授業が終わって、放課後になった。俺が帰る支度をしていると、柚希が俺の席の前までやってくる。

「ちょっといい?」

 唐突に柚希から掛けられた言葉には、明らかに怒気が含まれていた。以前、柚希には佑香の所へ行こうと誘われ、断った覚えがある。佑香の所と言っても、柚希はあっちの世界に行けるわけではないし、存在も知らない。誘われたのは、“こっちの世界の佑香のいる場所”だ。でも、俺はそこへは行けない。

「何で友也は佑香に会いに来ないの?」

 柚希は怒気を含んだ声色のまま、俺に詰め寄ってきた。
 俺が柚希の言葉に黙ったままでいると、柚希は同じ台詞を今度は教室中に響き渡る声量で繰り返した。教室の中は何事かと静まり返り、一気に俺と柚希に注目が集まる。
 すると、柚希とよく一緒にいる女子二人が慌てて柚希の元へやってきて、柚希の腕を掴んだ。

「ちょっと、柚希! 何してるの!?」

 そう言った女子の一人が、柚希の腕を引っ張って、この場から柚希を引き剥がそうとする。

「だってコイツが! いつまでも佑香のとこに来ないから! 付き合ってるんでしょ? おかしいじゃん!」

 二人がかりで柚希をなだめにかかるも、なおも柚希は止まる様子がない。今にも俺に噛み付かんばかりの剣幕だ。

「二人だって、いつもは私と同じこと言ってるでしょ! 何で本人に言わないの?」

「いや、そうだとしても、空気読みなさいよ」

「空気って何? 佑香はあんなに苦しんでるんだよ? コイツが傍にいないなんて絶対おかしい!」

 柚希の叫ぶような声は、いつの間にか他のクラスからもギャラリーを集めていた。俺は何も答えられないまま立ち尽くすだけ。すると、廊下のギャラリーを掛け分けて入ってくる人物の姿が見えた。

「友也、とりあえず教室から出よう!」

 そう言って、突然教室に入ってきたかと思うと、直樹は俺の腕を掴み、俺は直樹に引っ張られて教室から出ていった。
 直也の後を追いかけるように走り、教室からは随分遠い場所まできた。久しぶりに走り、階段も全力で駆け上がったものだから、俺は肩で息をするのがやっとだ。それに対し、直樹は全く息切れした様子がない。

「ここまでくれば大丈夫だろう」

 直樹はそう言って、壁にもたれ掛かった。俺も近くの階段に腰掛ける。

「なぁ、直樹も、俺を薄情な奴だと思うか?」

「どうした? 急に」

 俺は、あの場から助けてくれた直樹にお礼も言わないまま、自分の中で黒く膨れあがった気持ちを制御できなくなっていた。
 柚希に言われた、言葉の全てが俺の脳内を駆け回る。

「俺が佑香の傍にいないのはおかしいよな。俺だけ普通に学校に通ってるのに、佑香にはそれが出来ない。佑香は日常を奪われたのに、俺は変わらない日常を送ってる。なぁ、お前も、俺が薄情な奴だと思ってるんだよな!? ズルい奴だと思ってるんだよなぁ!?」

 俺は階段から立ち上がり、壁にもたれている直樹の胸ぐらを掴みかかった。

「ちょっ、落ちつけって!」

「落ちついていられるかよ!」

 直樹にあたるなど、お門違いだと理性では分かっている。それなのに自分を制御し、止まることが出来ない。

「俺だってなぁ! 本当は今のままじゃ駄目だと思ってる。分かってるんだ」

 俺は直樹の胸ぐらを掴んだまま、がなり立てる。辺りに人気はなく、誰かが何事かと様子を見に来るようにも思えない。

「だけどな、辛いんだよ。俺のことを覚えていない佑香と会うのはさぁ……」

 俺の勢いは次第に衰え、直樹を掴む腕の力も抜けていく。そして、直樹からゆっくりと、俺の腕が離れた。その頃には、理性が本能を制御出来るようにもなっていた。

「俺もさ、なかなか一歩が踏み出せなくて悩んでるんだ」

 直樹は俺の腕から解かれると、ポツリと呟くように言葉を発した。その声はとても弱々しく、普段の直樹からは想像もつかないほど小さな声だった。

「昨日、太一や藪たちに久しぶりに会って、思い知らされたんだ。あいつらは新しい環境でもちゃんと自分の居場所を作ってる。友也や佑香も、この高校で新しい友人をどんどん作って、俺から少しずつ離れていってる」

「そんなこと……」

「友也からしたら、そんなつもりはないだろう」

 直樹はポツリポツリと吐き出すように言葉を重ねていく。

「一年の頃は良かったなぁ。友也も佑香もいて、俺は一人ぼっちにはならずに済んだ。でも、二年になって、お前らとクラスが別れちまった。それからは一人だ。一年の頃にお前らとばかりいて、新しい友人を作らなかった結果だな」

 直樹は戯けるな仕草で言った。まるで自分は道化だとでも言いたそうな直樹の言葉だが、まだ続きがあるようなので反論せずに耳をかたむける。

「でもさ、さすがに太一たちに会って、このままじゃ駄目だなって俺も思ったんだ。変わらなきゃいけないってさ。友也と同じだな。まぁ、俺の場合、友也ほど大事じゃないけど」

「いや、俺たちは同じだよ」

「そうか? それでなんだけど、俺、今日クラスの文化祭実行委員に立候補したんだぜ」

 そこまで消え入りそうだった直樹の声量が、元の直樹のものに戻った。
 俺は直樹の思いもよらない発言を聞いて、驚く。と言っても、中学時代の直樹なら、進んでクラスの中心になることを買って出るような奴だった。俺が驚いたのは、先ほどの直樹の話を聞いた上で、クラスの中心に立候補したという行動にだった。

「まぁ、そういうことで、俺はこれから実行委員が集まっての会合があるから、もう行く。柚希もお前のクラスの実行委員だろ? 多分もう教室にはいないと思うぞ」

 そう言って、直樹は先に階段を下りて去って行った。直樹が柚希の名前を知っていることや、俺たちのクラスの実行委員を知っていることにも驚かされたが、やはり一番は直樹が文化祭実行委員に立候補したことだろう。
 自分から選択するにはエネルギーがいる。直樹は、変わる未来を選んだのだ。