翌日、土曜日。俺は普段は持たない大きめの鞄に佑香の日記を入れ、待ち合わせのバス停へと向かった。

「おはよう、友也! 遅いよ!」

 俺の姿に気が付いたら佑香がバス停から俺の方へと駆けながら大きな声で言った。周りの蝉の声にも負けない佑香の声。

「悪い! 寝坊した!」

 駆け寄ってくる佑香に俺は負けじと大きな声で答えた。俺の声も蝉の声にもちろん負けていないはずだ。

「いひひひ。相変わらずだな。友也は」

 佑香の笑い方は少しだけ特徴的だ。そんな幼い笑い方も佑香の満面の笑顔を見ると気にはならない。互いに走り寄りながら、俺と佑香の距離が縮まると佑香は万歳をするように両手を高々と上げた。それに合わせて俺も両手を上げる。パチンッと乾いた音が響いた。

「あ、やばい、バス来てる! バス来てる! 友也、走るよ!」

 佑香が大声を出しながらバスに向けて精一杯手を振って必死に走る。俺もその後を追うように走った。だが、佑香を追い抜かないように力は抜く。昔は足の速さにもそれほどの差はなかった。いつまでも同じように並んで走れると思っていたが、気が付いたら俺の方が佑香より圧倒的に足が速くなっていた。いつからかなんて、覚えていない。これは男女の成長の差だろう。

「セーフ! 運転手さん、ありがとう」

「ありがとうございます」

 俺と佑香は待っていてくれた運転手にお礼を良いながらバスに乗車した。いつも学校に行くときに見る運転手だった。歳は五十手前だろうか、つば付きの帽子の下から黒い髪に混じって所々白い髪が見える。目元にくっきりと浮かんだしわが印象的な男性だ。

「ふー、間に合って良かったよ。これ逃したら次は三時間待たないといけなかったし」

 佑香が呼吸を整えながら言う。乗客は俺と佑香だけで、佑香は最後列の広々とした座席の真ん中を贅沢に両手を広げながら座っていた。

「いや、待つくらいなら自転車使うよ」

「正気!? この暑さの中、一時間もかけて自転車なんて私は耐えられないよ」

 言いながら、俺も佑香と同じ最後列の座席の左側へと腰掛けると、佑香が俺の方へと寄ってきた。

「狭い。暑い。くっつくな」

「えー? 走ったのは誰のせいだと思ってるわけ?」

 佑香が恨めしそうに俺の視線の下から見上げるように言ってくる。そのまま俺を奥に追い込むように何度も体をぶつけてきた。

「それは俺が悪かったって。頼むから今だけは涼ませてくれ」

「しょうがないなぁ。お昼ご飯代で許してあげよう」

「へいへい。仰せのままに」

 俺が拗ねたように佑香からの手打ちに応じると、佑香はまた「いひひひ」と幼さのある笑い声をあげた。
 佑香は昔からこの笑い方だ。昔は違和感なく馴染んでいたが、高校生にもなると若干の不釣り合いを感じるようにもなってきた。だが、佑香は昔からこうだし、周りも気にした様子はない。むしろ幼さの残る佑香の笑い方により、男子からの人気が高いとまで聞くくらいだ。昔から馴染んでいた俺ですら、大人っぽくなってきた佑香のあどけない笑い方にドキッとしてしまうことが何度かある。
 今まで、俺は本当に佑香の沢山の表情を見てきた。泣いたり、笑ったり、怒ったり。でも、その中に全く同じ表情というのは一つも無かったと思う。笑い方は昔から変わらないのに、佑香の笑顔は笑う度に少しずつ違う。口角の上がり方とか、そういう話ではなく、これは感覚的なものだ。例えるなら猫。違う例えなら大空。佑香は常に表情をコロコロと世話しなく変化させる。

「今日は週末なのに道混んでないね」

 佑香はいつの間にか座席の反対側の窓辺にいた。

「言われてみれば、そうだな」

 俺は佑香の言葉に同調する。佑香は俺とはいつも違うところに気がつく。着眼点が俺とは違うのだ。だから、俺はいつも佑香に気付かされることが多い。その度に俺は佑香に同調する。そして、佑香の気づきを掘り下げるのはいつも俺の役目だ。

「今日は天気も良いし、みんな市外に出掛けてるんじゃないか? ほら、こことは別方向の海沿いに遊園地とかあるし、高速道路使うにもこの道は遠回りだしさ」

「なるほど、じゃあ市内は人が少なそうだからいいね」

「確かにな」

 佑香が気づき、俺が掘り下げ、それにさらに佑香が同調し、そこからまた違う気付きへと飛んでいって俺が同調する。これもいつも通りだ。
 この日もいつも通り佑香と楽しく過ごして、いつも通りこのバスに乗って帰ってくるのだと信じて疑っていなかった。しかし、繰り返される平穏によって麻痺していた俺たちの日常は、唐突に牙を剥いた現実に壊される。
 繁華街でバスを降り、昼食を摂ろうと佑香と店を選んでいたところで、背後から悲鳴が聞こえてきた。声につられて振り返った俺と佑香の目に飛び込んできたのは、歩道に乗り上げてなお勢いが収まらない乗用車と、次々に跳ね飛ばされる人、人、人。
 あまりに非現実な現実を前にして、俺の思考はそこで停止した。