痛くて、雨粒に打たれている右足が横断歩道を踏みつけると、水しぶきが飛んでスカートが濡れた。ひざ丈なのに。くそくらえ。頬のほかは、化粧が流れるのが嫌だけど、あとはどうでもいい。息が過剰なくらいあがって、足元から水しぶきが連続して飛び上がってくる。くそやろう。なめてやがる。どうでもいい。びしょびしょになりながら、私は短い信号を渡って、家まで残り5ブロックくらいまで来た。
 傘に連打する雨の真下でも、頭は自由に数分前と今を行き来した。
「もう一度言ってみなよ、あたしがなんだって」
「あんたみたいな最低な女に会ったことがない」
「このくそ女」
「前から思ってたっつうの」
「二度と近寄らないで」
「消えろ」
 私たちは化粧も声も似てて、どっちがどっちの言ったことかもうわからない。でも、浴びせられた言葉たちはとんでもなく粋がよくて跳ね回っている。私は頭がよくないから、脳みそがあんまりないのも知っている。このままじゃ爆発する。
 次の信号も間に合わない。歩道の端に近づいていったら、腰に痛みが走った。何かに当たった。サドルの低いママチャリだ。歩行者を通せんぼする位置で捨てられてるみたいだった。私はよろけたけど、ストッパーがどっしりして戦車みたいなあっちはびくともしなかった。むかついて蹴り飛ばした。地面に激突したベルがリーン、と鈍い音をたてた。リーンじゃねえよ。私が本当に蹴り飛ばしたいのはあいつなのに。
 そばにいたサンダルの男が身を引いてめんどくさそうにこっちを見たから、もっとめんどくさい顔してやった。ちょうどトラックが走ってくるとこだったから、ゲーム画面が移っている奴の手元のスマホを投げてやろうかと思った。土砂降りのなかでゲームしながらコンビニで酒買った帰りらしいお前に、いまの私の感情がわかるわけない。せめて視界に入ってくるんじゃねえよ。スマホを睨んで今すぐ爆発するように心から祈った。
 もうヒールの足も痛くて、傘を持つ手もしびれてる。頬は腫れて4倍くらいになってる実感がある。全身したいことができずに苛立ちが波打って大きくなる。爆弾みたいだった。
 曲がり角で足を蹴り上げて靴を放った。どうせ大きすぎてがばがばのくそヒールだった。生地が足に馴染んで伸びることもなく、かかとには固い合皮が食い込んで食い込んで玄関でいつも絆創膏を貼った。あいつと会うときには気合が入った。会った瞬間に相手がちゃんとしたおしゃれしてきたかどうかわかるものだし、その日の力関係が決まったりする。適当な服のせいで数時間ずっと、今日は本気じゃないって気分のときは最悪だと思う。ヒールが高ければ高いほど、こんなの履いてる私って悪くないでしょ、と強気になれるから今日のヒールは特別高くて細い。白っぽいハイヒールは次々に汚い側溝に激突した。即死みたいだった。
 濡れたコンクリを素足で歩くと痛かった。気持ち悪くて小さいゴミどもが足の裏にひたひたと貼りついてきた。水たまりに入ると足が薄くなって浮き出たころには何百倍も汚くなってる。そうやって歩きに歩いた。ハイヒールの死体からどんどん遠ざかって、もっと捨てたくなってきて、傘を投げる場所を見計らっているうちに、商店街にきていた。ここを抜けるとマンションだ。
雨は遮断され、シャッターが並んで向き合う間をぺたぺた歩いていく。地べたで横になっているホームレスが何人かいるけど、お互い見えてないみたいに横を通る。私たちは何も見えていない。頬の痛みは内側に流れてきて頭の中で言葉が反響し、激しく降られた右手がまた頬に当たっている。何度も何度も当たる。雨の当たらないここでは、ばちん!という音と頭とあごの震える感覚も出てくる。くそくらえ。
 もう傘もいらなくなってきて、取っ手を離した。裸足で商店街のロゴが入ったタイルを踏んで進んだ。汚く無秩序なシャッターの落書きだけが、こちら側だった。TとかKとかあるから英語だと思うけど、何て吹き付けてあるのかわかんない。でも書いた奴の気持ちがわかる。味方はお前しかいないと思う。
 化粧した顔と巻いた髪と、奮発したから意地でも捨てないバッグと、全部消えてなくなればいいっていう全世界に向けた怨念と、あとは帰巣本能だけだった。足は歩いた。頬は何度もぶたれた。手は2本も使ってバッグの端を握りしめてる。特に何も残っていない。
 商店街の終わりから雨と夜が見えてきたとき、そのなかから、一つの影がぬっと出てきた。裸足で、何も持たず、髪も顔にも水が流れていた。長い髪が胸のふくらみに張り付いて、目を挟んでジグザグに線を濡らしている。近づいてきているようだけど、距離があって音はなかった。歩くのをやめた。
 「ごめん」
小さい音だったけど、意味はわかった。あの子だった。私の頬をぶった右手が、遠くに垂れ下がっているのを見た。
ホームレスのいびきが聞こえてきて、微かな雨の音とかちあっている。このあたりのシャッターはスプレーで汚されていないが、塗装が剥げて哀れで電話番号の文字が何個かなくなっていた。埃の被った自転車が寄せ集められ、汚い缶がつぶれて異臭を放っている。新聞が突っ込まれているのもある。ハンドルが削れている。
 ここは誰にも関心を持たれないものしか存在しない世界。私もあいつも。くそくらえ。
 あいつが歩いてくる前に私の両脚はそっちに向かって動き出した。きっとあいつもヒールなんて捨ててきたんだろう。呼吸は荒いまま、あいつと雨に出て行って、私もべたべたに下着が体に貼りつくまで濡れてやろうと思った。そこで一緒に小さい脳みそが爆発すればいい。