「十年以上前だったか、私のお婆さんもそろそろ駄菓子屋を続けられないと見切りを付けようとした頃に、私の友人は現れたんだ。その日は私が店番をしていた日で、丁度今くらいの時期、土砂降りの雨だったことを憶えているよ」

 柳瀬は俺の頭から手を離し、再び語りはじめる。駄菓子屋ヤナセは俺が小学校二年生に上がる頃には閉店してしまっていた。建物は未だ健在だが、駄菓子屋ヤナセの看板はもう片付けられている。

「友人はやはり、私に黙って居なくなってしまったことを後悔していたそうだ。随分と月日が経ってしまったが、私と友人はようやく本当の意味で仲直りできたよ」

 柳瀬が駄菓子屋の店番をしていたのは、いつか来るかもしれない友人の為だったようだ。柳瀬は世界を渡って友人の気持ちを知ることが出来た。でも、柳瀬は同時に、友人が柳瀬に黙って引っ越したことを後悔しているだろうと知った。いつか友人が後悔と向き合い、柳瀬に会いに行こうと思うときが来ると信じて、柳瀬は駄菓子屋の店番を続けたのだ。

「それから数日で駄菓子屋は閉店して、私は会社に通いやすい市の中心へと引っ越してしまってね。それでも、君や、君とよく一緒にいた女の子のことは、君たちが高校に進学して通学にバスを利用するようになったときにすぐに分かったよ」

 そこまで話した柳瀬は、急に目尻の皺を上げて真剣な顔つきになる。

「君が思返橋を渡って会っている相手……その女の子だよね?」

 不意を突いて柳瀬の言葉は核心に迫った。

「……そうです」

 顔つきだけでなく、柳瀬の声のトーンも低くなる。バスの淡い光に誘われて、窓に小さい虫が集まってきていた。昼は蝉の音が煩いくらいに鳴り響く外も、夜の帳が降りてからは鈴虫の綺麗な音色が聞こえるだけ。賑やかな昼とは打って変わって、静かな夜だった。そんな山奥に停車するバスの車内で、俺は柳瀬の次の言葉を待っていた。

「最近見かけないなと思っていたんだ。そうしたら、君がさっきお連れの方が途中で降りなかったかと聞いてきた。このバスは思返橋を渡るからね。まさかとは思ったけど、そのまさかだったわけだ」

「佑香は……事故に巻き込まれ、下半身が動かなくなり、記憶も失ってしまって……今は、入院しています」


 俺の言葉に、柳瀬は次の言葉を紡げず、口を開いては音を発せないまま閉じてを数回繰り返した。思返橋で俺が佑香と会っていることまでは予測できていたが、佑香の現状は柳瀬の想像を遥かに上回ったのだろう。やがて柳瀬は「そう……か」と短く告げた。

「橋の向こうにいるのは、元気なままの佑香なんです」

「君は、その女の子……佑香さんかな。その佑香さんをとても大切に思っているんだね」

「はい」

 ようやく言葉を発した柳瀬の声は、優しさのある柔らかいものに戻っていた。柳瀬の目は真っすぐ俺の目を見つめていて、その眼差しは俺の心の中をまるで見透かしているようにさえ思える。

「突然だけど、君は思い返すって言葉を知っているかな?」

「思い返す……ですか。過去を思い返すとか、そういうときに使う言葉だと思います」

「そうだね。でも、それだけじゃないよ」

 柳瀬は勿体ぶったように言う。光を求めてやってきた小さな虫が窓に体当たりする音が薄暗い車内に響く。

「思い返すという言葉には、考え方を改めるという意味もある。考え方が変われば未来は変わるよね。つまり、思い返すとは未来を変えることも出来る言葉なんだ。思返橋は、過去と未来を繋ぐ橋なんだよ」

「未来……ですか」

「そう。未来だ。君はまだ過去しか見えていないんじゃないかな。私は最初、思返橋が世界を繋いだのは私の中にある強い後悔が要因だと思っていた」

「俺も、事故から佑香を救えなかったことに後悔して、柳瀬さんと同じように引き寄せられるように思返橋を訪れました」

 そうだ。あの橋が世界を繋いだのは、俺が強い後悔を持っていたからだと思っていた。違う世界の佑香も後悔をしていた。それは形は違えど、柳瀬と柳瀬の友人も同じだ。

「でもそれは違っていた。思返橋はきっと、過去に囚われて未来を見失った人の、過去と未来を繋いでくれる橋なんじゃないかと思うんだよ」

「未来を見失った人……」

 柳瀬に言われた言葉は俺の心の深いところに突き刺さった。俺は過去に囚われ、未来を見失っていた……のか? 身体の自由も記憶も奪われた佑香に会うことを恐れて、俺は佑香を助けられなかったことばかりを悔いた。それは過去ばかりを見て、未来を見られなくなっていたということなのだろうか。

「でも、君も今のままではいけないと思っている。このまま橋を渡り続けてもいいのかと迷っている。そうだろう?」

 柳瀬に問われて、俺は拳に自然と力がこもるのを感じた。

「……はい」

「その迷いは、君が未来を見ようとしている兆しだよ。思い返すという言葉には、考え方を改めるという意味もあるって言ったよね。君の考え方は、思返橋を渡ることで変わり始めている」

「そう、でしょうか……俺は、思返橋を渡って、向こうの佑香に会う度に、後悔が薄れていくのを感じて怖くなりました。俺の中の後悔がこのまま消えてしまっても、現状が変わることはないです。後悔が薄れていくのが怖くて、だからこのまま橋を渡り続けていいのかと思ってるんです」

 柳瀬に向けて俺は少し声を荒げた。そんな自分に驚いたが、心の中に充満していた気持ちを柳瀬に掘り起こされて、溢れ出る感情を制御することは出来なかった。