別に胡桃さんとは何でもない。
ただ一緒にご飯を食べて、それが楽しくて嬉しくて、気付いたら好きになってた。
勝手な私の想い。
胡桃さんにはちゃんと大事な人がいて、しかもお腹には赤ちゃんがいて。
あずささん、とっても可愛くて幸せそうに笑う人だった。
そんな人を不幸にさせてはいけない。
これ以上、胡桃さんに関わってはダメだ。
深い関係になる前に、お別れしよう。
けじめをつけなくては。
カレーのお店へ行くのは3日後だ。
その日が、胡桃さんと関わる最後の日にしよう。
たくさんおしゃべりして、楽しい思い出を作って、それで終わりにするんだ。
それくらいは、いいよね?
それくらいなら許してもらえるかな?
それまでに、気持ちの整理をつけなくては。
前と同じ、私の仕事が早く終わる土曜日に、これまた前と同じ駅の改札前で待ち合わせだ。
今日もやっぱりドキドキしている。
胡桃さんに会えること、それが嬉しくてたまらないのに、気持ちを抑えることが難しい。
今日が会える最後の日。
そう決意したのに、彼の顔を見ると気持ちが揺らいでしまうのはどうしてだろう。
改札の向こうに胡桃さんを発見する。
胡桃さんもすぐに私を見つけてくれる。
軽く手をあげて微笑んでくれる。
その笑顔が私の胸をきゅんとさせる。
「お待たせ。」
「いえいえ~。」
たったそれだけのやり取りでさえ、心が包まれてしまう。
そのちょっと渋い声、好きだなぁ。
違う違う。
好きを発見してどうするんだ。
気持ちを強く持たなくちゃ。
でも。。。
今日はめいいっぱい楽しむんだ。
素敵な思い出にするって決めたの。
本格インドカレー料理店と銘打ってるだけあって、店員さんもインド人っぽい。
片言の日本語で注文を取っている。
「ナンはお代わり自由だって。」
「へ~、お得ですねぇ。」
壁に所狭しと貼ってあるメニューやチラシに、キョロキョロとする。
店内はスパイシーな香りが漂っていて、余計食欲を誘った。
「うーん、迷います。」
メニュー表を見て、私は唸った。
意外とメニュー豊富で迷ってしまう。
「このスペシャルセットにして、シェアして食べたら4種類食べれるよ。」
胡桃さんがメニュー表を指差しながら言う。
スペシャルセットは好きなカレーが2種類選べて、更にサラダとドリンク付のお得なセットだ。
シェアして食べるって、胡桃さんはそれでいいのかな?
だってそんなの、まるで恋人同士がやることみたいじゃないの。
返事を言い淀んでいると、
「あんまりそういうのは好きじゃないかな?」
と、気を遣われてしまった。
「いえいえ、全然大丈夫です!」
私はすぐさま否定する。
むしろ、シェアしてもらっていいんですか?という心境だ。
こっちが心配になってしまうよ。
そんな考えになってしまっては、すぐに首を振る。
ダメダメ。
私は今日は楽しむって決めたの。
今日は胡桃さんとの最後の日なの。
いい思い出で終わりたいんだよ。
素敵な夢を見させてくれてありがとう。
素敵な思い出をありがとうって、最後に言うんだ。
そして、お別れするんだよ。
4種類のカレーと、大きなナンがテーブルを埋める。
「…ナン、めちゃくちゃ大きくないですか?」
お皿からはみ出す特大のナンを見て、私は言う。
これがお代わり自由とか、お代わりにたどり着けるかさえ怪しい。
「お得感満載だなぁ。」
嬉しそうに笑う胡桃さんを見て、つられて私も笑った。
胡桃さんの笑顔は簡単に私の心を溶かす。
優しいというかあったかいというか、幸せな気持ちになるのだ。
だから一緒に食事をするのが、とても楽しい。
より一層、美味しく感じられる。
学生の頃から一人暮らしで圧倒的に一人で食事することが多い私にとって、この胡桃さんとの食事は家族を思い出させる、いろんな意味で胸がぎゅっとなるものだった。
誰かと楽しく食事をすること。
とても大切で素敵な時間。
じゃあ、胡桃さんの家族は…?
奥さんは…?
今この時間、一人で食事をしているのだろうか。
私はブンブンと頭を振る。
ダメだ、また余計なことを考えてしまった。
今日は最後の日だから、そういうこと抜きにして楽しみたいのに。
「平野さん?どうかした?」
突然頭を振った私を、胡桃さんが心配そうに伺ってくる。
「いえ、あの、グリーンカレーが辛くて。」
4種類のカレーのひとつをグリーンカレーにしていて、さっき食べたとき口が痺れるほど辛かった。
とっさについた嘘だったけど、胡桃さんはすんなり信じてくれる。
「水、もらおうか?」
私の答えを聞く前に、胡桃さんは「すみませーん」と店員さんを呼んで、お水をくれるよう頼んでくれた。
ささっと気遣いしてくれるところも、本当に素敵だと思う。
ああ、また。
また“好き”を見つけちゃったよ。
カレーはどれも美味しくて、あんなに大きいと思っていたナンもペロリと食べれてしまった。
さすがにお代わりはできなかったけど。
グリーンカレーは私が辛い辛いと連呼していたので、胡桃さんが多目に食べてくれた。
単品で頼んだタンドリーチキンは食べやすく切り分けて、私の取り皿へ自然に置いてくれた。
その行動、ひとつひとつが私の心に刻まれる。
これ以上好きになったって、どうすることもできないのに。
なのに、愛しくてどうしようもなくなるのだ。
この気持ちが届くことなんて一生ないのに。
一時の夢を見せてもらっているんだ。
なんて贅沢なんだろう。
私が自己完結をしているというのに、胡桃さんはお構いなしに息が止まるようなことを言い放った。
「平野さん、彼氏いる?」
持っていた水の入ったグラスを落としそうになる。
なぜ今ここで、それを聞くんですかー?
「…いないです。」
どう答えるのが正解かわからなくて、私は一瞬の逡巡ののち正直に答えた。
ここは嘘でも“いる”と言った方がよかったのだろうか。
だけど胡桃さんはホッとした表情をする。
「そう、よかった。」
何がよかったんでしょう?
そんなことを聞いてどうするの?
何だか惨めだ…。
次の言葉が紡げない私をよそに、胡桃さんは真剣な面持ちで言った。
「俺と付き合ってください。」
本日二度目の、息が止まる事案だ。
一瞬理解ができなかった。
というか、思考が停止した。
待って待って待って!
嬉しいのに悲しいって、初めての感情だ。
素直に、嬉しい。
嬉しいのに。
でも胡桃さん、あずささんがいるじゃない?
奥さんなんでしょう?
不倫は嫌だよ。
声が震えそうになるのを必死で堪えながら、私は呟くように返事をした。
「…無理ですよ。」
私の答えに胡桃さんは納得できないのか、畳み掛けてくる。
「他に好きな人でもいるの?」
「…そうじゃなくて。」
「俺のこと嫌い?」
その聞き方はずるい。
“嫌い”って言えたら、どんなに楽なんだろう。
逆に“好き”って言えたら、どんなに嬉しいんだろう。
私は一呼吸おいて、意を決して言う。
「…嫌いじゃないです。でも、胡桃さんには他に大事な人がいるでしょう?」
聞きたくない。
聞きたくないけど、ここではっきりさせておかなくてはいけない。
ちゃんと、胡桃さんの口から真実を聞きたい。
それで、おしまいにするんだ。