ふわふわのメロンクリームソーダ。小さい頃大好きだった。キラキラの緑のソーダに白いバニラアイスが溶けていく。てっぺんには大事な赤いチェリー、かわいくてなかなか食べられなかった甘酸っぱいチェリー。それが、私に語りかけている。
「ねえねえ、大丈夫?」
「……へ、え?」
「立てる?」
「あ、ああ……ほら、たてますぅ……」
「危ない!!」
よろけた私は、ぽふんと誰かに抱き留められた。ふわっと香るバニラの香り。そこからまた私はふわふわのメロンソーダの夢の中に落ちていったのだった。
「そろそろ七時だよー!?」
「うーん、今日は休みだからへいきー」
「そう、なら良かった」
優しい声が降ってくる。朝のあかるい日差しがカーテンの隙間がら漏れている。かすかに風に揺れるそれは爽やかなミントグリーン。それを目にした私は急に我に返って飛び起きた。この間取り、ベッドの位置……。これは私の部屋じゃ無い!
「ふぇっ、ここどこ!?」
「あー……そっからかー」
慌てふためく私の後ろから聞き覚えの無い若い男の声がした。昨日、散々酔っ払ったのまでは覚えている。それで私は見ず知らずの男の家に転がり込んだのか……。急にガンガンと頭が痛くなって来た。
「大丈夫、気分悪い……?」
心配そうな優しい声。一応そっと着衣の乱れを確認する。あ、うん大丈夫そう。
「ああ、いえこちらの問題で……」
そこで私ははじめて顔を上げた。……そして絶句した。そこに居たのは緑の髪をした華奢な見たこともない位綺麗な男の子だったのだ。
「そう、良かった」
その瞳は薄い金色。――カラコンだ。よく見たらメイクもしてる。
「メイク……? それ……」
「あ、これ? そう、俺の趣味みたいな?」
あんまり綺麗にお化粧してあるので、不快感は無い。と、いうかとても似合っている。
「あっ、私メイクしっぱなしで寝ちゃった!」
それに対して私はなんだ。昨日はぼろぼろ泣いた記憶もあるし、きっとひどい顔をしているに違いない。
「うん、悪いと思ったんだけどお肌に良くないからね。これで取って置いたよ」
その手にはメイク落としシートのボックスが握られていた。
「ああああああ……」
「わっ、どうしたの」
「自分が情けなくて……」
酔っ払って前後不覚になった上に、メイクまで落として貰ったなんて……信じられない。しかもこんな見ず知らずの。あ、私この男の子の名前も知らない。
「あの、今更なんですけど……私、長田真希って言います。あなたは……」
「俺は、かのん」
しれっと彼は答えた。かのん……ってそれ名前か!? いや、いかにもかのんって感じなんだけど。
「ところで真希ちゃん」
「は、はいっ」
「朝ご飯作ったんだけど、食べる?」
「え、そんな悪いです」
「もう作っちゃったから」
うわーん、何この超絶いい人。すぐにでもたたき出し出されたって仕方ないのに。それじゃあ……とキッチンのテーブルに向かうとまるでSNS映えの見本のような朝食が並んでいた。カリカリベーコンと目玉焼きの乗ったトーストにトマトのスープ、それからグリーンスムージー。
「こ、これ食べちゃっていいんですか……」
「うん、朝は基本だよ。ちゃんと食べないと」
「い、いただきます……」
とりあえずスープから。酸味と塩気が酒で荒れた胃にジーンと染み渡る。
「おいしい」
「そ、良かった。ところでさ……聞いてもいい?」
「あ、はい何でも」
「なんで昨日、あんな所でぶっ倒れてたの。危ないよ」
あんな所、どこでどうしていたのだ私は。なんと答えたもんだろうか。
「……昨日、誕生日で」
「うん」
かのん君の長めの前髪からヘーゼルの瞳が心配げに覗いている。私は昨日散々流した涙がまた湧き上がってきそうになるのをぐっと堪えて言葉を続けた。
「それで彼氏とご飯の約束してたら、別れ話されちゃって」
そこで私は口を結んだ。言葉にすればそれだけ。そう思ってしまうと自分自身もちっぽけに思えてまた泣きたくなった。
「それで飲み過ぎちゃったんだ」
「あの、ここどこですか?」
「高円寺だよ。駅前にコーヒー握りしめて座り込んでたからさ、声かけたら」
そこで、かのん君はふふっと笑った。
「クリームソーダがどうたらって……コーヒー持ってるのに……ふふっ」
「あああ!! ごめんなさい」
夢じゃ無かったんだ。目の前に揺れるかのん君の緑の髪。これがクリームソーダに見えてたのか。酔っ払いって怖い。
「お嫁さんになるんだなるんだってずっと言っててさ」
「ああ~」
「俺にしがみついて離れなくて一時間も話してたんだよ? 何も覚えてないの?」
「あの、その……はい」
正直にそう答えると、はじめてかのん君の眉が不快そうにキュッと寄せられた。
「ふーん、ショックだなぁ。元彼の話も今はじめて出たし」
「はは……それはご迷惑をお掛けしました……」
「じゃあこれも覚えてないんだ?」
「な、なんでしょう」
私が向かいに座ったかのん君をじっと見つめると、かのん君はキュッと口角を上げて怖いくらい綺麗な笑顔でこう言った。
「俺のお嫁さんになるって」
「え!?」
「約束したんだよ、昨日」
「ええええええええ!!!!」
私は驚きのあまり勢い良く立ち上がった。多分手作りのグリーンスムージーがこぼれそうになる。
「ごめんなさい、私本当に酔っ払ってて。迷惑かけて……あの、すぐ出て行くんで!」
「待ってよ、分かった分かった。真希ちゃんは酔っ払ってて記憶が無いんだよね?」
「はい」
「じゃあ、自己紹介からはじめよう。俺は加藤南、二十三歳。フリーターでたまにモデルもしてる。かのんっていうのはモデル名ね。好きな事は綺麗になる事。メイクも、派手髪もネイルもピアスもハイヒールも大好き。はい、真希ちゃんは?」
「あ、あの長田真希、二十六歳。会社員です。好きな事は……うーん登山……かな」
「へぇ、山行くんだ」
「年に何度か低い山ですけど……ってこれ、なんなんですか?」
思わずかのん君につっこむと、彼はとても愉快そうに笑いながらこう答えた。
「うーん? そうだなぁ、真希ちゃんは俺の事どう思う?」
「え、そうですね……ちょっと変わってる?」
「あははっ、正直だね」
「あ、でもっ。すごく、その……か、かっこいいですっ」
「うふふ、ありがと。俺は変わってるの大好き。だから変わった出会いも大好き」
ん? それはどういう事なんだろう。理解が追いつかずに首を傾げるとかのんくんは私の首に手を回した。
「あの、あの……」
「俺、真希ちゃんの事好きになっちゃった」
「ええええええええええええ!!!!」
突然の告白に一瞬頭が真っ白になる。馬鹿みたいに開きっぱなしの口にかのん君が人差し指を押し当てた。
「真希ちゃんは俺の事嫌い?」
「いやその、嫌いじゃないですけど」
「そっか、よかった」
そのままかのん君の腕が私を引き寄せ、私の唇を奪った。視界がクリームソーダ色に染まる。
「俺、絶対真希ちゃんを幸せにするからね。返事は?」
「ふぁ、ふぁい……」
へなへなと身体から力が抜けていく。昨日、彼氏にふられたのに。もう彼氏が出来たって事? しかもこんな、私より綺麗な男の子が私の彼氏?
「さ、ご飯冷めちゃうから早く食べよ」
当のかのん君はそう言って落ち着いた様子で朝食を食べ始めた。つられて私もトーストを口にしたけれど、映え映えなモーニングも何の味もしなかった。あー! もう何なんだ?
気まずい朝食を終え、せめてもの恩返しにお皿を洗わせて貰った後。私は深々とかのん君に頭を下げた。
「お世話になりました。このお礼はいずれ……」
「ええ? 帰っちゃうの?」
「あ、まあ着替えたいですし」
お風呂にも入りたい。髪の毛も酒臭い気がするし。そうすると突然かのん君は私に抱きついてきた。ちょっとだけ私の方が背が高いので私が抱きしめるような形になってしまったけど。
「着替えならうちにもあるし。お風呂も使ってよ」
「いや、すっぴんだしね……」
「俺がメイクする!」
もぞもぞ嫌々をするかのん君。あざとい……けどかわいいのがちょっと小憎たらしい。
「かのん……君。あの、一応大人として私、もう自分が情けなくって仕方ないのね。だから今日は帰らせて」
「でも今日休みなんでしょう?」
そう、今日はお休み。本来は誕生日は彼氏と一緒に過ごす為にわざわざ有給を取ったのだ。だけど、今日は家で泣きたい。失恋と今朝のハプニングを含めて泣きたい。
「だけど……」
「わかった。一旦家帰って、身支度したら駅ビルで待ち合わせしよ?」
「……それなら」
かのん君の上目遣いのパワーに結局負けた私はつい妥協をしてしまった。本当は一人が寂しいだけだったのかもしれない。
「よっし。俺と誕生日会しようね」
「わかりました」
そうしてようやく、私はかのん君の家から脱出する事ができた。エレベーターを降りてGPSで調べると、私の自宅から五百メートル位の位置だった。
「はぁ……こんな近距離にたどり着かなかったなんて」
再び自分にあきれかえりながら、眩しい朝日を浴びていそいそと自宅へと戻った。
「まっ……たく!!」
自宅に帰るなり、鞄を放り投げて服を脱ぎ捨てて風呂場に直行する。シャワーを全快にして身体を温めると、ようやく少し落ち着きを取り戻した。
髪を乾かして、さて着替えようとした所で手が止まった。
「何着よう……」
私はあんまりセンスに自信が無い。さっきはかのん君はラフなジャージ姿だったけれど、きっとオシャレなんだろうな……。
「これ、とか?」
ピンクの小花柄のワンピースに白い丸首のカーディガンを合わせた。急いでメイクもやっちゃおう。
「髪も巻くか」
大急ぎで洗面台に向かい、髪を緩く巻く。このコテも、元彼と付き合う様になってから買ったんだよねぇ……。元彼がそういうの好きだったから。おかげで巻きの技術だけは向上した。
「……行くか」
玄関の全身鏡の前で気合いを入れると、私は駅へと向かった。
「どこだろう?」
私が駅前でうろうろしていると、スマホが鳴った。慌てて画面をみるとかのん君からの着信だった。……いつの間に。
「もしもし?」
「あ、真希ちゃん? 北口の方にいるよ、来て来て」
「あの連絡先交換しましたっけ?」
「昨日した。勝手に」
えええ……リア充モンスター怖いよう。道理ですんなり帰してくれた訳だわ。かのん君の指示どおりに北口に向かうと、かのん君が居た。一発で分かった。黄色のシャツに白いパーカーを羽織ってチェックのテーパードパンツを履いて足下はベージュのヒールサンダル。
やっぱ独特だなぁ……似合ってるけど。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「ううん、ちゃんと時間決めてなかったし」
「そういえばそうですね」
大急ぎで準備だけして駅にやって来たけど、よく考えれば決めてなかったわ。
「それ」
「ん?」
「なんとかなんない? 敬語。真希ちゃんの方が年上なのに俺がタメ語っておかしいじゃん」
「ああ、そうですね……そうだね、これでいい?」
「うん」
かのん君は私の答えに満足そうに頷くと、商店街の方向に向かって私を手招いた。
「前から気になって居たお店があるんだよねー」
そう言ってかのん君が連れてきてくれたのは路地を抜けたビルの二階にあったカフェだった。こんな所にお店があったんだ。
「うわぁ……かわいい」
「でしょでしょー!?」
殺風景なビルの中とは思えない可愛らしい内装にびっくりしながら私は席についた。
「ねぇ、何食べる? ここご飯も美味しいし……」
「じゃあ私、オムライス」
「俺はアボカドタコライスにしようかな。あーでもパフェも食べたいー」
「どっちも頼めば?」
「だって太っちゃうもん。聞いて? このシャツレディースなんだよ?」
かのん君は著ていたシャツをつまむと不満そうに口を尖らせた。本当だ。良く見たらあわせが違う。
「十分痩せてるじゃん、これくらいで太んないよ」
ああ、でも食べたい……と頭を抱えるかのん君は小動物みたいだ。ぽやんとそれを見ているうちに、店員さんが注文を取りに来てしまった。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「あ、じゃあオムライスとタコライスといちごパフェで」
「えー、真希ちゃん。俺食べるって言ってないよ」
「半分こしよう。それならいいでしょ」
そう言った途端に、かのん君の顔がぱぁっと輝いた。
「いいの……?」
「あれ、分けるのとかダメな人だったかな?」
そう言うと、かのん君はそっと胸の前に手を合わせて小さな声でつぶやいた。
「ううん……真希ちゃん大好き……」
なんだこのカワイイ生き物。天使か。はぁぁ……今朝のあれは本当の事だったのだろうか。今更ながらそんな気がしてくる。そもそも、私が酔ってお嫁さんになりたいと口走ったとしても、なんでこんなにカワイイかのん君がそれをあっさり了承しているのか。悶々としているうちにテーブルにオムライスとタコライスが運ばれてきた。
「うわぁー、かわいい!」
かのん君が甲高い歓声をあげる。私のオムライスはケチャップでライオンの顔と肉球が描いてあり、かのん君のアボカドタコライスは上の温泉たまごにスマイルマークが描いてあった。
「ほんとだ。凝ってるね。それじゃ、いただきま……」
「ちょっとまって!」
とろとろ卵の美味しそうなオムライスに早速スプーンを入れようとすると、かのん君から制止の声がかかった。
「え、なに」
「SNSにアップするから!」
かのん君はスマホを構えるとテーブルをバシャバシャ撮影しだした。それからスプーンを加えて自撮りをしてようやく撮影会は終了した。
「どう? 盛れてる?」
目の前にかざされたスマホにはアプリで更に加工された、かのん君とご飯が映っていた。
「加工しすぎじゃない?」
「えー? そうかなー? まあいいや」
そうして、やっと私達は食事をはじめた。うん、おいしい。それにしてもこの店、内装も可愛くて自分が居て良いのかちょっと不安になる位だ。かのん君は男なのに平気な顔して座っているけど。むしろ店内の誰よりもこのお店に似合ってますけど。
そう思って周りを見渡すと、他のテーブルからチラチラを視線が飛んでくるのを感じた。ああ、みんなかのん君を見てるんだ。
「真希ちゃん、やばい!」
ぼんやりとしているうちにテーブルにいちごパフェが運ばれてきたようだ。うわー。まるでお姫様のオモチャ箱みたいな愛らしいパフェが目の前に鎮座している。
さっきの事から学習して、かのん君の撮影会が終了するのを待ってから、早速食べる事にした。
「どっから食べよう……あ、真希ちゃんはコレ。あーんして?」
かのん君はパフェのてっぺんに乗ったチェリーをつまんで私に差し出した。
「え?」
「真希ちゃんの大好きなチェリーだよ? 要らないの?」
「なんで知ってるの」
そこまで言って、どうせ酔っ払った時に口走った情報だと気づいて私は頬を赤くした。
「ほら、あーん」
なんだか周りの視線がギュッと音を立てて突き刺さってくる気がする。でも、かのん君は私が口を開くまで許してくれそうにない。私は観念して口を開いた。ひんやりして、ちょっと柔らかくて真っ赤なチェリーが口に入る。私は俯いてそれを咀嚼して飲み込んだ。
それから、くまさんのクッキーや色とりどりのマシュマロをスプーンで突きながら夢の国のパフェを平らげたのだった。
「おいしかったねぇ」
にこにこと微笑むかのん君。カフェでの飲食代は私は、助けて貰ったお礼に払うと言い張り、かのん君は誕生日なんだからと言ってレジで揉めたので結局割り勘にしてもらった。
「じゃあ次は真希ちゃんの誕生日プレゼントだね」
「ほんと、そういうのいいから」
「嫌だ!! 誕生日を祝わせてよ!!」
大声で私に食ってかかるかのん君の勢いに負けて、駅ビルで買える位のものならOKという事で了承した。
「何にしようかなぁ」
かのん君の視線が、私のつま先から頭のてっぺんまで伝っていく。もぞもぞとくすぐったい気分で私はその視線を受け止めた。
「ううーん。そうだなぁ」
「か、かのん君。ちょっと恥ずかしいんだけど」
「もうちょっとだけ! じっとしてて」
かのん君は、指をフレームの様にして私をじっと覗き混んだ。それから、うんと軽く頷くと私の手を引いた。うわ、手つないじゃってるよ。私の耳たぶが熱を持っていくのを感じる。
「あ、真希ちゃん。これなんかどう?」
「え……?」
かのん君が指さしたのは、ペールブルーのかちっとしたシャツワンピースだった。いかにも出来る女って感じの。今、私が著ているピンクのワンピ―スとは真逆の感じ。
「こっちの方が真希ちゃんに似合う」
「そ、そう……? 私、いまいち自分に似合うのとか分かんなくていつも無難なのしか選ばなくって」
「うん。真希ちゃんは面長でかっこいい系だからこういうのが絶対いいよ」
私、カッコいい系なの? はじめてそんな事言われた。いつも服を買うときは流行りや店員さんの言うとおりにしてばかりだった。
「ね、試しに着てみようよ」
「うん……」
試着室でかのん君の選んだワンピースを身につけてみる。サイズはぴったり。ちょっと変形の襟元のデザインが新鮮だ。自分だったら絶対選ばないだろうな。
「どう、真希ちゃん着替え終わった?」
「うん」
「見せて見せて」
かのん君はシャッと更衣室の仕切りのカーテンを開けた。
「やっぱり良く似合ってる」
そう言ってとろけるような微笑みを浮かべた。
「ほら、良く見て。ほっそりして見えるし、顔色も映えてるでしょ?」
かのん君の言う通り、見たことのない雰囲気の私。私ってこんなんだったんだ。
「店員さん、このまま着ていくのでタグ取っちゃってください」
「かのん君!」
「いいの。俺が選んだ服で街を歩きたいんだ」
強引にかのん君はお会計を済ますと、二人して駅ビルを出た。
「かのん君、ありがとう」
「ううん、誕生日プレゼントだもん。うーん、こうなってくると……」
「今度は何?」
「髪もいじりたくなる」
「え!?」
そう言ってかのん君はぐっと私の手を引いた。
「行こう! 俺の担当さんのいる美容室まで」
「ええ!? どこにあるの?」
「原宿!!」
「えええええ!」
かのん君は獲物をとらえた猫の様な目で私を見た。こうして私とかのん君は電車を乗り継いでわざわざ原宿の美容室へと向かったのだった。
「ごめんねー、急にー」
まるで実家のように原宿のオシャレな美容院の扉を開けるかのん君。店の奥からゆったりと出てきたのは、またこれがゆるウェーブの黒髪が決まった長身のイケメンだった。
「まったく、せめて3日前には言ってよね」
「えへへー」
文句を言いながらも多分美容師と思われるその男性は笑顔だ。かのん君も気安く友人のように応じている。
「真希ちゃん、この人、俺の担当さんで紬さんっての」
「よろしくお願いします、あの急にごめんなさい。大丈夫なんですか?」
「ああ、ちょっと調整したから大丈夫よ」
紬さんは私の顔をじっと見ると、怪訝そうに眉を寄せた。
「ふうう~ん? かのん、どこで引っかけてきたのよ。こんなおぼこい子」
「おぼっ……」
「えー? 家の近所だよ。そんな事よりさ、真希ちゃんの着てる服に似合うようにセットしてよ」
紬さんの視線がすっと私の全身をチェックする。直線的なこのシャツワンピースには正直私の量産型の茶髪巻髪には似合っていないと私でも思う。
「うーん、セットでもなんとか出来るけど、いっそカットとカラーやっちゃわない?」
じっと私を観察していた紬さんからそんな提案が出た。
「えっと、カットって……」
「大丈夫、ちょっとだけだから」
「でも予約もしてないし、大丈夫なんですか? それに……」
かのん君をちらりと見る。カラーとカットなら短くても二時間くらいかかるだろうか。その間、せっかく連れてきてくれたかのん君をほったらかしにしてしまう。
「俺ならその辺でまったりしてるけど? やって貰ったら? 真希ちゃんの変身見たいし」
かのん君はソファに勝手に座って足を組むと、頬杖をついた。余裕の風格。私はまたもこのオシャレ空間に押しつぶされそうなのに。
「じゃ、決まりね。こっちの個室に来て」
「こ、個室……」
個室付きの美容室なんて入った事ないよ-。
「さ、短時間でぱぱっとしなきゃなんだから早く来てよ」
私の内心の焦りを二人はまるで無視して、美容室の奥の個室に連行された。ガウンを羽織りケープを巻かれた。
「あなたブルベなのにこんな赤っぽい色似合わないわよ」
私の髪をふわふわといじりながら、紬さんはため息をついた。そう言われて元彼がこんなんが好きって言った雑誌を切り抜いて美容室で染めて貰ったのを思い出した。
「ぶるべ……?」
「ブルーベースの事だよ。つまり真希ちゃんは寒色系が似合うって事」
「ほ、ほう……」
そうなのか。はじめて知った。私の女子力はかのん君の百分の一だわ……。
「ねー、それじゃやっぱアッシュ系かな」
「そうねー。お勤め先はやっぱ地味にしてなきゃいけない感じ?」
「あ、はい。一応」
「じゃあダークトーンのアッシュね」
そこからの紬さんの動きは素早かった。あんまり切りたくないという私の要望を聞きながら、ハサミを入れると不思議と洗練された髪型になっていく。
「あ、そういえば。かのん君は?」
「ここにいるよー?」
その声に振り返るといつの間にかスタバのカップを持って椅子で雑誌を読んでいるかのん君が居た。オシャレか。自宅か。
「さ、出来上がり」
紬さんが鏡を差し出してくれる。そこに映っていたのは一皮剥けたように洗練された自分の姿だった。
「さっすが紬さん! 真希ちゃんすごく似合ってるよ」
「うれしいです……けど」
「けど?」
「……なんか恥ずかしいです。自分じゃ無いみたいで」
そう言うとかのん君はにこっと笑った。けれどそれ以上ににまーっと満面の笑みを浮かべているのは紬さんだった。
「なぁにー? かわいいじゃないのこの子―!」
「あーダメ! 真希ちゃんは俺のだよ!」
ぷうっとむくれたかのん君に腕を取られる。
「俺からの誕生日プレゼント、気に入った?」
「うん、ありがとう」
美容室を出ると、もう夕方の気配が空ににじんでいた。本当なら泣き潰して終わるはずの今日が終わる。
「かのん君。あのさ、今日付き合ってくれてありがと」
「うん?」
「かのん君が色々連れ回してくれなかったら、私」
「いいの!」
かのん君が私の言葉を遮った。あ、また香るバニラの匂い。
「俺のわがままでもあるんだから。証明できたでしょ? 俺が真希ちゃんの元彼くんより真希ちゃんをキレイにできるって」
そう言って、ふわふわのクリームソーダの真っ赤なチェリーが私の唇に触れたのだった。
リンゴンと電車の発着音が鳴る。昨日の余韻を引き摺りながら私は電車に乗り込んだ。職場まで約三十分。人いきれがいつもより不快に思えるのは昨日、甘いバニラの香りを嗅ぎ続けたせいかしら。
昨日、原宿の路上でキスをされた。この時ほど都会の無関心がありがたいと思った事はない。チラチラと視線は感じたけれども。それよりも五月蠅いのは早鐘のように鳴る自分の心臓だった。
「かのん君っ」
「へへへ、びっくりした?」
まったく悪びれないかのん君。今日はヒールを履いているので私より高い目線が金色に揺れている。
「長田さん! 聞いてる?」
「えあっ」
気が付けばかのん君ではなく、職場の主任が不機嫌そうにこちらを睨み付けていた。いけない、もうとっくに会社に着いて仕事が始まっているというのにぼんやりしてしまっていた。
「じゃ、このデータまとめたら私の方に回して。チェックするから」
「はい」
「しっかりしてよ」
ふう、お小言を戴いてしまった。昨日の強烈な体験から急に現実に戻るのは難しい。いや、あれも現実なんだけどさ。とにかく一応社会人なんだからちゃんと切り替えしなくちゃ。
私はかのん君の事を頭から一生懸命追い出すと、主任から託された膨大なデータを前に気持ちを引き締めた。
「はぁ……目が死んだ……」
ある程度目処がついた所で、ランチ休憩に入る。コンビニで買ったおにぎりとヨーグルトを休憩所に広げてようやく昼食にありつく。そこでふとスマホを見て、私は驚愕した。
「わわわ、これ……全部かのん君?」
かのん君からの鬼メッセージが通知に表示されていた。
「なんなのこれ」
恐る恐る開くと
「おはよう! 今日も1日がんばってね」
から
「今から着替える」
「撮影に出かける」
と実況のようなコメントが続き、あとは撮影風景と思われる写真が続けて貼り付けてある。
「ふーん、こんな風に撮影してるんだ」
白い布? をバックにポーズを撮っている。これは誰が撮ったものなんだろう。スタッフの誰かかな? じっとそれを見ながらおにぎりをぱくついていると、ピロンとまた一枚写真が送信されてきた。
「やっとランチ!」
上目遣いにベーグルサンドをほおばるかのん君。今日はブルーのカラコンだ。
「おいしそう、いいな。私はおにぎり……っと」
私がそう送信するとすぐに返信した。
「おにぎり食べてる真希ちゃんが見たい」
見てどうするんだ……。
「ってかやっと真希ちゃんから返事きた」
「ごめん、さっき気づいたの」
元彼は仕事中に連絡すると怒るタイプだったから、こんなにメッセージが来るなんて想定外だった。
「で、真希ちゃんのおにぎりまだー?」
スマホの中ではまだかのん君のメッセージが続いている。
「あ、桜井さん。ちょっと写真とって貰える?」
私は隣でお弁当を食べていた、同僚の桜井さんにスマホを渡した。
「写真?」
「うん、おにぎりを食べているところを……」
「なにゆえ……」
「その、か……彼氏? が見たいって」
「え、あんたの彼氏ってそういうタイプだったっけ」
あう、そうか。桜井さんには一昨日破局した事を話していなかったんだ。
「その彼氏とは違くて……また別の」
「は!? 別の彼氏? 初耳なんですけど?」
桜井さんの目が鋭く光った。う、怖い。
「撮ってもいいけど、その彼氏の写真見せて」
「えええ~?」
私がしぶしぶさっきのベーグルサンドの写真を桜井さんに見せると。彼女は固まった。
「~~~~~!!」
「さ、桜井さん?」
「これ、かのん君じゃない!!」
え、知ってるの?
「私フォローしてるよ、ほら!」
桜井さんは素早く自分のスマホを操作するとSNSの画面を開いた。
「フォロワー……15万……」
「知らなかったの!? マジ? 信じらんない」
桜井さんは鼻息荒く、かのん君がいかに天使かを語りはじめた。それは昨日私は嫌と言うほど実感したんだけど。
「よし、長田はおにぎり食べてて写真とるから」
「ちょっと、桜井さんも映るの?」
「へっへっへ」
桜井さんは私のスマホを自撮りモードにすると、おにぎりを持っている私と一緒に写真を撮った。
「はい、送信っと」
するとまたすぐにかのん君から返信がきた。
「美味しそう! 隣は会社の人?」
その画面を横から覗いていた桜井さんはにま~っと微笑んだ。
「ふふふふふ……やった……かのん君に認識された……」
「桜井さん……」
「今夜! 飲みに行くわよ! ちゃんと話しして貰うからね!」
ギラギラと獲物を狙う目の桜井さんの勢いに私は絶対に逃げられないことを悟り、静かに頷いた。
そして終業後……今か今かと待ち構えている桜井さんに早速捕まえられ、居酒屋へと連行される。
「私、生。長田も生でいい?」
「あ、うん」
通された奥まった個室には桜井さんの発する熱気が満ちている。話しを聞かせろって言われても、私酔っ払ってたからな……なれそめを話せって言うんだろうけど、何を一体話せばいいのやら。私が頭を悩ませていると、スマホに着信が来た。
「あ、もしもし? かのん君?」
通話の主はもちろんかのん君。桜井さんがギン! とこちらを向いた。
「あー、真希ちゃん? 仕事終わった?」
「うん、終わったよ。今、新宿で飲んでるんだ」
「えー? そうなの? 一緒にごはんでもって思ったのに」
「ごめんねー、また今度……うわっ」
残念だけど、と断ろうとした途端に桜井さんのスマホが目の前にかざされた。
『かのん君を ここに 呼んで』
チラリと桜井さんを見ると、無言で親指を立てている。あー、まー私のおぼろげな記憶からなれそめ話をひねり出すよりいいか……。あとはかのん君次第。
「もしもし……あの、会社の人と一緒なんだけど、かのん君も飲みどうかな」
「会社の人?」
「そう、昼間に写真送ったでしょ、あれの横に居た……」
「ああ!! じゃあ三十分後くらいにそっちに合流するよ」
私がそこで頷いてから通話を切ると、桜井さんはガッツポーズをしていた。
「ナイス、長田」
「もう、桜井さん。強引ですよ」
「ふふふー。生かのん君に会えるー。やたー!」
「ねぇ、聞いてます!?」
そんなやり取りをしてると生ビールと突き出しの枝豆がやってきた。
「まぁまぁ、とりあえず乾杯」
「はい、乾杯」
カチン、とジョッキがかち合う音が響く。ゴクッっとビールを飲み込む。冷たい刺激と苦みが喉を通る。
「「くう~~~~っ! この一杯の為に生きてる~~~~!!」」
私と桜井さんのおなじみの台詞が口をつく。なんだかんだ職場で一番仲がいいのは桜井さんなのだ。一番歳も近いし。
「ぷはー、じゃあ今のうちにハルオ氏の話を聞こうじゃないの」
ハルオというのは私の元彼の事だ。桜井さんとも面識がある。二十六歳の誕生日にプロポーズどころか私を振った男。
「あー、うん。なんか他に好きな子が出来て私よりタイプなんだってさ」
「はぁ? それワザワザ誕生日に言う?」
「背が高いのも嫌だって」
「出会った頃からあんたはその身長でしょうよ」
「ヒール履かないようにしたりしてたんだけどね……」
桜井さんは、鼻を鳴らすとジョッキに半分以上残ったビールを一気に飲み干した。
「けっ、そんなのどうしようもないじゃない。大体ね、あんたは相手に合わせ過ぎなのよ」
「そうかな、そうかも」
「まぁハルオの野郎も自分の価値観を長田に押しつけすぎだとは思ってたけどね。似合うわよ、その髪型」
「えっ」
私は思わず、髪を押さえた。昨日美容院で改造して貰った新しいヘアスタイル。
「気づきました?」
「うん、どこの美容院?」
「それが、かのん君に連れて行って貰ったので……」
「まじか! またあんた流されてるの!?」
「そうとも……いう?」
桜井さんの顔に呆れの表情が浮かぶ。おおお、これでなれそめを聞いたらこの人爆発するんじゃ無いかしら。ちょっと心配になってきた。
「ま、センス高いのは救いだわよね。ハルオ氏の趣味は最悪だったもの」
「ははは……」
それからはえいひれと厚揚げとだし巻き玉子をつまみに上司の愚痴を言いながら、かのん君の到着を待った。宣言どおり、三十分ちょっとしてからスマホに着信が来た。
「あ、東口。歌舞伎町の入り口近くの『GAKU』っていう居酒屋。うん、うん」
「来るって?」
「駅に着いたからもうすぐ来るって」
「よっしゃあ、生かのん君~」
「お手柔らかに頼みますよ、桜井さん……」
「あー、真希ちゃん、いたいた」
「かのん君、こちら同僚の桜井さん」
「へー、写真よりかわいいねー。よろしくー」
「かっ、かのん君……顔ちっちゃ……」
桜井さんの先程の勢いはどこへやら。小さく震える声で呟くと、かのん君の差し出した手をおずおずと握った。
「私達は生追加かな? かのん君はどうする?」
「うーんビール苦手なんだよね、苦いから……。これにする、カシスオレンジ」
「はーい」
私が呼び出しボタンに手を伸ばそうとすると、桜井さんが小声で「かわいいかよ……カシオレ……かわいいかよ……」と呟いていた。桜井さんのSAN値が削れていっている!
それから追加のおつまみも頼んで、三人の飲み会が始まった。
「あの、なんで長田とかのん君に接点が……?」
桜井さんは意を決したようにかのん君に問いかけた。それは私自身も聞きたかった事だ。気が付いたら……朝だったし、酔っていたのは聞いていたけど具体的に自分がなにをやらかしたのか聞くのが怖いのもあって聞いてないのだ。
「ああ、拾ったの」
「ふえっ!?」
「かのん君! もうちょっと言い方ってものが!」
桜井さんは呆然とし、私は恥ずかしさから裏返った声がでた。
「えーと、酔っ払った真希ちゃんが駅の前に座り込んでて、俺が水をあげたの」
「ほうほう」
「そしたらね、涙でぐっちゃぐちゃに泣いていて」
「ほうほう、でしょうな」
「桜井さん、近い近い」
前のめりになる桜井さん。空のジョッキがガチンとテーブルに転がった。
「それで、いきなり真希ちゃんが俺を拝み出して」
「えっ、嘘!」
「ホントだよー。キレイ、かわいいって連呼して、お願いだから結婚してって言ったの。だから俺もいいよーって」
「長田ぁ!! 何やってんだてめぇ!」
桜井さんが鬼の形相で振り返った。あばばば。
「お、覚えてないんですぅ……」
「それで、おうち帰れないっていうから俺のうちで寝かしつけたんだ。あ、手は出してないよ?」
もう、私には桜井さんの方を向く勇気はなかった。顔が炎のように熱い。
「かわいいとか正直、俺言われ慣れてるけど、真希ちゃんが本当に宝物見つけたみたいに言ってくれたからうれしくて、つい」
……そんな事があったんだ。かのん君は本当に嬉しそうににっこり笑っている。
「ごめん、かのん君……私酔っ払ってて……その……」
「覚えてないんでしょー? もう、いやんなっちゃう」
「申し訳ない……」
向日葵の種を詰めたハムスターみたいにふくれたかのん君。ああ、本当にかわいい。
「でも、多分本音だと思います、はい」
「だよね―? 真希ちゃん好きぴっ」
かのん君ががばっと私の腕にすがりつく。あっちょっと、桜井さんもいるんだけど。
「ごほんごほん」
「あっ、ほらとん平焼き美味しいよ。かのん君も食べなよ」
「じゃあ、真希ちゃんがあーんして?」
「ごほんごほん!」
桜井さんの咳払いが激しくなっていく。とん平焼きくらいは一人で食べてくださいかのん君。私はこれ以上、かのん君がひっつかないように職場のそんなに楽しくもない話でその場を濁した。それぞれ、三、四杯のお酒を飲み干した頃十時を回ったのでお開き、という事になった。
「はぁーっ、見せつけられたわー」
「すいません、桜井さん」
「ごめんねー、俺いっつもこんなんで」
桜井さんはでっかいため息をつきながらも、ニコッっと笑った。
「でも良かったわ、長田がハッピーそうで」
「ははは……」
「よーし、私も彼氏作るぞー! かのん君いい人紹介してよ!」
「え? 俺の知り合いでいいのー?」
気合い十分の桜井さんはかのん君に食らいついた。
「うんうん。きっとWデートとかも楽しいと思うなぁ?」
「Wデート……」
ああっ、桜井さんが悪魔の囁きを!
「かのん君、普通のデートもそんなにしてないのに」
「あっ、そっか。じゃあ桜井さん……誰か良さそうな人がいたら教えるよ」
勝手にWデートの妄想をしはじめたかのん君を引き戻して、お会計を済まして店を出た。JRの駅の改札をくぐってそれぞれの家路へと向かう。とはいえ私とかのん君は近所なので同じ電車。
火曜の夜だというのにまだ人の多い中央線でもまれていると、スマホにメッセージの着信があった。
「あ、桜井さんだ」
「なんて?」
「……今日は楽しかったって」
「そっかー、よかった」
本当はそこには『長田 おぼえていろよ』と書いてあったんだけど。とほほ。