帰りのバスは柳瀬ではなかった。
 今日、柚希に言われたこと、直樹に言われたこと、それらがぐるぐると頭の中で何度も回る。
 佑香はあの日の事故で、記憶と自由を失った。俺のことも忘れ、姿形は佑香なのに、まるで別人のように感じる。それが耐えられなくて、俺は佑香の入院している病院に会いに行けていない。最初に面会したときに言われた「あなたは誰?」という言葉が、佑香の声で放たれたその言葉が、耳にこびりついてしまい、ふとした瞬間に思い出すのだ。
 佑香は記憶を失うと同時に、下半身不随になった。車椅子無しではもう自由に出歩けない。俺があの事故から守れなかったからだ。
 思返橋で世界を渡ったとき、佑香の声で俺の名が呼ばれたことが、震えるほどに嬉しかった。佑香が俺のことを認識し、佑香の足で何処にでも着いてきてくれる。もうそんな日は来ないと思っていたから、それが幸せでしょうがなかった。
 でも、それはまやかしの現実だ。あっちの世界では、俺は佑香の代わりに命を落とし、佑香はそれを後悔していると言った。いつかは捨てなければいけない幻想なんだ。
 直樹は自分の足で踏み出した。自分の周りの環境を変えようと、自分の意思で行動に出たのだ。

 “ねぇ、もしさ……あの時、私が告白してなかったら、友哉はどうしてた?”

 佑香に告白された緑地公園で、昨日佑香に言われた言葉だ。俺は佑香が好きだった。いつも俺の隣にいて、泣いたり笑ったり、ときには怒ったり、そんな佑香が好きだった。でも、あの日佑香に告白されなければ、俺たちが恋人同士になることはなかっただろう。俺は佑香や直樹のように、自分から未来を選択する勇気がない。

 一週間は何事もなく、あっという間に過ぎ去った。柚希があれから俺に怒鳴り込んでくることもなければ、直樹がバスに乗り込んでくることもなく、通学に使うバスの運転手の大半は柳瀬だった。代わり映えのないいつもの日常を繰り返し、佑香と約束をした週末がやって来た。
 お祭りは夕方からだが、佑香との待ち合わせは少し早めの午後二時だ。俺は昼食を済ましてから、適当に暇を潰し、約束の十分前には思返橋へとやって来た。早いけど、この先で佑香が待ってくれているかもしれない。そう思いながら橋を渡ると、丁度真ん中を越えた辺りでいつもの世界の輪郭がぼやける感覚を覚え、目の前には淡いピンクの浴衣姿をした佑香が立っていた。

「お待たせ。いつも早いな」

「友也こそ、だんだん早くなってくね」

 俺と佑香は短く言葉を交わし、足早にバス停へと向かう。予定より早く来たから、バスが来るまでの時間は多少あった。

「浴衣、似合ってるな」

 俺は思返橋では言えなかったことを、佑香に言った。恋人になって初めての夏祭りだ。今までに地元の盆踊りなどで佑香の浴衣姿は見たことがあったが、改めて見ると本当によく似合っている。それ以外の言葉が出てこず、俺はそのままの感想を口にした。

「ありがと。友也はいつも通りの服装なんだね?」

 佑香に言われ、俺も甚兵衛などを着てくれば良かったかと後悔した。今から着替えに帰ると、次のバスは二時間後だからお祭りに間に合わなくなってしまう。
 時間通りにバスがやってきて、先に佑香が乗り込み、続いて俺もバスに乗る。毎週のように気温も上昇し、おまけに今日は昼下がりだったのもあって、外気とバスの中の温度差は相当のものだった。ヒンヤリとしたバスの中、佑香はいつものように最後列の座席にドカッと座る。制服だろうが、私服だろうが、浴衣だろうが、佑香のこの行動パターンは絶対のようだ。もちろん、このバスの運転手が柳瀬でなくても関係ない。ただ、柳瀬以外の運転手は、佑香のこの行動を、社内が見えるミラーでチラッと見る。多分、あまりよくは思われていないのだろう。
 バスはほぼ時間通りに目的のバス停へと到着した。ここからお祭りの会場までは路面電車を使う。片側三車線もある大きな道路の真ん中に、小島のように浮かぶ控えめな駅。気持ち程度に雨風をしのげる簡易な駅は、信号付きの横断歩道を渡って入る。しばらく待つと、一両の電車が、道路の真ん中を走ってきた。一見するとバスにも見えるが、バスとの違いは、道路の間に敷かれたレールの上を走るということ。あとは、交差点に路面電車専用の指示表示が出る。普通の信号機にもある緑の矢印の他に、オレンジの矢印が出るのだ。これは路面電車専用の信号で、オレンジの矢印が出ている間は全ての車が停止する。
 俺と佑香は、やって来た路面電車に乗り込むと、チンッチンッと独特の合図を鳴らした後に扉が閉まり、ゆっくりと走り出した。歩くよりは早いが、隣の道路を走る車にはどんどん追い抜かされていく。その様子を眺めていると、数駅でお祭り会場の最寄り駅に到着した。
 俺たちと同じように、多くの乗客が同じ駅で降りる。ほぼ満車状態だった車内が、空っぽ同然まで乗客を吐き出し、そのまま走り去っていった。
 お祭り会場の近くは人でごった返していた。市内でも有名なお祭りで、辺りには出店も多く並んでいる。俺は、はぐれないように佑香の手を握り、人混みの中を歩き始めた。

「すごい人ね。ワクワクしてきちゃった」

 後ろから佑香の無邪気な声が聞こえてきた。

「佑香、大丈夫か?」

 身軽な服装の俺とは違い、佑香は動きづらい浴衣だ。無理に人混みを進のではなく、人の流れに乗るようにゆっくりと進む。お祭りのメインとなる手筒花火が見られる場所が、この先にあるからだ。時間はまだ早いのだが、この込み方では見やすい位置はもう諦めた方がいいだろう。それでも、佑香との思いで作りのために、手筒花火を見たいと思い、佑香の手を握ったまま人の流れに身を任せる。
 途中、焼きそばやフランクフルトなど、縁日と言えばといった屋台がいくつも軒を連ねるエリアに差し掛かった。香ばしい匂いが食欲を刺激する。それに負けたのか、佑香が俺の服の裾を掴んで、二、三度軽く引っ張ってきた。

「わたあめ!」

 俺が振り返ると、佑香は目を輝かせて単語だけで訴えてくる。しかし、屋台の方へ行くには、人の流れから逆らわなければならなかった。