橋の下を通る川のせせらぎの音が妙に大きく感じられた。それほど、橋の下で聞こえる音は限られている。
「佑香ちゃん、今日はお出掛け?」
佑香が挨拶をしてから幾分かの間を開けて、母さんが佑香へ質問した。母さんの声は聞き慣れているはずなのに、どこか違う気がしてしまう。何が違和感なのかは分からないまま、佑香と母さんの会話は続けられた。
「はい。今日はちょっと街の方まで行こうかと……」
佑香の受け答えは歯切れが悪く、いつもの快活さはなくなっていた。こちらもいつもとは違うが、明確に何が違うのかがよく分かる。
「そう。気を付けて行ってらっしゃいね」
母さんは佑香にそう言った。なんだろうか、二人のやり取りは声しか聞こえてこないが、妙な緊迫感がある。そう感じたとき、母さんの声の違和感の正体が分かった気がした。この声は、母さんが怒っているときの声に近い。母さんは感情に任せて激しく怒るのではなく、常に冷静さを装い、静かに怒る人だった。だが、ただ怒っているだけとも違う気がした。
「あの、どうしてここへ?」
佑香が母さんに質問を投げかけた。佑香の声は萎縮してしまっているのか、川の流れる音にすぐに掻き消されてしまう。この二人に何があったのかは分からないが、ただならぬ雰囲気に緊張して、俺は唾を飲み下した。
「……ふぅ。そうね……」
佑香の質問に、母さんが答えないまま沈黙が流れた後、母さんが小さく息を漏らしてから言葉を発した。その声は、いつもの母さんの声の調子に戻っていた。
「佑香ちゃんは、思返橋の伝説って知ってる?」
母さんの質問を受け、今度は佑香がしばらく黙ってしまった。顔は見えないが、おそらく驚いているだろう。俺も、母さんの口から思返橋と聞くことになるとは思ってもおらず、驚いた。それに伝説とまで付け加えられたら、俺や佑香、柳瀬さん以外にも多くの人が思返橋で世界を渡ってきたのかもしれない。それが伝説としてこの町で語り継がれているとでも言うのだろうか。
「まぁ、知らなくてもしょうがないわよね。もう百年以上も前の話なんだしさ」
「百年……ですか。どんな伝説なんですか?」
佑香が答えないままでいると、母さんが耐えかねたのか話しを続けた。それに対し、佑香は俺たちや柳瀬さんのような現象とは違うと思ったのか、母さんに伝説について聞いた。
「思返橋はね、死者が蘇ったとされている橋なの。私も詳しいことは憶えてないのだけど、私のお爺さんが私の小さい頃によく話してくれたわ」
「死者が蘇った橋ですか」
「そうよ。その伝説から、その橋は思返橋という名前が付けられたの。珍しい名前でしょう。それが今、目の前にあるこの橋なのよ」
母さんはそう言って橋の上を渡り始めた。俺は足音しか聞こえないが、足音が聞こえる方向からして、母さんが佑香へと近付いていっているのだろう。そして、母さんの足音は橋の真ん中辺りで止まった。
「実を言うとね、この橋に来れば友也に会えるかもなんて思っちゃったのよね」
ふいに聞こえた母さんの言葉に、俺の心臓が跳ねた。そうだ、こっちの世界の俺は、佑香を事故から守って命を落としたんだ。そう思えば、佑香は俺の命を奪った人間でもあるから、母さんのさっきの声に怒りを感じたのは納得がいく。その怒りを佑香にぶつけるのは違うと思ったから、母さんの怒っているときの声に感じながらも俺がどこか違うと感じたのだろう。そして母さんは怒りを抑え、佑香と向きあった。
母さんは俺に会えるかもしれないと思って、思返橋へとやってきたのだ。その、肝心な俺は母さんの足下にいる。会いたい。会ってやりたい。そう思った。
佑香以外の知り合い、ましてや母さんに見られれば騒ぎになるかもしれない。それとは相反して、母さんに姿を見せたい。その両方の考えが、俺の中で激しくぶつかり合う。自然と体が橋の下から出ようと動き始めたとき、再び母さんの声が聞こえてきた。
「友也は立派だった。佑香ちゃんを命がけで守ったからね。でもさ、理由がどうであれ、自分の子供に先立たれて悲しくない親はいないの。佑香ちゃんも、良く憶えておいてね」
そう言って、母さんは元来た道を帰っていった。母さんの足音が聞こえなくなった頃、俺は橋の下から這い出て、沢から橋の上へと登った。
「……友也、もう来てたんだね」
「おう……」
佑香との間に何とも言えない空気が流れる。佑香も、まさか俺が橋の下にいたなんて思ってもいなかっただろう。今日に限っては、早く来て正解だった。でなければ、下手をすると母さんと佑香が話している間から俺が現れることになっていたかもしれない。
「友也のお母さん、あれでも元気になったんだよ」
互いに声を発しないまま時間が流れていると、佑香が先に話し出した。
「友也が亡くなった一カ月前は、友也のお母さんは外に出てくることもなくてさ、友也の家の近くを通るといつも大きな声で泣いていたみたいだったの」
「母さんが……?」
一カ月前の、家で扇風機の前で団扇まで持って麦茶を飲んでいた母さんの姿が脳裏に過ぎったが、俺はその翌日に命を落としたことになる。俺の死は、母さんをそこまで変えてしまったらしい。
先ほど橋の上で母さんが言った言葉が何度も脳内で響き渡る。子供に先立たれて悲しくない親はいない。俺は佑香を守りたかった。佑香を守れなかったことに後悔した。けれど、佑香を助けて命を落としたことで、俺の周りの人間をも変えてしまった。父さんも、直樹も、もしかしたら変わってしまっているかもしれない。佑香だって、最初にこの橋で会ったときは窶れていた。
「ほんとはね、さっき友也のお母さんにおはようって言われたとき、私はすぐにでも逃げ出したかったの」
そう言った佑香の目には涙が見えた。
「でも、逃げ出さなかった。以前の私なら絶対に逃げていたと思う。多分、こうして友也と会えたことで、私の中の何かが変わったんじゃないかな」
「俺も、佑香とこうしてまた会えて、多分少しずつだけど変わってきたと思う。何て言うのかな? 成長? みたいなさ」
「ほんと? なら嬉しいな」
そう言って、佑香はいつものように「いひひひひ」と声を出して笑った。
「佑香ちゃん、今日はお出掛け?」
佑香が挨拶をしてから幾分かの間を開けて、母さんが佑香へ質問した。母さんの声は聞き慣れているはずなのに、どこか違う気がしてしまう。何が違和感なのかは分からないまま、佑香と母さんの会話は続けられた。
「はい。今日はちょっと街の方まで行こうかと……」
佑香の受け答えは歯切れが悪く、いつもの快活さはなくなっていた。こちらもいつもとは違うが、明確に何が違うのかがよく分かる。
「そう。気を付けて行ってらっしゃいね」
母さんは佑香にそう言った。なんだろうか、二人のやり取りは声しか聞こえてこないが、妙な緊迫感がある。そう感じたとき、母さんの声の違和感の正体が分かった気がした。この声は、母さんが怒っているときの声に近い。母さんは感情に任せて激しく怒るのではなく、常に冷静さを装い、静かに怒る人だった。だが、ただ怒っているだけとも違う気がした。
「あの、どうしてここへ?」
佑香が母さんに質問を投げかけた。佑香の声は萎縮してしまっているのか、川の流れる音にすぐに掻き消されてしまう。この二人に何があったのかは分からないが、ただならぬ雰囲気に緊張して、俺は唾を飲み下した。
「……ふぅ。そうね……」
佑香の質問に、母さんが答えないまま沈黙が流れた後、母さんが小さく息を漏らしてから言葉を発した。その声は、いつもの母さんの声の調子に戻っていた。
「佑香ちゃんは、思返橋の伝説って知ってる?」
母さんの質問を受け、今度は佑香がしばらく黙ってしまった。顔は見えないが、おそらく驚いているだろう。俺も、母さんの口から思返橋と聞くことになるとは思ってもおらず、驚いた。それに伝説とまで付け加えられたら、俺や佑香、柳瀬さん以外にも多くの人が思返橋で世界を渡ってきたのかもしれない。それが伝説としてこの町で語り継がれているとでも言うのだろうか。
「まぁ、知らなくてもしょうがないわよね。もう百年以上も前の話なんだしさ」
「百年……ですか。どんな伝説なんですか?」
佑香が答えないままでいると、母さんが耐えかねたのか話しを続けた。それに対し、佑香は俺たちや柳瀬さんのような現象とは違うと思ったのか、母さんに伝説について聞いた。
「思返橋はね、死者が蘇ったとされている橋なの。私も詳しいことは憶えてないのだけど、私のお爺さんが私の小さい頃によく話してくれたわ」
「死者が蘇った橋ですか」
「そうよ。その伝説から、その橋は思返橋という名前が付けられたの。珍しい名前でしょう。それが今、目の前にあるこの橋なのよ」
母さんはそう言って橋の上を渡り始めた。俺は足音しか聞こえないが、足音が聞こえる方向からして、母さんが佑香へと近付いていっているのだろう。そして、母さんの足音は橋の真ん中辺りで止まった。
「実を言うとね、この橋に来れば友也に会えるかもなんて思っちゃったのよね」
ふいに聞こえた母さんの言葉に、俺の心臓が跳ねた。そうだ、こっちの世界の俺は、佑香を事故から守って命を落としたんだ。そう思えば、佑香は俺の命を奪った人間でもあるから、母さんのさっきの声に怒りを感じたのは納得がいく。その怒りを佑香にぶつけるのは違うと思ったから、母さんの怒っているときの声に感じながらも俺がどこか違うと感じたのだろう。そして母さんは怒りを抑え、佑香と向きあった。
母さんは俺に会えるかもしれないと思って、思返橋へとやってきたのだ。その、肝心な俺は母さんの足下にいる。会いたい。会ってやりたい。そう思った。
佑香以外の知り合い、ましてや母さんに見られれば騒ぎになるかもしれない。それとは相反して、母さんに姿を見せたい。その両方の考えが、俺の中で激しくぶつかり合う。自然と体が橋の下から出ようと動き始めたとき、再び母さんの声が聞こえてきた。
「友也は立派だった。佑香ちゃんを命がけで守ったからね。でもさ、理由がどうであれ、自分の子供に先立たれて悲しくない親はいないの。佑香ちゃんも、良く憶えておいてね」
そう言って、母さんは元来た道を帰っていった。母さんの足音が聞こえなくなった頃、俺は橋の下から這い出て、沢から橋の上へと登った。
「……友也、もう来てたんだね」
「おう……」
佑香との間に何とも言えない空気が流れる。佑香も、まさか俺が橋の下にいたなんて思ってもいなかっただろう。今日に限っては、早く来て正解だった。でなければ、下手をすると母さんと佑香が話している間から俺が現れることになっていたかもしれない。
「友也のお母さん、あれでも元気になったんだよ」
互いに声を発しないまま時間が流れていると、佑香が先に話し出した。
「友也が亡くなった一カ月前は、友也のお母さんは外に出てくることもなくてさ、友也の家の近くを通るといつも大きな声で泣いていたみたいだったの」
「母さんが……?」
一カ月前の、家で扇風機の前で団扇まで持って麦茶を飲んでいた母さんの姿が脳裏に過ぎったが、俺はその翌日に命を落としたことになる。俺の死は、母さんをそこまで変えてしまったらしい。
先ほど橋の上で母さんが言った言葉が何度も脳内で響き渡る。子供に先立たれて悲しくない親はいない。俺は佑香を守りたかった。佑香を守れなかったことに後悔した。けれど、佑香を助けて命を落としたことで、俺の周りの人間をも変えてしまった。父さんも、直樹も、もしかしたら変わってしまっているかもしれない。佑香だって、最初にこの橋で会ったときは窶れていた。
「ほんとはね、さっき友也のお母さんにおはようって言われたとき、私はすぐにでも逃げ出したかったの」
そう言った佑香の目には涙が見えた。
「でも、逃げ出さなかった。以前の私なら絶対に逃げていたと思う。多分、こうして友也と会えたことで、私の中の何かが変わったんじゃないかな」
「俺も、佑香とこうしてまた会えて、多分少しずつだけど変わってきたと思う。何て言うのかな? 成長? みたいなさ」
「ほんと? なら嬉しいな」
そう言って、佑香はいつものように「いひひひひ」と声を出して笑った。