自分達夫婦と二人の子供の関係を疑問に思ったのは父だったらしい。彼が大学生時代に付き合っていた女性が血液型に強い関心がある人だったらしく、父は血液型に関する人並み以上の知識を持っていた。
自身と妻がA型で、息子がAB型であることにはすぐに違和感を感じたらしい。彼はやがて妻を説得し、自身と息子が血縁関係にあるかを調べたという。結果、おれと父に血縁関係がないことがわかり、同時に美容師の男がB型であったこともわかった。
A型とB型の間にAB型が生まれる確率はおよそ三割だという。A型とB型の間にはどの血液型も生まれる可能性があるとのことだが、AB型である確率が最も高いらしい。
父はなぜ母の不倫を許したのか――。おれは浮かんだ疑問を口にした。父は穏やかに語った。
「心から愛した人を、長い人生のうちのたった一度の小さなアクギで嫌いになるかい? そのおかげでお前にも会えたんだ。今ではむしろ感謝しているくらいだよ」
アクギ――当時のおれには難しい言葉だった。悪い戯(じゃ)れと書くそれは、いたずらの意だった。
会ったこともないどこぞの男より、心の広い目の前の男と血縁関係にありたかったと思った。
おれのことを話してから、母は変わった。わたしを恨めと言った。おれは母を恨むつもりはなかった。優しく優秀な姉と、血縁関係のない息子を愛する父親を持っておれは幸せだったのだ。加えて、尊敬する人が心から愛している人間を恨みたくはなかった。
母も当時のことは悔いているのだろう。おれを愛せないことから自己嫌悪に陥っているのかもしれない。
母がわたしを恨めと言う度に、おれは恨まないと返した。その度に母はなにかが爆発したように叫んだ。
おれが素直に母を恨めば、彼女がここまで壊れることはなかったのかもしれない。ここ何年か、母はおれの言動全てが気に入らないらしい。目が合う、声を掛ける、母の視界に入る――どれか一つでも起これば身に危険が及ぶようになった。
最近はわたしに近づくなと言われていたためにそのようなことはなかったが、宿題を片付けることに集中していた姉が友人の家へ遊びに出ていた今日、母はなにやら刃物を持ち出した。
なぜわたしを恨まない、あんたがいなければなどと叫んで向かってきた。今のおれは、能天気を自称する友人が死んだような顔をしていると言うほどに生きていない。母が向かってくる間も、自分が死ぬことへの恐怖はさほど大きくなかった。むしろ、これを受け入れた先は現状からの解放かもしれないと期待に似たものも抱いた。しかしおれは、襲いくる母に抗った。咄嗟の反応だった。
父が愛している人間を犯罪者にしたくなかった。同時に、会えてよかったと思ってくれている父がいる間には死にたくないと思えた。
「父さんが愛してる人を犯罪者にしないで――。何度か言えば、母の力は弱くなった。その間におれは家を出た。そしてここにきた」
薫子が鼻をすすり、うっと声を漏らした。「義雄さん、ティッシュとかありますか?」薫子はしゃくり上げながら言った。はいはい、と義雄はボックスティッシュを机に置いた。
「ありがとうございます」と薫子は何枚かティッシュを引き抜いた。
「なんでうえしまさんが泣いてるの」
「だめです、こういう話。この……ほら、家族愛って言うんですか? もう……」
「そんな綺麗なものじゃないよ」藤原君は小さく言った。
藤原君は体ごとこちらを向いた。
「ねえ、竹倉君。おれどうしたらいい? いつか、父さんのことも考えられなくなって母を受け入れちゃいそうなんだ」
「お母様のこと、これからも大切にしてあげてください」薫子がティッシュを引き抜きながら言った。「そしていつか、冷静になれたお母様に言ってあげてください。恨むことなんてできないと」薫子は言ったあと、鼻をかんだ。
「恭太君じゃなくて申し訳ないですが、ふじわらさんはそのままでいいです。お母様と向き合い続けてください」
「簡単に言わないでよ。今回はなにもなかったけど、前には実際に切られたこともあったんだ」
「お父様はお母様のそういう部分を知ってるんですか?」
「知るわけないだろう」
「そうですか……」
「どこかに相談した方がいいんじゃないかな」僕は言った。「そのままでは藤原君が危ない。お姉さんはどうなの?」
「今まで通り、優しくて頭いいよ。母も別に、姉には危害を加えるわけでもないし」
「そうか……。じゃあ、お姉さんもお母さんに襲われることはないの?」
「うん。本当におれだけなんだ、気に入らないのは」
「そうか……。相談は誰にも……?」
藤原君は頷いた。「竹倉君にしかこんなこと言えないよ」ちょっと一人多かったけど、と藤原君は薫子へ目をやった。
「お父さんにもお姉さんにも言いたくないよね?」
「うん……。姉は関係ないし、父さんには母のあんなところ知ってほしくない」
「どうして? お父さんはそんなに弱くないはずだよ」
「そうだけど……」
「今危ないのは藤原君自身だよ。僕らだって、できることは限られてる。お父さんには言った方がいいと思う。それがお母さんのためにもなると思うし。お母さん、病院にも通ってないんでしょう?」
行ってない、と藤原君は小さく言った。
「お母さんは一度ゆっくりした方がいいと思う」
「……義雄さん達はどう思います?」藤原君はカウンターの中を見た。
雅美はゆっくりとかぶりを振った。「わたしにはなにもわからない……」
「おれもなあ……」義雄は残念そうに言った。
「そうですか……」藤原君はこちらを向き直った。「おれはどうすべきかな。姉と父さんを守りたいんだ」
「いっそのこと、お姉さんとお父さん、藤原君の三人で逃げるというのも僕は考えちゃうけどなあ……」
「おれはただ、家が平和であってほしいだけなんだ。母にいてほしくないわけじゃない。ただ、両親がいて姉がいて、皆が穏やかにいられればそれでいいんだ。……こういうことを考えると思うよ。おれが死ねばいいのかなって。こういうことも考えずに済むし」
「それはお父さんが悲しむじゃない」
「父さんと姉の幸せってなんだろう」
「藤原君の幸せはなんなの? 話を聞いた感じ、お父さんやお姉さんは藤原君の幸せを優先するように思えるんだけど」
「おれの幸せ……母さんが普通になってくれれば。できることなら、母さんに愛されたい」
「ちょっとわかります」薫子が言った。「わたしも、母の求める子にはなれてないんです。だからちょっとわかる気がします、ふじわらさんの気持ち」
「うえしまさんも大変なんだね。親の求めるおれらってどんななんだろうね」
「わからないです。どうしたら許してもらえるのか、どうしたら愛してもらえるのか……」
「うえしまさんはお母さんになにしたの?」
薫子はかぶりを振った。「わかりません。勝手に想像してるのは、わたしが弱すぎたのかなということです」
「弱い?」
「わたし、辛いことからすぐ逃げちゃうんです」だめだめでしょう、と薫子は自嘲した。
「そんなんでおれには母さんと向き合い続けろと言ったのか?」
薫子は苦笑した。「ある種のないものねだりのようなものなのでしょうかね」
「気、合わなくはないのかもね」藤原君は静かに言った。「最初はうえしまさんのこと、竹倉君と話したいのにそばにいる邪魔な奴だと思ったけど」
「そこまで思われてたんですか」薫子は苦笑した。
「でも今はちょっと違う」ねえうえしまさん、と藤原君は顔を上げた。「その、よかったらでいいんだけど……友達になってくれない?」
僕は薫子を見た。彼女は不思議そうな表情で藤原君を見ていた。面白いこと言いますね、と小さく噴き出す。
「友達って、こんなふうに得るものなんですかね?」
「いや、わかんない。こんなこと言ったのは初めてだけど……」
「わたしもこんなことを言われたのは初めてです。友達って、何気なくできていくものだと思ってました」
「そう……なのかな。いや、そうなんだろうね」
「わからないですけど……」
ぎこちなく交わされる言葉に、僕は頬が緩むのを感じた。藤原君が自然に笑っている場面を見たのは初めてに近いことだった。
「ねえ、うえしまかおるこってどんな字書くの? てかいくつ?」
「植物の植に島国の島、草冠の薫に子供の子で植島薫子、八月生まれの十七歳です」
「へえ……てか十七? 一歳しか変わらないの?」
「そんなに幼く見えますか、わたし?」確かに童顔だと言われたことはありますがと苦笑しながら、薫子は頬をさすった。
「ところでふじわらさんは、普通に藤の原でいいんですか?」
「うん。てかそれ以外にあるのかな」
「わからないじゃないですか、ものすごい数の名字があるんですよ?」
まあそうだけどと藤原君は苦笑した。「ていうか、おれ歳下だしそんな丁寧な言葉じゃなくていいよ」
「ああ、はい……」えっ、と薫子は声を発した。「歳下なんですか?」
「歳上に見えたのかよ」
「なんかわたしと違ってすごい落ち着いてるというか大人びてるというかで……」この歳にもなると歳下が増えてきて困ります、と薫子は肩を落とした。
十七歳が五歳も若い年齢になってしまった僕はどうするのだと僕は腹の中で苦笑した。
ていうか藤原君には老けて見られてたんですね、と薫子は複雑な声色で呟いた。
薫子は濡れた髪の毛を拭きながら居間へ戻ってきた。「いやあ、冬でもないのにお風呂で寝そうになりました」
僕の隣に座ると、彼女は「あっ」と声を上げた。
「そういえば、こうのはなってホームページとかないんですよね」
「そうだね」僕が言った。
「お風呂でふと思ったんですが、昨日みたいに臨時休業する場合もありますし、やっぱり必要じゃないですかね?」
「ああ……」義雄は腕を組んだ。「でもめったに休まないからなあ」
「で、確かに営業情報のためだけのページになると見る人いなくなりそうなんですよね。そこで、わたしちょっと考えたんです。こうのはなって、新しい料理とかできてますか?」
「新しい料理……」義雄と声を重ねて苦笑した。
「最後にできたのは……」
「恭太が十五歳くらいの頃だな」義雄は苦笑した。「なにが増えたのかも覚えてないよ」
「もう五年以上変わってないってことですか?」
「まあ、そうだね」
そうですか、と薫子は呟いた。「それじゃあもう、こうのはならしさみたいな、このメニューこそこうのはな――みたいなところありますね」
「いや、それは……」
「どうだろう」と義雄が続いた。「どこにでもあるような料理ばかりだし」
「では、皆さんは料理を増やしたいと思ってるんですか?」
「思いつけば面白そうだね」僕が言った。
「じゃあ、わたしの妄想を爆発させて頂きますね」薫子は嬉しそうに言った。
「まず、季節限定メニューとかあると面白そうじゃないですか? デザートの一つに羊羹と水羊羹、抹茶羊羹があるので、春には桜羊羹――みたいな。秋には栗羊羹、冬には蜜柑羊羹――みたいな」
「夏は?」
ばれましたか、と薫子は苦笑した。「そうですねえ……。じゃあ、バナナ羊羹とパイン羊羹」
「ああ、バナナはちょっと美味しそう」
「ちょっと待て、作るのおれだから。方法が全く思い浮かばない」
「普通に羊羹に混ぜちゃえばいいじゃない」飲み物を持ってきた雅美が言った。「楽しそうな話してるじゃん」
「季節の限定メニューみたいなのがあれば面白そうだなと思いまして」
「へえ。なにか思いつけば、こうのはなも一気に栄えそうね」
「言い出しっぺ、ちょっと羊羹しか考えてないんですがね」薫子が苦笑すると、「別にいいじゃない」と雅美は笑った。
「今まで限定メニューなんかないでやってきたんだし。考えるとしても急がなくていいよ」
「雅美はなにかないか?」義雄が言った。
「さあねえ……。きな粉アイスとか? バニラアイスにきな粉ぶっかけるの。それに黒蜜もかけた黒蜜きな粉アイスとか」
「なんかすでにありそう」僕は苦笑した。
「誰も思いつかないような絶品を思いつくなら、月一ででも新メニュー出してるよ」雅美は苦笑し、ペットボトルを開栓した。
「なにか話題になりそうな美味しいものないですかねえ……」言いながら、薫子はベッドの上で脚を抱えた。
「難しいね。薫子はこうのはなにホームページを作りたいの?」
僕はベッドのそばに布団を敷き、そこにあぐらをかいた。
「最初はそうでした。恭太君、せっかく素敵なデザインするのに、公開しないなんてもったいないなって。でも、今は純粋に面白いメニューが思いつけばいいなって思ってます」
「面白いメニューねえ……。大人の女性に受けるのってなんだろう」
「大人……ああ、確かに大人の女性多かったですね、お客様。大人の女性……健康ですかね? 健康第一ヘルシーメニュー」
「おお」
「とか、あとは……お肌ぷるぷるコラーゲンメニューとか。疲れた体に優しく染み渡る素朴な素材の味を楽しむメニュー……みたいな?」
「和を嗜む抹茶スイーツ、白玉を使った色々に、冬は甘さ控えめ版もあるおしるこ――」だめだ、と僕は首を振った。「甘味処になるね、これじゃ」
「いいんじゃないですか? 甘いものってあったかくなりますもん。こうのはなのポリシーって、ほっとするとかあたたかい気持ちになる、安心する場所であることですよね。それならもういっそのこと、食事処という冠を取ってほっこり堂とかほっこり亭なんかにしちゃいません?」
僕が笑うと、薫子は「すみません、素人が出しゃばって」と頬を赤くした。
「いいよ、面白い。僕大胆な人好きなんだ」
「本当ですか。わたしも、気の利く人が好きだと言う方よりそう言ってくれる方が好きです」