『六月二十六日
今日はまさかのことが起きた。別の世界の友也が世界を渡って会いに来てくれたんだ。今でも信じられないけれど、私はさっきまで友也と一緒に橋の下で昔みたいに沢山喋った。もう会えないと思っていたから、本当に沢山、沢山。
また会えるかな? 会えるよね。きっと。だって友也は約束してくれたから。今日の気持ちは日記に書ききれない。私は友也にまた会えて嬉しい。まだまだ会いたい。ずっと一緒に居たい。けれど、だからこそ、私は友也のいないこの世界で生きていくんだ。うん、頑張れ! 私! 友也から元気も貰えたし、きっと頑張れる。』
これは間違いなく、違う世界の佑香の日記だ。どういうわけか、あっちの世界で佑香が書いた日記の内容が、こっちの世界にも反映されてしまった。佑香も俺と同じで再会を喜んでくれている。でも、俺が気になったのはその先の内容だ。佑香は俺のいない世界で生きていくと綴っている。思返橋で世界を渡れるのは俺だけだ。けれど、俺が佑香のいる世界で生きていくことは出来ないだろう。いつかはまた別れがやってくる。そんなことは分かっているけれど、俺が考えることを避けたことに、佑香はもう向き合っていた。
俺と佑香は同い年で、同じようにこの田舎町で育った。誕生日は俺の方が少し早い。けれどそんなものは誤差の範囲だ。同じように成長して、同じように生きてきた。俺は佑香のいない世界で生きていけるのか。佑香と同じような決意が出来るのか。分からない。いや、今分からないということは、きっと出来ないのだろう。佑香はどうしてそんな決意が出来たのだろう。俺と佑香の違いは何なのだろうか。考えても、答えは出なかった。
佑香と再会してから三日が経った。今日は土曜日。佑香と約束した日だ。
俺は出掛ける支度をして、佑香が待つもう一つの世界、思返橋の向こう側の世界へと向かった。日増しに太陽の日差しが強く感じるようになってきたが、俺の心の中はそんな日差しにも負けないくらいに高揚していた。
家から一分ほど歩くと、もうそこは別の世界の入り口だ。こんな何かしらのファンタジーに出てくるような言葉が、まさか現実になるなどとは誰も考えないだろう。ただ、あの奇跡は夢だったのかもしれない、そんなことも何度も考えた。その考えを、俺の部屋に置いたままの佑香の日記が否定する。あの日、佑香と再会して、橋の下で数時間話し続けたこと。それが佑香の字で、佑香の言葉で記されていて、今日まで消えることはなかった。
思返橋を一歩、一歩と俺は渡り始める。そして橋の中間。俺は世界の境界を覚えていた。ここから一歩踏み出せば、その先は佑香のいる世界だ。緊張と恐怖、佑香に会える嬉しさ、様々な要素が心の中で混じりあい、俺の鼓動を早める。蝉の声が遠くなったように感じた。額の汗は、玉になって頬から顎、そのまま首へと流れていく。
右足を浮かせ、地を蹴った勢いに任せて右足を前に出す。宙で少しずつ勢いを失った右足は、ゆっくりと地面に着地した。ただ歩く、それだけのことをここまで意識したのは初めてだ。右足が前に出れば、当然重心が変わり、上半身が前に進む。右足に対して体全体のバランスを取るように、左手も前に出ていた。歩くという動作を覚えて十数年、意識してみると、改めて人間の体は効率よく動くようになっているのだと理解する。
スローモーションのように感じる時間は、実はあっという間で、気が付いたら俺の体は世界の境界を越えていた。
「遅いよ、友也!」
辺り一面、ただ稲の緑が広がるだけの景色から、突如彼女の声が橋の上を駆け抜ける。その声はとてもクリアで、ただでさえ聞こえにくくなっていた蝉の音など、瞬く間に意識の外へと追いやった。
「約束は九時でしょ、三分遅刻!」
佑香は橋の向こう岸からズカズカと、俺のいる橋の真ん中まで歩いてきながらそう言った。その声には怒気が含まれている。
「悪い! けど、三分なんて誤差のようなもんだろ? 今まで怒ったことなかったじゃん」
俺は今にも噛み付いてきそうな佑香に対して、少し驚きはしたが、噛み付かれる寸前で佑香の肩に手をあてて止めた。それでも佑香の首から上は止まらずに俺に近づいてくる。佑香は白色のストローハットを被っており、つばが俺の額を圧迫した。
「その三分が、私にとってどれだけ長かったか、分かる?」
佑香は限界まで俺に近づくと、次には瞳に僅かな涙を浮かべ、怒りと悲しみが混じり合った表情になり、そう言った。
佑香のその言葉を聞いて、俺は自分の過ちに気が付く。約束の九時を過ぎても俺は現れず、一分、二分と経っても現れる気配がない。世界を渡れない佑香からしたら、ただ待つしかないのだ。こっちの世界の佑香にとって、俺がまた来る保障なんてなかった。そんな状態での三分は、佑香にとってあまりにも残酷な時間だったのだろう。
「すまん。俺が悪かった」
「……ほんとよ」
佑香の目尻に浮かんだ涙の粒が大きくなる。互いの息がかかるほどの距離だからか、佑香の表情の変化が鮮明に伝わってきた。そのまま、佑香の肩に乗せていた手の力を緩めると、肩を通して俺の両手に重心を預けたままだった佑香の体は、俺の胸の中に収まった。俺は空いた両手をそのまま佑香の背中へと回す。少しの間だけ、俺と佑香はその姿勢のまま動くことはなかった。
「……お昼、楽しみにしてるね」
どれだけの時間そうしていたかは分からない。急に聞こえてきた佑香の言葉に、俺は最初は何を言われているか分からなかったが、視線を下に移すと佑香が俺を見上げるかたちで悪い笑みを浮かべていた。
「へいへい。仰せのままに」
「やったー!」
俺は佑香の笑みに全てを察し、諦めたように了承すると、佑香は俺の腕の中で飛び跳ねるようにして喜んだ。純白のストローハットの下から佑香の髪がフワリと浮かび、運ばれてくる甘い香りは鼻腔をくすぐる。
佑香の服装は帽子と合わせて白を基調としたチュニックと、膝下までの丈のスキニーデニム。肌の露出は控えめだが、白系色が多く、涼しげな印象を与えてくれる。
それにしても、何かあれば食べ物を要求してくることは、昔から変わらない。
「なによ、ニヤニヤして」
「うん。佑香はやっぱり佑香だなって思ってさ」
「ふーん? 友也って、ほんと考えてることが顔に出るね」
「どういうことだ?」
「私のこと、食いしん坊だって思ってたでしょ?」
食いしん坊ほど露骨なことは思っていなかったが、頭で思っていたことを佑香に当てられて少しドキリとする。
「どうせ私は食べてばっかの女ですよーだ」
「ちょっと待って、そこまでは考えてなかったから」
佑香は、さっきまでの怒り、悲しみの表情が嘘のように笑顔一色へと変化している。佑香の表情の変化はやはり、目まぐるしい。
今日はまさかのことが起きた。別の世界の友也が世界を渡って会いに来てくれたんだ。今でも信じられないけれど、私はさっきまで友也と一緒に橋の下で昔みたいに沢山喋った。もう会えないと思っていたから、本当に沢山、沢山。
また会えるかな? 会えるよね。きっと。だって友也は約束してくれたから。今日の気持ちは日記に書ききれない。私は友也にまた会えて嬉しい。まだまだ会いたい。ずっと一緒に居たい。けれど、だからこそ、私は友也のいないこの世界で生きていくんだ。うん、頑張れ! 私! 友也から元気も貰えたし、きっと頑張れる。』
これは間違いなく、違う世界の佑香の日記だ。どういうわけか、あっちの世界で佑香が書いた日記の内容が、こっちの世界にも反映されてしまった。佑香も俺と同じで再会を喜んでくれている。でも、俺が気になったのはその先の内容だ。佑香は俺のいない世界で生きていくと綴っている。思返橋で世界を渡れるのは俺だけだ。けれど、俺が佑香のいる世界で生きていくことは出来ないだろう。いつかはまた別れがやってくる。そんなことは分かっているけれど、俺が考えることを避けたことに、佑香はもう向き合っていた。
俺と佑香は同い年で、同じようにこの田舎町で育った。誕生日は俺の方が少し早い。けれどそんなものは誤差の範囲だ。同じように成長して、同じように生きてきた。俺は佑香のいない世界で生きていけるのか。佑香と同じような決意が出来るのか。分からない。いや、今分からないということは、きっと出来ないのだろう。佑香はどうしてそんな決意が出来たのだろう。俺と佑香の違いは何なのだろうか。考えても、答えは出なかった。
佑香と再会してから三日が経った。今日は土曜日。佑香と約束した日だ。
俺は出掛ける支度をして、佑香が待つもう一つの世界、思返橋の向こう側の世界へと向かった。日増しに太陽の日差しが強く感じるようになってきたが、俺の心の中はそんな日差しにも負けないくらいに高揚していた。
家から一分ほど歩くと、もうそこは別の世界の入り口だ。こんな何かしらのファンタジーに出てくるような言葉が、まさか現実になるなどとは誰も考えないだろう。ただ、あの奇跡は夢だったのかもしれない、そんなことも何度も考えた。その考えを、俺の部屋に置いたままの佑香の日記が否定する。あの日、佑香と再会して、橋の下で数時間話し続けたこと。それが佑香の字で、佑香の言葉で記されていて、今日まで消えることはなかった。
思返橋を一歩、一歩と俺は渡り始める。そして橋の中間。俺は世界の境界を覚えていた。ここから一歩踏み出せば、その先は佑香のいる世界だ。緊張と恐怖、佑香に会える嬉しさ、様々な要素が心の中で混じりあい、俺の鼓動を早める。蝉の声が遠くなったように感じた。額の汗は、玉になって頬から顎、そのまま首へと流れていく。
右足を浮かせ、地を蹴った勢いに任せて右足を前に出す。宙で少しずつ勢いを失った右足は、ゆっくりと地面に着地した。ただ歩く、それだけのことをここまで意識したのは初めてだ。右足が前に出れば、当然重心が変わり、上半身が前に進む。右足に対して体全体のバランスを取るように、左手も前に出ていた。歩くという動作を覚えて十数年、意識してみると、改めて人間の体は効率よく動くようになっているのだと理解する。
スローモーションのように感じる時間は、実はあっという間で、気が付いたら俺の体は世界の境界を越えていた。
「遅いよ、友也!」
辺り一面、ただ稲の緑が広がるだけの景色から、突如彼女の声が橋の上を駆け抜ける。その声はとてもクリアで、ただでさえ聞こえにくくなっていた蝉の音など、瞬く間に意識の外へと追いやった。
「約束は九時でしょ、三分遅刻!」
佑香は橋の向こう岸からズカズカと、俺のいる橋の真ん中まで歩いてきながらそう言った。その声には怒気が含まれている。
「悪い! けど、三分なんて誤差のようなもんだろ? 今まで怒ったことなかったじゃん」
俺は今にも噛み付いてきそうな佑香に対して、少し驚きはしたが、噛み付かれる寸前で佑香の肩に手をあてて止めた。それでも佑香の首から上は止まらずに俺に近づいてくる。佑香は白色のストローハットを被っており、つばが俺の額を圧迫した。
「その三分が、私にとってどれだけ長かったか、分かる?」
佑香は限界まで俺に近づくと、次には瞳に僅かな涙を浮かべ、怒りと悲しみが混じり合った表情になり、そう言った。
佑香のその言葉を聞いて、俺は自分の過ちに気が付く。約束の九時を過ぎても俺は現れず、一分、二分と経っても現れる気配がない。世界を渡れない佑香からしたら、ただ待つしかないのだ。こっちの世界の佑香にとって、俺がまた来る保障なんてなかった。そんな状態での三分は、佑香にとってあまりにも残酷な時間だったのだろう。
「すまん。俺が悪かった」
「……ほんとよ」
佑香の目尻に浮かんだ涙の粒が大きくなる。互いの息がかかるほどの距離だからか、佑香の表情の変化が鮮明に伝わってきた。そのまま、佑香の肩に乗せていた手の力を緩めると、肩を通して俺の両手に重心を預けたままだった佑香の体は、俺の胸の中に収まった。俺は空いた両手をそのまま佑香の背中へと回す。少しの間だけ、俺と佑香はその姿勢のまま動くことはなかった。
「……お昼、楽しみにしてるね」
どれだけの時間そうしていたかは分からない。急に聞こえてきた佑香の言葉に、俺は最初は何を言われているか分からなかったが、視線を下に移すと佑香が俺を見上げるかたちで悪い笑みを浮かべていた。
「へいへい。仰せのままに」
「やったー!」
俺は佑香の笑みに全てを察し、諦めたように了承すると、佑香は俺の腕の中で飛び跳ねるようにして喜んだ。純白のストローハットの下から佑香の髪がフワリと浮かび、運ばれてくる甘い香りは鼻腔をくすぐる。
佑香の服装は帽子と合わせて白を基調としたチュニックと、膝下までの丈のスキニーデニム。肌の露出は控えめだが、白系色が多く、涼しげな印象を与えてくれる。
それにしても、何かあれば食べ物を要求してくることは、昔から変わらない。
「なによ、ニヤニヤして」
「うん。佑香はやっぱり佑香だなって思ってさ」
「ふーん? 友也って、ほんと考えてることが顔に出るね」
「どういうことだ?」
「私のこと、食いしん坊だって思ってたでしょ?」
食いしん坊ほど露骨なことは思っていなかったが、頭で思っていたことを佑香に当てられて少しドキリとする。
「どうせ私は食べてばっかの女ですよーだ」
「ちょっと待って、そこまでは考えてなかったから」
佑香は、さっきまでの怒り、悲しみの表情が嘘のように笑顔一色へと変化している。佑香の表情の変化はやはり、目まぐるしい。