結局、あの後バスの中での会話はなかった。
気まずさを感じながらも、バスを降り、そこから目的地を目指す。今日行くのは、事故より以前に佑香が行きたいと行っていた、最近リニューアルしたショッピングモールだ。そこに行こうと提案したときの佑香の表情は、喜色満面にあふれんばかりで微笑ましく感じたものだ。
バスの中での佑香の様子は明らかにおかしかった。佑香は表情をコロコロと変えるが、震えているようだったし、あそこまで怯えた様子の佑香は初めて見た。
ショッピングモールまでの道中、隣を歩く佑香はだいぶ落ちついたように思える。佑香と一緒にいて、ここまで長く会話がないのも初めての経験だった。
俺の視線に気付いたのか、佑香と目が合う。思わず俺が目を逸らすと、佑香も慌てて別の方を向いた。そのまま、またしばらく無言で歩く。一体どうしたというのだろうか。この場合、このまま黙っているのが正解なのか、それとも何か話し掛けた方がいいのか。話し掛けるならどんな話題がいいのか。そんなことばかりが、頭の中で堂々めぐりしていた。
「ねぇ、この場所……覚えてる?」
ふいに左側から佑香の声が聞こえてきた。
「え?」
思わず声が漏れる。佑香から話し掛けられると思っていなかったからだ。
「ここ。この場所」
佑香は道の反対側に広がる緑地公園を指さしながら、なおも俺に訴えてくる。この緑地公園はとても広く、外周を一周するのに大人の足でも一時間近くかかる。公園を分断するように間には国道と在来線が横切っており、緑地公園の名に恥じない豊かな緑が広がっていた。
俺は佑香の様子が気になっていて、今どこを歩いているかも分かっていなかった。気が付いたらショッピングモールのすぐ近くまで来ていた。この場所はもちろん覚えている。むしろ忘れるわけがない。だってここは……
「俺たちの、始まりの場所」
「そうそう。あのときは寒かったね」
俺が少し照れながら答えると、佑香は笑った。
数刻振りの佑香の笑顔は、何故かとても久しぶりに見た気さえしてしまう。それほど、無言の時間を長く感じていたようだ。
「確か……あの辺りだったか?」
今度は俺が道路の反対側にある緑地公園の一画を指さす。そこは一際大きな木が、公園内の整備された道のど真ん中に鎮座している場所だった。
「そうだね。どう? もう一回する?」
「するって、今から?」
どうにも、今日の佑香は調子が狂う。先ほどの様子もあって、佑香が何を考えているかが読めない。だから、返事も慎重になってしまう。何を答えるべきなのか……
「いひひひひ」
俺が答えに迷っていると、佑香の幼さのある笑い声が聞こえてきた。いつもの声よりワントーン高い、独特な笑い声。俺の心の柔らかいところに直接響く、大好きな佑香の笑い声。
「ごめん、冗談!」
そう言って、佑香は俺より少しだけ歩調を早めた。佑香の後ろ姿を眺めるかたちになり、冗談と言った彼女の表情は見ることが出来なかった。
「早く早くー、このままなら私の勝ちだよ」
ほんの数分前までは会話すらなかったとは思えないくらい、佑香の声は弾んでいる。全く、何をもって勝ちなのかは分からないが、俺たちの進路の先では歩行者用の信号機が青に切り替わったばかりだった。
早足で佑香が横断歩道を渡りきった頃、俺が横断歩道を渡り始める。信号機は依然として青の点灯のままだ。信号機の下では佑香が勝ち誇ったように俺を見ている。何を考えていたかは分からないままだが、とりあえずは普段の佑香に戻ったようだ。
「はい、友也の負け」
「だから、信号渡るのに勝ち負けとかないから」
これは正論だと思う。信号機は、たとえ青でも、安全を確認しながら渡るべきものだ。
「負け惜しみー」
「はいはい、いいから。行くよ」
この交差点を渡れば、ショッピングモールは目の前だ。リニューアルしたとはいえ、外装はそこまで変わっていない。少し白くなったかな程度だ。駐車場を横切り、店内に入る頃には、バスの中で乾いた汗もすっかりシャツを濡らしていた。
「うわー、キレーイ!」
「たしかに、前と全然違う」
自動ドアを潜り、店内に入った俺と佑香は、記憶とずいぶん違う内装に驚き足を止めた。
「あ、でも中の配置はそんなに変わってないみたいだな」
エントランスホールの支柱に掲示された店内の見取り図を見つけ、新しくなった店内に見とれている佑香を手招きした。
「ホントだね。ここの真上がゲームセンターで、あそこを曲がれば飲食ブースがあるのも変わらないね」
「トイレの位置も、階段やエスカレーターとかも変わらない。なんかこう、知らない場所なのに知ってるって感覚って言うのか、安心する」
「なんか分かる。不思議な感覚よね」
佑香の言う不思議な感覚。多分、俺たちは同じように感じている。知っている面影や、雰囲気を残して全く新しいものに生まれ変わる。こんな変化もあるんだな。
「とりあえずお昼でも食べようか」
「うん。何食べようかなー」
そう言って、俺たちは新しくなったショッピングモールの飲食店がたくさん集まる場所を目指した。L字になっている建物の角を曲がり、迷うことなく並んで歩く。ここにあったテナントが変わっているとか、逆にこのお店は昔のままだとか、そんな間違い探しをしながら数分歩けば、すぐに到着した。
一通り眺めてみると、飲食店の顔ぶれはだいぶ違っている。それに、スペース内に設置されたテーブルやイスもかなりお洒落になっていた。飲食用のテーブルも、同じようなのが規則的に並んでいた昔とは違い、用途ごとに様々な形をしている。一人用のカウンター式から、テーブルの真ん中にくぼみがあり、幼児を座らせて親子で対面して食事できるタイプ、靴を脱いで入るボックス型のテーブルは、床やイスが柔らかい素材になっており、子供が床に座って遊ぶことも可能になっている。通常のテーブル席も、二人用や四人用に分けられて並んでいた。
「すごい。ここも全然前と違うね」
佑香が中に入るなり、興奮した様子だった。先程までの暗い表情など、どこにも感じられない。この笑顔が彼女の心の底からのものであると信じたいが、どうしてもバスの中での出来事が頭に過ぎってしまう。
「ね、何食べる? あのオムライス美味しそう! あ、あっちのハンバーグも捨てがたい。あぁ、でもあのクレープも食べたいし……」
「急いで決めなくても、ゆっくり見て回ればいいよ」
佑香は立ち並ぶ飲食店を見比べながらクルクルと回っている。その様子が可笑しくて、やはり俺の考えすぎなのかもしれないと自分に言い聞かす。佑香はどこか無理をしているかもしれないが、今はそれを考えても仕方がないことだ。それよりも佑香との時間を楽しもうと結論付けた。
一つ一つ吟味するように、神妙な面持ちで何を食べるかを真剣に考える佑香と六軒のお店の前を通過し、次で最後の七軒目。といっても、最後はクレープやアイスなどのデザートを扱うお店で、他のお店とは違う。しかし、佑香はここでもかなりの時間を費やした。
「ねぇ、友也」
「うん?」
お昼のメニュー選びを始めて、佑香がようやく口を開いた。ここまで無言で、まるで自分の中の何かと戦うようにしていただけに、彼女の中でどんな答えが出たのか、その答えがいよいよ聞けるのだと思って少しだけワクワクする。
「クレープは、ご飯に含まれるよね?」
「……いや」
ここまで考えての佑香の答えはクレープだったらしく、俺は佑香の言葉を否定した。確かに、男女では食べる量も違い、人によってはクレープ一枚で十分お腹は満たされるのだろう。しかし、クレープをご飯かデザートかと問われれば、デザートだと俺は断言できる。
佑香は俺の短い否定に、信じられないといった面持ちで立ち尽くしていた。
「クレープは別で食べればいいだろ。他に食べたいものはなかったのか?」
「いや、あったよ。けど、全部食べられるかなって思って」
「いいよ、食べられない分は俺が食べるから、佑香は好きのものを食べればいい」
「ホント!? いや、でも……」
俺の提案で佑香の表情から一瞬だけ笑顔が弾けたが、次の瞬間には何かを口ごもりながら俯いてしまった。
「遠慮しなくていいって」
「友也は何か食べたいものないの?」
「まぁ、次来たときにでも食べればいいかなって思ってさ」
「うーん、やっぱり私、自分の分は自分で食べるよ。友也も好きなの食べなよ」
そう言って、佑香は三軒隣の洋食屋へと小走りで戻っていった。
以前の佑香なら、今のような場合、喜んで飛びついてきただろう。俺にとって、佑香と二人でいるときは、食べたいものを食べるより佑香が喜んでくれる方が価値がある。もちろん、今までもそうしてきた。だからこそ、やはり今日の佑香は何かが違うのだと、再認識させられる。具体的に何がとは言えないが、どことなく佑香との距離を感じてしまう。
結局、佑香は一番小さなオムライスを食べた後、クレープを買いに行った。俺は自分の食べたいものではなく、佑香が何を食べるか悩んでいる時に一番長く見ていた、鉄板のハンバーグにした。佑香のオムライスを少し貰い、かわりにハンバーグを切って佑香のオムライスの上に乗せる。すると、佑香は分かりやすく表情が明るくなった。やはり我慢していたのだろう。その表情の変化だけでも満足だった。
気まずさを感じながらも、バスを降り、そこから目的地を目指す。今日行くのは、事故より以前に佑香が行きたいと行っていた、最近リニューアルしたショッピングモールだ。そこに行こうと提案したときの佑香の表情は、喜色満面にあふれんばかりで微笑ましく感じたものだ。
バスの中での佑香の様子は明らかにおかしかった。佑香は表情をコロコロと変えるが、震えているようだったし、あそこまで怯えた様子の佑香は初めて見た。
ショッピングモールまでの道中、隣を歩く佑香はだいぶ落ちついたように思える。佑香と一緒にいて、ここまで長く会話がないのも初めての経験だった。
俺の視線に気付いたのか、佑香と目が合う。思わず俺が目を逸らすと、佑香も慌てて別の方を向いた。そのまま、またしばらく無言で歩く。一体どうしたというのだろうか。この場合、このまま黙っているのが正解なのか、それとも何か話し掛けた方がいいのか。話し掛けるならどんな話題がいいのか。そんなことばかりが、頭の中で堂々めぐりしていた。
「ねぇ、この場所……覚えてる?」
ふいに左側から佑香の声が聞こえてきた。
「え?」
思わず声が漏れる。佑香から話し掛けられると思っていなかったからだ。
「ここ。この場所」
佑香は道の反対側に広がる緑地公園を指さしながら、なおも俺に訴えてくる。この緑地公園はとても広く、外周を一周するのに大人の足でも一時間近くかかる。公園を分断するように間には国道と在来線が横切っており、緑地公園の名に恥じない豊かな緑が広がっていた。
俺は佑香の様子が気になっていて、今どこを歩いているかも分かっていなかった。気が付いたらショッピングモールのすぐ近くまで来ていた。この場所はもちろん覚えている。むしろ忘れるわけがない。だってここは……
「俺たちの、始まりの場所」
「そうそう。あのときは寒かったね」
俺が少し照れながら答えると、佑香は笑った。
数刻振りの佑香の笑顔は、何故かとても久しぶりに見た気さえしてしまう。それほど、無言の時間を長く感じていたようだ。
「確か……あの辺りだったか?」
今度は俺が道路の反対側にある緑地公園の一画を指さす。そこは一際大きな木が、公園内の整備された道のど真ん中に鎮座している場所だった。
「そうだね。どう? もう一回する?」
「するって、今から?」
どうにも、今日の佑香は調子が狂う。先ほどの様子もあって、佑香が何を考えているかが読めない。だから、返事も慎重になってしまう。何を答えるべきなのか……
「いひひひひ」
俺が答えに迷っていると、佑香の幼さのある笑い声が聞こえてきた。いつもの声よりワントーン高い、独特な笑い声。俺の心の柔らかいところに直接響く、大好きな佑香の笑い声。
「ごめん、冗談!」
そう言って、佑香は俺より少しだけ歩調を早めた。佑香の後ろ姿を眺めるかたちになり、冗談と言った彼女の表情は見ることが出来なかった。
「早く早くー、このままなら私の勝ちだよ」
ほんの数分前までは会話すらなかったとは思えないくらい、佑香の声は弾んでいる。全く、何をもって勝ちなのかは分からないが、俺たちの進路の先では歩行者用の信号機が青に切り替わったばかりだった。
早足で佑香が横断歩道を渡りきった頃、俺が横断歩道を渡り始める。信号機は依然として青の点灯のままだ。信号機の下では佑香が勝ち誇ったように俺を見ている。何を考えていたかは分からないままだが、とりあえずは普段の佑香に戻ったようだ。
「はい、友也の負け」
「だから、信号渡るのに勝ち負けとかないから」
これは正論だと思う。信号機は、たとえ青でも、安全を確認しながら渡るべきものだ。
「負け惜しみー」
「はいはい、いいから。行くよ」
この交差点を渡れば、ショッピングモールは目の前だ。リニューアルしたとはいえ、外装はそこまで変わっていない。少し白くなったかな程度だ。駐車場を横切り、店内に入る頃には、バスの中で乾いた汗もすっかりシャツを濡らしていた。
「うわー、キレーイ!」
「たしかに、前と全然違う」
自動ドアを潜り、店内に入った俺と佑香は、記憶とずいぶん違う内装に驚き足を止めた。
「あ、でも中の配置はそんなに変わってないみたいだな」
エントランスホールの支柱に掲示された店内の見取り図を見つけ、新しくなった店内に見とれている佑香を手招きした。
「ホントだね。ここの真上がゲームセンターで、あそこを曲がれば飲食ブースがあるのも変わらないね」
「トイレの位置も、階段やエスカレーターとかも変わらない。なんかこう、知らない場所なのに知ってるって感覚って言うのか、安心する」
「なんか分かる。不思議な感覚よね」
佑香の言う不思議な感覚。多分、俺たちは同じように感じている。知っている面影や、雰囲気を残して全く新しいものに生まれ変わる。こんな変化もあるんだな。
「とりあえずお昼でも食べようか」
「うん。何食べようかなー」
そう言って、俺たちは新しくなったショッピングモールの飲食店がたくさん集まる場所を目指した。L字になっている建物の角を曲がり、迷うことなく並んで歩く。ここにあったテナントが変わっているとか、逆にこのお店は昔のままだとか、そんな間違い探しをしながら数分歩けば、すぐに到着した。
一通り眺めてみると、飲食店の顔ぶれはだいぶ違っている。それに、スペース内に設置されたテーブルやイスもかなりお洒落になっていた。飲食用のテーブルも、同じようなのが規則的に並んでいた昔とは違い、用途ごとに様々な形をしている。一人用のカウンター式から、テーブルの真ん中にくぼみがあり、幼児を座らせて親子で対面して食事できるタイプ、靴を脱いで入るボックス型のテーブルは、床やイスが柔らかい素材になっており、子供が床に座って遊ぶことも可能になっている。通常のテーブル席も、二人用や四人用に分けられて並んでいた。
「すごい。ここも全然前と違うね」
佑香が中に入るなり、興奮した様子だった。先程までの暗い表情など、どこにも感じられない。この笑顔が彼女の心の底からのものであると信じたいが、どうしてもバスの中での出来事が頭に過ぎってしまう。
「ね、何食べる? あのオムライス美味しそう! あ、あっちのハンバーグも捨てがたい。あぁ、でもあのクレープも食べたいし……」
「急いで決めなくても、ゆっくり見て回ればいいよ」
佑香は立ち並ぶ飲食店を見比べながらクルクルと回っている。その様子が可笑しくて、やはり俺の考えすぎなのかもしれないと自分に言い聞かす。佑香はどこか無理をしているかもしれないが、今はそれを考えても仕方がないことだ。それよりも佑香との時間を楽しもうと結論付けた。
一つ一つ吟味するように、神妙な面持ちで何を食べるかを真剣に考える佑香と六軒のお店の前を通過し、次で最後の七軒目。といっても、最後はクレープやアイスなどのデザートを扱うお店で、他のお店とは違う。しかし、佑香はここでもかなりの時間を費やした。
「ねぇ、友也」
「うん?」
お昼のメニュー選びを始めて、佑香がようやく口を開いた。ここまで無言で、まるで自分の中の何かと戦うようにしていただけに、彼女の中でどんな答えが出たのか、その答えがいよいよ聞けるのだと思って少しだけワクワクする。
「クレープは、ご飯に含まれるよね?」
「……いや」
ここまで考えての佑香の答えはクレープだったらしく、俺は佑香の言葉を否定した。確かに、男女では食べる量も違い、人によってはクレープ一枚で十分お腹は満たされるのだろう。しかし、クレープをご飯かデザートかと問われれば、デザートだと俺は断言できる。
佑香は俺の短い否定に、信じられないといった面持ちで立ち尽くしていた。
「クレープは別で食べればいいだろ。他に食べたいものはなかったのか?」
「いや、あったよ。けど、全部食べられるかなって思って」
「いいよ、食べられない分は俺が食べるから、佑香は好きのものを食べればいい」
「ホント!? いや、でも……」
俺の提案で佑香の表情から一瞬だけ笑顔が弾けたが、次の瞬間には何かを口ごもりながら俯いてしまった。
「遠慮しなくていいって」
「友也は何か食べたいものないの?」
「まぁ、次来たときにでも食べればいいかなって思ってさ」
「うーん、やっぱり私、自分の分は自分で食べるよ。友也も好きなの食べなよ」
そう言って、佑香は三軒隣の洋食屋へと小走りで戻っていった。
以前の佑香なら、今のような場合、喜んで飛びついてきただろう。俺にとって、佑香と二人でいるときは、食べたいものを食べるより佑香が喜んでくれる方が価値がある。もちろん、今までもそうしてきた。だからこそ、やはり今日の佑香は何かが違うのだと、再認識させられる。具体的に何がとは言えないが、どことなく佑香との距離を感じてしまう。
結局、佑香は一番小さなオムライスを食べた後、クレープを買いに行った。俺は自分の食べたいものではなく、佑香が何を食べるか悩んでいる時に一番長く見ていた、鉄板のハンバーグにした。佑香のオムライスを少し貰い、かわりにハンバーグを切って佑香のオムライスの上に乗せる。すると、佑香は分かりやすく表情が明るくなった。やはり我慢していたのだろう。その表情の変化だけでも満足だった。