「お名前は? なんておっしゃるんですか? 僕は、北沢貴之です。小学校五年生ですが、地元の小学校ではなくて、私立に通っているんで、今日は開校記念日でお休みなんです」
今日は普通に平日。
毎日が日曜日みたいな俺にとって、祝日とか休みの日の感覚は、ないに等しい。
「俺は荒間和也、そこの商店街で、本屋さんをやってます」
「どうも、よろしくね、和也さん」
彼が右手を差し出してきたってことは、握手しろってことかな?
よく分かんないけど、とりあえず同じように手を出したら、ぎゅっと握って振り回された。
「ついでに、お菓子でも買っていきません? 僕、お腹すいちゃったな」
よく分からないけど、彼はうちでお菓子を食べるつもりらしく、こっちへ来いと手招きする。
必然的に、俺と導師の修行はそこで中断した。
商店街のスーパーで、彼はありとあらゆる種類のお菓子を買い物かごへと放り込み、もちろんお金は俺が払って、うちについたら本屋の店の方から居間へ入った。
その時には、北沢くんの傷はもう出血も止まってかさぶたになっていたけど、消毒をして絆創膏をはった。
そうしてほしいって、彼に頼まれたから。
それが終わったら、彼はずっとお菓子をほおばりながらテレビを見ている。
ゲーム機やパソコンはうちにないと知って、あきらめたようだ。
俺は部屋の隅っこに正座して、導師と並んでその様子を観察している。
「……これから、どうするつもりなのかな」
「さぁな、私は人間の子供は嫌いだ」
「今日の修行、できなかったね」
「仕方ない、魔法の修行は、極秘裏に行うものだからな」
壁にかかった時計をちらりと見たら、もう六時を過ぎている。
子供は家に帰る時間だ。
「ねぇ、北沢くん、そろそろお家に帰らないと、家の人が心配するんじゃない?」
「スマホあるから、大丈夫っすよ」
テレビの前から動かない彼に、ため息をついた。
どっちにしろ、そろそろ夕飯の支度も始めないと、あの二人が帰ってくる。
仕方なく台所に立った俺の後ろに、いつの間にか北沢くんがやって来て、俺の手元をのぞき込んだ。
「わぁ、男の手料理ってやつですか? 今日のメニューはなに? 楽しみだなぁ」
この子は、夕飯も食べていくつもりなんだろうか。
にっこりと微笑む彼と目を合わせながら、彼のためにもう一品おかずを増やそうかと、考えているときだった。
ふいに、店の呼び鈴がなった。
表に出てみると、そこには北沢くんよりさらに小さな女の子が立っている。
「すいません。これください」
彼女は、一冊の料理本を差し出した。
『料理の基本~基礎から学べるかんたんおかず~』千二百円。
真っ黒い、つやつやの瞳に、肩先までの髪。
なんだかちょっと、懐かしい感じのする女の子だった。
「お料理、好きなの?」って聞いたら、「うん」ってうなずく姿が、なんだかとても可愛らしくて、俺は思わず「がんばってね」って言ったけど、それには答えずに帰っていった。
「この辺じゃ、見かけない顔だなぁ」
いつの間にかのぞきに来ていた北沢くんは、そんなことを言ってたけど、そんなことより、問題は君自身の方だ。
「もう帰らないと、ダメだよ」
「えー、せっかくお食事を用意してもらっているのに、申し訳ないから、夕飯もちゃんといただいて帰りますよ」
「夕飯は、お家で食べなさい」
俺は、北沢くんを見下ろした。
「ちゃんとおうちで家族と手を合わせて、いただきますをするのが、晩ご飯を食べる時の決まりだからね」
「えぇ? そんな風習、今どき絶滅してますよ」
やっぱり紳士的な笑顔でにこにこしながら、そんなことを言う。
「今や夫婦共働きは当たり前、家族がそれぞれ都合のいい時間に合わせて食事もしないと、それぞれの都合ってもんがありますからね、時間の有限性を考えると、それが一番効率的かつ、利便性が高いんですよ」
「じゃあ、スマホで一言連絡入れとかないと、ご両親も心配するから」
その一言は、彼の逆鱗に触れた、らしい。
北沢くんは突然大声をあげて、この世の終わりとばかりに、わめき散らした。
「おいふざけるなよ、おっさん! お前がいまやってることって、誘拐だよ? 誘拐! 俺が警察に行って泣き落としたら、絶対に俺の勝ちだからな! お前が犯罪者になるってことなんだよ、犯罪者に! 犯罪者になりたいの、お前。分かったら、余計なことすんなよ! こんなつまんねーとこ、こっちの方からさっさと出て行ってやるよ! いっとくけど、お前んちはもう覚えたからな! 逃げようったって、無駄なんだよ!」
彼はそうやって思いつくかぎりの悪態をつきながらも、大人しく店に戻って靴を履く。
「いいか! 明日もまた来てやっからな、覚悟しとけよ! お菓子もちゃんと補充してなかったら、この店に火をつけて、ここにある本、全部燃やしてやっからな!」
彼は去り際に、もう一言を付け加えてから、走り去っていった。
「ばーか!」
とにかく、ようやく帰ってくれたから、店じまいをしてから、夕飯の支度に取りかかる。
あんなの、尚子や千里に比べたら、かわいいもんだ。
ハンバーグを焼いていたら、裏の玄関の引き戸が開く音がして、千里が帰ってきた。
「ちょっと何よ、あの部屋の散らかり具合!」
「お帰り~」
「なんなの? お兄ちゃんは、いまだに小学生男子なの?」
俺はフライパンの火を止めて、千里を見る。
「お帰り」
「ただいま」
俺たちは家族じゃないけど、一緒にご飯を食べる。
いただきますもする。
焼き上がったハンバーグを、皿の上にのせた。
「あの部屋を先になんとかして! 家中がお菓子くさくて、耐えらんない!」
まぁ確かに、千里がそんなことを言いたい気持ちも分かる。
俺は畳に転がっていた、空のポテトチップスの袋を拾い上げた。
「早く御飯にしたいなら、千里も片付け手伝って」
「はぁ? 私は今からお風呂入るんだから。その間に片付けといてよね、ご飯はその後よ」
「御飯は、みんなで『いただきます』だろ!」
「あんたはこないだまで一人で食べてたくせに、なに言ってんの?」
「今は違うでしょ」
「なにが違うのよ」
「一緒に住んでる」
「それが何よ」
俺と千里とのにらみ合いが続く中、家の黒電話がなった。
俺は携帯電話を持っていない。カネがないからだ。
電話に出ると、尚子だった。
『あ、今日私のご飯、いらないから』
それだけ言って、すぐに切れた。俺は受話器を叩きつける。
千里はすでに、二階に消えていた。
「一緒にご飯食べられないんだったら、今すぐここを出て行け!」
着替えを抱えて降りてきた千里は、あっかんべーをしてから浴室に消えていく。
俺は、小さなちゃぶ台に並んだ三人分の食事を見下ろした。
誰も一緒に食わないなら、俺が先に一人で食ってやる!
「いただきます!」
手を合わせて、挨拶をしてから食べる。
一人でも、そうする。
誰も血の繋がらない人間同士なのに、何が家族だ。
そんな都合のいい言葉に、もう俺は騙されないぞ!
自分の分の食事を、押し流すように胃に突っ込んで、千里が風呂から出てくるまえに食べ終えた。
そのあと、尚子の分を冷蔵庫にしまってから、俺は二階へと上がって、寝た。
ざまーみろ、だ。
翌日は、朝早くから、北沢くんがランドセルを背負ったまま、本当にやってきた。
「おはようございます」
彼は相変わらずの爽やかな笑顔で、堂々と店に入ってくる。
「今日も学校休みだったの、忘れてたんですよね」
北沢くんは、ランドセルを背負ったままレジ台の横から居間に上がり込むと、テレビのチャンネルを変えた。
「ジュースかなんか、あります? あ、いいですよ、自分で取りますから」
背負っていた、ちょっと風変わりなランドセルを放り投げた彼は、台所に入っていった。
そして、寝起きの千里と鉢合わせる。
「ちょ、お兄ちゃん? 誰よ、この子!」
「北沢くん」
「は?」
「北沢くん」
「バカ、違うって!」
千里も混乱していたけど、千里以上に混乱していたのは、北沢くんの方だった。
「え、えぇっ? えぇー!」
どすっぴんの千里に視線を奪われたまま、手足だけは、バタバタと動いてる。
「さ、桜坂花百合隊の、ちりりん?」
その言葉に、パッと千里のアイドルスイッチが入った。
「あ、君、北沢くんっていうの?」
「はい!」
千里は、テレビでしか見たことのない顔で笑う。
「実はね、ここ、私の実家なの、実家って、分かるかな?」
「わ、分かります!」
北沢くんは、頬を真っ赤に染めて、夢見るように千里を見上げる。
「みんなには、このこと、内緒にしておいてくれるかな、千里からのお願い、ね?」
「はい!」
千里は北沢くんの頭越しに、スゴイ目で俺をにらんでくる。
にらまれたって、そんなこと知るか。
ここに住むと勝手に決めたのは千里自身で、勝手にやってきたのは北沢くんだ。
その北沢くんは、すっかり夢見る少年に変わってしまった。
千里はこれからレッスンがあるからとかなんとか、多分適当な嘘を言って出て行った。
北沢くんは、きちんと正座をしてちゃぶ台の前に座る。
「いや、驚きました。こんな運命の出会いって、本当にあるんですね」
どこからか入って来た導師が、ちゃぶ台の上に飛び上がる。
「私は魂の指導者」
「もしかして、この猫もちりりんの飼い猫ですか?」
北沢くんは、昨日は見向きもしなかった導師の頭をなでた。
俺は正座をして、導師と向き合う。
「ところで、本日の修行だが」
「はい」
「わぁ! やっぱり、そうなんだ!」
北沢くんは、いきなり導師を背後から抱きしめた。
びっくりした導師は、逃げようとしてあばれてる。
なんとか北沢くんの腕から逃れた導師は、どこかへ走り去ってしまった。
「あぁ! 行っちゃった」
今日もまたすることがなくなった俺と、北沢くんの目が合った。
「これから、どうします? ちりりんの、お部屋の掃除でもしておきましょうか」
「勝手に入ったら、殺されるよ」
「それはいけませんね」
「俺は、店番があるから」
「じゃ僕は、持ってきたゲームでもしながら、適当に過ごします」
店先から見える屋根付きの通りは、いつでも薄暗い。
北沢くんは、しばらくうちでごろごろしてたけど、昼前に一度戻ると言って出て行ってしまった。
本当は、魔法使いになる修行をしないといけないんだけど、導師もいないし、どうしたもんだか。
レジ台に座ってうとうとしながら、ぽつりぽつりとやってくる客の相手をして、気がつけば午後をまわっていた。
ふと顔をあげると、店内で立ち読みしている女の子がいる。
その子には見覚えがある。
昨日料理の本を買っていった、懐かしい感じのする女の子だ。
立ち読みしている本は、辞書。
「何を調べてるの?」
俺が話しかけると、少女は驚いた顔をして、慌てて辞書を閉じた。
「ごめんなさい。どうしても、読めない漢字があって」
「どれ?」
彼女が指を差したのは、昨日買っていった本の『合い挽き肉』の『挽』という字だった。
「辞書で調べて、分かった?」
「読めないから、調べられなかった」
まぁ、確かにそうだ。
国語辞典は、そもそも文字が読めないことには、意味も調べられない。
「これは、『あいびきにく』って、読むんだ」
「どういう意味?」
「豚と、牛の肉をまぜてある挽肉のことだね」
そういうと、少女は料理の本に目を落とした。
開いているのは、ハンバーグのページ。
「ハンバーグ、作りたいの?」
その女の子は首を振った。
広げていた本を片付けて、急いで店を出ようとする。
「昨日、俺がうちでハンバーグ作ったんだ」
店の入り口で、少女が振り返る。
「偶然だね、余ってるのがあって、よかったら食べる?」
「知らない人には、ついて行っちゃダメだから」
その言葉に、俺は多少なりとも傷ついたけど、彼女の言うことは間違ってない。
「そっか、そうだね」
少女がぺこりと頭を下げて、一歩を踏み出したとき、ランドセルを背負っていない北沢くんが店に入ってきた。
「おじゃましまーす」
彼は誰にも臆することなく店の奥に進み、誰に邪魔される事もなく、勝手に居間へと上がり込む。
「お菓子、買い足しておいてくれましたぁ?」
そんな北沢くんの態度に、少女はとても混乱した様子で、俺と北沢くんを交互に目の玉だけで追いかけながらも、何かを一生懸命に考えている。
俺には、その怒りにも似たおどおどとした様子が、ここにきたばかりの千里みたいに見えた。
「一緒に、お菓子食べる?」
「読めない漢字が、他にもあるの!」
しっかりと本を胸に抱えた女の子は、そう叫ぶ。
「だけど、うちに辞書がないから、読めないの!」
「どれ? 教えてあげる」
俺はレジ台に座って、彼女はその前に立って、俺と彼女の間には、開かれた本のページが置かれた。
彼女がその細い小さな指先で、次々に繰り出す質問に答えながら、俺は時々彼女に質問をはさむ。
彼女の名前は藤崎菜々子、最近この近所に引っ越してきたばかりの小学四年生で、ご飯を作れるようになりたいらしい。
藤崎という名字は、俺の初恋の人と同じ名字だ。
「どうして、ご飯を作れるようになりたいの?」
「生物は、食べないと死ぬから」
いつの間にか戻って来た導師が、俺の足元にするりと忍び込む。
「ねぇ、和也さん、お菓子の買い置きって……」
ふいに居間と店を仕切るのれんの奥から、北沢くんが顔を出した。
彼は菜々子ちゃんを見るなり、牙をむき出しにして吠え始める。
「なんだよ、なんでお前がこんなとこにいんだよ!」
眉間にしわをよせ、本当に犬のように吠える。
「お前がこんなとこ、来ていいわけないだろ、さっさと帰れよ!」
俺もよく吠えられるから、犬って、ちょっと苦手なんだよねぇ。
そこを通っただけで、他には何にもしてないのにさぁ。
「彼女はお客さんだから」
「はぁ?」
俺がそう言うと、そのつばの飛ばし先が変わった。
「なにが客だよ、こいつカネ持ってねぇだろ、だってすっげー貧乏なんだぜ、こいつんち! お前はどうせ万引き犯なんだろ? 万引き犯! コイツはね、ど・ろ・ぼ・う! どろぼうなんだよ!」
少女の胸に抱えていた本が、するりと抜け落ちた。
大切なはずの、自分のお金で買った本が、床に落ちる。
彼女は北沢くんに飛びかかって、顔を殴っていた。
二人はそのまま、菜々子ちゃんは北沢くんにつかみかかったまま、居間に転がり込んだ。
必死で抵抗する北沢くんでも、馬乗りになった菜々子ちゃんの勢いは止められない。
何かを訴えようとしている北沢くんに、一切言葉を発する隙を与えない連続パンチ。
これは間違いなく、彼女を止めた方がいいやつ。
「菜々子ちゃん!」
正直こんな喧嘩の、一方的な殴り合いの仲裁に入ったことなんて、生まれて一度も無いから、どうやっていいのか分からない。
だけど、振り下ろされる彼女の腕を偶然つかめたから、ようやく連続パンチが止まった。
北沢くんの泣き声が、表通りにまで響く。
菜々子ちゃんは、あくまで冷静だった。
「ごめんなさい、勝手にお家に入っちゃって」
「いいよ」
「すぐに帰ります」
菜々子ちゃんは、履いたままだった靴を脱いで、両手に持った。
そして、自分の大切な本を持っていないことに気がついた。
「あれ! 料理の本は?」
混乱して辺りを見回す彼女に、俺が拾っておいたそれを差し出したら、初めて泣きそうなくらいの顔で笑った。
「ありがとうございました」
「俺はね、荒間和也、ここの荒間書店の店長、本屋さん」
菜々子ちゃんは、俺を見上げる。
「もう知らない人じゃないでしょ。一緒にお菓子食べよう。ほら、北沢くんも、泣き止んで」
こういう時の、お菓子パワーって、すごいと思う。
チョコレートで誘拐できるって、嘘じゃないと本気で思う。
ちゃぶ台一杯に広げたお菓子とジュースで、北沢くんと菜々子ちゃんの機嫌はすぐに直った。
「ねぇ、知ってる? コイツ、学校ほとんど行ってない問題児で、すごい有名人なんだよ」
菜々子ちゃんは、北沢くんの話を始めた。
「で、すっごい嘘つきで、適当なことばっかり言ってるから、もう学校の先生も、近所の人も自分の親も、誰も相手にしてないんだって」
「え! 私立の小学校に行ってるんじゃなかったの?」
「そんなのウソ、ウソ! 私と同じで歩いて行ける小学校行ってるもん。でさぁ、親が弁護士っていうのを自慢しまくるから、友達も出来ないんだって、みんなむかつくんだって、ウザイんだって」
親が弁護士っていうのは、本当だったんだ。
今度は北沢くんが、菜々子ちゃんの話をする。
「お前こそ、すっげー貧乏人の転校生が来たって、うちの母さんが言ってたぞ。頭悪い系の、典型的ダメシングルマザーだって、言ってたぞ」
「私は頭悪くないもん!」
「親がバカだから、お前もバカなのは、しょうがねぇだろ!」
「私はバカじゃない!」
菜々子ちゃんの地雷原は、どうもこの辺りにあるらしい。
頭が悪いと言われた彼女は、再び北沢くんに殴りかかろうとする。
「勉強なら、俺が教えてあげるよ!」
北沢くんの胸ぐらを掴み、拳を振り上げた菜々子ちゃんの動きが、俺の一言で止まった。
「お、俺も勉強は出来る方じゃないけど、たぶん小学生くらいの勉強までだったら、なんとかなると思うから」
「ほんとに?」
うなずいた俺に、北沢くんが言う。
「大丈夫かよ、コイツの親、万引きで捕まって転校してきたんだぜ!」
菜々子ちゃんの体が、ビクリとこわばった。
大丈夫、北沢くんが怖いんじゃない。
怖いのは、菜々子ちゃん自身が誤解されてしまうこと。
「菜々子ちゃんが、俺でもいいんなら、俺はいいよ」
彼女は、彼女にふさわしい、子供っぽいはにかみを見せてくれた。
「じゃあ、そうする」
なんだかうれしくなって、ついにっこり笑った俺に、菜々子ちゃんも笑う。
「なんだよそれ! じゃあ俺も一緒に勉強する!」
「ははは、いいよ」
「なによそれ、私の邪魔しないでよ!」
「それはこっちの台詞だ! あ、でも」
北沢くんが、俺を見上げた。
「でも、ここのうちのことは、秘密にしておかないと」
「なんで?」
「だって、ちりりんが……」
あぁ、そうだった。忘れてた。
まずはあいつらをどうにかしないことには、やりたいことも、何も出来ない。
「ちりりんって、なに?」
「なんでもないよ。じゃあ、ここで勉強するのは、三人だけの秘密ね」
俺がそう言ったら、二人は快くうなずいた。
菜々子ちゃんは、さっそく料理の本を広げ、分からない漢字を聞いてくる。
俺は本物の調理道具を、台所から持参した。
その日からほぼ毎日のように、菜々子ちゃんと北沢くんは、うちにやってくるようになった。
午前中は学校に行って(たまにサボった北沢くんが来るけど)、午後からの数時間をうちで過ごす。
本当に勉強がしたいらしい菜々子ちゃんは、店のドリルや参考書、問題集を立ち読みして、その問題を記憶してから、居間で学校プリントの裏の白紙に書き写す。
何度も何度も店と居間を往復して、ホッチキスで留めたオリジナル参考書を作る。
俺と北沢くんは、そんな菜々子ちゃんを見ながら、お菓子を食べたり、テレビを見たりする。
「なんでそんなに勉強すんの?」
北沢くんが聞いたら、菜々子ちゃんは問題を解きながら答えた。
「自分で稼げる人間になりたいから」
菜々子ちゃんは、とっても大人だ。
お料理の本は、もう大体覚えたから、うちでは自分でご飯も作るらしい。
お菓子の粉まみれになった指をなめながら、男二人はぼんやりと勉強する菜々子ちゃんを見ている。
「あいつは、魔女になるな」
午前中の、二人ともいない時間が、俺と導師の修行タイムになった。
最近はもっぱら、居間か庭先が修行の場だ。
縁側の上で、後ろ脚で首の後ろを掻きながら、導師は続ける。
「女はみんな、魔法使いになる要素を持っている。それに気づいてる奴は、少ないけどな」
「菜々子ちゃんは、魔女になる?」
「本人がその能力に気づいて、なろうと思えばな」
「ふーん」
導師はきちんと座り直して、俺を見上げた。
「私は魂の指導者。さて本日の修行だが、お前の目指す魔法使いとは、なんだ?」
「えっと、一番強い魔法使い。黒魔道師、攻撃系の呪文使うやつ」
「大魔王?」
「そう、それ! 世界中を、自分の思い通りにしたい」
コホン、と、人間だったら咳払いみたいに、導師はぶるりと頭を振った。
「よろしい。選択に迷った時は、常に難しい方の道を選べ、魔道の基本だ。では、始めよう」
秋口の朝の、柔らかい日差しが縁側に降りそそぐ。
俺はボロい一軒家の庭先で、正座して導師に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「うむ。まずは精神を統一することがなによりも重要だ」
「はい」
「何事にも動じぬ心。齢三十まで禁欲を貫いた者にならば、難しいことではないはずだ」
それはうれしいのか、うれしくないのか、いいことだったのか分からないけど、とにかく大魔王になれるのなら、頑張るしかない。
「はい」
「目を閉じて、意識を腹の底に集中させるのだ。そして、これから私の言うことの……」
ガチャン! という大きな音に、ハッと導師と目を合わせる。
「何事?」
その瞬間、導師が店へと走った。
導師が熱心にのぞき込む店内、その背中の上から、のれんを押し分けて店の奥を見る。
白い影が、視界を横切った。
導師も店の外へ飛び出す。
真っ白い、大きな猫だ。
「追いかけるの?」
店を無人にするには気が引けるが、どうせ誰もこないし、盗まれて困るものも何もない。
修行の中断は気になるけど、導師がいないことには、どうしようもない。
俺はサンダルを引っかけると、後を追った。
店の外に出てみたはいいけれど、すでに彼らの姿はない。
昼間の方が薄暗いアーケード街の隅っこ。
俺は右と左と、どちらに行こうか迷っていた。
「あら、和也くん、どうしたの?」
古くからの顔なじみのおばさんが、声をかけてくる。
「いや、ちょっと修行中だったんですけどね」
「あらまぁ、なんの修行中?」
「魔法使いです」
おほほほほ、と、玉を転がしたように智代さんは笑った。
「さっき、猫が飛び出してきませんでした? 焦げ茶の」
「さぁ、見てないわね」
そうですか、分かりましたと頭を下げ、俺は導師の捜索を始めた。
平日の午前中なんて、外を歩いているのは老人と幼い子供を抱えたお母さんぐらい。
そんな中で、俺みたいなのがぷらぷら歩いてると、非常に目立つ。
みんな、どこで何をしてるんだろう。
「お~い、導師~。どこ行ったぁ~?」
あてもなく歩いていると、ふと聞き覚えのある声がして、公園の隅で北沢くんを見つけた。
ランドセルを背負っている。回りには、制服姿の中学生。
「あ、北沢くん! 導師見なかった?」
北沢くんの服と顔は汚れていて、左の頬がなんだかちょっと赤くなっている。
三人の中学生は、俺が近寄るとどこかへ行ってしまった。
「導師、見なかった?」
「見てねぇーよ」
北沢くんは、切れた唇の端を手の甲でぬぐうと立ち上がった。
「なにしてたの?」
「は? お前、バカか」
北沢くんの着ている服は、今は汚れているけど、いつだって高そうな服で、その七分丈のお洒落なズボンのポケットに、彼は両手をつっこんで歩く。
「どこいくの? 学校は今日も休み?」
「今から行くんだよ」
ランドセルを背負って歩く彼の後ろ姿は、やっぱりなんだか大人びて見えて、小学校っていう場所が、似合わないかんじがする。
「ねぇ、大丈夫?」
「大丈夫なわけねぇだろ。学校じゃ、誰もいない」
そう言って、北沢くんは振り返った。
「今度から、余計なことするなよ」
余計なことって、なんだろう。
そういえば、いつも尚子や千里にも言われてる。
あの二人は、大概俺のやることなすこと全てが気に入らない。
俺の全てが、あいつらにとって余計なこと、だ。
太陽が空のてっぺんに来て、少し西に傾いた。
お腹もすいてきたし、導師も見つからない。
たまたま目に入ったラーメン屋さんでお昼を済ませて、午後からの捜索を再開する。
北沢くんと初めて会った、土手に来てみた。
河原の草原に立つ一本の木。
行ってみようかと舗装された土手の道を歩いていると、赤いランドセルの菜々子ちゃんを見かけた。
彼女はしゃがみ込んで、土手の草むらに向かって、ちぎったパンを投げた。
「なにしてるの?」
その言葉は、彼女にとって不意打ちだったようで、ビクリとして振り返った。
「な、なんでもない」
草むらには、小さなパンの固まり。
白い影が、スッと草むらに消えると、どこかへ走り去った。
菜々子ちゃんは手にしていた給食のパンを、あわてて後ろに隠す。
「給食、食べきれなかったの?」
色とりどりの、カラフルなランドセルを背負った子供たちがが、すぐ横を通り抜ける。
「うわ、またこいつ給食のパン、持ち帰りしてるぜ!」
「ダメなんだよ、持って帰っちゃ」
「動物にエサやりも禁止だし!」
「違うよ、うちでご飯食べられないから、持って帰って食べてるんだってよ!」
「えぇ~! やだ汚い古い、お腹壊しそう」
赤いランドセルの女の子って、もう多数派じゃないんだな。
この世で一番正直でまっすぐで、嘘の無い人たちが走り去っていく。
菜々子ちゃんは、そんな彼らを黙って見送った。
「菜々子ちゃん?」
「うるさい!」
俺からも、逃げていく必要なんて、ないのにな。
走り去る彼女を追いかけてもよかったけど、多分彼女は今、そんなことを求めたりしていない。
それよりも、俺は早く導師を探し出して、魔法使いにならなければ。
「導師~! 早く修行しようよぉー!」
俺が今一番やらなくてはいけないこと、魔法使いになること。
自分を取り巻くこの世界を、少しでも変えること。
それが俺の、一番の望み。
草むらが、がそごそと動いたけど、導師じゃなかった。
結局、日が傾き始めるくらいまで探したけど、導師は見つからなくて、あきらめて家に帰った。
そこには、導師と菜々子ちゃんが待っていた。
「あれ! ずっと探してたのに、なんだよ」
「それはこっちのセリフよ!」
菜々子ちゃんは、やっぱり勉強していた。
学校から借りてきた辞書を、もう一人で引けるようになっている。
彼女が上がり込んで勉強していたら、お客さんが何人か来て、レジうちまでしてくれたらしい。
そしたら導師が帰ってきて、二人でお留守番してたんだって。
菜々子ちゃんは、めちゃくちゃ怒っている。
「どこほっつき歩いてたのよ、お店もほったらかして!」
「導師を探してたんだよ」
「あんた、まともに働こうとか、仕事する気あんの?」
「だって、導師がいなくなったんだもん」
怒る菜々子ちゃんと、余裕の導師。
「すまない、つい懐かしい顔を見かけたもんでな」
「あの白い猫、知り合いなの?」
そうだ、と、導師は答え、菜々子ちゃんは、違う、と言う。
「古い仲間だ」
「今日初めて会ったの」
彼女の言葉に、導師が反応する。
「なに? どこで会った?」
「導師と一緒に虫取りの訓練してた、河原だよ」
「そんなこと普段してんの? すごく大きくて真っ白な、綺麗な猫だったから、パン食べるかなーと思ってあげたけど、食べなかった」
それを聞いた導師は、猫猛ダッシュで外に飛び出していく。
「あ、ちょっと導師?」
ため息をついた俺に、菜々子ちゃんが言った。
「あの白猫と導師、お友達なのかな」
「古い知り合いなんだって」
「ふ~ん」
今日の修行だって、全然出来なかった。
てゆーか、まともに修行が出来た事なんて一回もない。
虫取りしたり、町の縄張りを探検したり、ひなたぼっこしてたり。
魔法使いの修行って、もっとなにか、違うもんじゃないのか?
「ねぇ」
菜々子ちゃんが言った。
「あんた、猫としゃべれるの?」
導師から、北沢くんにはしゃべっちゃダメっていう話しは聞いていたけれど、菜々子ちゃんに対してどうだったかは、聞いていない。
菜々子ちゃんの、もしかしたら未来がかかっているかもしれないことを、俺が判断するわけにはいかない。
「いや、どうだろ」
かといって、嘘もつきたくないから、適当にごまかしたつもり。
「ふ~ん、ま、どうでもいいけど」
思いっきり冷めた視線で彼女はそう言ってから、また勉強を始めた。
次の日になっても、導師は帰ってこなかった。
俺は、少し腹を立てている。
何度も確認して、魔法使いになる気はあるのかと言っておきながら、いざ始まったらこのザマだ。
本当にやる気がないのは、どっちだ。
今日は土曜日。
朝の開店の準備、といっても、シャッターを上げるくらいのもんだけど、三枚あるシャッターを全て上げきらないうちに、もう菜々子ちゃんがそこに立っていた。
「今日も、来ていい?」
「どうぞ」
居間にあがる前に、菜々子ちゃんは私立中学の入試問題を立ち読みして頭に入れる。
受験する気はないけど、もう普通の参考書じゃ物足りないんだって。
俺はとりあえずレジ台に座ってはみたものの、することはないし、したいことは出来ない。
「ちょっと、導師探してくる」
のれんをかき分けて菜々子ちゃんにそう言うと、彼女はぐっと俺をにらみ返した。
「猫なんて、自分で帰ってくるよ。それよりも、もっとやること、あるんじゃないの?」
「俺には、俺のしたいことがあるんだよ」
「したいことって、なによ」
なんかもう、言うことまでも千里や尚子に似てきた。
なんで女って、みんなこうなんだろう。
「ないしょ」
「は?」
「内緒なの」
菜々子ちゃんの舌打ちの音が聞こえる。
店を出て行こうとした俺の横を、北沢くんが通り過ぎた。
「ちーす」
彼は、ちょっと変わった、見たことの無い鞄を肩に引っかけている。
「塾に行く前に、ちょっと寄ってみただけです」
北沢くんは靴を放り投げて居間に上がると、戸棚から勝手にお菓子を取り出してほおばる。
「あ、出かけるんですか?」
もぐもぐ。
「塾まで、店番してますよ」
「ありがとう」
「ちょっと! それが大人のやること? おかしくない?」
「勉強なら、僕が教えてやるよ。それでも、いいだろ?」
「はぁ?」
「あ、和也さん、いってらっしゃ~い!」
菜々子ちゃんの怒鳴り声が外まで聞こえる。
こういう時って、男同士は簡単で分かりやすくていい。
菜々子ちゃんが勉強したいのと同じくらい、俺は、魔法使いになりたいんだ。
導師が探す、白猫がいた河原に行ってみる。
当然のように白猫も導師もいない。
俺が見ていたのは、草むらから伸びた白い前足。
「導師ー!」
風が吹いた。
「魔法使いの修行、するんじゃなかったのー!」
瞬間、強く吹いた一陣の風に、くるりと振り返る。
「お前は、魔道師の資格を有するものか?」
声の主を探す。どこにも姿が見えない。
「はいはいはいはい、そーですよぉ!」
その資格を有するものは、とっても不名誉なんだということは、この際気にしない。
「どこにいるの?」
声の聞こえる方に、足を踏み出す。
「こっちだ」
かすかに響く声に導かれて、たどり着いたのは町外れの小さな神社。
白い大きな石造りの鳥居のてっぺんに、純白の大きな猫が、吹く風にその長い体毛を揺らして座っていた。
神々しい、という言葉が、こんなにもぴったりとした猫を、俺は初めて見た。
そのあまりの美しさに圧倒されて、口を開けたままずっと見上げていたら、その白猫は、ひらりと舞い降りた。
「そなたが、禁欲を貫いたものか」
「まぁ、そうなんですけどね」
「恥ずかしがることはない」
俺が居心地の悪そうにしているのを見て、白猫が言った。
「かつて、幼き頃より修行を積むために預けられた子供たちは、皆そうであった」
白猫は、地面に腰を下ろして座っても、俺の膝丈くらいの大きさはある。
「まぁ、預けられた全ての子供がそうであったわけではないが、今ほど珍しいわけでもない」
「はい、ありがとうございます」
きっと、最初に俺の前に現れた魂の指導者が、こんなきれいな猫だったら、もっとあっさりきっぱり簡単に信用してただろうな。
その優雅な動きや体つきを見ているだけで、魂の全てを奪われてしまいそう。
「私は魂の指導者!」
聞き慣れた、しわがれ声に振り返る。
「久しぶりだな」
焦げ茶の老猫の登場に、白猫の表情がゆるんだ。
「お久しぶりです」
「本当に導師の知り合いなの?」
導師は俺を見上げて、『黙ってろ』という顔をした。
多分だけど。
「今は、導師と呼ばれているのですか」
「私が見つけた弟子だ」
白猫は、ふさふさとした長い尾をゆらして、俺に言った。
「あなたは、童貞を卒業したくはないのですか?」
「えっ?」
「これは、性行為のことだけを言っているのではありません。童貞とは、童のように貞淑、つまり身も心も純粋であるという意味。魔法使いになるのもいい、けれど、わざわざ厳しい道を選ばなくても、得られる幸せはあるということを、あなたに伝えに来たのです」
「なにそれ! そんなの、聞いてないし!」
導師は、後ろ足で首の後ろをぽりぽりと掻いた。
「魔法使いになんてならなくても、幸せに暮らしている人はたくさんいます。あなたは、その一人になれる資格を、充分にお持ちだ」
「それは、普通の幸せってことですか?」
白猫は、ふふふっと笑った。
「あなたの思う普通の幸せとやらが、どのような幸せだか私には分かりませんが、普通に恋をして結婚して家庭を持ち、穏やかに過ごす毎日のことです」
俺の今の状況では、それ自体がどこかの遠い、魔法の国の出来事みたいに思える。
「でも、独身でだって……」
「えぇ、もちろん独身でも幸せな毎日を過ごす方もいます。これは、例えのお話です」
白猫は、長く美しい毛を風に泳がせている。
「修行、お好きですか? 厳しい修行に関係のない、幸せな未来もあるのですよ」
「修行しなくても、いいの?」
「えぇ」
「そ、それなら、そっちの方がいいかも……」
俺は、足元にいる導師を見下ろした。
導師は大きなあくびをしている。
「導師は、引き留めたりしないの?」
「選択権は、常に選択すべき者自身に与えられていて、その決定に対して、誰も干渉することは出来ない」
「自分で決めろって、こと?」
「そ」
「冷たいなぁ、導師は。こういう時にこそ、魂の指導者の出番なんじゃないの?」
「関係ないね」
導師は丸くなってうずくまる。
「よほど、自信がおありのようだ」
「何に対して?」
「あなたに対して」
白猫は、とってもとっても優雅に微笑む。
「私の役目は、魔法を行使しようとする者の、負担を和らげること」
白猫は、俺を見上げる。
「魔法を修得する修行をつみ、それを行使することは、大変な危険と負荷を伴います。それでも修行を続けますか? 魔法が使えなくとも、あなたは充分幸せになれる」
導師は動かない。
俺を魔法使いにならないかと誘ってくれた導師は、どんなつもりで俺の前に現れたんだろう。
その気持ちが、知りたいと思った。
「ありがとう。でも、俺はやっぱり、魔法使いになりたいんだ」
「そうですか」
俺は、足元の導師を抱き上げる。
「どうしても、使いたい魔法があるからね」
導師は、腕の中であくびをした。
白猫は、そよ風に吹かれながら笑う。
「それは頼もしい」
「用が済んだら、帰れ」
気がつけば、白猫は再び鳥居の上に跳び上がっていた。
「あなたが、あらゆる試練を乗り越え、幸せな魔法使いになれることを祈っています」
真っ白な美しい猫は、そのままぴょんと跳ね上がると、どこかへ走り去っていった。
すっかり冷たくなった、秋の風が吹く。
「綺麗な猫ちゃんだったなぁ~」
「ふん、毎度のことだ。いつもそうやって、あいつらは邪魔をしにくる」
家に向かって歩き出した俺は、導師を抱えたまま笑った。
「ねぇ、どうして導師は、俺を選んでくれたの?」
「偶然、通りかかっただけだ」
「はは、でも、最強の弟子になれそうだったんでしょ」
「……、まぁな」
「じゃあさぁ、もうちょっと真面目に修行してよ、俺、本気で大魔王目指してんだからね」
「やかましいわ」
導師の体温が、腕に伝わってあたたかい。
「なんでもない日々を丁寧に生きて行く。それが何よりも、一番の修行なのだ」
そんなことを平気で言っちゃう導師の横顔は、なんかちょっとかっこよく見える。
「お前になら、それが出来る」
夕方になって、少しは人通りの出てきた商店街の入り口、本屋の店の方からのれんをくぐる。
「ただいま~」
居間に上がると、真っ赤な顔で泣きはらした後の菜々子ちゃんと、尚子がいた。
「ちょっと、あんた! 店番をこんな小さい子に任せて、どこほっつき歩いてたのよ!」
突然の先制パンチに、ビクリとなる。
「導師を探しに行ってたんだよ!」
尚子は腕の中の導師をにらみ、導師は飛び出して逃げていった。
「うちに勝手に居着いた外猫でしょう? そんなの、探しにいく必要ある?」
「お前が俺に怒る理由もないだろ!」
「あたしが家に帰ってみたら、知らない女の子が一人で大泣きしてんのよ、大人しそうな顔して、あんた普段なにやってんの?」
「ちょっと待て、それ、どういう意味だ!」
「あんたのやってることが、本気で信じらんないって言ってんの! 子供に店番任せるなんて、ありえない!」
「ごめんなさい!」
ぐちゃぐちゃな顔のままの菜々子ちゃんが、何度も何度も叫ぶ。
「私が悪いの! 全部、私が悪かったの! 勝手におうちに入ってきてゴメンなさい。何にも盗ってないし、壊していません。もう絶対にここには来ないので、許してください!」
ちゃぶ台の上には、涙で破れた薄くて茶色い粗末な紙、そこには、小さい字でびっしりと漢字と数式が並んでいる。
短い鉛筆に、小さな消しゴムのかけらが三つ。
「私が勝手に本屋さんしたから!」
「違うのよ、私は、あなたのことを怒ってるんじゃないの」
尚子は、菜々子ちゃんの顔をのぞき込む。
菜々子ちゃんの顔は、乾いた涙の後が刻印のように刻み込まれていて、急に近づいてきた尚子の顔にビクリとして、両腕で覆い隠した。
「この人に、勉強を教えてもらう約束だったの?」
「ごめんなさい」
「いつから、ここに来てたの?」
「ごめんなさい」
「どこで、知り合ったの?」
「ごめんなさい!」
菜々子ちゃんは、なにを聞いてもそれしか答えない。
尚子はお手上げで、場所を俺に譲った。
「北沢くんは? 塾に行った?」
「ごめんなさい」
「俺がいない間、本屋にお客さん来た?」
「ごめんなさい」
「お昼ご飯は、どうしたの?」
「ごめ……ん、なさい」
菜々子ちゃんは、うつむいて動かなくなってしまった。
尚子は畳の上に足を投げ出して、足の先をぷらぷら揺らしながら座っている。
こっちは見ていて見ていないふり。
「尚子は、ご飯食べる?」
「いいけど」
「菜々子ちゃんは、何が食べたい?」
彼女をおいて、入った台所の入り口から振り返ると、菜々子ちゃんは台の上を片付け始めていた。
「もう、帰ります。帰ってこいって、怒られたし」
いつもなら、丁寧にたたんでバックにしまうわら半紙を、ぐちゃぐちゃと乱暴に突っ込んでいく。
それは、彼女にとって、とても大切なものだったはずだ。
「俺のいない間に、なにがあったの?」
彼女の目は、もう泣くことすらあきらめてしまったようだ。
「私がお店のレジをしてたら、たまたま外にお母さんが通って、なにやってんのって怒られて、居間に戻って片付けしてたら、玄関からこの女の人が入ってきて……」
菜々子ちゃんの顔から、表情が消えた。
「ありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。もう来ません」
俺は、彼女の目の高さにまで、膝を落とす。
「またおいで、尚子が怒ってるのは、菜々子ちゃんにじゃなくて、俺にだから」
二つに分けて結んでいる髪の毛が、吹き飛びそうなくらい激しく首を左右に振る。
「いいの、今までどうも、ありがとう」
片付けを終えた彼女は、のれんをくぐり店に下りた。
「じゃあ、さようなら」
見送りに出た俺と尚子に、ちょこんと頭を下げる。
最後に、声をかけようとした俺の言葉を、懐かしい声がさえぎった。
「やだ、まだいたんだ」
そこには、俺の初恋の人が、妊婦姿になって立っていた。