目が覚めたら病院にいた。
今思いだしても震えが止まらない。沢山の悲鳴と、暴走する乗用車に跳ね飛ばされていく人々。それが次第に近付いてきて、俺の横にいた佑香を呑み込んだ。その瞬間だけが脳裏にこびりついて離れない。
俺の怪我は軽傷で済み、入院はしたもののすぐに退院して今は自宅にいる。だけど佑香は……
俺は佑香を守ることが出来なかった。手の届く範囲にいたのに、体が動かず、思考も回らず、立ち尽くしていただけ。次の瞬間には佑香は跳ね飛ばされていた。
俺の横から佑香が消えた。いつまでも一緒だと思っていた。現状は悠久だと錯覚していた。そんなことはありはしないのに、俺が佑香より少しずつ足が速くなったように、幼馴染みから恋人になったように、佑香の幼い笑い方が次第に歳不相応となっていったように、ゆっくりと時間を掛けて今というものが変化していくのだと、そう思っていた。なんの根拠もない、俺のただの幻想だ。
変わる瞬間は一瞬だった。常に俺の横にいた佑香は、あの日、あの瞬間を境に消えた。どれだけ望んでも、もう戻ることはないだろう。
いや、変わる瞬間を俺は眺めていただけだ。この手で阻止することも出来たはずなんだ。佑香は俺の守れる範囲にいたんだ。それなのに俺は……俺の体は……動かなかった。もし俺が動けていたら運命は変わったのだろうか。
後悔を押しつぶすように床に右の拳を振り下ろす。握り拳のゴツゴツと浮き上がった骨が、薄皮を隔てて木製の床に叩き付けられて鈍い音が俺の部屋の中で一回、二回、三回と響く。痛みはある。だが、そんな痛みなど気にせず四回目の鈍い音が響いた。
あの日暴走した乗用車に乗っていた人はすぐに警察に捕まった。発作によって運転中に意識を失ってしまい、あの大惨事に至ったとのことだ。そんなの、知ったことか。どういった理由であれ、俺から佑香を奪ったことに違いはないのだから。
行き場のない怒りが五回目の鈍い音に変わった。気が付いたら右手が赤くなっている。ジンジンとした痛みが右手を覆う。
そのまま少し経って、俺は右の手の甲に絆創膏を貼り、久しぶりに学生服に袖を通した。学校に行く時間が迫っていた。時刻は午前七時半。支度を終え、何も言わずに玄関で靴を履き、ドアを開いたところで背後に人の気配がした。
「無理して行かなくていいのよ?」
一歩踏み出したところで背後から母さんが俺に声を掛けてくる。心配してくれているのだろう。
「いや、大丈夫。むしろ行かないと佑香に怒られちまうよ。何やってんだ! ってさ」
「そう……気をつけてね」
母さんと短い言葉を交わして俺はいつものバス停へと向かう。佑香が俺の横にいた頃より随分と日差しに暑さを感じるようになっていた。
今日は俺が久しぶりに家を出たからか、ここ最近降り続いた雨は上がり、太陽が大地に降りた水分を全力で蒸発させていた。だから非常に蒸し暑い。
最短ルートを使ってバス停についた。滅多に使わない道だった。いつもは遠回りして佑香と合流してからバス停に向かっていたから……でも、もうその必要はない。
佑香がいたら、こんなに暑い日もくっついてきたのかもしれない。佑香と付き合いだしたのは去年の冬。だから、佑香と恋人として過ごす夏は今年が初めてだった。幼馴染みとしての佑香なら、沢山俺の思い出にいる。けれど、恋人としての佑香は冬と春しか思い出にいない。どんな夏になったのか、今となってはそれを知る術はもうない。
バスに乗ろうとすると、いつもの運転手と初めて目が合った。今まで何度も利用し、その度にこの運転手が乗っていたが、横顔しか見たことがなかった。この路線のバスの乗り降りは常に運転手横の扉からだ。だから、特に乗るときは運転手の横顔を何度も見た。けれど運転手の方から乗客を見ることはなかったのだ。
珍しいなと思いながらも俺は最後列の座席に腰掛けようとして、直前で目に入った一つ前の通路右側の座席に変更した。
バスに揺られ、ひたすらに外を眺めていると、あっという間に目的のバス停へと到着する。一年以上同じ道をバスに揺られ、慣れによって体感時間も短くなったように感じる。一人で乗ることで退屈して長く感じるだろうと思っていただけに良い誤算だった。
バスを降り、少し歩いたら学校が見えてくる。ぽつぽつと同じ学生服を着た生徒も周りに増えてきた。
「友也じゃないか。久しぶりだな!」
「おう、直樹か。久しぶり」
直樹は俺の背中を軽く二回叩いてから肩に腕を回し、必要以上にスキンシップをとってくる。
「暑い! 俺は大丈夫だから、そういうのは辞めてくれ」
「お? わりと元気そうだな」
俺の反応が予想外だったのか、直樹は驚いた様子で俺から離れて制服のカッターシャツの胸元をパタパタと上下させる。やはり直樹も暑かったらしい。
今思いだしても震えが止まらない。沢山の悲鳴と、暴走する乗用車に跳ね飛ばされていく人々。それが次第に近付いてきて、俺の横にいた佑香を呑み込んだ。その瞬間だけが脳裏にこびりついて離れない。
俺の怪我は軽傷で済み、入院はしたもののすぐに退院して今は自宅にいる。だけど佑香は……
俺は佑香を守ることが出来なかった。手の届く範囲にいたのに、体が動かず、思考も回らず、立ち尽くしていただけ。次の瞬間には佑香は跳ね飛ばされていた。
俺の横から佑香が消えた。いつまでも一緒だと思っていた。現状は悠久だと錯覚していた。そんなことはありはしないのに、俺が佑香より少しずつ足が速くなったように、幼馴染みから恋人になったように、佑香の幼い笑い方が次第に歳不相応となっていったように、ゆっくりと時間を掛けて今というものが変化していくのだと、そう思っていた。なんの根拠もない、俺のただの幻想だ。
変わる瞬間は一瞬だった。常に俺の横にいた佑香は、あの日、あの瞬間を境に消えた。どれだけ望んでも、もう戻ることはないだろう。
いや、変わる瞬間を俺は眺めていただけだ。この手で阻止することも出来たはずなんだ。佑香は俺の守れる範囲にいたんだ。それなのに俺は……俺の体は……動かなかった。もし俺が動けていたら運命は変わったのだろうか。
後悔を押しつぶすように床に右の拳を振り下ろす。握り拳のゴツゴツと浮き上がった骨が、薄皮を隔てて木製の床に叩き付けられて鈍い音が俺の部屋の中で一回、二回、三回と響く。痛みはある。だが、そんな痛みなど気にせず四回目の鈍い音が響いた。
あの日暴走した乗用車に乗っていた人はすぐに警察に捕まった。発作によって運転中に意識を失ってしまい、あの大惨事に至ったとのことだ。そんなの、知ったことか。どういった理由であれ、俺から佑香を奪ったことに違いはないのだから。
行き場のない怒りが五回目の鈍い音に変わった。気が付いたら右手が赤くなっている。ジンジンとした痛みが右手を覆う。
そのまま少し経って、俺は右の手の甲に絆創膏を貼り、久しぶりに学生服に袖を通した。学校に行く時間が迫っていた。時刻は午前七時半。支度を終え、何も言わずに玄関で靴を履き、ドアを開いたところで背後に人の気配がした。
「無理して行かなくていいのよ?」
一歩踏み出したところで背後から母さんが俺に声を掛けてくる。心配してくれているのだろう。
「いや、大丈夫。むしろ行かないと佑香に怒られちまうよ。何やってんだ! ってさ」
「そう……気をつけてね」
母さんと短い言葉を交わして俺はいつものバス停へと向かう。佑香が俺の横にいた頃より随分と日差しに暑さを感じるようになっていた。
今日は俺が久しぶりに家を出たからか、ここ最近降り続いた雨は上がり、太陽が大地に降りた水分を全力で蒸発させていた。だから非常に蒸し暑い。
最短ルートを使ってバス停についた。滅多に使わない道だった。いつもは遠回りして佑香と合流してからバス停に向かっていたから……でも、もうその必要はない。
佑香がいたら、こんなに暑い日もくっついてきたのかもしれない。佑香と付き合いだしたのは去年の冬。だから、佑香と恋人として過ごす夏は今年が初めてだった。幼馴染みとしての佑香なら、沢山俺の思い出にいる。けれど、恋人としての佑香は冬と春しか思い出にいない。どんな夏になったのか、今となってはそれを知る術はもうない。
バスに乗ろうとすると、いつもの運転手と初めて目が合った。今まで何度も利用し、その度にこの運転手が乗っていたが、横顔しか見たことがなかった。この路線のバスの乗り降りは常に運転手横の扉からだ。だから、特に乗るときは運転手の横顔を何度も見た。けれど運転手の方から乗客を見ることはなかったのだ。
珍しいなと思いながらも俺は最後列の座席に腰掛けようとして、直前で目に入った一つ前の通路右側の座席に変更した。
バスに揺られ、ひたすらに外を眺めていると、あっという間に目的のバス停へと到着する。一年以上同じ道をバスに揺られ、慣れによって体感時間も短くなったように感じる。一人で乗ることで退屈して長く感じるだろうと思っていただけに良い誤算だった。
バスを降り、少し歩いたら学校が見えてくる。ぽつぽつと同じ学生服を着た生徒も周りに増えてきた。
「友也じゃないか。久しぶりだな!」
「おう、直樹か。久しぶり」
直樹は俺の背中を軽く二回叩いてから肩に腕を回し、必要以上にスキンシップをとってくる。
「暑い! 俺は大丈夫だから、そういうのは辞めてくれ」
「お? わりと元気そうだな」
俺の反応が予想外だったのか、直樹は驚いた様子で俺から離れて制服のカッターシャツの胸元をパタパタと上下させる。やはり直樹も暑かったらしい。