「莉花、絵もいいけどクッキーどう?お母さんが持ってきてくれたの。」

「ありがとう!
あたし、クッキーじゃないけど、今日はジュース買ってきた。
炭酸入ってなかったら問題ないって言ってたよね?」

「うん、炭酸じゃなかったら大丈夫。
コップ出すから待ってね。」

私は引き出しからマグカップを二つだす。

一つが私ので、もう一つが莉花のものだ。

莉花が毎日来てくれるから、お母さんが莉花用に買ってくれたのだ。

その2つに、莉花が持ってきたジュースを開けて入れて、クッキーの蓋を開けたら、描く前のお喋りタイムの始まりである。

「そういえば、明日うちのクラスに転校生が来るんだって。」

「転校生?今、高3の6月だよ。」

「そうだけど、転校生が来るらしい。
聞いた話だと男子、学級委員の紅葉ちゃんの話だから確実じゃないかな?」

「そうなんだ。
イケメンだといいね。」

「そうね、描き甲斐のあるイケメンなら大歓迎。
そうじゃなかったら何でもいいや。」

「描き甲斐のある人なら嬉しい?」

「勿論!
そして1枚でいいから描かせてくれる心の広い方を願う。」

莉花らしいと思いながら、クッキーの最後の1枚口に運ぶ。

莉花もジュースを飲みきって、ご馳走様と言うと、スケッチブックを開き、適当に取った鉛筆で私を描き始める。

絵を描き始めたら、莉花は少しだけ人が変わる…喋りながら気軽に描いているように見てるのに、手の動きは別人のように速い。

今だってまだ会話を続けている。

「話変わるけど、今日は雨だけど、梅雨は来週からなんだって。
お天気お姉さんが言ってた。」

「今年は沢山降るかな。」

「さあ…去年は空梅雨だったし、どうだろうね。
雨で体育が中止になるなら雨乞いするけど。」

莉花らしいなと思いながら、クスッと笑う。

体育嫌いなのは昔と変わらない。

「笑ってるけど、これはあたしにとってとてつもなく大事な問題なんだからね!
雨って水蒸気が重くなって、重さに耐えきれなくなって地上に降るんでしょ?
どんどん重くなってほしいよね。
体育の時に爆発してほしいよね。」

「莉花、体育嫌いすぎ。でもさ、重さに耐えきれなくて、落ちてくるのか…なんか嫌な表現だね。均衡が崩れる的な。」

「太りすぎて、手持ちの服が着れなくなったみたいな事?」

「その言い方もっと嫌!!」

莉花が鉛筆を置いて笑い出した。

よっぽど私の言い方がおかしかったのか、何にそこまで笑ったかは分からない。

でも、嫌なものは嫌だし、最後の言い方が一番リアルで嫌だ。

気を付けないと思いながら、私は自身の運動不足を嘆く。

「心配しなくても、葵はもっと太った方がいいぐらいだよ。」

鉛筆を持ち直した莉花は、そう言って外を一度見た。

低くて濃い灰色の雲から、次々と落ちてくる雨粒を見ると、先ほどの莉花の言葉が思い出されて、目を背けたくなった。

「でも、均衡が崩れるって嫌だよね。
そんなの困る。
絵もさ、一箇所でも失敗したら、一番良い絵は描けないもん。
それはかなりイライラする。」

その時、どんな事でもバランスが大事なんだと私は思った。

それが崩れるのは、全部が壊れていく事に繋がるのかもしれない。

良い絵が描けないのと同じで、全部が悪い方向に行くのかもしれない。

そう考えると、私の体も同じだ。

何処かが悪くなって、入院して、学校に行けなくなって、莉花が来てくれる夕方以外は寂しくて仕方がない。

「私、雨が嫌いになりそう。」

「均衡で考えたらね。
でも考えようによっては雨様様だよ?
運動会を潰してくれるとか、体育が中止になるとか、マラソン大会が中止になるとか。
今の時期はテニスだし、余計にそう思う!
明日も降らないかな。」

「莉花ったら…」

そんな話をしていたら、明日に来る転校生のことなんてすっかり忘れてしまっていた。

女子としてどうなのだろうとは思ったけど、目の前でまた絵を描きだした莉花も忘れていそうで、私は話を蒸し返さなかった。

莉花が楽しそうならいいや。

私も莉花が楽しそうで嬉しいもの。

莉花が描き終えると、ちょうど病院の夜ご飯の時間で、莉花は慌てて帰っていった。

きっと早く帰らないと、莉花のお母さんにまた怒られるのだろう。

私は莉花が出ていった後に外を見た。

少しして、いつもの傘を差した女の子が、ちょうど来ていたバスに乗り込もうと走っているのが見えた。

「…雨、止まないな。」

私はなんとなく、やっぱり雨は嫌いだと思った。
6月になって、夏服に代わったセーラー服に袖を通して、毎朝思う事がある。

これを着るのも今年で終わりだということだ。

ブレザーに憧れる女子生徒が大半だが、あたしは意外とこの夏服が好きだった。

紺のプリーツスカートと真っ白のトップスに、スカートと同じ色のスカーフ、なかなか可愛い。

少なくとも、夏服を着た女の子を描くのはとても楽しかった。

美術室にいると制服が汚れてしまう事もあり、その度にお母さんに怒られるのは嫌だけど。

でもこの平日の朝に感慨にふけるわけにもいかない。

いつも一緒に登校している幼馴染が既に家を出たのを窓から見てしまったためだ。

あたしは急いで着替えると、「いってきます!」と大きな声で叫んで、鞄と共に家から飛び出す。

そして当たり前となった日常に反省しないで、今日もあたしは笑顔で挨拶した。

「おはよう、夕人。」

「おはよう。今日も慌ただしかった?」

「まあね。ねえ夕人、もうちょっと遅くに家出ても間に合わない?」

「間に合うけど、莉花に合わせていたら毎日遅刻になる。それに紅葉がこの時間だから、僕は時間を変えるつもりはないよ。」

「ですよねー。」

話しながら一緒に歩いているのは、幼馴染の壺井夕人(つぼい ゆうと)だ。

家が隣同士の美少年である。

これだけ聞くと、少女漫画のような恋愛が生じそうに聞こえるが、あたし達の間にそんな甘ったるい感情は全く存在していない。

あたしは夕人を友達兼保護者としか見ていないし、夕人には加賀紅葉(かが もみじ)ちゃんという美人の彼女がいる。
紅葉ちゃんは優しくて頼りになる学級委員長で、夕人と同じであたしの保護者みたいになっている。

どうしてこんな保護者みたいな人ばっかりが集まるかは分からないが、おかげで周りからは家族みたいだとよく言われている。

どうやらあたしは、壺井夫婦の次女らしい。

長女が葵だ。

そういう事もあり、夕人とあたしがあくまで友達というのは周知の事実だし、毎朝登校するのも『あたしが遅刻しないために夕人が引っ張りだしてきてる』と思われている。

残念ながら否定できない。

「そういえば、今日来るという転校生君ってどんな感じの子かな?」

あたしはバスに乗ると同時に夕人に聞いた。

「見てみないと分からないけど、莉花が他人に興味を持つなんて珍しいね。」

人込みの中に入り、夕人の声が小さくなる。

「いや、昨日に葵と話してたんだけど、描き甲斐のあるイケメンだと嬉しいねって言ってて。」

「それは葵ちゃんが言ってたんじゃなくて、莉花が一方的に言ったんだろ。」

「イケメンがいいって事は葵も言ってたよ。描き甲斐についてはあたしだけど。」

すし詰めのバスに揺られること15分、あたし達はバスを降りて、これまた人の多い電車に乗り込む。

10分程して学校の最寄り駅につくと、同じ制服を着た人で駅のホームは溢れかえっていた。

その中を、速足で歩く夕人に着いていくと、改札の端に立つ綺麗な女の子に手を振った。

「紅葉ちゃーん!」

「なんで莉花が僕より先に紅葉の名を呼ぶんだ。」

夕人のツッコミなんて無視して、あたしは紅葉ちゃんに抱き付く。
「夕人、莉花ちゃん、おはよう!」

「おはよう紅葉、いつも待たせてごめん。」

「いいよ。
これより早いのってなると、2人とも大変でしょ?」

「そうなの紅葉ちゃん!
これ以上早いとあたし死んじゃう!」

「莉花の場合は、もっと早く寝れば解決すると思うけどね。」

「早く寝ても一緒だよ。
眠いものは眠いし、目覚ましが聞こえないのも一緒!」

そんな会話をしながら、最後の関門である駅からの上り坂を歩いていく。

丘の上にある高校というのは、聞こえは良いが毎日困る。

毎朝10分以上も坂を上っているんだから、体育は免除してほしいというのがあたしの言い分なんだが、そんな事を学校側が聞いてくれるわけもない。

だが、こんな風に文句をたれていても、夕人や紅葉ちゃんが一緒なら耐えれる。

来週になれば葵も一緒だし、きっと平気になる。

もうすぐ…そう思うと、あたしの足も少しは元気になれた。

雨上がりの湿った風邪が吹く坂の上、照らす日光がまだ美しい。

雲一つないその空は、まだ水蒸気が殆ど存在していないのであった。
学校につくと、いつも以上に教室内がざわついていた。

特に大きな楽しみもない高校3年生の6月、転入生がやってくるというのは、奇跡的なビッグイベントのようだ。

そんな教室の空気をよそに、あたしは自分の席につく。

廊下側から数えて2列目の、後ろから2番目…右隣が葵で、真後ろが夕人、左斜め後ろが紅葉ちゃん…最高としか言い様がない。

そこに座ると、2時間目の小テスト対策に古文の単語帳を読み始める。

転入生が気にならないわけではないけど、皆程は気にしていない。

描き甲斐のある素晴らしい男子なんてそう現れるものではないのだ。

幼馴染だからといって贔屓するつもりはないけど、夕人以上の逸材をあたしは見た事ないし、そうでなくても、モデルをやってくれる男の子は何故かすぐに音を上げる人ばかり。

昨日に葵と話していたような人物である確率は極めて低いのだ。

だからこそ、久しぶりにキャピキャピしている女子の中に混じって話そうとはしなかった。

本音を言うと、喋る時間があるなら眠りたいんだけどね。

実際、あたしの瞼は時間と共に重くなっていく。

「夕人、あたしが寝てたら、授業が始まる前に起こしてね。」

「それはいいけど、寝てたらって仮定形を使いながら、寝る気満々の姿勢を取るのはどうかと思う。」

「訂正。起きなかったら起こしてね、よろしく。」

あたしは後ろの席に夕人に言うと、自分の腕を枕に体を倒す。

ホームルームなんて聞かなくても問題ない。

重要な知らせがあれば、あとで紅葉ちゃんが教えてくれるし、テストや授業が始まれば、夕人が起こしてくれるから。

あたしは周りに依存しきって、安心しきって目を閉じた。
それから何分経ったか分からないが、後ろから、いつものリズムでゆすられる。

そして、周りに迷惑がかからない程度の声で名を呼ばれるのだ。

「莉花、莉花起きて。先生来た。」

目の前には、担任の英語教師、栗原若菜(くりはら わかな)が立っていて、何やら話している。

寝起きの朦朧とした意識の中、簡単な話も耳には入ってこない。

あたしは椅子を極限まで後ろに下げて、後ろの席の彼に言った。

「授業まだじゃん。ギリギリまで寝かせてよ。」

「莉花、今日が何の日分かって言ってる?
転校生の自己紹介くらい聞いたら?」

そうか、今から転校生が来るのかと、動きの悪い頭の中で繰り返す。

流石に起きていた方がいいという考えと、どうでもいいから寝たいという欲望がせめぎあう。

そんな中、先生が知らない男の子の名前を大きな声で言った。

「霧島君、入ってきて。」

教室の黒板側のドアが開き、そこから光が入ってくる。

風邪が強いのか、前にいる先生の長い黒髪が揺れた。その風に背中を押され、彼は教室の中に入ってきた。

途端、教室の温度が少し上がる。

上がったのは、彼の顔を見て笑顔になった女の子達のせいだろう。

入ってきた彼の横顔は、後ろにいるあたしにもハッキリ伝わる程整っていた。

彼は教壇の前に立つと、ニコっと笑う。

「初めまして。
今日からこのクラスの一員になる、霧島皓(きりしま ひかる)です。
よろしくお願いします。」
頭を下げた彼は確かに魅力的であった。 

このあたしが是非一枚描かせてくださいと、頭を下げたくなる程に。

驚いて一瞬顔を上げたあたしだが、睡魔は強かった。

奴はあたしの目蓋を閉じさせようと追い討ちをかけてくる。

あたしはチラリと一時間目の授業を思い出す。

数学の演習だ。

これなら正直起きてなくてもいいし、先生だって起こさないと思った。

睡魔の勢力が増し、あたしは机にひれ伏した。

呆れたようにあたしの名前を呟く夕人の声を聞きながらも、あたしは諦めたのだ。

今どんな話を聞いたって覚えられないし、覚える気にもなれない。

だったら眠りについた方がよほどいい。 

今朝は転校生君のせいで外野が煩いが、穏やかに心地よい世界に旅立つのには何の問題もなかった。

「霧島君の席は…廊下側の席の後ろから二番目ね。
一番後ろじゃダメなのよ。
今日はお休みだけど、ちょっと体の弱い子がいて、その子がいつでも保健室行くために、一番ドアに近いところは空けているの。
だから霧島君はその前ね。
そう、あそこ。」

「末方さんいいな。
霧島君の隣だって。」

「それで後ろが壺井君でしょ?
莉花ちゃん、本当に羨ましい。」

耳に入ってきた情報は、仕方なく右から左へと流れていくだけで脳には留まらない。

気づいた時には、深い深い眠りの中だった。