ボブとの再会は、結果的にケンの背中を押してくれる前向きなものではあった。だが、そこで知ってしまったボブの現状を考えると、やはり心からは喜べない。
アメリカを発つ頃には、微かに湧き起こっていた前向きな気持ちはすっかり失われ、再び無気力な状態に囚われていた。大好きだった沖縄から、かつての輝きが失われてしまったかのような印象を抱いたのも、そんなケンの心理状態によるところが大きかった。
まるで過去の栄光という、眩い光に集まってくる蛾のように、ケンは米軍基地の周辺をうろついた。当てもなく自堕落な日々を送り、たいした金額でもない軍の退職金と、それまで貯めた貯金を食いつぶしていった。
そんな現実とは裏腹に、ケンの心に芽生えていたあるアイディアが、金の必要性をケンに訴えていた。そのアイディアを実行に移すには金が必要だ。それもはした金ではない。まとまった金額が必要になるだろう。
沖縄に来て一ヵ月ほどが過ぎていった。無意味な毎日にケンの心も荒んでいった。夜の酒場で乱闘騒ぎを起こしたのをきっかけに、唐島興行という興行会社を装った暴力団組織の用心棒になった。
こんなに落ちぶれ、反社会的組織の一員に成り果てた俺を見たら、戦場で死んでいったリックや仲間たちは何て言うだろう。とてもじゃないが合わせる顔がない。だが、これはあくまでその場しのぎの仕事なのだ、金が貯まったらすぐにでも足を洗うのだ。そうやってケンは自分自身に、そして亡き仲間たちに言訳を続けた。
そんなある日、ふとボブの伝言を思い出した。キャンプ・シュワブにいるというボブの知人を訪ねなければ。そしてボブは持ち前のガッツで辛い現実に立ち向かい、元気にやっていると伝えよう。
数日後、ようやく面会の叶ったその男の口から、ボブの死を知らされた。拳銃を使っての自殺だった。
遺書が残されており、そこには先ず初めにケイトへの愛と感謝の思いが綴られていたという。そして、あっちに行ったら戦死した親友たちに早く再会したい。ヴィクの成長が見られないのが唯一の心残りだが、どうか新たな飼い主は、たっぷりの愛情を込めて立派に育てあげて欲しい、といった内容が記されていたそうだ。
「葬儀は身内だけでやるそうだが、俺は行こうと思ってる。あんたはどうする?行くなら日程と場所が決まり次第伝えるよ」
「俺は・・・その、仕事の都合が・・・」
「そうか、分かった。それじゃ仕方ないな」
その言葉は、ボブの自殺というメガトン級の衝撃に打ちのめされたケンの耳にはほとんど届いていなかった。
どのように面会を終え、どうやって帰ってきたのか。ケンにその記憶はなかった。ただ道中、ひたすら呪詛と後悔の言葉を吐き続けた。混乱した感情をひたすらたれ流した。
孤児院では食事前に祈りを捧げたが、一度だって神など信じちゃいなかった。
それが正しかったと証明された。
この世に神などいない。
もしいるとしたら、こんな試練を与え続ける神を、俺がこの手で殺してやる。
ボブの葬式だと?
行けるわけがあるか。
ケイトの顔を見たらその場で殺す。
必ず殺す。
ボブを・・・あんなにいい奴を裏切った売女め。
いつか報いを受けて地獄に堕ちるがいい。
ボブに対する仕打ちを後悔しながら業火に焼かれてしまえ。
ボブ・・・なぜ死んだ、ボブ。
大丈夫だって言ったよな。
あれは嘘だったのか。
俺はあの時、なぜボブに一緒に来ないかと言ってあげられなかったのか。
ボブは俺を助けてくれた。今度は俺が助ける番だったんだ。
リック・・・助けてくれ兄貴。
あんたはマイティ・リックだろ?
俺をここから救い出せるはずだ。
リックに会いたい。
他の仲間たちにも。
そうだ、思い出した。
完全に思い出したぞ。
俺はあの時、飛び去るヘリの中で誓ったんだ。
必ず戻るって。
待っててくれ、みんな。
もうちょっと俺に時間をくれ。
故郷に連れ帰ってやるからな。
そのためにも先ずは金だ。
金が必要だ。
だが、のんびり稼いでる時間などない。
手っ取り早く大金を手に入れるには・・・
明確な意思による行動ではなかった。無計画で衝動的なものだった。自暴自棄になったケンが思いついた、大胆不敵というよりもむしろ無謀に近い計画。それは唐島興行のヘロインを持ち出して、同じ穴のムジナにまとめて売りつけるというものだった。
もちろん売りさばく相手の当てがあるわけではない。だが、大阪か東京か・・・大都会に行けばどうにかなるだろう。先ずはヘロインを盗み出して沖縄から出ることだ。
そして気がつけば、最小限の私物を詰め込んだバッグを片手に、セスナ機に乗って沖縄を後にしていた。有り金をはたいて手配した、訳アリの顧客を専門とする自家用セスナだ。バッグには盗み出したヘロイン五百グラムの包みが入っている。
九州に降り立ったら、そこからは電車で移動しよう。行き先は東京にしよう。日本の首都。世界的な大都市。ヘロインを買ってくれる相手だって必ず見つかるはずだ。
仮に普段のケンならば、これほど無茶で確実性のない博打に打って出ることはなかっただろう。根拠のない希望を抱き、異常な行動力を発揮して迅速に動けたのも、ボブの自殺からくるショック状態の成せるわざだった。
一体どのくらいの時間、こうしているのだろうか。暗い部屋の中、ケンが流麗な動作で繰り出すナイフは、稲妻のようなスピードで完璧な軌道を描いていた。
だが、ケンの脳裏に最後に見たボブ・ワナメイカーの姿、膝に抱きかかえた小犬の手を持って、さよならと振って見せた車椅子のボブの姿がくっきりと蘇った途端に、ナイフの軌道が乱れた。それまでのスムースな動きがバタバタしだした。
ケンはナイフのシャドーを止めると、肩で大きく息をしながらその場に座り込んだ。時計の針は真夜中の二時を指していた。
自衛隊時代の恩師、栗岩との再会を決心した妹尾は、さっそく自衛隊に問い合わせの電話を入れた。
栗岩が今も陸上自衛隊に勤務していることを突き止めると、その連絡先を入手した。現在は朝霞駐屯地の業務隊厚生課の課長として、隊員の福利厚生を担当しているという。
緊張感から手のひらがうっすら汗ばむのを感じながら、妹尾は勇気を出して厚生課に電話を入れた。電話口の女性が栗岩に取り次いでいる間も、緊張は高まり続けた。
やがて受話器から声が聞こえてきた。
「もしもし、栗岩です」
その声からは、さすがに過ぎ去った歳月が感じられた。妹尾が記憶している声よりもずっと老いた印象だった。だが、なぜか妹尾の耳には心地よく響いた。大きく包み込んでくれるような安心感に、妹尾は電話をかけて良かったと思った。
「覚えておいででしょうか?自分は妹尾と申しまして昔、お世話に・・・」
十数年ぶりの突然の電話にも関わらず、栗岩は戸惑うこともなく答えた。
「妹尾君だろ?もちろん覚えてるよ!どう、元気にしてるの?」
「はい、ご無沙汰して申し訳ありませんでした」
「いやいや。君のことだからきっと忙しくしてるんだろう?フランスはどうだったかね、外人部隊には入隊したの?」
「ええ、まぁ、色々ありまして・・・今は除隊しておりますが」
妹尾は口ごもった。それを察した栗岩は、気にする風でもなく話題を変えた。
「そうか、ご苦労さんだったね。それより、どう?久しぶりに会わないかね。酒でも飲みながら話そうじゃない」
妹尾は、誘っても断られるのではないかと内心ビクビクしていたので、栗岩から切り出してくれたのはありがたかった。
「はい、よろこんで!ただ、ちょっと大きな仕事が控えておりまして。急ではありますが、できれば、その仕事が始まる前にお会いできると嬉しいのですが」
「やっぱり忙しいんだね。良いことだ、うん。僕の方は暇人だから。いつでも都合つくよ」
そう言ってくれてはいるが、さすがにさっそく今夜というのもちょっと急すぎるだろう。
「では、明後日の土曜日などいかがでしょう。夕方に、そちらの近くで」
「よし、そうしよう!いやぁ楽しみだな。今日は電話してくれてありがとうね」
栗岩との約束の日の午前中、妹尾の部屋の電話が鳴った。私立探偵岡野からの報告で、ケン・オルブライトの居場所を確定したという。捜索依頼から四日間でターゲットの現在地だけでなく、その職場や宿泊先の情報まで掴んでいるのには、さすがに妹尾も感心した。
「やっぱり天ヶ浜?」
「ええ、そうでした。奴さん、あの町に住み着くつもりなんすかねぇ、まじめに仕事してますわ」
「へぇ・・・」
「町はずれの造船所で働いてます。あと美人の彼女ができたみたい」
「彼女?」
「そ、彼女。全くアメリカ人ときたら、なんであんなに手が早いんすかね。さっそくカワイ子ちゃんと一緒に暮らしてるんだから」
「ホテル住まいとかじゃないのか」
「ええ、喫茶店の上に住んでますよ。その彼女の家みたいですわ。ちょっと覗いたんすけど、これまた美人のママさんがいましてね」
「ママさん・・・美人の?」
「そ、美人の。『ゲルニカの木』っていうお店っす」
妹尾は、情報を漏らさず書き留めると受話器を置いた。
さすが岡野。必要以上といっていい情報量を、申し分のないスピードで集めて報告してきた。いよいよ仕事に取り掛かる時だ。明日にはさっそく天ヶ浜に向かうとしよう。そしてその前に、今夜は栗岩と十数年ぶりの再会だ。
今回の仕事が何か特別なものなのか、それともこれまでと変わらない掃除の一つなのか。それは終わってみるまで分からない。だが第六感のようなものが、今回は今までとは違うと知らせてくる。果たしてどう違うのか、失敗に終わるとでも言いたいのか。
そんなはずはない。自分は必ず成功させる。そして、これを最後に掃除屋稼業から足を洗うにしても、結局辞められずに続けるにしても、それは自分自身が決めることだ。その後の人生を左右するであろう岐路を前に、これまでもいつだって自分で決断を下してきたのだから。
だが、栗岩に会いたい、そして話しをしたいという今の切実な気持ちは、もしかしたら、栗岩から答えが欲しいという期待の現れかもしれない。
「もう辞めにしなさい。掃除屋なんていってるけど、君がやってることはれっきとした殺人だ。大丈夫、これまでの殺しはきれいさっぱり忘れて、新たな人生をスタートすればいいじゃないか」
そんな、都合の良すぎる言葉をかけてくれる栗岩の姿を、繰り返し想像している。だが現実には、殺しを生業としている今の自分をさらけ出して相談するなどということはあり得ない。それは妹尾自身がよく理解していた。それでも、ケン・オルブライトを始末すべく北の町に向かう前に、どうしても栗岩に会っておきたかった。
唐島興行からの依頼は、ターゲットの殺害と、その死体を写真に撮ること。
岡野の情報によると、ターゲットが潜伏する天ヶ浜では、来週末には地元の祭りが開催されるらしい。それは妹尾にとって好都合だった。祭りの取材で町を訪れたフリーのカメラマン。決まりだ。これで海辺の田舎町によそ者が現れても、別段怪しまれる心配もないだろう。
妹尾はちらりと腕時計を見た。待ち合わせまでにはまだ数時間ある。万一、栗岩と会って気持ちがぶれるようなことのないよう、さっさと仕事の準備を済ませてしまおう。
妹尾は、小型防湿庫から出してきたマニュアルフォーカスの一眼レフカメラに手際よくフィルムを装填すると、撮影道具一式と一緒にクッションの効いたバッグにしまい込んだ。外から見れば完全にカメラバッグだが、実は二重底になっており、拳銃はそこに隠す。準備は万端だ。
指定された割烹料理屋「銀なまず」は路地裏の目立ちにくい場所にあったが、栗岩が目印と言っていた、軒先にある木彫りのナマズのお陰ですぐに分かった。
約束の時間より三十分も早く着いた妹尾は、入り口が見えるベンチに腰を下ろして栗岩を待った。初めての場所には早めに着いておきたいのは、仕事でなくても同じだった。
しばらくすると初老の男が通りの向こうから歩いてきた。あれが栗岩だろうか。電話の声以上に、年老いて小さくなってしまった印象に妹尾が戸惑っていると、男は声をかけてきた。
「妹尾くーん、久しぶり!いやぁ、君は変わらないねぇ、すぐに分かったよ」
「どうも、ご無沙汰しております」
栗岩は、深々と頭を下げる妹尾の肩に手をかけて促した。
「さぁさぁ、堅苦しい挨拶は抜きだ。早く入って一杯やろうよ、ここはねナマズの刺身が美味いんだ。私のお気に入りのお店なの」
こじんまりとした店内は、週末ということもあって結構な賑わいをみせていた。場所柄、ほとんどが常連客なのだろう。
「栗岩さん、いらっしゃい。お待ちしてましたよ」
恰幅のよい女将が、甲高い声で二人を出迎えた。
「やぁママ、今回は急ですまなかったね。なにせ大事なゲストだもんでさ」
「あら。だったらますます腕によりをかけますから。ナマズ料理、楽しんで下さいな」
女将は奥の個室に二人を案内した。
「じゃぁねぇ。先ずはビール。瓶ビール二本お願いね」
「はい、承知しました」
ビールが出てくるまでのわずかな時間に、栗岩はナマズに関する講釈を披露した。
「妹尾君、吉川ってナマズ料理で有名なところでね。私もこっちの駐屯地に転勤になってからは、休日になるとよく食べに行ってたの。電車に二十分くらい揺られてさ」
「よほどお好きなんですね、ナマズ」
「うん、だって食べたら分るけどもさ、美味いんだよ、これが。でね、数年前にここができたおかげで、吉川まで行かなくても近場で食べられるようになってさ。もう嬉しくてね」
「ウナギ屋はたくさんありますけど、ナマズ料理ってあまり聞かないですね」
「でしょ?輸送が難しいから。振動に弱くてすぐに死んじゃうんだって。あと共食いもするからね。だから基本的には養殖だろうと天然だろうと、産地でしか食べられないんだよ」
「お待たせしました。」
よく冷えたビールが運ばれてきた。
「栗岩さん、またナマズの宣伝してくれてるのね。うちの宣伝大使。感謝するわ」
ナマズ料理のフルコースに舌鼓を打ちながら酒を楽しむ宴は、妹尾の自衛官時代の話、特に第1空挺団での苦労話に終始した。栗岩は、あえて妹尾に外人部隊でのことは聞かなかった。
恐らく妹尾は、一般人なら生涯を通じて、先ず経験することのないであろう過酷な修羅場を経てきているに違いない。今も若々しさを残してはいるが、いい意味で上昇志向の塊だった自衛官時代の妹尾が発散していた前向きなエネルギーは、どこからも感じられない。
それは仕事柄、多くの人間を見てきた栗岩には一目瞭然だった。そして、それが単に加齢からではなく、体験に起因するものだということも分かった。
「いやぁ、私もあとちょっとで定年退職なんだけどさ。長い自衛官人生で最大の失敗はね、妹尾君、きみみたいな優秀な男を自衛隊に引き留めておけなかったことなんだよね」
冗談とも本気ともつかない口調だった。
「まぁ、でもね。今も忙しくしてるみたいで嬉しいよ・・・えっと、今は何の仕事してるんだっけ?」
口では、君は変わらないと言いつつも、何か大切なものを失くし、脱け殻となってしまったかのような妹尾の変貌ぶりが気がかりな栗岩は、それとなくたずねてみた。
「今は・・・警備関係の仕事をしております」
「ほっほぉ、それはいいね。君にはぴったりだ。自衛隊での経験をちゃんと活かしてるじゃない。立派なもんだ」
自衛隊での経験か・・・まぁ、確かに活かしていると言えるかもしれない。しかし警備関係とは我ながら笑えない冗談だな。大嘘にも程がある。自分の仕事は備え、守ることではなく襲い、命を奪うことなのに。
栗岩に褒められるほど、現実との落差から、妹尾は自虐的にならずにはいられなかった。レンジャー課程修了時に駆けつけてくれた栗岩は、あの時、実の父親のように喜んでくれた。そんな栗岩を騙すのは、冷血漢の殺し屋でもさすがに心苦しい。
さらに追い打ちをかけるように、主任教官のあの時の言葉が脳裏にまざまざと蘇った。「レンジャー徽章を輝かせるのも、曇らせるのも君たち次第」。ここ数年の間、俺はレンジャー徽章を、そしてあの頃の自分を裏切り続けてきた。
あれほど輝いていたからこそ、今では見るのも辛い徽章は、仕事道具を保管している金庫の奥にしまい込んだままになっている。栄光の時代の象徴など、とっとと廃棄すべきなのだ。大好きだった祖母と遊んだ屋上遊園地の甘い思い出さえ、あえて破壊して人間的な心を捨て去っているのだから。良心などこの仕事に於いては害でしかない。
それでもレンジャー徽章を捨てられずにいるのは、掃除屋稼業から足を洗って再びまっとうな人生に舵を切りたいという思いがあるからだろう。自己への挑戦や自己肯定など最早どうだっていい。ひっそりと堅気の生活を送ることさえできればそれで十分だ。
「ところで、徳子さんは元気にしてますか」
徳子と別れて以来、今の今まで、彼女のことなど思い出したこともなかった妹尾だが、なぜか気がついたら口に出していた。
「徳子?ああ、元気にやってるよ。今じゃ三人の子供のお母さんだよ」
栗岩の言葉に、激しく動揺し頭に血が上るのを感じた。
「ほぉ、それはそれは・・・」
「上の子が来年中学進学で、次が今、小学二年生。一番下が今年から幼稚園。三人とも女の子で、まぁこの先色々心配だよ」
栗岩の言葉や表情からは、孫娘たちの成長を見守る喜びが溢れ出ていた。
「徳子さん、きっといいお母さん振りを発揮してるんでしょうね?」
妹尾は、辛うじて平静を装いながら思った。自分は何を動揺している。まさか、徳子とよりを戻せば、己の人生もまたあの頃に戻るのではないか、生まれ変わって幸せな生活を送れるのではないか、などと自分勝手に考えていたのか。
無意識とはいえ、徳子のことをそんな風に、都合のいい存在とし見ていた自分が情けなかった。彼女にとって自分は、人生における通過点の一つに過ぎないのだ。自分にとっての徳子がそうなのだから、当たり前ではないか。徳子はすでに立派に自身の人生を歩んでいる。こちらが知る由もない生活を送っている。妹尾は、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「旦那も真面目ないい男でさ。普通の会社員。まぁ、妹尾君からしてみたら、つまらん男に見えるだろうけど、徳子にはああいうタイプがお似合いだ」
「・・・いえ、平凡な人生を歩む覚悟というのは、それはそれで立派かと」
顔も名前も知らない徳子の夫に、微かな嫉妬心を覚えている自分を認めたくなくて、なんとか絞り出した精いっぱいの言葉だった。
「そう思う?」
「はい・・・」
「まぁ、私もね、定年したらのんびりしようと思ってるんだけど、なんだかんだ孫の相手で忙しくなるかもなぁ。下の子なんか幼稚園に入ったばっかりだからさ」
そう言って笑う栗岩は、本当に幸せなおじいちゃんの顔になっていた。
妹尾は、さっきまで美味しく感じていたナマズ料理の味が分からなくなってしまった。心地よいほろ酔い気分からも完全に醒めていた。
気がつけば、時計の針は二十二時を回っていた。三時間以上も話していたことになる。
「さて、君も忙しいだろうから。今夜はこの辺でお開きにしようか」
栗岩が宴の終了を告げた。妹尾は少しがっかりした。それは懐かしい再会の終了からくる気持ちというよりも、期待を裏切られた気分によるものだった。栗岩に会えば何かが変わるのではないかという勝手な思いが希望的観測でしかないことは、初めから分かっていたのに。
「はい・・・栗岩さん、今日は会って頂いてありがとうございました」
「いやいや、私の方こそお礼を言わなくちゃ。連絡をくれてありがとうね。嬉しかったよ」
会計を済ませながら、栗岩が言った。
「さて、ちょっと駅まで歩こうか」
「でも栗岩さん、遠回りになるのでは?」
「なに、酔い醒ましにはちょうどいい散歩さ。酒の臭いさせて帰るとね、孫たちが寄ってこないのよ。臭い臭いって」
二人は「銀なまず」を後にした。
北の町の名も知らぬ駅で、ケン・オルブライト襲撃に失敗した夜から半月ほどが経っていた。
大けがを負わされた挙句、逃げ帰ってきた新井と堀田のコンビは、鳴海にみっちり絞られて、自分たちの演じた失態に落胆したが、ようやく傷も癒え、新たな仕事を振られて少しほっとした。
俺たちはまだ花山一家から見捨てられてはいないようだ。ならば今度こそ、しっかり役目を果たし十分使えるってことを証明しよう。汚名返上のチャンス到来だ、と二人は意気込んでいた。
新たな仕事というのは、ヘロインの取引だった。ケン・オルブライトから騙し取った五百グラムのヘロイン、末端価格にして7千万円分のブツを別の組にまるまる買い取らせるのだ。
元はといえば唐島興行のもので、棚ぼた式に舞い込んできたヘロインである。強引な手段で強奪しているだけに、今後厄介ごとの火種にならないとも限らない。早々に現金に変えて、自分たちの足跡を消しておきたい花山一家としては、不本意ながら桜田組にまとめて買い取ってもらうことに決定した。
かつては縄張りを巡って抗争を繰り広げたこともある桜田組だが、現在は花山一家の組長、花山譲二が苦労して締結にこぎつけた協定により休戦状態にあった。目下、日の出の勢いでシマを拡張している花山一家ではあるが、無駄な戦争による疲弊を避けるべく、桜田組のシマだけは侵すべからずの方針が徹底されており、両者は少なくとも表面的には友好関係にあった。
桜田組との交渉は鳴海が担当し、一括買い上げ、現金での支払いを条件に四千五百万で手を打った。花山譲二も「ここで欲かいても仕方ないだろ、もともと無かったもんなんだから。それでいけ」と、迅速な取引に前向きだった。
桜田組が指定した取引現場は、放棄され長らく使われていない倉庫群の中の一つだった。そこが桜田組のシマのど真ん中にあるのがどうにも気に入らなかった鳴海は、万が一に備えて現場から数百メートルほど離れた位置に車で待機することにした。新井と堀田がブツを引き渡して現金を受け取ったら、まっすぐ鳴海の待つ場所まで戻り、そこから車で花山一家のシマに帰る算段だった。
新井と堀田は極度に緊張していた。その原因は、取引を成功させて自分たちの価値を認めて欲しい、そんな思いからくる必要以上の気負いだけではなかった。花山一家が桜田組と抗争を繰り広げていた当時、まだ若手だった二人にとって、人生で初めてヤクザの世界における命の値段の安さを実感させられた相手、それが桜田組だった。
それゆえに、なめられてはいけないと虚勢を張って取引に臨んだ二人だったが、吐き気をともなうほどの緊張は隠しようもなかった。
そんな新井と堀田の気持ちはいい意味で裏切られた。取引はいたってシンプルで、ものの数分もかからず無事に終えることができた。桜田組の連中も、過去のことは水に流し、あくまでビジネスと割り切っているのが二人にはありがたかった。
こっそりとトカレフを隠し持ってくるまでもなかった。頭をひねって銃の隠し場所を考えたのが馬鹿馬鹿しく思えた。安堵に包まれた新井は、倉庫を後にするや否や、堀田に軽口を叩いた。
「余裕だったな。これで兄貴の信頼も取り戻せるだろ」
「まあね・・・でも、ここはあっちのシマのど真ん中だろ。兄貴と合流するまでは気を抜けないよ」
四千五百万円分の現金が入ったバッグを抱えた堀田は、まだビクビクしていた。
その時、遠くからパトカーのサイレンが聞えてきた。こちらに近づいてくるような気がする。
桜田組の出方を心配するあまり、警察のことまでは気が回っていなかった自分たちを呪いたい気分になった。こんな時間に廃屋の倉庫付近を大の男が二人でうろついていたら、職務質問には格好の対象だ。大金の入ったバッグの言訳など考えるだけ無駄である。一発でアウト、署までご同行に決まってる。
またしても俺たちは失敗してしまうのか。しかも大失敗だ。ここでやらかしてしまったら二度と組には戻れない。ただでは済まされないことは誰よりもよく理解していた。新井は堀田に向かって叫んだ。
「兄貴の車まで走るぞ!」
それを聞いた堀田は、バッグを胸に抱えると弾かれたように走り出した。その後ろを走る新井の手は、無意識のうちに隠し持っていたトカレフに伸びていた。
小野公一、二十三歳。大学四年生。趣味は写真撮影と天体観測。
公一にとって、ロシアの軍事偵察衛星ミカエルの大気圏突入の知らせは、ここ数ヵ月で最も心がときめく出来事だった。一生のうちにそうそう体験できるものではない。そう考えれば、三ヵ月分のバイト代をはたいて200ミリの望遠レンズを新調したのも、当然の投資だった。
気象庁の予想では、ミカエルは九日後の早朝に北緯四十度辺りの日本海沖に墜落するという。素晴らしい天体ショーの予感に今から興奮が収まらない公一は、今夜も川べりに建つ古びたアパートの屋上に出ると、自慢の望遠レンズと高感度フィルムによる撮影の練習に余念がなかった。
大気圏突入時にバラバラになって日本海に降り注ぐ衛星というのは、一体どんな風に見えるのだろう。肉眼でも確認できるのか。それとも望遠レンズ越しでないと見えないのだろうか。落下する人口衛星のイメージとして、公一は流星群を想像していた。だが、あいにくこれまで流星群の撮影に成功したことはない。流れ星を相手に撮影の練習など、したくてもそんなチャンスに恵まれることは先ずないのだ。
廃墟の倉庫群を川の対岸に臨み、川沿いの街灯くらいしか明かりがない一角とはいえ、その向こうでは町明かりが空をぼんやり照らしている。夜空の星々も大して見えないこんな環境とあっては、月を撮影するのが関の山だった。だがここ数日、月ばかり撮っていたので、さすがに公一も撮影に飽きてしまった。
そんな公一の心にムラムラと欲望が湧き上がってきた。この望遠レンズがあれば、川の向こう岸の出来事も丸見えである。かすかな後ろめたさを感じながらも、公一はレンズ越しの観察という誘惑に抗うことはできなかった。
「銀なまず」を後にした栗岩と妹尾の二人は、狭い路地裏を抜けて川沿いの歩道に出た。右手には廃倉庫が立ち並び、明かりといえば等間隔で立つ街灯くらいで人影はない。最寄り駅までは街中を歩くよりも近道になるし、川の流れる音を聞きながら夜の散歩と思えば悪くないロケーションである。
「いやぁ、気持ちいいね」
「そうですね」
「ナマズ、美味しかったでしょ?」
「はい、珍しいものをご馳走になりました」
「ナマズって一見愛嬌あるけど、餌はカエルや小魚だし、共食いもするし。結構恐い魚なんだよね」
再び栗岩のナマズ談義が始まったが、妹尾の耳にはほとんど入ってきていなかった。妹尾の中では、栗岩に今の自分の状況を打ち明けたい欲求と、それは不可能であると告げる理性がせめぎ合っていた。
「恐い魚なんだけども、振動を与えると死んじゃうくらいセンシティブなんだよなぁ。それでさぁ、夜行性だから昼間はずっと暗がりに隠れてるの」
「ほほぉ」
生返事で答えた妹尾だったが、栗岩が続けて発した言葉に思わず我に返った。
「お天とうさまを堂々と拝めないような悪さでもしたのかね?」
「え・・・」
「ほら、昔はナマズが地震の原因だって信じられてたって言うじゃない」
「はぁ」
「地震で人間を困らせてたのが後ろめたくて、昼間は隠れているのかもなってね」