彼女は、俺が唯一心を寄せた女性は、名を藤崎香澄といった。
「わー、なつかしい! この本屋、まだ潰れてなかったんだね」
彼女はクスクスと笑って、店の中をのぞき込む。
「菜々子の言ってたこと、本当だったねー」
彼女は、俺の顔をちらりと見ただけで、すぐに視線を尚子に移す。
「はー、お姉さんが出来たって言ってたけど、本当にあの有名人の荒間尚子だったんだ。まぁ、あの頃は、たいしたもんじゃなかったけど」
大きなお腹をして、香澄は足元に転がる紙切れを、どうでもテキトーに蹴飛ばした。
「おもしろーい」
「お母さん!」
菜々子ちゃんは、香澄の腕にしがみつく。
「ここの本屋さん、知ってるの?」
「えぇ?」
香澄は、思い出したように笑って、俺を見上げる。
「まぁ、ね」
そう言って、香澄はまた笑った。
「ほら、帰るよ」
大きなお腹で左手に買い物袋を持ち、右手には菜々子ちゃんをぶら下げて、香澄は去っていく。
「なにあの女、かんじ悪くない?」
「別に、かんじ悪くないよ」
肩までのまっすぐな黒髪に、細い目。
それは、彼女の気の強い性格そのものだった。
中学三年生、初めて同じクラスになって、一目で恋に落ちた。
胸の奥が痛む。
「お腹すいた。ご飯食べよう」
彼女の姿を見ただけで、簡単に十五年前に戻ってしまう。
そんな自分を知られたくなくて、すぐにのれんをくぐるふりをして、尚子に背を向ける。
「知り合いなの?」
「同級生」
「あの女、かんじ悪い。あんな女にひっかからないでよ」
「ないって」
それだけを答えることすら、精一杯だった。
俺の背中で、尚子は好き勝手なことを言う。
「ま、妊婦さんみたいだし、あんたなんか、相手にする必要もないと思うけど」
膨らんだお腹。
俺には、そのことがとても悲しくもあり、同時にうれしくもあった。
彼女は今、幸せにしているんだろうか。
「同じ、同級生と結婚したんだ」
「へー。それも知り合い?」
「うん、まあね」
台所に向かった俺に、尚子は呆れたように言う。
「ちょっと、失恋したみたいになってんじゃないわよ」
「失恋じゃないし」
「好きだったんだー、まだ忘れられないとか?」
「何年前の話だよ」
「だから、新しい恋愛が出来ないとか言わないでよね。ま、あんたの場合、それ以前の問題だけどねぇ」
悪いけど、そんな話は、今はできない。
包丁を握る手に、思わず力が入る。
「ちょっと、そんなことよりお店のことだけど、いくら客がいないからってさ……」
「お前こそ、テキトーに男変えて、ちゃらちゃらチャラチャラ遊んでんじゃねーよ! お前に恋愛の話しされても、俺は何とも思わないからな!」
「なに言ってんのよ」
「また雑誌で話題になってただろ、いいかげんにしろよ」
尚子は笑い出した。
俺はとっさに、話題を変えることに、成功した。
「あら、心配してくれてるの?」
「そんなこと、あるわけねーだろ」
「あれ、彼氏じゃないから」
尚子は笑って背中を向ける。
助かった。
居間のテレビをつけて、スマホをいじり始めた。
「私の恋愛指南、結構評判いいのよ」
有名人との熱愛報道も絶えない、絶賛独身謳歌中の尚子、こんな奴に教えを請うなんて、世も末だと心底思う。
口に出しては言えないけど。
次の日、本当に菜々子ちゃんは来なかった。
導師と二人、庭先で、俺には理解出来ない不思議な問答のやりとりをして、本日の修行は終了。
ぼんやりと店のレジ台に座っていて、時計を見て気がついた。
あぁ、本当にもう、菜々子ちゃんは来ないんだってことに。
いつも服装だけはやたら立派な北沢くんが、ランドセルを背負ったまま、店に飛び込んで来た。
「こんにちはー。今日もお客さんいませんねー」
彼はまっすぐに、居間へ上がり込む。
「あれ? あいつは?」
のれんの奥から顔だけを出して、北沢くんはきょろきょろと店の中を見渡した。
「もう、ここには来ないって」
彼はするするとランドセルを下ろして、俺の隣にストンと座った。
「は? なんで? あいつが勉強教えてくれっていうから、嫌々つき合ってただけなんですよ。なのになんだよ。僕だって、こう見えて結構忙しいのに、あいつにばっかつき合ってらんないのに、ひどくないですか? せっかく来てやったのに、いないって」
俺は北沢くんを見る。
北沢くんは、自分から勝手にしゃべるタイプ。
「そりゃね、同じ学校には行ってますけど、学年違うからめったに会わないんですよ、校内で。だけどここに来たら、あいつ、絶対いるじゃないですか、ここに来たら、普通に会えるし、しゃべれるし、ここに来たら、一緒にお菓子食べて、話ししながら、なんかこう……、ね、ここに来たら、普通、いるもんでしょ」
北沢くんは、自分で勝手にしゃべるタイプ。
「だってさ、ここ以外の、どこで顔見て話すチャンスあります? 学校とかだと、絶対誰か見てるし、そんなの、話しかけられないじゃないですか。あいつだって、基本知らんぷりしてるし。ここだと、普通に普通で話せるから、だからここに来てるっていうか、勉強教えてやってる立場ですけどね」
北沢くんが、ため息をついてうつむいた。
おしゃべりの一時的ストップ。
「昨日は、ずっと泣いてたんだって」
その言葉に彼は、本当に驚いたような、傷ついたような顔をする。
「知りませんよ、僕は悪くないですからね」
黙ったまま前を向いていると、彼はまた勢いよく昨日の出来事をしゃべり始めた。
「だって、僕は大手の進学塾に行ってるし、そこで一番頭のいいクラスにいるんですよ。あいつの解いてる問題は、だって小四でしょ? 僕に出来ないワケがないじゃないですか。それに、背伸びして公立中高一貫校の入試問題なんて、早すぎて出来ないの、当たり前だと思いません? そんなことで怒り出して、泣かれても、僕だって知りませんよ」
俺は無言で、北沢くんの方に顔を向ける。
「だって、そうでしょ? あいつんちが母子家庭で貧乏なのも、僕のせいじゃないし、うちの両親が金持ちで弁護士なのも、僕のせいじゃない」
「今、なんて言った?」
「だから、僕は悪くないし、あいつが勝手に泣き出しただけなんです!」
母子家庭ってことは、菜々子ちゃんの父親は?
あのお腹の子は、誰の子供なんだろう。
「あれ、ちょっと、どこへ行くんですか?」
「ちょっと、さんぽ」
店の外に出た俺の目の前に、菜々子ちゃんが立っていた。
「違うの! 用事があって、ここを通っただけなの!」
「うん、俺も、散歩に行こうと思ってただけで、菜々子ちゃんに会いたいなんて、思ってもなかったよ」
彼女は、くるりと背を向けた。
駆けだしていく小さな背中を、俺は追いかけることができない。
「お~い! 菜々子! 約束してた塾のテキスト、持ってきてやったぞ!」
北沢くんのその言葉に、菜々子ちゃんは振り返った。
「バーカ!」
捨て台詞というには、あまりにも哀しいひびき。
「おい! なんだよ、せっかく持ってきてやったのに! ねぇ、バカとか酷くないです?」
そんなことを言ってる北沢くんは、俺の横に立っている。
「追いかけていかないの?」
「追いかけていって、なにするんですか?」
北沢くんは、動かない。
俺も、動けない。
「でも、追いかけていった方が、いいような気がする」
「まぁ、本来はそうなんでしょうね」
彼とまた目が合った。
所詮、俺たちはこの程度で、これが限界なんだ。
追いかけていって、何をしよう。
俺はただ見上げている北沢くんと、全く同じ顔をして北沢くんを見下ろしている。
追いかけていって、なんて言おう、追いかけていって、何が出来るんだろう。
「僕、テキスト、持ってき損ですよね」
「うん」
「なんか、気を使って、損しましたよね」
「うん」
男二人は居間に戻って、何となくいつもの流れでお菓子の袋をあけたけど、誰も手をつける人がいない。
「なんか、静かですね」
「うん」
「静かになって、よかったんですかね」
「さぁ」
長い沈黙。
男二人だと、本当に間が持たない。
「なんか、しゃべってくださいよ」
そんなことを言われてからの、数秒経過。
「菜々子ちゃんってさ」
北沢くんは減らないお菓子を見つめていて、俺も減らないお菓子を見つめている。
北沢くんが、それを一つ手に取った。
「どんなお菓子が好きだっけ」
「あいつ、出てるものなら、何でもだいたい食べますよね」
「今度さ、それを聞いといてよ。なにが好きなのか」
俺が彼女を追いかけられなかったのは、多分それを知らなかったせい。
「分かりました」
そう言って彼は、手にしていた細長いスナック菓子の一本を、元に戻した。
「なんか、つまんないから、僕、もう帰りますね」
気がつけば、いつの間にか北沢くんがいなくなっていて、そのことにふと気づけば、部屋も薄暗くなっていて、千里が帰ってきていたことにすら、俺は気づいていなかった。
きっと北沢くんなら、こんどから菜々子ちゃんを追いかけられるだろう。
彼女の好きなお菓子を、知ってさえいれば。
千里がお腹減ったっていうから、ご飯をつくって食べた。
それから片付けをして、なんとなくクセでテレビをつける。
明日はなにをしよう、なにをすればいいんだろう。
テレビ画面の中は、とってもにぎやかで楽しそうだけど、俺には完全に無関係な世界が広がっている。
とりあえず、菜々子ちゃんちに行ってみようかな、どこにあるのか、知らないけど。
千里はのんきに鼻歌を歌いながら、風呂上がりの髪の毛を拭いていた。
「ねぇ、千里」
「なに?」
お父さんいなくて、どうだったとか、お母さんいなくなって、さみしかったとか、だけど、今さら聞くのもバカらしい。
「なんでもない」
「キンモッ!」
千里が二階にあがっていくのを、俺はなんか安心して見上げた。
またなんとなく次の日の朝が来て、なんとなく店のシャッターを上げている時だった。
ふと横に目をやると、そこには香澄が立っていた。
「まだこの本屋さん、続けてたんだ」
「うん」
俺は、なんとなくそう答える。
お腹は大きくなっていても、それ以外は俺の記憶のそのままで、こうやって香澄の方から話しかけられるのも、不思議な気がする。
「菜々子から聞いたんだけどさぁ~」
香澄は、にこにことにやにやの、中間で笑っている。
「結婚って、してないんだ」
黙ってうなずく。
「私と同い年だから、三十だよね、独身かぁー。彼女とか、つき合ってる人とか、いないの?」
俺は、黙って首を横に振る。
彼女はそれを見て、楽しそうに笑った。
「はは、そうなんだ。じゃあ、本当に本屋は、一人でやってるんだね」
そうかそうかといいながら、香澄は店の外観を見て回る。
「まぁ、悪くはないわよね」
香澄とは、中三の時に同じクラスになった。
その時には、同じクラスに彼氏がいた。
その彼はとってもいい奴で、俺はほとんどしゃべったことはなかったけど、俺にもいじわるなんて、してくるような奴じゃなかった。
クラスの人気者で、キラキラしてるタイプだった。
俺は香澄のことが好きだったけど、そいつにはかなわないって、最初から分かってたから、なにも言わなかった。
「私のこと、まだ好き?」
そんな彼女に、なぜか一度だけ告白した。
どうしてそんなことをしたのか、その時の自分の行動が、今になって考えてみても、よく分からないけど、とにかく何かのタイミングで、ふたりきりになったとき、何を思ったのか、俺は彼女に好きだと言った。
「まぁでも、あれから何年も経ってるもんね、私も今、こんなだし」
香澄は、大きなお腹を抱えて笑う。
あの時もそうだった。
彼女は、俺のシンプルな告白を聞いた校庭の隅で、何の冗談かと笑っていた。
そうなることは、簡単に想像出来たのに、よく分かっていたのに、俺はそのまま立ち上がって、黙ってその場を後にした。
彼女は、そのまま彼氏の所に走っていって、何事もなかったように、それからの日々を過ごした。
「人間、どうなるか分かんないよね~」
菜々子ちゃんは今、学校に行っている。
平日の午前中、さびれ果てた商店街に、人影はまばらすぎた。
「またさ、菜々子、ここに来てもいい?」
香澄さえいいのであれば、俺に異論はない。
「勉強してたんだってね、本気で? 女の子が勉強したって、なんにもなんないのにね」
香澄は笑っている。ただ、声を出して笑っているだけ。
「ねぇ、菜々子の勉強、またみてくれる?」
「いいよ」
「そ、よかった」
彼女はそれだけを言って、朝日のなかで手を振った。
「じゃあ、菜々子が帰ってきたら、そう言っとくから」
菜々子ちゃんは、ここで勉強することを、どう思っているのだろう。
お母さんのこと、好きなのかな。
聞きたいことが、沢山あった。
言いたいことが、山ほどあった。
それを何一つ出来ないでいるのは、自分に勇気がないから、とは、思っていない。
午後になって、菜々子ちゃんは本当にやってきた。
「お母さんに、行ってこいって、言われたの」
「うん」
「入ってもいい?」
「うん」
菜々子ちゃんは、ちゃんと勉強道具を持ってきていた。
「こないだうちにいた俺の姉ちゃんがね、菜々子ちゃんに、プレゼントだって」
尚子が買った、参考書と問題集。本棚の低い所にいれておいた。
その隣には、北沢くんが持ってきた、塾の問題集。
彼女は、黙って塾のテキストを手にとった。
「やっぱり、本屋さんで売ってる問題と、塾の問題って、違うね」
その、汚い字で書き殴られた、所々に涙で濡れたような跡と、破れたページがあるテキストは、北沢くんの戦いの痕跡。
「私ね、お母さんから、あの女の人の話、聞いた」
菜々子ちゃんは、北沢くんのテキストの、最初のページを開いて置いた。
「うちのお母さんは……、わ、悪口みたいなこと言ってたけど、私は違うと思う」
菜々子ちゃんは、うつむいていた顔を、まっすぐに俺に向けた。
「今の私には、勉強以外出来ることがないから、勉強するね」
彼女の小さな手が、本のページをめくる。
導師は、縁側からじっと菜々子ちゃんの様子を見ている。
俺は邪魔をしないように、そっとその場を離れて、店のレジに座った。
多分どこかのブランドの子供服で、だけど相変わらず体には擦り傷が絶えなくて、きっと彼の両親は、北沢くんのつくる傷は、腕白でやんちゃな元気の証拠だと思っていて、それが悪意のある誰かによって、わざとつけられた傷であることは、本人にも言うつもりが無い。
そんな北沢くんがやってきて、遠くからこっそり店の中をのぞいている。
「お菓子あるのに、入ってこないの?」
「あいつ、来てます?」
彼はいつものように、居間に飛び込んだりせずに、ゆっくり歩いて店の中に入ってきた。
「勉強してるよ。君の持ってきたテキストで」
北沢くんの目は、居間へ上がる段差のところに並べられた、小さな靴しか見ていない。
「あ、本当だ! じゃあ上がらせてもらいますね」
居間の方からは、すぐに言い争う二人のにぎやかな声が聞こえてきて、しばらくするとその声は大人しくなったから、ちゃんと二人で勉強を始めたんだと思う。
導師がやってきて、俺の膝に座った。
「やれやれだな」
俺は、導師の頭を掻いてやる。
「ねぇ導師、菜々子ちゃんってさぁあー……」
「うちの菜々子がどうしたって?」
顔を上げると、買い物袋をぶら下げた香澄が立っていた。
「はい、これ。あんたも男の一人暮らしじゃ、さみしいと思って」
中に入っていたのは、スーパーで買ってきた大量のお総菜。
「今夜のおかずにでもして。ほら、菜々子がお世話になってるから」
香澄は、俺の膝に座る導師を見下ろした。
「私、妊婦じゃない? 猫には、引っかかれたくないんだけど」
導師と目が合う。
「追いだしてくれない? 猫の毛も嫌だし」
香澄は勝手に居間へと上がって行く。
「やれやれだな」
導師は立ち上がって、全身を伸ばしてから床に飛び降りた。
「導師、ごめんね!」
「私は散歩に行きたくなったから、出て行くだけだ」
居間に戻って、もらったお総菜を冷蔵庫に入れる。
作り置きおかずのタッパーは、奥に押し込んでおく。
「え? あんたんちって、両親とも弁護士なの?」
「えぇ、特に自慢するほどのことでもありませんけどね」
香澄は北沢くんの両親に興味津々で、北沢くんは得意げにその話にのっている。
「僕も将来は、医者か弁護士になる予定です」
香澄は笑った。
「なに? 菜々子は、この子が目当てだったの?」
北沢くんは、顔をまっ赤にしてうつむいて、俺はその隣に座った。
「この家って、あんた以外は上出来なんだね」
「そんなことないよ」
俺だけが、本当はマトモなんだけど、そんなことを言っても、彼女には通じないだろうから言わない。
その日の夜、久しぶりに千里が早く帰ってきた。
全国ツアーのリハーサルとかで、練習に体力を使うから、早めに終わるようにしてるんだって。
千里は、冷蔵庫のお総菜を見て、変な顔をしてたけど、俺の方をちらりと見ただけで、何も言わなかった。
朝になって、開店準備のシャッターを開ける。
今日は天気がいいから、布団を干して洗濯をしよう。
そしたら、家中を掃除して回ろう。
そう思って、洗濯の終わったシーツを庭の物干し台にかけたところで、香澄が現れた。
「おはよー」
彼女はまた、買い物袋をぶら下げている。
居間のちゃぶ台の上には、昨日もらったお総菜に、アレンジを加えた朝ご飯と、座布団には導師。
香澄は、昨日のうちに買っておいたらしい割引の総菜が入った袋を、導師に向かって投げつけた。
導師はちゃぶ台の下に逃げ込む。
「なにこれ、私への当てつけ? さっさとこの猫、追いだしてって言ったよね」
香澄はそばにあった布団叩きを拾いあげると、ちゃぶ台の脚を何度も叩きつける。
「待って!」
台の下から飛び出した導師を、香澄は思いっきり叩きつけた。
導師の体が宙に浮きあがり、棚にぶつかる。
導師は矢のように逃げ去った。
「なんでそんなことをするの! 俺は、導師を探してくる!」
「何その名前、ドウシって、同士? あんたの仲間?」
香澄は、手にした布団叩きを放り投げた。
「あたしが今ここにいるのに、なんであんたが出て行くのよ」
「導師がいなくなったからだよ!」
突然、香澄は俺の胸ぐらをつかむと、足をなぎ払い床に押し倒した。
「ねぇ、妊婦でも、セックスできるって、知ってた?」
香澄は落ちてきた髪を、耳にかき上げる。
「エッチ、しよっか」
彼女の突き出た大きなお腹が、俺の腹部を圧迫する。
這わせた手が股間に到達すると、香澄の唇が俺に触れた。
「菜々子ちゃんのお父さんって、三浦くんなの? 中学の時、つき合ってたよね、そのまま結婚したって聞いたけど、菜々子のお父さんって、やっぱりそうなんだ」
香澄の手が止まった。
高校を卒業してから、俺はずっと地元で暮らしている。
同じ所に長く住んでいると、いろんなことが、勝手に耳に入ってくる。
「元気にしてるの?」
三浦くんは、作業現場の事故で亡くなったと聞いている。
「今は、どこに住んでるの? 三浦くんちの実家? それとも別に部屋を借りた?」
駆け落ちみたいにして結婚したから、義両親とは音信不通で、香澄は実の両親とも、昔から仲が悪かった。
「それとも、自分のうちに戻ったの?」
大きいお腹で突然帰ってきた出戻り娘の噂は、実のお母さんの悪口という形で、とっくに近所に知れ渡っている。
「お腹の赤ちゃんも、もうすぐ生まれてくるの、楽しみだね」
この子の父親は、誰だか分からないそうだ。
「今のあんたに、そんなこと関係ないでしょう!」
強引に唇を寄せる香澄から、俺は必死で抵抗する。
「なによ、いいじゃないの、ちょっとぐらい。そうだ、面白いことしてあげようか」
香澄はお腹を俺の腹部に押し当てたまま、両手両足を浮かせた。
「ほら、こうやっても全然お腹潰れないんだよ、風船みたいでしょ?」
お腹の子と、香澄の体重が俺の体にのしかかる。香澄は大声で笑っている。
「潰してやろうかと思ってさ、いつもこれやってるんだけど、なかなか潰れないんだぁ、これが! 案外丈夫なうえに、しぶといよね、このままあんたのお腹の上でふたりとも死んだら、それってもしかして腹上死ってやつ?」
香澄の笑い声は、俺を俺じゃない何者かに変えてしまいそうだ。
「やめろよ!」
お腹をクッションにして飛び跳ねる香澄を、下にして組み伏せた。
「こんなことして、なにが楽しいんだ!」
「楽しいわけないでしょ! あんたのためにやってんのよ!」
二階と玄関から同時に足音がして、千里と尚子が飛び込んできた。
「お兄ちゃん? なにやってんの!」
「和也? あんた、大丈夫?」
突然の女性二人の登場に、俺の腕の中で香澄は叫んだ。
「助けてください! この人が急に!」
俺は、自分の体の下にある香澄を潰してしまわないように、ゆっくりと気をつけて上体を起こす。
「私、突然この人に押し倒されたんです!」
香澄の訴えに、二人は顔を見合わせた。
俺はただ、何も言わずに黙っている。
「うちのお兄ちゃんは、そんなことする人じゃないでしょ」
「和也は、無理矢理女性を押し倒すようなことは、出来ませんよ」
香澄が見上げた先にあったものは、彼女の望むものではなかった。
彼女の平手打ちが、俺の左頬を強打する。
「どいて! 邪魔!」
香澄は出て行った。
こんな形で、俺の初恋が終わりを迎えるとは、思いもよらなかった。
「だって、お兄ちゃんはビビリなんだもん」
「やり方も知らないんじゃない?」
二人の女は、いつも好き勝手なことを言う。
俺は、叩かれた頬に触れてみた。
指の先から、ヒリヒリと痛む。
だけど、そんな痛みよりも、傷ついた思い出の方が、よっぽど痛い。
尚子がため息をついた。
「あんた、あの人のことが好きだったの?」
のれんをくぐって出て行った香澄を、俺は追いかけないといけないはずだった。
「だったら、素直にそう言ってあげればよかったのに」
「導師を探してくる」
「変なの」
店から出て行こうとする俺の背中に、二人の声が突き刺さる。
「どうして、ちゃんと言ってあげなかったのよ」
「なんか今日は変だよ。いつものお兄ちゃんじゃない」
「だから、お前らは嫌いなんだよ」
俺は、導師を探しに行くんだ。
使い古したボロボロのサンダルを引っかけて、店の外に出る。
だって俺は、香澄の好きなお菓子なんて知らない。
本当はただ、外に出たかっただけ、外の空気を吸いに出たかっただけ。
風の吹き抜ける河原の土手の上、今日は、北沢くんにも菜々子ちゃんにも会いたくない。
そのまま家にいて、尚子と千里と言い合いを続ける気もないし、どこか遠くへ行ってしまいたかった。
もう、導師も、魔法使いも、本当はどうだっていいんだ。
俺は、自分の身にふりかかる、数多くの悪事をコントロールしたかった。
自分に起こる嫌な出来事を、自分でコントロールすることができるなら、それは正義の味方とかじゃなくて、悪魔か大魔王のはずだ。
戦って勝てる相手じゃないなら、それをうまく避けるしかない。
大魔王になって、俺は向こうから勝手に飛んでくる悪を、避けたかったんだ。
ついでに回りの人たちもなんて、余計なことは、考えている場合じゃなかった。
導師との修行が進まないのも、自分に焦りがあったのも、結局は全部、自分が助かりたかっただけだし。
今日はもう、なにもしない。
こんな時は、ただ歩くに限る。
どこまでもどこまでも、足の動くかぎり動かして、帰れなくなってもいい、行き着いた先で座っていればいい。
そしたらまた、いつの間にか太陽が昇って、大勢の人がどこかに向かって急ぐ風景を見ながら、自分はやっぱり一人なんだということを再認識する。
分かりきってることを、時々忘れてしまうから、辛くなるだけなんだ。
本当はこのまま消えてなくなってしまいたいけど、そんな度胸もないから、結局はまた何もない家に戻る。
玄関の方から居間に上がると、灯りがついたままの部屋で、尚子と千里が待っていた。
「ちょっと! どこほっつき歩いてたのよ!」
「だからお兄ちゃんも、いい加減、携帯電話持ちなって!」
「なんだよ」
家に帰りつくなり、うるさい女共に囲まれた。
「導師が、車にひかれて倒れてたの!」
何を言われているのか、耳の理解を超える言葉の羅列。
世界が凍りつく。
俺はすぐに、身を翻した。
「どこに行くのよ!」
「あたしとお姉ちゃんとで、もう病院に連れてって、入院させてるから!」
振りむいたら、むっつりとふくれた二つの女の顔。
「外傷はないけど、内臓がどうなってるのか分からないから、今夜は病院で様子みるって」
「明日、お見舞いにいってあげて」
二人からそう言われて、なにも返さず二階へ上がった。
子供の頃から何も変わらない、小さな部屋。
小学生の時から使っている、机と簡易ベッド。
窓から見える景色は、道路脇のすぐ向かいの家の壁に阻まれていて、夜でも明るい空は、視界の三分の一程度。
この家の壁に囲まれて、目が覚めたら世界が変わっていたらいいのにと、何度願ったことか。
幾度となく裏切られても、そう願わずにはいられない。
どうにもならないって、いい加減あきらめらたいいのに。
今日はもう、このまま寝る。
朝になって、臨時休業の張り紙を店の前に出してから、動物病院へと向かった。
「いや~驚きましたよ! カリスマ経営者の荒間尚子と、超人気アイドルの荒間千里が姉妹だったなんて!」
先生は、連絡先が記載されたカルテを指差しながら、「この住所と電話番号であってます?」とか聞いてくる。
なにかあったら、連絡するために必要らしい。
「でも、そう言われてみると、顔とかそっくりですよね、ホントよく似てますよね、やっぱりお姉妹なんだなぁ~」
病院の奥から連れてこられた導師は、ゲージのなかでぐったりと横たわっていた。
「朝イチで検査したので、麻酔がまだ効いてるんです。もう少ししたら元気になりますから、お家につれて帰ってもらって大丈夫ですよ」
命に関わるような怪我はないから、おうちでゆっくり様子をみたのでいいと言われた。
お金は尚子が払ってくれていたらしく、預かり金があるからいらないと言われた。
ぐったりとした導師を抱いて、俺は家に戻る。
空は秋晴れの気持ちのいい空で、土手の上を歩いているうちに、導師はもぞもぞと動き出した。
目は閉じているから、まだ疲れているのだろう。
「ねぇ導師。空がきれいだよ」
むぅ、という小さな鳴き声がして、導師は寝返りをうった。
麻酔はもう、切れたみたいだ。
家にたどり着いて、俺は居間での導師の定位置に、座布団を敷いて寝かせた。
「ニャー」
「どうしたの、導師?」
座布団の上で、ゆっくりとのびをして顔を上げる導師。
導師はこちらを見上げるばかりで、なにも言わない。
後ろあしで、あごの下を掻いた。
「導師、体はどう?」
導師は、目を細めて鼻をひくひくさせる。
「ねぇ、導師ってば」
耳の後ろに手を伸ばした俺に、導師が答えた。
「ニャア」
「ねぇ、なにそれ、ニャアだけじゃ分かんないよ」
導師を膝に抱き上げる。
導師はゆっくりと目を閉じて、また開けた。
「病院はどうだった? なんで車になんか、ひかれたんだよ」
導師は黙ったまま、気持ちよさそうに目を閉じる。
「ねぇ、今日はなに食べたい? 今日だけは、特別に導師の好きなもの作ってあげる」
導師は俺の膝から下りると、首の下を掻いた。
あくびをして、その場にうずくまる。
「ねぇ、導師、なにかしゃべってよ」
「ニャー」
俺は、伸ばした腕ごと、全身が固まった。
「え、なにそれ、ちょっと待ってよ」
もしかして、導師の声が聞こえなくなってる?
どうしよう、なんで? なにがあった?
俺は、震える手で動物病院の薬の袋を見た。
薬袋には、病院の電話番号がのっている。
導師になにが起こったのか、ちゃんと聞かなくちゃ。
黒電話に手を伸ばしたとき、呼び鈴がなった。
「はい、もしもし」
「病院行った? どうだった?」
尚子だった。
「導師が、導師がしゃべってくれないんだ!」
「は? 導師がしゃべらなくなったって?」
「どうしよう、なんで? なんでしゃべってくれないの?」
自分でも、自分の声が震えているのが分かる。
受話器の向こうで、尚子がため息をついた。
「そ、じゃあ元に戻って、よかったんじゃないの」
「なにが?」
「普通の猫に戻って、あんたも、変な寝言を言わなくなる」
「は?」
「黙ってたけどさ、病院連れて行こうかと、千里と相談してた。あんたが、いつまでもおかしなこと言ってたから」
「魔法使いになりたいって? 導師と修行してるって?」
「……、そう」
もう少しで、わざと受話器を落としてしまいそうだった。
自分がいま、ここで立っていられるのも、不思議なくらいなのに。
腹の底から、嫌な笑いがこみあげてくるのを感じている。
遠くでなにかの、大きな音が聞こえる。
「ちょっと心配してた。でも、導師の声が聞こえなくなったんなら、私は安心したよ」
外から聞こえる音が、家の近くで止まった。
「あんたも色々あって、疲れてたんだと思う。父さんが亡くなってから、ずっと一人でバタバタしてたし。少し休んで、ゆっくりしなさい。導師が無事で、よかったね」
俺は受話器を置いた。
再び鳴りだしたサイレンの音。
それは、香澄が救急車で運ばれていく音だった。
知らせに来てくれたのは、北沢くんだった。
菜々子ちゃんは、学校に来ていないらしい。
ずっと病院で付き添いをしているから、学校には来られないんだって。
そのことをレジの前で聞いたとき、俺は黙ってうなずいただけだった。
「お見舞いとか、行かないんですか?」
「どうして?」
「だって、気になるじゃないですか、どうなってるのか。僕は見に行けないし」
「行っても、しょうがないから」
北沢くんは、やれやれといったかんじで肩をすくめると、すぐに帰っていってしまった。
彼はもう、居間に上がってお菓子を食べたりなんかしない。
導師は隣でずっと毛づくろいをしていて、それが終わったら、丸くなって目を閉じた。
今思えば、恋とか、つき合うとか、何も考えていなかった中学の頃、なんで俺は、あの時、あの場所で、香澄に告白したんだろう。
どうして二人きりで、あの時あの場所にいたのかすら、もう覚えていない。
とても暑かったから、もしかしたら、運動会の練習かなにかだったのかもしれない。
気が強くて、いつもクラスの中心にいた香澄が、一人で座っていた。
俺はなぜか、香澄を探していて、香澄は真っ青な顔で校舎の陰に座っていて、保健室に行こうって誘ったけど、嫌がった。
お腹が痛いって、彼女は泣いていた。
だったら、なおさら保健室に行けばいいじゃないかって言ったのに、うずくまったまま、かたくなにそこを動かなかった。
彼女は何かを恐れ、怖がっていた。
それが何かは分からなかったけど、その時になぜか俺は「君のことが好きだから」って、言った。
彼女はそれを聞いて、笑って、笑って、泣いたんだ。
その時に俺は、本当はどうすればよかったのか、それが分からなくて、ずっと考えてて、多分今でも、そのことを考え続けている。
自分が今でも一人でいる理由が、その全てだなんて思ってはないけど、そこで立ち止まったまま、動けていないのは多分事実。
だから、お腹の大きくなった、変わってしまった香澄が目の前に現れた時に、自分だけが取り残されたような気がして、ますますどうすればよかったのか答えが見えなくなって、ただ一人でずっと悩んでいた自分がバカみたいに思えて、情けなくて、悔しかったんだ。
レジ台から立ち上がる。
俺は、香澄に謝らなくてはいけない。
彼女はきっと、また笑うだろう。
ワケ分かんないって、いつの話しだって、彼女自身も、そんなことがあったことすら、覚えていないかもしれない。
でも、そうしなければ、そうすることが、俺が自分で前に進む、今度こそ、俺が本当に香澄から解放される、儀式になるんだ。
立ち上がった俺を、導師が見上げる。
導師はあれから、一言も声をかけてはくれないけど、多分、頑張れよって、言ってくれてる。
俺は、導師の頭をひとなでしてから、香澄の待つ病院へと向かった。