そんな風に考えていると、サーバーに落ちるコーヒーから目を離さずに作業を続けながら、悦子が言った。
「私の顔に何かついてるかしら?」
しどろもどろになりながら視線を逸らすと、ケンは慌てて話題を変えた。
「このミュージック、いいねぇ」
「映画音楽よ、知ってる?『卒業』っていう古い映画・・・はい、お待たせいたしました」
二つのカップに注ぎ分けられたコーヒーが、オーク製のカウンターに置かれた。
そこに舞子が入ってきた。
「なになに?二人で、こっそりコーヒーなんてズルいんですけど」
「何がこっそりよ、土曜だからっていつまでも寝てるあなたがいけないのよ。ケンさんと二人っきりでいいムードだったのに、邪魔しないでくれるかしら」
笑いながら言う悦子に、舞子も対抗して応えた。
「いいえ、きっちりお邪魔させて頂きます。自分で淹れるからいいもん」
棚からモカの瓶を手に取ると、計量スプーンできっちり二杯分の豆をミルに投入した。
「ちょっとちょっと。一人分にしては贅沢な豆の使い方じゃない」
「せこいこと言わない。濃い方が好きなんだもん」
舞子はコーヒー豆を挽き始めた。
そんな母子のやり取りを見ながら、悦子の淹れてくれたコーヒーを口に運ぶケン。口内に広がる優しい苦みと、内側から鼻腔を刺激する香りに、心地よい幸せを味わった。
「ゲルニカの木」という魔法のような空間と、土曜日の午前中という夢のような時間。このひと時が、ケンにとってはいかに縁遠く、それゆえ貴重であるか。一秒たりともおろそかにせず味わい尽くしたい。そして一秒でも長く続いて欲しい。そう願わずにはいられなかった。
「歳の差カップルのお二人は、何のお話をしてたのかしら?」
冗談めかしつつも、実際舞子は二人が何を話していたのか、ちょっと気になった。
「今かかってる音楽のことよ」
「そう、サウンドトラック」
「観てないかしら、『卒業』。グラジュエート。有名な映画だけど・・・ケンさんにはちょっと古いかな」
「あー、知らないです。でもムービーソングで好きなのあるよ」
「え、何?どんな歌?」
ケンが音楽に興味を持っているなどというのは聞いたことがなかったし、そういうタイプにも見えなかったので、舞子は興味津々で食いついた。
「『スーサイド・イズ・ペインレス』(自殺は苦しくない)」
「知らなーい、母さんは?」
悦子も首を横に振った。
ケンは何とか日本語で説明した。
「戦争の映画『マッシュ』。コメディ。知ってる?」
母娘は揃って首を横に振る。
悦子も舞子も知らないあの映画を、果たしてどう説明したものかと、ケンは頭を抱えそうになった。
―「芸達者な俳優たちが繰り広げるブラックな笑いと、それとは相反するリアルな負傷兵のオペ描写。ドタバタコメディ調に中に、見事に描かれている戦場の狂騒」―
例え相手が同じアメリカ人でも、見たことのない人間に『マッシュ』の魅力を伝えるのは難しい。まして日本人の母娘には無理だろう。