佑香の家に行くのにこの橋は何十回、いや何百、何千回と渡ったかも分からない。そんな田舎の小さな橋の名を、今日初めて知った。繰り返す日常から外れると、目にうつるものも変わるのかもしれない。
思返橋。思い返すという言葉には過ぎ去った過去を振り返るという意味もある。行動を改めるとか、考え方を改めるという意味もある。この橋がどうしてそんな名前を付けられたのか、少し興味が湧いた。
橋の柵はただのガードレールで、雨ざらしにより錆びてきている。橋の高さは一メートルもなく、すぐ真下にはくるぶし程の深さのある澄んだ小川が流れる。昔と変わらない綺麗な流れを見ていると小さい頃に佑香と沢蟹を追いかけた思い出が過ぎった。橋から振り向くと俺の家があり、反対側には佑香の家がある。ここは幼い頃の佑香との遊び場だった。
一歩一歩踏みしめるように橋を渡る。すると不思議なことに世界が一瞬だけ輪郭を失ったような錯覚を覚えた。そう、例えるなら屋内から屋外に出たときの、虹彩が取り込む光の量を調整するときのような……
「友也……?」
突然耳に入ってきた声に反応して思わず声のした方へと視線を向ける。聞き慣れた、そしてもうその声で俺の名は呼ばれることはないと諦めていた、その声の主の姿を捉える。
「な……んで? 佑香……っ!」
橋の反対側には佑香が立っていた。
「友也! 友也ぁ……会いたかったよ……でも、どうして?」
あり得ない再会だとは分かっている。それなのに目の前に佑香がいて、俺の名前を呼んでくれていることが嬉しくて、気付いたら涙が頬を伝っていた。
佑香も同じように大粒の涙を溢れさせながら、それに構う様子もなく俺に歩み寄ってきた。
「本当に……友也なんだね?」
「あぁ。佑香こそ、本当に佑香なんだよな?」
互いに互いの存在を確認し合うが、そんなもの本当は必要ない。目の前にいる人物が佑香であることは一目見ただけで確信していた。何故ここにいて、俺の名を呼んでくれているのか、そんなことはどうでもよかった。もしこれが夢だとしても、それでも構わない。
俺たちは互いの手の届く距離まで来ると、そのまま抱き合う形で泣いた。佑香の髪の香りが、触れる肌の暖かさが、佑香の存在全てが伝わってくる。外気の暑さなどもう全く気にならなくなっていた。
しばらく抱き合って泣いた後、橋の横から沢に降りて座り込んだ。そして、俺は何故佑香がここにいるのかを尋ねた。
「それは私の方が聞きたいよ。友也はあの事故で私を庇ってくれて……」
そこまで佑香が言って言葉を詰まらせる。目尻には再び涙が浮かんでいた。
「どういうことだ? 俺はあのとき、佑香を助けられなかったはずだ」
そうだ。あの事故のとき体が全く動かなかった。突然のことに思考も止まり、佑香は俺の目の前で事故に巻き込まれた。俺は佑香を助けられなかったのだ。
「ううん。私は友也に助けられたの。代わりに友也は……命を落としてしまった。私、あなたの葬儀に数日前に出たんだよ? なのに今、友也は私の目の前にいる。普通に話せて、普通に触れる。ねぇ、どうして? どうして……私を助けて友也は死んじゃったの……?」
「ちょっと待ってくれ、俺は無事だし、死んでない。むしろ軽症で入院もほとんど必要なくて、今日なんか普通に学校に行ってたんだぞ? 佑香こそ、どうして無事なんだ? 俺はお前を守れなかった」
守れなかった。俺は佑香を守れる範囲にいたのに、守れなかった。今日までずっと後悔していた。あのとき体が動いていれば佑香を守ることが出来ていたのではないかと、もう何回も自分に問いただした。それなのに、佑香は俺が佑香を守って命を落としたと言っている。辻褄が合わないにも程があるだろう。
「もしかしてだけど……」
俺は先程、橋を渡るときに違和を感じた。まるで世界が一瞬だけ輪郭を失ったように感じたと思ったら、佑香の声が聞こえてきて……
俺は佑香に、今何が起きているのか、その一つの可能性を言おうとして言葉を止めた。そして確信を得るため立ち上がる。
「どうしたの?」
佑香が不思議そうに俺をしゃがんだまま見つめた。
「ちょっと確かめたいことがある」
俺はそう言って沢から坂を上がり、橋の上に立った。そしてそのまま自分の家の方へと進んでみる。先程と同じ、世界が輪郭を失うような錯覚を一瞬だけ感じ、振り向くと、佑香の姿は消えていた。慌ててもう一度佑香の家の方へと橋を渡る。すると同じ錯覚の後、沢で驚いた表情のまま固まっている佑香の姿を確認できた。
「なんかこういうの、漫画や小説で見たことあるな」
俺は自分の身に起きた現象に心当たりがあった。それこそ、物語の中でしか知らない現象で、まさか自分に起きようとは夢にも思わなかった。それこそ今日事故に巻き込まれるよりも、もっともっとあり得ない。人生でまず出会うはずがない現象だった。
「佑香……これ、並行世界とか、多分そういうやつだ……」
自分で口にして恥ずかしく感じながらも、目の前で佑香が消えたり現れたり、そもそも俺が佑香を事故から助けて命を落としたとか、この場にいるはずのない佑香が立っているとか、それら全てを説明できるのがこれしか見当たらなかった。
並行世界。人生の数え切れない選択で選ばなかった方の未来が現行の世界と並行して存在しているとされる、SFなどでよく扱われるものだ。
思返橋。思い返すという言葉には過ぎ去った過去を振り返るという意味もある。行動を改めるとか、考え方を改めるという意味もある。この橋がどうしてそんな名前を付けられたのか、少し興味が湧いた。
橋の柵はただのガードレールで、雨ざらしにより錆びてきている。橋の高さは一メートルもなく、すぐ真下にはくるぶし程の深さのある澄んだ小川が流れる。昔と変わらない綺麗な流れを見ていると小さい頃に佑香と沢蟹を追いかけた思い出が過ぎった。橋から振り向くと俺の家があり、反対側には佑香の家がある。ここは幼い頃の佑香との遊び場だった。
一歩一歩踏みしめるように橋を渡る。すると不思議なことに世界が一瞬だけ輪郭を失ったような錯覚を覚えた。そう、例えるなら屋内から屋外に出たときの、虹彩が取り込む光の量を調整するときのような……
「友也……?」
突然耳に入ってきた声に反応して思わず声のした方へと視線を向ける。聞き慣れた、そしてもうその声で俺の名は呼ばれることはないと諦めていた、その声の主の姿を捉える。
「な……んで? 佑香……っ!」
橋の反対側には佑香が立っていた。
「友也! 友也ぁ……会いたかったよ……でも、どうして?」
あり得ない再会だとは分かっている。それなのに目の前に佑香がいて、俺の名前を呼んでくれていることが嬉しくて、気付いたら涙が頬を伝っていた。
佑香も同じように大粒の涙を溢れさせながら、それに構う様子もなく俺に歩み寄ってきた。
「本当に……友也なんだね?」
「あぁ。佑香こそ、本当に佑香なんだよな?」
互いに互いの存在を確認し合うが、そんなもの本当は必要ない。目の前にいる人物が佑香であることは一目見ただけで確信していた。何故ここにいて、俺の名を呼んでくれているのか、そんなことはどうでもよかった。もしこれが夢だとしても、それでも構わない。
俺たちは互いの手の届く距離まで来ると、そのまま抱き合う形で泣いた。佑香の髪の香りが、触れる肌の暖かさが、佑香の存在全てが伝わってくる。外気の暑さなどもう全く気にならなくなっていた。
しばらく抱き合って泣いた後、橋の横から沢に降りて座り込んだ。そして、俺は何故佑香がここにいるのかを尋ねた。
「それは私の方が聞きたいよ。友也はあの事故で私を庇ってくれて……」
そこまで佑香が言って言葉を詰まらせる。目尻には再び涙が浮かんでいた。
「どういうことだ? 俺はあのとき、佑香を助けられなかったはずだ」
そうだ。あの事故のとき体が全く動かなかった。突然のことに思考も止まり、佑香は俺の目の前で事故に巻き込まれた。俺は佑香を助けられなかったのだ。
「ううん。私は友也に助けられたの。代わりに友也は……命を落としてしまった。私、あなたの葬儀に数日前に出たんだよ? なのに今、友也は私の目の前にいる。普通に話せて、普通に触れる。ねぇ、どうして? どうして……私を助けて友也は死んじゃったの……?」
「ちょっと待ってくれ、俺は無事だし、死んでない。むしろ軽症で入院もほとんど必要なくて、今日なんか普通に学校に行ってたんだぞ? 佑香こそ、どうして無事なんだ? 俺はお前を守れなかった」
守れなかった。俺は佑香を守れる範囲にいたのに、守れなかった。今日までずっと後悔していた。あのとき体が動いていれば佑香を守ることが出来ていたのではないかと、もう何回も自分に問いただした。それなのに、佑香は俺が佑香を守って命を落としたと言っている。辻褄が合わないにも程があるだろう。
「もしかしてだけど……」
俺は先程、橋を渡るときに違和を感じた。まるで世界が一瞬だけ輪郭を失ったように感じたと思ったら、佑香の声が聞こえてきて……
俺は佑香に、今何が起きているのか、その一つの可能性を言おうとして言葉を止めた。そして確信を得るため立ち上がる。
「どうしたの?」
佑香が不思議そうに俺をしゃがんだまま見つめた。
「ちょっと確かめたいことがある」
俺はそう言って沢から坂を上がり、橋の上に立った。そしてそのまま自分の家の方へと進んでみる。先程と同じ、世界が輪郭を失うような錯覚を一瞬だけ感じ、振り向くと、佑香の姿は消えていた。慌ててもう一度佑香の家の方へと橋を渡る。すると同じ錯覚の後、沢で驚いた表情のまま固まっている佑香の姿を確認できた。
「なんかこういうの、漫画や小説で見たことあるな」
俺は自分の身に起きた現象に心当たりがあった。それこそ、物語の中でしか知らない現象で、まさか自分に起きようとは夢にも思わなかった。それこそ今日事故に巻き込まれるよりも、もっともっとあり得ない。人生でまず出会うはずがない現象だった。
「佑香……これ、並行世界とか、多分そういうやつだ……」
自分で口にして恥ずかしく感じながらも、目の前で佑香が消えたり現れたり、そもそも俺が佑香を事故から助けて命を落としたとか、この場にいるはずのない佑香が立っているとか、それら全てを説明できるのがこれしか見当たらなかった。
並行世界。人生の数え切れない選択で選ばなかった方の未来が現行の世界と並行して存在しているとされる、SFなどでよく扱われるものだ。