まだ二限目前だぞ」
「水飲もうぜ」
淡々といつも通りに過ごす。廊下を進む。
人気のないウオータークーラーの前。だが大澤はそこから動こうとはしなかった。
「どした」
「マサキにだけは話しときたい事がある」
河合は身構える。改まった大澤なんて初めてじゃないか。
「みんなには黙ってて欲しい話だ」
「なんだよ」
言いよどむ大澤。二人の間に無駄な緊張感が走る。
「夕べからオマエの様子がおかしいのは知ってたよ」
また言いよどむ。そんなに深刻な話なのか。
「本当に、マサキにしか言わないから」
固い表情の大澤を前に、河合にも緊張が走る。やはり留学の噂は本当なのか。衝撃に備える覚悟をした瞬間、別の衝撃が河合を襲った。
「オレとミヤコ、婚約した」
「は」
「正式な結納とかは出来ないけど、でも親には了解もらったんだ」
「は?」
盛大な攻撃であった。頭上からの爆撃に備えていたら両脇腹をくすぐられた様な。こちょこちょ。
「わはー言えたーあー恥ずかし」
真っ赤な大澤に絶句する河合であった。親を巻き込む結婚の約束とは。
「オマエに言えてよかったよー」
「聞かされる方が恥ずかしいぞ。戦国かよ。二人共まだコドモじゃないか」
激震である。だが予想もつく。昨夜の大澤の散々なる長電話。暴れだすと止まらない氷川の闘将。御両家はさぞかし揺れたのではあるまいか。
「それを聞かされたオレは何すりゃいいのさ」
「いやなんも。ただ聞いて貰いたかったんよ」
どうしようもない情報であった。
「い、岩野田さんには速攻で話すからな」
「えー」「えー、じゃねえし」
ヒトのクチに戸など立たぬ。その後もお互いの表情に改めて困惑し赤面し、モジモジし合う二人であった。
「思春期の悩みにはノザラシ製薬のチューニビョン散布が最も有効ですよね」
「カワイさん、在庫が品薄なのにありがとう!」
「取り扱い有資格者が来てくれて助かったよ。経費は勿論こっちに回してね」
お二人にはずっと助けて戴くばかり。お返しの機会を得、ワタクシも大変幸福である。
反面、けしかけておきながら、御両家の親御さんには申し訳ない限りである。さぞかしお困りであったろう。
「破天荒なオママゴトだったなあ」
「いいじゃない、壮大で尊大、大澤らしいじゃない」
「佐藤の今後の受難を憂うけど、二人は益々コソコソ出来なくなるね」
「私達も安心して驀進出来るわね!」
お二人は大いに盛り上がっておいでであった。
あの後河合は大澤に「てっきり今評判の留学話かと思ったのに」と零した。
だが大澤は「そんな話、オレに来る前にオマエに来るしょや」と返した。判るヒトは必ずオマエを評価している……と、これは大澤の心の中の声である。
婚約騒動のオーラスは全母連・北代表様の弊社突撃訪問であった。スタッフ要請とチューニビョン散布報告へのクレームであった。
「以前から再三申しあげておりますが、私共が非営利団体である事実を今一度お考え頂きたく存じます。現場のボランティアスタッフは体の良い駒では御座いません。当日申請報告はくれぐれもお控えくださいませ」
「誠に、申し訳ございませんでした」
ケンジさんと共に平身低頭のワタクシ。現場スタッフ様達は「なんもなんも」とご快諾くださっていたのだが。
「この度は御尽力賜り、誠に感謝しております。改めまして、東支部の皆様にも御礼申し上げたく存じます」
「いえ……私もこんな話はしたくないんですが。最近はやりがい搾取も酷くて、スタッフは裏で疲労しておりますの。特にスガワラさんには困ってしまう」
思いがけぬ愚痴は先日の留学ゴシップの件であろうか。ケンジさんと目配せをしあう。
「そういえばお宅様も大層な実力者様を派遣で投入なさっておいでとか」
お鉢は弊社に回る。実力者と言えばリンキーか。
「すっかり評判ですよ。あの方はスガワラさんにもお強いですし、宜しいですわねえ」
「「スガワラさんにお強い?」」
ケンジさんとワタクシの声が揃い、代表様は黙った。
「それは困りました。ウチのモノが何か」
「あらお口が過ぎました。けれどプライベートらしいですから宜しいのでは。では私はこれで」
一番欲しい情報は聞けず仕舞いである。
お見送り後、ワタクシ達はしばし沈黙した。
「スガワラに強い?」
「プライベートだから宜しい?」
背筋が冷えるのは何の予感か。ワタクシ達は顔を見合わせ、どちらからともなく「今のは聞かなかったコトに」と頷き合った。
その足でケンジさんは東支部にお詫び行脚に、ワタクシも粛々現場に戻った。
気付けばリンキーは正社員時代と一切変わらぬデカイ態度である。
「江口の天然が爆裂中です。ブレーキは最大限で願います。ガッツリ止めといてくださいよ」
「おう。河合達の継続も最大でな」
返ってリンキーにゲキを飛ばされ、どちらが上司か判らない。
御指示の河合達にしても、当初のフェードアウトの危惧は何処へやら、現在は非常にスイートな気配なのだ。
「どうしよう、まだ心臓がバクバクするよ」
恒例となった夜の長電話。本人達は大澤ネタに息も絶え絶え。
「でもどこまで本当なんだろ。現実的じゃないよ。オレ達騙されてんじゃね」
「河合君、大人みたい」
岩野田は華やかな笑い声が止まらない。
だが別室で仕事中の父親を考慮し、ベッドに潜り込んでコソコソ話す。くぐもる声は普段より甘く、十二分に河合を刺激する。
「はー布団の中って息苦しい」
「さっきからゴソゴソ音がするんだけど。一体何してんのさ」
「話し声が大きくなるといけないから、お布団に籠ったの」
「岩野田さんちのマンションって家の中も音が響くの?」
「家の中は響かないよ」
「じゃなんで」
「色々あるの」
「ナニがさ」
勢い河合の声もくだけて甘くなる。自分達の発声の変化にそれぞれが同時に気付く。
へえ。声にはこんな表情があるんだ。こんな表現もするんだ。端末を通す相乗効果。
ワタクシのブレーキも効きが悪く、ずるり、ずるりと前に出る。
不安を揺らす波もある。だが律して隠す。氷川中エースの矜持である。
河合達が氷川商とカチ合うのは市民体育館での練習時、最近は週に一度ある。
緑のネット越しに岩野田の姿を垣間見られるのは嬉しいけれど、ジャージ下のティシャツが白く光って、その側に江口が居ようものなら、気持ちの行方は真逆に変わる。黒い何かも沸き起こる。
(エロ先輩ってなんであんなに岩野田さんに絡むんだ?)(自分の事は自分でしろよ)(岩野田さんもほっとけよ)
だけど決して崩さない。益々競技に集中する。誰も近寄らせない膜を張る。
(くそ、見くびんなよ)
何を。氷川中を。それとも自分を?
岩野田は練習中に決して目も合わせない河合に対し、その鬼気迫る集中力をむしろ見習いたいと思っている。
自分も凛としたい。キチンと前を向きたい。夜の電話は相変わらず続いていて、だけど声だけのやりとりだけ。だけど……いつも優しくて。
(河合君カッコいいな)
(私も河合君みたいになりたいな)
だが河合の本音は見えない。見えぬまま今日も江口のお守りをする。
岩野田のミドルネームがオカンで定着した放課後、お空はすっかり蝦夷梅雨と化した。
「岩野田さん、江口がお行儀悪いよ」
「岩野田さん、江口の課題提出がまだだよ」
「岩野田さん、江口がまた上級生に迫られてたよ」
上記のうちマネ業務外はどれでしょう。
「全て業務外です」
大家達が岩野田のストレスを察したのも当然の成り行きと言えよう。お守りを押し付けた罪悪感にも苛まれ、先輩マネ・吉野への直訴に至った。
「なんとか出来ないでしょうか。江口も周りも岩野田を酷使しすぎです」
「そうなんだけど、彼のコトは昔から知ってるけど」
歯切れの悪い吉野は江口と同じ町内住まい、同じ小中学出身であるという。
曰く、彼は四人姉弟の三番目。内訳は上に綺麗な姉二人、二歳下の弟なのだが、
「その弟がサッカーで超有望なんだ。小さい頃から御両親が付きっ切りで、お姉さん達が江口の親代わりだったの。でも今はお姉さん達も会社や大学で忙しいから、それで余計に岩野田に甘えていると思う」
岩野田達をトーンダウンさせてしまうのであった。
「だ、だけど、」
お、いつも穏やかな茨木が発言しますよ。
「江口は一年のエースです。お馬鹿過ぎる方が逆に可哀想では」
おお正論ですよ。
「そうだよね。自立してほしいよね。とにかく岩野田の負担は減らさないと」
吉野も心から同意し、皆で一致団結したのであった。
しかし江口は岩野田に纏わりついて離れない。
「岩野田さーん」「岩野田さーん」
岩野田の心境は飼育実習であろうか。見かけた大澤ですら「岩野田さん大変だな」とこぼす有様なのである。
当然だが河合は面白くない。その表情をいち早く見抜くのも当の大澤なのがやるせない。
「マサキ、顔に出てんぞ」
慌てて眉間の皺を消す河合。
「気持ちはわかるけどな」
憮然とする河合。
「よう、お二人さん。今週も調子良さそうだな!」
空気を一切読まずにネット越しに話しかける江口。露骨に苦虫を噛み潰す顔をする大澤と、どう返答すべきか固まる河合。
だがその時、何かが動いた。
「江口、ヨソサマの邪魔をしないの」
岩野田の叱責が飛んだのだ。クールな低音ボイスである。
「レンタルコートだから時間がないよ。早くウオームアップ始めて」
更にトーンを変えぬままクルリと向きを変え、
「練習の邪魔してゴメンなさい」
ネット越しに河合と大澤に謝ると、ゴネる江口をサッサと所定の位置まで連れ戻したのであった。
男児の世話をすると声がいちオクターブ低くなる傾向があるが、岩野田も既に育児発声が板についている。『岩野田・オカン・みかこ』の通り名が浸透した瞬間でもある。
大澤は吹き出し、河合の肩も盛大に揺れるのを、岩野田は背中で感じた。そして心の中で大いに泣いた。
(だって私は氷川中卒業生なんだもの。今は氷川商マネなんだもの)
パブリックな立場をお勉強中であった。
成長ぶりに感涙するワタクシの目に飛び込んだのは、岩野田の後ろに憑いたエプロン姿の妖精さんである。
あのユニフォームは全母連スタッフ様だ! 一体なぜ。ワタクシは急ぎご挨拶に伺う。
「あの、お取り込み中失礼致します」
「あ、はじめまして。私、全母連・岩野田家担当のモノです。今週から本格的に娘さんも見守る事になりまして」
岩野田のオカン度が上がった原因はこれだったのか。お互いに頭を下げつつ御挨拶である。
「母親の病状が落ち着きましたので、今後は岩野田家の充実を図る手筈となっております」
それは大変結構な事である。あらためて御礼をお伝えし、協力を申し出るワタクシであった。
その夜の河合と岩野田のスイートトークには胸騒ぎを帯びていた。
「あの江口先輩をいなせるなんて」
「全然褒め言葉じゃないよ」
「低い声、迫力あった」
「しつけは低音がいいって教わったの」「しつけ?」
河合の笑い声を複雑な思いで聞く岩野田である。
「でもめっちゃマネージャーっぽかった」
「褒め言葉として聞いておくね」
「褒めてるよ」
ありがとうと言いそびれ、岩野田は笑って誤魔化した。
河合は楽しい会話に徹する。心の奥底に潜む不満は胸に秘める。
岩野田に落ち度がないのは重々承知だ。表に出しても剣呑なだけだ。不本意な真似はしたくない。
いつだったか、江口から聞いた与太話も気になっている。折を見て彼女の口から聞いてみたい、氷川商のローカルルール。
細やかな努力や思いやりの積み重ねで繋げる日々、そのペースを崩すのは容易である。
早苗叔母が河合の部屋の扉をノックする。
「マサキ、お風呂がまだでしょう。早く入ってね」
慌てて端末を押さえて「はい」と返事をしたのに、その日の早苗叔母は怖かった。
「リュウジ君もだけど、マサキも最近長電話が過ぎますよ」
端末の向こう側の相手にギリギリ届くであろうトーンで、鋭く短く言い放つ。聞かされた岩野田の胆は心底冷える。
端末を通じた二人の間、それから自室の河合と早苗叔母との間。共に沈黙が生じたのは言うまでもない。
「ゴメン、今日はもう切るよ。おやすみ」
河合の声はいつになく鋭く響いた。
「うん、あの、ごめんね」
「いやこっちこそ。じゃね」
小さい応答だけでプツリと切れた。
岩野田は身体の芯が冷える。胸だけが早鐘を打つ。仕方ない。ずっと真面目に生活してきた大人しいムスメだ。他人に叱られた事など殆ど無い。
通話を終えた河合の部屋の空気はもっと強く強張っていた。目の前には早苗叔母がいる。お互いにひと呼吸が必要であった。
「だらしない生活をしている点は反省します。でも叱るのは僕だけにしてほしい。友達は関係ないよ」
河合が早苗叔母に楯突く事など、今までになかった。だけど今のは納得がいかない。叔母さんは確信犯だった。マナー違反じゃないのか。
「そうね。つい『うっかり』わきまえなかったわ。ごめんなさいね」
早苗叔母も表面だけで冷たく謝罪を述べる。
「伯母さんもそれぞれの親御さん達から大事な息子さん達を預かっていて、責任が有るから」
立場で河合を黙らせる。
「それに叔母さんはもう子育ても終わった只の地域の大人なの。貴方達の大事な友達のお行儀も悪かったらその子も一緒に叱りますよ」
「今の俺ら、行儀悪かった?」
「この場合は最近の貴方達の生活態度を指しています」
有無を言わさなかった。
「貴方達は目指すものがあってここに来ているんでしょう。その長電話は必要なモノなの?」
今の河合のココロの支えだけれど。
「休憩も大事だけど、何より身体を休めて、規則正しい生活をして頂戴。でないと貴方達のお母さんに顔向けできないわ」
一切の容赦はなかった。
「伯母さんはね、貴方達を守る為なら誰かに嫌われる事なんてちっとも怖くないのよ」
一切の口答えを許さなかった。
大澤は隣室でガクブル凍結中であった。何故なら大澤の方が常に長電話をしているから。
「アレはオレに聞かせる台詞だな。とばっちりで悪かった」
「容赦なくとことんねじ伏せられた」
「マサキは身内だから余計に心配なんだ。叔母さん、オマエが息子みたいに可愛いんだべさ」
今は腹立たしいであろうが、本質は有難い話である。懐にいる内は安全であろう。巣立ちは厄介やもしれぬ。
夜半、気付くと岩野田から短いメッセージが届いていた。
『ごめんね。河合君、忙しいのについ甘えて、長電話ばかりしてたね』
河合は慌てて電話を掛ける。今度は布団に潜って小さな声で。
「こっちこそ、さっきはゴメン」
「あの、こんな時間に電話、大丈夫なの?」
「うん少しなら。えっと」
「うん?」
でも何を言えばいいのかわからなくなった。聞きたい事もあったのに。
「いや……やっぱいいや。さっきはゴメンな。おやすみ」
声が聴きたかっただけかもしれない。
岩野田も河合の様子が判り、僅かに気持ちがほころんだ。ワタクシは胸をなでおろす。
「江口の弟、凄いんだね」
翌日の朝である。大家が持参した朝刊地方版は岩野田達を大いに驚かした。
写真入りの大きな紹介記事である。
「このジュニア選手記事。江口ハヤトってコがそうらしいんだけど」
「スゴい。ナショナルトレセンに入ってるよ!」
噂通りの有望株である。身近で例えると大澤レベルが兄弟にいるという状況だ。
「吉野先輩の言う通りだったね」
「同性の兄弟だとプレッシャーも有るだろうね」
江口の大変さにシンミリするのであった。
「でもだからといって、私達が江口を甘やかしたらもっと良くないと思うの」
同時にマネ業務のスタンスを確認し合うのであった。
ただ、甘やかすのと優しさは別物であるが、往々にして混合しがちでもある。その後のマネ達が江口に緩くなるのも女子のサガであろうか。
「岩野田さーん絆創膏ちょうだいー」
「はい」
「岩野田さーんドリンク補充しよー」
「はいはい」
「岩野田さーんタオル忘れたー」
「はいはいはい」
後ろの全母連の追い風もあり、岩野田も無駄に育児モードに入ってしまっている。仏心かもしれないが。
帰社後のワタクシを待つ案件がソレなのは本日のサダメであろうか。
「最近スガワラの仕事が雑だった訳がわかったよ」
マンガン社からのタレコミである。
例の古狸は長年蹴球ジュニア枠にも並行して関わっているらしく、特に今年度はかなりご執心だとか。
「江口弟が今期イチ押しなんですって。メジャー競技は見栄えがいいですものねえ」
「それでコチラの作業が雑になったんだね。留学ゴシップといい、やけに愛が無いと思った」
真田さんとケンジさんは呆れ、ワタクシは早々にブチ切れる。
「だったらさっさと担当を降りて下さって構わないのに」
「実際の仕事は部下で手柄は自分って腹なのよ。名前だけ連ねて、責任は部下に取らせてるわ」
「流石、出世する方は違うねえ」
どう愚痴ってもムカつくのであった。
「それでカワイさん。実はもっと嫌がるかもしれないんだけど」
ケンジさんが申し訳なさそうに口火を切った。
「さっき、そのスガワラから初恋申請が来たんだ。例の江口弟関連。先方はカワイさんを御指名なんだけど、ただその内容が」
どうにも承服しかねる話であった。