この日は柳瀬に家に送ってもらって、すぐに眠ってしまった。慣れない人混みに、自分でも自分でも気付かないほど疲れていたのだろう。バスで寝過ごしたことといい、俺はよほど人混みが苦手らしい。
 朝起きて、俺はまず佑香の日記のことが気になった。バスの中で佑香は俺より早く眠ってしまっていたから、もしかしたら同じように寝過ごしてしまったかもしれない。まぁ、もし起きていたら同じバス停で降りるのだから、きっと俺を起こしてくれるはずだ。そうなると、二人して寝過ごしたと考えるのが妥当だろう。
 佑香の日記を手に取り、俺はベッドに座ったままパラパラと捲る。思えば、最初に思返橋を渡ってから、色々とあった気がする。思返橋の下で佑香と二人並んで喋ったこと。ショッピングモールに行く途中で気まずくなって、互いに一言も話さずに歩いたこと。クレープを食べたり、クレーンゲームをしたり……緑地公園で佑香から告白されたことを懐かしんだり、佑香とお互いの後悔を共有したりもした。そして、昨日の夏祭りでは……佑香は俺に最後にもう一度だけ会おうと言われて何を思ったのだろうか。それはこの日記に書かれているかもしれないし、書かれていないかもしれない。

『七月六日

 今日は友也とお祭りに行った。途中で柚希たちと会いそうになったことには驚いた。友也と二人でお面をかぶってやり過ごしたけど、柚希と軽く背中がぶつかってしまったときは本当に焦った。でもその前に買ったわたあめは美味しかったなぁ。どうしてお祭りって、何でもない普通の食べ物があんなに美味しく思えるんだろう。
 その後の花火大会で、友也のオススメの場所に連れて行ってもらった。まさか市役所で花火を見ることになるなんて思ってもいなかった! けれど、間近に見える花火の迫力はとても凄くて、今でも目に焼き付いている。
 花火の途中で、私はやっと友也にもう会うのを辞めようと言えた。ずっと言おうとして言えなかった言葉だ。やっと言えたのに、言えた瞬間に胸が苦しくなった。これで終わっちゃうんだなぁって思うと、とても寂しくもなった。けれど、友也の返事は私の思っていたものとは違って、最後にもう一度だけ会おうと言われた。それが私は嬉しかった。思えば、友也は自分で何かを決めることは少なかったし、ほとんど私が決めることばかりだったと思う。そんな友也が自分の意思で未来を決めてくれた。それが、私は本当に嬉しかったんだ。
 帰りのバスでは不覚にも寝てしまって、気が付いたら終点だった。柳瀬さんが起こしてくれたけれど、隣に友也がいなくて私は取り乱してしまった。それを柳瀬さんが優しく語りかけてくれて、私はすぐに落ちつくことが出来た。柳瀬さんは私たちと同じように、思返橋で不思議な体験をしていたのだと話してくれた。柳瀬さんと私たちに共通することは後悔。それを乗り越えたとき、柳瀬さんは橋を渡っても何も起きなくなったらしい。私や友也の後悔が薄れてきているのって、後悔を乗り越えようとしているからなのかもしれない。そんなことを、柳瀬さんの話しを聞きながら思った。私は私を友也が助けてくれたことも後悔している。私は友也の未来を奪ってしまったのだ。だけど、別の世界で友也は自分の未来を歩めているのだと知った。だから私は、私を助けてくれた友也の分まで、自分の未来を見据えなければならないなって思い始めたんだ。私はきっと生涯で友也のことを忘れることはないだろう。それは友也の命を背負って生きていくということだ。私が友也の分まで生きていくんだって気持ちを忘れないように、この日記にそれを書いておく。いつか辛くなったとき、必ずこの気持ちに戻れるように。
 明日は友也と最後のデートだ。どこに連れて行ってくれるんだろう。楽しみ』

 佑香の日記は今までで一番長いものだった。佑香は俺に最後にもう一度と言われて嬉しかったのだと気持ちを記している。それが俺にとっても嬉しかった。
 佑香も、俺と同じように後悔が薄れてきている。確かに、それは後悔が消えてしまうのではなく、乗り越えることで別の何かに変化しようとしているのかもしれない。
 柳瀬は後悔を、人生の隠し味だと例えたが、その柳瀬の言葉の意味が少しだけ分かった気がする。後悔を乗り越え、未来を進むための何かに昇華させたとき、それはその人の人生で掛け替えのないものになるだろう。それは立派な人生の隠し味だ。
 佑香の日記には、俺の受け身の姿勢のことも書いてある。今までの俺だったら、佑香に会うことを辞めようと言われれば、首を縦に振っていただろう。自分の中ではもう一度会いたいと思っていても、それを口にすることはなかったと思う。俺はこの数週間で少しずつ変わっていったんだ。思返橋を渡って佑香に会うことで、自分の人生を歩めるように変わっていった。柳瀬の言うとおり、思い返すという言葉は、考え方を改めるという意味もある。俺は過去を思い返すと同時に、未来に向けて考え方も思い返すことが出来ていたようだ。
 今日は佑香と最後に会う日だ。俺は身支度を整え、思返橋へと向かう。今までは橋を渡ると必ず佑香が待っていて、毎回俺の方が後だった。最後くらいは俺の方が先に佑香を待っていようと思い、予定より二十分も早く俺は橋を渡る。いつものように世界が歪むような現象もあり、世界を渡ることは出来ただろう。そこに佑香の姿はなく、俺は目論見通りに佑香より先に待ち合わせに来ることが出来たようだ。
 先に来たとはいえ、やることもないので橋の端に寄って佑香を待っていると、佑香が来る道とは逆方向から人の足音が聞こえた。俺は慌てて橋の下へと隠れた。足音は橋の手前で止まったように思えたが、顔を出して確認するわけにもいかず、俺は橋の下で身動きが取れなくなってしまう。すると今度は佑香の家の方からも足音が聞こえてきた。時間的に考えても、この足音は佑香のものだろう。

「あら、佑香ちゃん。おはよう。久しぶりね」

 佑香の家とは反対方向から歩いてきた足音の主は、佑香の姿を確認すると、佑香に挨拶をした。その声は俺のよく知るもので、むしろ毎日のように聞いている声だった。

「あ……友也のお母さん……お、おはようございます」

 今俺の頭の上では佑香と俺の母さんが橋を挟んで向かい合っているのだろう。佑香は俺の母さんへぎこちない挨拶を返した。