小さなパン屋の恋物語

主治医から言われたのは、まさかの“過労”だった。

「ゆっくり休養してください。それから、健康診断は受けているのかな?受けていないなら、年に一度は受けるようにしてください。」

「わかりました。ありがとうございます。」

主治医を送り出してから雄大はminamiへ寄った。
店は閉店していたが厨房はまだ電気が点いたままで、仕込み途中であろうボウルや鍋がそのままになっていた。

きっと途中で気分が悪くなって、一旦自宅へ戻ったのだろう。
明日の営業は臨時休業だ。
いや、明日だけではない。
この際一週間ほど休ませた方がいいだろう。

雄大は臨時休業を知らせるお知らせを手書きで書いてminamiの扉に貼りつけた。
訪れた客には申し訳ないが、今は琴葉を休ませることが先決だ。

そのままになっている調理器具の片付けや掃除をして、雄大が自宅に戻る頃にはずいぶん時間が経っていた。
慣れていないせいもあるけれど、琴葉は毎日これを一人でやっているのかと思うと尊敬に値する。
さらに、雄大が帰宅する前に夕食の準備までしているのだ。

そうして、雄大はようやく気付いた。

琴葉が全然休めていないことに。
仕事人間の雄大を気遣う琴葉。
雄大自身、自分が仕事人間だということは十分理解している。

けれど、よく考えてみれば琴葉こそ仕事人間だ。
minamiの経営を維持するために、休む暇もなく働いている。
定休日は週に一日だ。
年末年始などはさすがに連休を取っているらしいが、一人で切り盛りしているために休みでもやることは多い。
それから、経営状態はよくないことも聞いていた。

だが、雄大にとってそんなことはどうでもよかった。
資金援助ならいくらでもする。
琴葉のためなら金も厭わない。

でもそれは琴葉は望まないことだった。

だったらどうするか。
この先も琴葉と穏やかに過ごしていくためには、どうしたらいいだろうか。
雄大が漠然と思い浮かんだのは、”お互いの働き方を変えること”だった。
だが、それ以上の具体的なアイデアは浮かばない。

自分が仕事を辞める選択肢はない。
それは琴葉もそうだろう。
両親が残してくれたminamiとパンの知識は、琴葉にとってかけがえのない大切なものであるに違いないからだ。
だからこそ、こうやって毎日あくせくと働いている。

だったらどうする?

琴葉の家に住むことは雄大にとってメリットばかりだ。
会社には近いし、遅くなっても琴葉が甲斐甲斐しくもご飯を作って待っていてくれる。
パン生活は徐々に普通の和食になりつつある。

琴葉はどうだろう?

今までパンのことだけ、自分のことだけを考えて生活すればよかった。
それが食事や洗濯掃除などの二人分の家事まで気をつかって生活するようになった。

むろん、それを雄大が強要していることはない。
むしろ気にしなくていい無理にやらなくていいと伝えているし、雄大自身もできることはやっている。
ハウスキーパーだって頼めばいいし、外食だってすればいい。
なのに琴葉は、あれもこれも自分でしようとするのだ。

これでは体を壊すに決まっている。
そんなこと考えなくてもわかることじゃないか。
自責の念に苛まれながら、雄大は琴葉の元へ戻った。

ベッドでは琴葉がすやすやと寝ていて、雄大はそんな琴葉の頭を優しく撫でた。
さらさらの髪の毛が雄大の指をすり抜けていく。

愛しくてたまらない存在。
今すぐにでも抱きしめたい。

ふと、前に琴葉に言われたことを思い出した。

───雄くんは仕事しすぎだよ。

うたた寝をしていた雄大に、優しく毛布を掛けながら呟いていた。

「何だよ。仕事しすぎなのは琴葉だろ?」

雄大の呟きは誰にも聞かれることもなく、静かな部屋の中でひっそりと消えていった。
琴葉が目を覚ますとすでに部屋は明るく、そのことにびっくりして飛び起きた。
普段はまだ薄暗い時間に起きて、開店の準備に取りかかっているのだ。

慌ててリビングへ行くと、雄大がキッチンに立っていた。

「おはよう。」

「雄くん、寝過ごしちゃった!」

慌てる琴葉に対して雄大はずいぶんとのんびりしながら、琴葉を無理矢理ダイニングチェアに座らせる。

「琴葉は今日は休み。」

「え?今日は定休日じゃないよ。」

「うん、でも休み。」

「いやいや、ダメだよ。」

「ダメじゃないの。もう臨時休業の貼り紙は出したから。」

雄大の言葉に琴葉は一瞬言葉を失ってから、叫ぶように抗議する。

「な、なんでそんな勝手なことするの!」

泣き出しそうなくらい瞳を揺らしているのに、今にも雄大に飛び掛からんばかりに詰め寄る。
そんな琴葉の勢いを軽くいなしながら、雄大はマグカップを琴葉の前にコトリと置いた。

「琴葉、ちょっと話をしよう。」

「…?」

「俺も今日は休みを取った。」

「どういうこと?」

「とりあえず、朝食にしようか。」

訳がわからない琴葉は不信感を雄大にぶつけるが、雄大が琴葉の寝起きの乱れた髪の毛を優しく直してやると、「うん」としぶしぶながら素直に従った。
今朝の朝食はご飯に味噌汁、それに目玉焼きベーコン。
雄大が作ったものだ。
こんなことは初めてで、琴葉は物珍しそうに朝食を眺めてから、もそもそと食べ始めた。

「美味しい。」

「そう?よかった。」

少し薄味の味噌汁は、琴葉の体を優しく温かく包んでいく。
思わず、ほうっとため息が出た。

琴葉の反応に満足した雄大は、自分も食べ始める。
琴葉が作る食事に比べたらだいぶ味は落ちるけれど、二人でゆっくりと朝食をとるというこの時間がとても幸せだと改めて感じた。

「俺はさ、この先もずっと琴葉と一緒にいたいと思っているんだ。」

「うん。」

「だからさ、琴葉には無理をしてほしくない。」

その言葉に、琴葉はキョトンとする。

「無理なんてしてないよ?」

「琴葉の感覚ではそうなのかもしれないけど、俺から見たら確実に無理をしているよ。仕事しながら家事も頑張りすぎ。だから昨日熱が出ちゃっただろ?俺も料理はこの程度しかできないけど、ちゃんとやるから。」

「うん、ありがとう。」

「それに、たまには外にも食べに行こう。」

「うん。」

琴葉もまた、雄大とゆっくり朝食をとるこの時間がかけがえのない大切なものだということに気付かされ、雄大を見てにっこりと笑った。
「それからさ、琴葉の働き方は労働基準法に違反していると思わないか?」

思いがけない言葉に、琴葉は首を傾げる。

「うーん?自営だから関係ないんじゃない?」

「法律的にはね。でもminamiは定休日は週に一日だ。琴葉の年間休日は何日ある?相当少ないだろ?」

雄大の指摘に、琴葉は反論する。

「それは雄くんだって。」

「俺も会社側の人間だから労働基準法は関係ないんだ。」

「えー。。。」

さも当然かのように言う雄大に、琴葉は更に不満声を上げた。

「そうじゃなくて、琴葉は働き方改革って知ってる?」

「働き方改革?」

ニュースでちらっと聞いたことはあるけれど、琴葉はそれがどんなものかは知らない。
そもそも企業に属さない琴葉には、縁がないものだと思っていた。

「そこでだ。俺達も一緒に住むんだから、働き方改革をしないか?」

「働き方改革を…?」

いまいちつかめず、おうむ返しになってしまう。
働き方改革とはどんなものだったか、琴葉は頭を捻った。
「いいかい、琴葉。働き方改革っていうのは、個人の事情に応じた多様で柔軟な働き方を自分で選択できるようにすることなんだ。」

「…よくわからない。具体的にはどういうものがあるの?」

「そうだな。今、早瀬設計事務所ではフレックスタイム制の導入や在宅勤務の制度を拡充しようとしている。その制度があると、どういったところが働きやすくなると思う?」

「むむむ。出勤時間をずらすとラッシュを避けれるとか?在宅勤務は、交通費がかからないとかかなぁ?」

琴葉は外のパン屋で働いていたときのことを思い出しながら必死に考えてみたが、その程度のことしか思い浮かばなかった。
そもそも会社で働くということが未経験すぎて、そういったことについていけない。

だが雄大は、満足そうに頷いて言った。

「その通りだよ。ラッシュを避けることで精神的に余裕が生まれる。結果、仕事の効率に繋がる。在宅勤務もそうだね。それに、育児や介護を抱える人は、家で仕事ができたほうが両立しやすいかもしれない。」

「なるほど。」

雄大の解説に今度は琴葉がうんうんと頷いた。
「そこでだ。俺は、フレックスと在宅勤務を活用して、休みもきちんと取ってメリハリある生活にしようと思う。そうして琴葉との時間をちゃんと取るようにして、琴葉に任せっきりにしないようにする。それに、副社長の俺が会社の制度をフル活用すれば、社員も制度を活用しやすいだろ?」

「雄くん…。」

「だから琴葉も、働き方改革でminamiを縮小してくれないだろうか?」

「縮小?」

「具体的な代替案は思い付いていないんだけど、例えば定休日を週に二日にするとか、営業時間を短縮するとか。そうしないと、また琴葉が倒れてしまうよ。もちろん今すぐにとは言わないし、よく考えて琴葉が納得できるような働き方ができたらいいなと思うんだ。」

雄大の思わぬ提案に、琴葉は押し黙った。