ほっこり処 こうのはな〜幸せの砂時計~

七月が明けてしまえば、薫子の誕生日はすぐに訪れた。

店から戻ると、僕は手を洗ったあとすぐに台所に立った。鍋に水と昆布を入れる。

流し台の下から二つの焼き物を取り出した。赤味噌と白味噌、それぞれ適量を一つの密閉容器に混ぜて味をみる。思わず口角が上がった。理想の食べ始めより少し早いが、上出来だった。

人の気配に振り返ると、義雄が「おお」と声を発した。

「どうした、僕の作る夕食が待ち遠しいか?」

「なんだ、今夜は恭太が作るのか?」

「そうだよ」

「聞いてないけど」

「言ってないけど」

「それより、おれはおれで作るものがあるんだが」

「知らないな、なにするの」

「なにを言う。今日はおれがファンクラブにまで入ってる薫の誕生日だろう」

知ってたのかと本音をこぼすと、義雄は当然だと頷いた。

「じゃあ、義雄はなにするの?」

そうだなあ、と義雄は腕を組んだ。「メイン作りの座を奪われてしまったなら、デザート作りでもするかな」

「そう。じゃあ居間でも自室でも行っておいて」

僕は前を向き直って焼き物の蓋を閉めた。

やれやれ、と義雄は後ろで言う。「随分と冷たいじゃないか、我が息子よ」

ぽつりと、僕は「ありがとう」と無意識に返した。息子という改まった言い回しが耳についた。「褒めちゃいないよ」と苦笑する義雄へ、「そうだよね」と同じように返す。
僕はそばに置いてあった袋の中を確認した。きゅうりやにがうりを中心に様々な食材が入っている。茂さんと楽しそうに収穫している薫子の姿が目に浮かぶ。

きゅうりを三本取り出し、適当な大きさに切って塩と砂糖と共に密閉容器に入れた。容器を振って冷蔵庫へ入れる。豚肉と卵を取り出して扉を閉めた。

鍋を火にかける。

「いやあ、恭太も成長したなあ」義雄は感心したように言った。

「いつまでいるんだよ」

「いいだろう。かわいい息子の成長した姿を眺めていたいのだよ」

僕は袋からにがうりを取り出した。

「いつも見てんじゃん」

「いくらでも見ていたいものなのだよ」

「赤子でもあるまいし」

「赤子も幼子も、四十代半ばも五十代も、親からすれば愛しき我が子なのだよ」

「どこにも属さないけど」

「ありがとう」義雄はぽつりと言った。洗面台に寄りかかって腕を組む。

「お礼を言われるようなことはしてないよ」

「そんなことない。ここにいてくれる――」いや、と義雄は首を振った。「ここにきてくれただけで充分だよ」

力の抜けた手で包丁を持ち直した。にがうりを適当な大きさに切っていく。

「二人は自分達の勝手で僕がここにいるかのように思ってるみたいだけど、僕はそうは思ってない。むしろ僕は……」ここにいて幸せなんだと続け、熱を持った頬をごまかすように苦笑した。
「嘘でも嬉しいよ」と義雄は笑う。

「こんな嘘、ついたって僕にいいことなんかないよ」本音だと言いいながら、僕は器に切ったにがうりを移した。

鰹節からもだしを取り、人参、玉ねぎ、じゃがいもをそれぞれ適当に切ってだし汁へ入れた。

「恭太は、一人暮らしがしたいとか思わないのか?」

「こんなぬくぬくした場所を離れたいと思う人間がいるかね」

「いや、おれ達はいいんだけど……」

好きにしていいんだぞと言う義雄へ、これが好きにしている形だと返す。

「僕はここにいたくている。義雄達に気なんか使ってないし、使うべきだとも思ってない」

義雄はそうかと苦笑した。

「それに、僕は一人は好きじゃない。義雄達に出逢ってなければ嫌でもそうなってたから」なにより一人って寒いじゃんと僕は続けた。

「恭太は本当に寒いの嫌いだな」

「当たり前だ。寒いのが好きな人など、どうかしてる」

「おれは暑い方が苦手だけどなあ」

「ああ、よーく知ってるよ。義雄のいる夏の部屋は冬の直前のようだからね」

「なんだ、だから夏は素っ気ないのか」

玉杓子を持つ手に力が入った。一度深く呼吸する。

「一緒にいると寒いんだよ」返した声は低かった。

「よし、じゃあこれから冬にはおれが温めてやろう」

「ふざけんな冗談じゃない。もういいから薫子とでもいなよ」

義雄は不思議そうにこちらを見た。

「今日は薫の出るイベントなんかないぞ。ファンクラブの会員だから詳しいんだ」

僕は「もう頼むからどっか行ってくれよ」とぼやきながらアクを取った。

「なにを言う。今日は恭太のイベントに参加するんだ」

「今日の主役僕じゃねえんだよ」

「重ね重ねなにを言う。おれ達にとってお前は常に主役だぞ」

「だったら主役の料理場面を引き立ててくれよ」

「それはだって……」監督が、と呟く義雄へ今すぐそやつを連れてこいと返す。

「二度とメガホンなど握れぬ手にしてやる」
主菜はゴーヤチャンプルー、副菜は、なすと玉ねぎ、トマトのサラダ、きゅうりの浅漬け、汁物は人参と玉ねぎ、じゃがいもの味噌汁となった。きゅうりの浅漬けには最後、袋に入っていた青唐辛子を適量加えた。

十分程前に炊けた白米を盛り、義雄が茶碗を渡してくる。僕はそれらをお盆に載せた。


失礼致します、と居間へ入った。お疲れと言った雅美が「楽しそうだったね」と笑う。「楽しかないよ」と僕は返す。

「今日の夕飯は、ゴーヤチャンプルーとなすと玉ねぎとトマトのサラダ、きゅうりの浅漬け、人参、玉ねぎ、じゃがいもの素朴味噌汁であります」僕は言いながら座卓へ皿を並べた。

自分の場所に腰を下ろすと、薫子が隣から「お疲れ様です」と笑顔を見せた。

「全部恭太君が作ってくれたんですか?」

「ささやかなお祝いだよ」

そんなそんな、と薫子は手を振る。「近いうちに大きな不幸に見舞われるようなお祝いです。このお味噌汁は……?」

「薫子が天地返し手伝ってくれたやつ。あと二か月くらい置きたかったんだけど、上出来だったよ」

「本当ですか。ついに恭太君のお味噌汁もいただけるんですね」

今年中にこの世に別れを告げることになっても悔いはありませんと言う薫子へ、僕と雅美、トシさんと茂さんはそれを否定する言葉で声を揃えた。もう一生ここにいたいですねと薫子は笑う。

あれっ、と雅美が声を上げた。「義雄は?」

「ああ、さっきなんか始めてた」僕が言った。

「そう」

先に食べててと言う義雄にはいよと雅美が返し、いただきますと手を合わせた。
食後、義雄は白い物体の載った皿を持ってきた。「わあ」と薫子は目を輝かせる。

「ババロアじゃないですか?」

正解、と義雄は笑顔で返す。「パインババロアだよ」

薫子は嬉しそうに復唱した。

「絶対おいしいやつじゃないですか」

嬉しいこと言ってくれるねと笑い、義雄は皿を並べていく。「皆もよかったら」

「あのう……ババロアってなに?」僕は小さく言った。

「ムースみたいなこれです。あと……パンナコッタなんかとも似てますかね」薫子は穏やかに言った。

よっこいしょ、と義雄は自分の場所に座る。

「ムースは、フランス語で泡っていう意味なくらいだからふわふわしてるのが特徴で、ババロアもフランス発祥の洋菓子で、ゼラチンを使ってるからぷるぷるしてるのが特徴。パンナコッタとババロアは似てるけど、パンナコッタは生クリームを使ってるからババロアより濃厚な感じなんだ。ちなみに、パンナコッタは生クリームを加熱したって意味らしいよ」

「へえ……。めっちゃ喋るじゃん」

「いやあ、やっぱり持ってる知識って見せびらかしたいじゃん。かっこよくない? 知ってるって」

「かっこ悪い奴の典型的な思考回路だよ」
「かっこ悪いですかね?」薫子は苦笑した。「わたし、かっこいいと思っちゃったんですけど……」

「薫はかわいいなあ、おやっさんきゅんきゅんしちゃうよ」

義雄、と僕が言うと、雅美が「犯罪にだけは発展しないでよ」と僕の言葉を遮った。言いたいことを言ってくれた雅美に同意を示す。

「義雄のやりたい薫ちゃんを愛でくりまわすのはわたしがやるから」と言う雅美へは「よくわかんないけどだめだよ」と返す。

薫子は小さく苦笑した。

「ところで、義雄さんはどうしてそんなに洋菓子に詳しいんですか? 経営してるのは和食屋さんなのに」薫子が純粋な声を並べた。

「おれ、高校生の頃に洋菓子店でアルバイトしてたんだ」

「へえ、パティシエにでもなりたかったんですか?」

いいや、と義雄はかぶりを振る。「そんな純粋な動機じゃないよ。ただ、家から近いっていうだけの理由。アルバイトをしたかったのは、面接っていうものを経験してみたかったから」

ひどい、と僕は小さく本音をこぼした。いやいやと義雄は否定する。

「確かにね、ちょっと不純すぎる気もするよ? だけどね、当時のおれのおかげで今、親愛なる薫にかっこいいって言われたから」

「満足そうでなによりだ」

僕はババロアとやらを口に入れた。

「どうだ」と言う義雄へ、「ちょっとおいしい」と返す。「それはかなりの美味だな」と義雄は満足げに言う。

「じゃあわたしもいただきます」と薫子もババロアを口に入れた。「幸せすぎて泣けてきますね」と笑う。

続いて雅美がババロアに手を付けた。「おじいちゃん達気をつけてね」と茂さん達を覗き込む。
薫子はベッドに腰掛け、不苦郎君を抱いた。

「いやあ、幸せな誕生日でした」

僕は布団を敷き、その上にあぐらをかいた。

「大したことはできなかったけどね。そう言ってくれると嬉しいよ」

「とんでもない。お味噌汁絶品でしたよ」

そうかと僕は笑い返した。携帯電話を確認し、金曜日かと呟く。

「明日か明後日、またどこか行く?」

「ああー……どうしましょうねえ……」

「特になければ、お茶でも飲む?」

「お茶……ですか?」

「うん。薫子、抹茶に興味があるって言ってたでしょう」

「ええ、まあ……」えっ、と薫子は声を上げた。「京都連れて行ってくれるんですか? 宇治?」

いやいや、と僕は苦笑した。「なんかすっごいハードル上がっちゃったね。僕、抹茶点てられるからさ。よかったらと思って」

薫子は目を輝かせた。「恭太君、お抹茶点てられるんですか?」

「いや、言っても、まともにやってたのは十年近く前のことだけどね」

「茶道習ってたんですか?」

「そんな大層なものじゃないよ」

「そうなんですか? でも、恭太君のお抹茶、是非頂きたいです」

頬が緩むのを感じた。「そう。じゃあ、明日にでもやろうか。夏だから冷たいやつね」

「冷たいお抹茶なんかもあるんですか」

「そう。おいしいよ」

「へえ、楽しみです」薫子は不苦郎君を抱いたまま寝転んだ。「長い夜になりそうですね」

僕は「消すよ」と言って照明を常夜燈に変えた。「抹茶はあまり期待しないでね」と苦笑して寝転び、暗い天井を眺める。
薫子が出て行く夢を見た。口論や揉め事があったわけではない。時が経ち、次に住む場所も見つかってのそれだった。

僕はため息をついた。彼女が誕生日を迎えたらこれかと思った。薫子が出て行くのは悲しいことではない。彼女本人が望んでいることだ。

ベッドの上に目をやると、薫子が自身の右目に触れていた。

「どうした?」と声を掛けると、彼女はぴくりと体を震わせて「おはようございます」と笑顔を見せた。

「おはよう。目、痛いの?」僕は上体を起こしながら言った。

「いえ……。その、なんかちょっと痒くて」花粉症ですかねと苦笑する薫子へ、どの季節にもあるようだからねと返す。

「辛かったら言ってね。薬局は近くにあるから」

「いえ、本当に大丈夫です。なんかすみません」

「ううん。目はくれぐれも大切にね」

複雑な表情を浮かべる薫子に笑い掛け、顔を洗ってくると伝えて部屋を出た。
朝食は冷やし茶漬け、昼食はサラダうどんにした。

昼食後、僕は食器を洗ったあとに手を洗った。流し台では、義雄が昼食を作る間に五分程沸騰させてくれた水の入ったやかんが氷水に浸けられている。蓋はそばに置かれており、やかんからはもう当然湯気は立っていない。

僕は取っ手の下に手を翳した。熱さは感じず、むしろ微かに冷気を感じた。

僕はやかんの水をグラスに適量注いだ。新品同様の状態であった、緑でグラデーションが為されたグラスを選んだ。他に涼し気な絵柄のグラスもなかった。

お盆に、抹茶茶碗と茶筅、茶杓、抹茶、氷を載せた小皿、水の入れたグラスを載せて自室に入った。「わあ」と薫子は花のような笑顔を見せる。

「もう……こんなに幸せでいいんでしょうかね。申し訳なくなってきます」

「これくらいで罪悪感なんか抱かないで」

僕は薫子と自分の間にお盆を置き、「あっ」と声を漏らした。

「どうしました?」

「羊羹忘れた。なんか忘れてるかなとは思ったんだけど」

本当にこういう奴になっちゃだめだよと苦笑して僕は部屋を出た。