僕が目を覚ますと昼過ぎになっていた。随分と長い間、眠ってしまったな。明日香のことは瑞枝おばさんに任せてあるから、心配ないと思うけど、あまり長い間、顔を出さないと明日香が心配するかもしれない。


 僕は自分の部屋から1階に行って、冷蔵庫から麦茶を出して、1杯だけ麦茶を飲んで家を出た。そして、隣の瑞希姉ちゃんの家に向かう。インターホンを鳴らして「蒼大です」というと、瑞枝おばさんが玄関を開けてくれた。


「すみません。少しうたた寝してしまいました」と瑞枝おばさんに言うと、にっこり笑って「蒼ちゃんも疲れていたんだから、仕方ないわよ」と微笑んでくれた。瑞枝おばさんの笑顔で助かった。


 玄関で靴を脱いで、リビングへ入っていくと、パジャマ姿の明日香がリビングでテレビを見ていた。そして僕を見ると、「蒼お兄ちゃん、遅い」と怒られた。明日香はずっと待っていたんだろう。悪いことをしたな。


 瑞枝おばさんが台所のテーブルに座って、明日香をことを見ている。僕も瑞枝おばさんの対面の席に座る。


「蒼ちゃんが家に帰ってから、少し経ってから明日香ちゃんがリビングへ来てくれたのよ」


 瑞枝おばさんがニコニコ笑って教えてくれた。


「明日香ちゃんね、遅いけど朝食もペロリと食べちゃったのよ。よほどお腹が空いていたのね。お昼は簡単だけど、オムライスでもしましょうね。蒼ちゃんも食べていってね」


「ありがとうございます。それで明日香とは、少しは話はできたんですか?」


「そうね。あんまり深い話はしてないわ。今は明日香ちゃんにここに慣れてもらうのが1番だから」


 そうだった。瑞枝おばさんの言ってることが正しい。今はこの瑞希姉ちゃんの家に、明日香が慣れて、アパートに帰りたくならないようにすることが一番、大事だ。


「蒼お兄ちゃん、私、後で、昔、住んでた家に行ってみたい」


「ああ、いいよ。明日香なら大歓迎だよ」


 明日香がにっこりと笑った。昨日よりも笑顔が多くなったような気がする。それだけでも、この街に連れてきて正解だっただろう。


「それじゃあ、おばさん、明日香ちゃんと蒼ちゃんのために、美味しいオムライスと作っちゃうから、食べたら、蒼ちゃんの家に行ってらっしゃい。明日香ちゃんが産まれた家でもあるんだから」


 瑞枝おばさんは席を立って台所へ向かう。僕も席を立って、リビングのソファに座る。明日香と一緒にテレビを見る。僕はあまりテレビは好きじゃない。明日香を見ると、明日香も番組の内容を熱心に見ていないようだ。ただテレビをつけているという感じだ。


 今、僕が話してしまうと明日香に余計なことを言ってしまうだろう。明日香がしたいようにさせよう。


 僕達は何も言わずにテレビ番組が流れるのをジーっと見る。ただこうやってボーっとしているのが良いのかもしれない。


 瑞枝おばさんがオムライスを作って、テーブルの上に置いてくれた。僕と明日香はテーブルの席に着く。瑞枝おばさんも席に座った。3人で「いただきます」と言って、オムライスを食べ始める。明日香はスプーンを上手く使って小さな口へオムライスを運ぶ。だが、そのスピードが速い。


 僕がオムライスを半分まで食べ終わった時には、既に明日香はオムライスを完食していた。瑞枝おばさんは笑って、予備に作っておいた、小さなオムライスを持ってきて、明日香の前に置いた。


「大丈夫。なくなったりしないから。ゆっくりと食べなさいね」


「ありがとう。瑞枝おばさん」と明日香はお礼を言って、オムライスを食べ始める。僕がオムライスと食べ終わったのと、明日香がオムライスを食べ終わったのは、ほとんど同時だった。


 明日香のお腹をみるとポッコリと膨らんでいる。栄養失調も心配だったが、このまま食べていくと明日香、お前、太って大変なことになるぞ。


「明日香ちゃん、お昼ご飯の後片付けを手伝ってくれるかな。明日香ちゃんは女の子だし、後片付けぐらいできるようにならないとね」


 瑞枝おばさんが優しく明日香に語りかける。


 明日香も「はい」と返事をして、片付けを手伝い始める。2人は楽しそうに台所で昼食の後片付けを始める。こんな時、男って役にたたないよね。僕はテーブルに座ったまま、2人が片付けてい様子を眺める。


 ずいぶん、明日香も瑞枝おばさんには懐いてきているようだ。少し安心した。


 片付けが終わると、明日香は「蒼お兄ちゃん、昔の家へ連れていって」とせがむ。それは別にかまわない。


 僕が気になったのは、朝から明日香が、ずっと母さんの位牌を肌身離さずに、しっかりと手に持っていることだ。


 母さんと一緒にいたいという気持ちは理解できるが、位牌をずっと持っているというのは、少し異常ではないだろうか。そこが心配だ。瑞枝おばさんは知っていて無視しているようだから、僕も黙っているけど。


 瑞枝おばさんに隣の自分の家に行ってくると言って、明日香と2人、玄関で靴を履いて、玄関を出る。そして、隣にある、今は僕が住んでいる家に向かう。


「明日香、この家のこと覚えてるか?」

「微かにだけど覚えってる。ほとんど忘れちゃってるけど」


 そうだよな。明日香がこの家を出て行ったのは小学校1年生の時だ。ほとんど忘れていてもおかしくない。


 僕は鍵を開けて、玄関で靴を脱いで入ると「明日香も入ってきていいよ」と声をかける。


 明日香はおそるおそる玄関で靴を脱いで入ってくる。そして1階を見回した。


「色々なものが新しくなってるね」

「ああ、引っ越しする前にハウスクリーニングして、古くなっていたモノは、新しいモノと交換したからね」

「・・・・・・」


 明日香はリビングや台所を見て回る。


「僕の部屋へ行こうか」

「うん」


 階段を上って、2階の自分の部屋へ行く。部屋に入ってきた明日香は茫然と立っているので「ベッドにでも腰かけて」というと、コクリと頷いてベッドに腰をかける。


「この部屋が蒼お兄ちゃんの部屋なんだね」

「ああ、そうだよ。何もない部屋だけどね」


 僕は机の椅子に座って、明日香のほうを見る。


 明日香はベッドから立ち上がると、本棚などを見て回る。そして、位牌を本棚に置いて、手を合わせて拝んだ。


「ちょっと待ってくれないかな。明日香、ここに母さんの位牌を置くのは、ちょっと問題があるというか・・・・・・」

「だって、ここだったら、蒼お兄ちゃんに、毎日、拝んでもらえるし、私も手を合わせにこれるでしょう」


 それは非常に困る。明日香の言っている意味はわかるけど、僕は母さんの位牌を拝む気持ちはない。なんと伝えればいいんだろう。


「とにかく、今はちょっと待ってくれないか。蒼お兄ちゃんも心の準備が必要というか、いきなり位牌を部屋の中に置かれても困るというか、とにかく少し待ってほしい」


「だって、このままだと、お母さんが可哀そうだよ」


「明日香の気持ちはわかる。でも、僕には、母さんの記憶はほとんどないんだよ。いきなり位牌を置かれても戸惑うよ」


 明日香には言えないけど、少し怖い。


「明日香がこの家で暮らすとなれば、自分の部屋に位牌を置くのは構わないけど、僕の部屋に置くのはやめてほしい」

「蒼お兄ちゃんは、お母さんのこと好きじゃなかったの」

「ハッキリ言って、覚えていない」


 僕が覚えているのは、母さんと明日香が家を出て行く時の、母さんの後ろ姿だけだ。


「お父さんの位牌はどうしてるの?」

「僕は父さんの親戚の家を転々と移り住んでいたから、お寺に預けた。だからこの家には位牌も仏壇もない」


 父さんの親類の中を、厄介者扱いで転々と移り住んでいた僕に何ができるっていうんだ。


「お父さんを可哀そうとは思わなかったの」

「だから、、もう一度言うけど、父さんが他界してから、僕は父さんの親類の家を転々として暮らしていたんだ。だから、小さい時から持っている荷物もないし、どうしようもないだろう。父さんの親類が、父さんの位牌をお寺に預けた時も、正直、ホッと安堵したよ。これで父さんもきちんと供養してもらえると思って安心した」

「・・・・・・」


 僕が父さんの親類の家を転々としている時に、位牌を鞄の中へ入れていたんだけど、親類の家でも嫌がられれた。こんなに嫌がられるくらいなら、お寺に預けたほうが、父さんも永眠できると思った。だから今でもそのことを間違ってるとは思っていいない。


「とにかく、明日香がこの家で暮らすと決まったら、明日香の部屋に位牌を置けばいい。今のはっきりしていない状態ではちょっと待ってほしい。それに僕の部屋に位牌を置くのはやめてほしい」

「わかった。お母さんは私が守る」

「・・・・・・」


 明日香は涙を溜めて、部屋から出て行った。そして玄関で靴を履いて、家を出ていてしまう。僕も急いで追いかけた。明日香は瑞希姉ちゃんの家へ戻っていった。


今は何を言っても無理だろう。とにかく瑞枝おばさんには相談しないといけないな。


 僕は自分の家に鍵をかけて、瑞希姉ちゃんの家に行く。インターホンを鳴らすと、瑞枝おばさんが困った顔をして玄関を開けてくれた。


 僕と瑞枝おばさんがリビングへ入ると、明日香の姿はなかった。


「明日香ちゃんなら、泣きながら帰ってきて、2階の部屋へこもってしまったわ。一体、家で何があったの?」


 家に行って、僕の部屋へ案内した途端、本棚の上に位牌を置いて、明日香が拝み始めて、僕の部屋へ位牌を置こうとしたことを説明した。「僕の部屋に位牌を置かれても困る」と言って、「明日香が僕と一緒に暮らした時、自分の部屋に位牌を置いてほしい」と言ったことも話す。


 そのことで、明日香から「お母さんのこと好きじゃなかったの」と質問されて、「覚えていない」と言ってしまったことを瑞枝おばさんにいうとは困った顔をしている。


「確かに明日香ちゃんの今の精神状態は普通じゃないわ。お母さんが死んだことで、そのばかりで頭がいっぱいなのよ。蒼ちゃんだったらわかってくれると思ったのに拒否されたから、ショックを受けて、部屋に閉じこもってしまったのね」

「・・・・・・・」


 明日香のショックも理解できるが、僕にも許容範囲というものがある。


「蒼ちゃんを責めてるわけじゃないの。蒼ちゃんの気持ちも理解できるから。いきなり自分の部屋に位牌を飾られたら、だれでもビックリするわよ。ちょっと待ってほしいと思うのは普通のことだと思うわ。ただ、タイミングが悪かったわね」


 瑞枝おばさん、理解してくれてありがとう。


「・・・・・・」

「僕には、今の明日香の精神状態が普通だとは思えません。実際、どしたらたいいのか悩んでいます」

「時間が解決してくれることもあるわ。もう少し、明日香ちゃんの様子を見守りましょう」


 ここは瑞枝おばさんに任せたほうが良さそうだ。今、明日香と話をすれば、言い合いになる可能性もある。それだけは避けたかった。


「瑞枝おばさんに任せてもいいですか。僕も家で1人になって、少し頭を冷やしてきます」

「いいわよ、任せてちょうだい。明日香ちゃんが落ち着いつたら、少し話をしてみるわね」

「よろしくお願いします」


 僕はリビングを出ると、玄関で靴をはいて、瑞希姉ちゃんの家を後にした。


 僕は家の鍵を開けて、リビングを通り、階段を上って、自分の部屋へ行くとベッドへ寝転んだ。


 正直、明日香の母さんへの執着は、少し常軌から外れていると思う。どうやって、説明すればいいんだろう。本当に時間で解決できる問題なんだろうか。僕にはわからなかった。