釜飯と親子丼を運んだあとに受けた注文の内容を義雄へ伝え、僕はトシさんの去ったレジカウンターへ入った。
「お会計二千八百円でございます」
女性客は「すみません」と言いながら二枚の千円札の上に二枚の五百円玉を置いた。
「三千円お預かり致します。――二百円とレシートのお返しでございます」
ありがとうございます、またご利用下さいませと頭を下げると、女性客はごちそうさまですと会釈して店を出た。
「すみません」という男性の声へ「ただいま伺います」と雅美の声が返す。
直後、女性と三歳くらいの少年が入店してきた。僕は品書きを手にレジカウンターを出た。
「いらっしゃいませ、カウンターとお座敷どちらになさいますか?」
「座敷で」女性が答えた。
「かしこまりました。ご案内致します」
十七番卓に案内し、僕は品書きを卓上に並べた。
「ご注文お決まりになりましたらお申し付け下さいませ」
失礼致しますと座敷を離れて戻ると、ざる蕎麦の載ったお盆が置かれた。「わたし行くよ」と言う雅美へ礼を言い、「十四番」と続ける。
僕は厨房へ入り、ひまわりが描かれたグラスに水を注いだ。二つのそれをお盆に載せて十七番卓へ向かう。
「失礼致します。お冷でございます」
「注文いいですか?」
「はい、承ります」
僕はグラスを並べたあと、お盆をそばに置いた。
ありがとうございます、またご利用くださいませ――。彼が訪れたのは、閉店直前、店内にいる客が一組になった頃だった。
彼とはおよそ五年前に出逢った。頻繁に一人で来店する彼に名前を問うと、当時十二歳ほどだった彼は藤原と名乗った。なにやら家庭環境が複雑であるようで、彼は現在、精神が限界を迎えたときにここへくる。以前僕がそうするようにと言ったためだ。言ったところでその通りにしてくれるとはあまり思っていない自分もいたが、藤原君はこうしてきてくれている。
「いらっしゃい」僕は品書きを持ってレジカウンターを出た。
「カウンターと座敷、どっちにする?」
「邪魔にならないところ」と藤原君は小さく答えた。
「カウンターにするか」と提案すると、彼は小さく頷いた。
出入り口から最も遠いカウンター席へ藤原君を案内した。
「決まったら言ってね」
僕は品書きを渡し、そばの入り口から厨房へ入った。グラスに水を注ぎ、藤原君の前に置いた。「ごめん」と呟く彼へ、「なにが」と笑い返す。
洗い終わった食器を拭いていると、「お会計お願いします」と男性の声がした。「ただいま伺います」と言い終える前に、義雄が「おれ行くよ」と残してレジカウンターの方へ向かった。
何枚目かの皿を布巾越しに手に取ったとき、するりと皿が落ちた。足元で派手な音を上げて割れた。「失礼致しました」と言いながら台へ布巾を置き、箒とちりとりを取る。
いやに細かいものが多い破片を集めていると、「竹倉君にもそんなことあるんだね」とカウンター越しに藤原君が言った。
「頻繁にはやらないんだけどね」と苦笑した後、「ありがとうございます、またご利用下さいませ」という義雄の声に「ありがとうございます」と続いた。
「……あの」藤原君が言った。
「ん、決まった?」
「ざる蕎麦」
「了解」レジカウンターから戻ってきた義雄が言った。
「どう、外はまだ暑い?」僕は言った。
「外出は愚行」藤原君は短く答えた。
「そうか」と僕は苦笑する。「そういえば、藤原君って学生?」
「高校生」
「そうか。いいなあ、高校生。若いねえ」
「竹倉君は何歳なの?」
「そうだなあ、何歳に見える?」
めんどくさ、と呟く藤原君へ、二十二だよと苦笑を返す。
「藤原君は?」
「十六」
「若いなあ、羨ましい」
「おれや雅美のそばで言うか?」義雄は蕎麦を茹でながら笑った。
「おっと、初老の前でする会話じゃなかったね」
「初老って言うな。まだまだこれからだよ」
僕は「へえ」といいかげんに返した。
藤原君は小さく笑った。「竹倉君達は楽しそうだね」
「でしょう? それだけが僕の取り柄なんだ」
「十六の若さをあげるから、ぜひその取り柄を頂戴したい」
「このまま十六になってこの取り柄がなくなるの?」それは困るなあと苦笑すると、それがおれだよと藤原君は複雑に笑った。
僕は義雄からざる蕎麦と枝豆の載ったお盆を受け取った。「お待たせ致しました」と藤原君の前へ置くと、「枝豆はプレゼントな。夏バテにいいんだよ」と義雄が続いた。藤原君は小さく笑った。
「僕は藤原君のことはなにも知らないけど、いいところはなにかしらあるものだよ」
「せっかくだけど、おれはそうじゃないんだ」
「そう言わないでよ。あるはずのいいところが悲しむよ」
「そんなところないから、そんな心配もいらないよ」
僕は苦笑する代わりに静かに大きく呼吸した。
「さあ、召し上がれ。義雄の料理には魔法が掛かっててね。食べると少しばかりほっとするんだ」
「それはおれもよく知ってる」いただきますと藤原君は手を合わせ、静かに食事を始めた。
「うまかろう?」僕が言うと、藤原君は小さく頷いた。蕎麦を噛み切り、咀嚼しながら鼻をすする。
少ししてもう一度鼻をすすると、今度は箸を持った右手の甲で頬を拭った。
「どうしたどうした」僕はそっとしておくべきかと考えながら言った。藤原君は「なんでもない」と震えた声を返す。
「いささか魔法が強すぎたかな」義雄は優しく言った。
帰りたくないです、と藤原君は小さく言った。
「なにかあった?」僕は言った。話して楽になるものならばいくらでも話してくれたらいいと思った。
「もういいや」
「ん?」
「疲れてきた」
「そうか」
「もういい」
「……そうだね」
「幸せになりたい」
うん、と返した。正しい返答がわからなかった。僕はあまりに幸せだった。生まれてこの方、一度も不幸だと思ったことがない。同時にあまりに無力で愚かだった。過去にも幾度か、藤原君がこうして疲れ果てたことがあった。しかし一度も彼のためになる言葉を発せたことはなかった。
「たまに思う。死ねば楽になるのかなって。なにも感じなくていいなら、一瞬の少しの苦痛も……」震えた声のあと、彼の頬を大きな涙が伝った。
僕は自分の乾いた唇を舐めた。
「……僕には、藤原君に生きろだの思うままにしろだのと言う権利はない。だけど、僕は藤原君に死んでほしくはない。そうしてしまえば、確かに現状からは解放されると思う。だけど、幸せを感じられないままたった十数年で人生を強制的に終わらせてしまうのは……悲しすぎるから」
「幸せ……おれには……」
「あるよ、藤原君にだって。幸せと不幸は同じだけあると言うじゃない。僕にだって幸せは訪れたんだ、藤原君にはこのあと、大きな幸せが訪れるはずだ。人生、なんだかんだでバランスが取れてるんだよ」
僕はいつかに待ち受けてる不幸がおっかないよと笑うと、藤原君は羨ましいよと微かに口角を上げた。
「竹倉君は、家に帰りたくないだなんて思ったことないんだろうね」藤原君は言ったあと、静かに蕎麦をすすった。
「そうだなあ……テスト期間くらいかな。一回帰る度に本番が近づくからね」
「……平和だ」
「当時の僕にとっては地獄のようなものだったんだけどね。嫌だ嫌だと騒いでたくらいだから、あれくらいの地獄はまだ地獄じゃないのかも」
僕は苦笑し、一拍置いて一度深く呼吸をした。
「本当、この先に待つ不幸が恐ろしいよ。藤原君にはこの先、きっと幸せが待ってる。頑張れとは言わない。そんなことを言えるほど経験してないからね。所詮僕ごときの言葉だ、綺麗事だと思ってくれて構わない。だけど、また疲れたときのために邪魔にならない場所に置いておいてほしい。忘れた頃に幸は訪れる。そしてなにより、疲れたときにはここがある」
少しの沈黙のあと、藤原君は口を開いた。
「この先の幸せを疑えるだけ、こう言ってくれる人がいるだけ、幸せなのかな」
「幸せの定義は曖昧なものだよ」僕が返すと、彼はふっと笑った。
風呂上がり、僕は眼帯の紐を結びながら居間へ入った。テレビを観ていた茂さんが「最近こういうの多いね」と呟く。義雄が「そうですね」と静かに返した。
「なんて?」僕は座布団へ座りながら言った。
「男子高校生が……」義雄が言った。
テレビの画面右上には、「男子高校生自殺か」との文字があった。男子高校生が駅のホームから線路へ転落して死亡したとのことで、過去に友人とのメール上で自殺を仄めかす発言をしていたことから自殺と見られているという。
「事故でないなら、よほどのことがあったんだろうね」発した声は微かなものだった。
「最近の人は気が弱いのだとか言う人もいるけど、そういう人たちとは取り巻く環境が違うのよね」雅美が言った。小さな音と共に座卓へ戻されたグラスが水滴を流す。
「なにか……できることってないのかな」
「できること?」トシさんが言った。
「僕のような者が、悲しいことを思い立ってしまう人へできること」
「どうだろうねえ。私も時々考えるのだけど、難しいね」トシさんは悲しげに並べ、テレビの画面へ視線を戻した。
なんて無力なのだろうと思った。幸せな環境にいるゆえに、自ら永い眠りへ向かう人々の心情を理解することさえできない。寄り添う、止めることなどもってのほかだ。
目を覚まし、確認した携帯電話は土曜日の十時半であることを伝えた。随分寝たなと思った。
胸元に紫色の睡蓮が描かれた白のティーシャツとジーンズに着替え、卓上鏡の前で眼帯を着けている途中、玄関の扉が閉まる音がした。
僕はブレスレットを持って部屋を出た。洗口液で口を濯いだあと、ブレスレットを着けて居間へ入った。義雄と雅美がさきいかを食べていた。
「おはよう」と振り向く雅美へ「おはよう」と返し、「いかうまいぞ」と言う義雄へ「そりゃよかった」と返す。
「で、トシさん夫婦はお出掛け?」
「ううん。おじいちゃんは野菜の収穫、おばあちゃんは大福が食べたいらしく、なごみに行った」雅美が言った。
「そう。トシさん一人で大丈夫かな」
「大丈夫でしょう。なごみは行き慣れたお店だし、おばあちゃんしっかりしてるから」
「まあ……」
僕がさきいかへ手を伸ばすと、義雄は「あーあ」と呟いた。彼から目を逸らすように視線を移した先にトシさんの財布があった。
僕は咄嗟に「ちょっと待って」と発した。さきいかを口へ収めたあとに手を払って財布を手に取る。
「ちょっと行ってくる」と残して僕は居間を出た。「日焼け止め塗った?」という雅美の声へ「言ってられない」と返す。