一体、これはどうしたことだろう。
前方に目をやれば、富士山が雄大な姿で佇んでいる。俺はこんなに気持ちよくて楽しいことを恐れ、パニックになっていたのか。
そんな風に考えながらふと足元をみると、地面がすごいスピードで、みるみる迫ってくるのが分かった。
体は本能的に着地の衝撃に備えて最善の態勢を作った。訓練の賜物である。
降下を終えた隊員は素早くパラシュートを回収すると集合地点に向かった。彼らの顔はみな輝いていた。
妹尾も大きな達成感を味わっていたが、同時に意外にもパニックに陥った自分の脆さが心に引っかかっていた。
初の落下傘降下はこうして幕を閉じた。

この時、こうした空挺降下を五十回、百回と経験しているベテラン空挺隊員が、妹尾には雲の上の存在、というよりも化け物に思えた。自分もこれを繰り返せばやがて彼らのようになれるのだろうか?
その後の降下訓練時にも、程度の差こそあれ度々パニックに襲われた妹尾は、先輩隊員にそのことを相談してみた。
相談する相手にベテランのジャンプマスターを選んだのは失敗だった。初心者が抱く恐怖心などとうの昔に忘れているか、初めから恐怖心などとは一切無縁のようだった。
「何をやわなこと言ってんだよ、お前。そんなことに悩む暇があったら走ってこい」
そう言いながら、妹尾の背中を思い切り叩いて終わりだった。
次に妹尾は、比較的若くて降下回数もまだ多くない先輩をつかまえて悩みを打ち明けた。その先輩は言った。
「おれはジャンプは平気だったけど、目隠しされての模擬尋問の時に、お前と似たようなパニックを味わったよ」
それはレンジャー課程で行われるもののひとつで、敵に捕まり尋問を受けることを想定し、それに耐えて生き延びるための精神力を養う訓練だった。
「お前はまだレンジャー課程やってないから分からないだろうけどな、俺は閉所恐怖症がどんなもんかってのを、あれで知ったんだ」
「で、どうやって克服したんです?」
「簡単に言えば、呼吸だね」
その先輩は、妹尾にイメージトレーニングを伴う呼吸法を伝授してくれた。
心の中に芽生えた恐怖心。それを薄めるようなイメージで鼻から息を吸う。薄まった恐怖心を完全に体外に吐き出すように息を吐く。そんな循環イメージを明確に想像し、他のことは一切考えずに、ゆっくりと呼吸を繰り返す。そして呼吸に集中することで、徐々に平常心を取り戻す。
先輩からのアドバイスに従って真剣に呼吸法に取り組むことで、やがて妹尾は落下傘降下に対する恐怖心を克服した。気がつけば降下の最中に景色をのんびり眺めて楽しむ余裕さえ出ていた。降下回数を重ねるにつれて着々と自信をつけていった。
今の自分は、新人隊員には化け物に見えるのだろうか?かつての自分が感じたように。
パニック症状とその克服という経験は、妹尾に重要なことを教えた。
自分自身の中に潜む敵こそが、最も厄介で手強い存在となる。そして自身を敵に回した時には、どんなに強い人間であっても意外に脆い。だがそれを克服できる強さを持つのもまた人間である。