だが人間の能力というものは、無限の可能性を秘めている。絶対に無理だと思っていたことでも死に物狂いで喰らいついていると、やがてその厳しい環境に体が慣れてゆくのだ。
当初は、地獄以外の何ものでもなかった日々の肉体訓練は、ハードなことに変わりはないが、今では完全に日常の一部となっている。
腕立て伏せや腹筋などの筋トレでは、もう無理だという考えが一瞬でも脳裏をかすめると、次の瞬間、金縛りにでもあったみたいに体が動かなくなることを知った。
その経験から、困難の中にあっても、決して負の思考に取り込まれるベからずという教訓を学んだ。精神がいかに肉体に作用するかということを、妹尾は言葉ではなく体で理解した。

初めての降下訓練は未だに忘れられない出来事として、妹尾の記憶に刻まれている。
それまで駐屯地の敷地内にそびえ立つ降下訓練塔と呼ばれるタワーを使い、地上数十メートルの高さから落下傘降下を何度も繰り返してきた。
地上ではずば抜けた屈強さを誇る隊員が、高所で全く動けなくなるケースもあった。しかし妹尾自身は、高さに対する恐怖心はほとんど抱かなかったため、初となるC-1輸送機からの降下に対しても、それほど緊張せずに臨むことができた。
隊員同士が互いの装備に不備がないかを確認し合う最中も、妹尾は平常心を保っていた。空挺隊員の証たる落下傘降下。これを乗り越えれば、自分の自衛官としてのレベル、そして人間力のレベルも大きく飛躍する。
小銃や予備の落下傘も含め総重量八十キログラムに及ぶ装備を身に着け、よろよろと輸送機のタラップを上がる妹尾は、常に強さを道標してきた自分の人生における重大な局面を、今まさに迎えていると感じていた。
輸送機は轟音を響かせながら基地を飛び立った。エンジン音が耳を聾する狭い機内。その両側に並ぶ隊員たち。緊張の面持ちの初心者もいれば、飛ぶのが楽しみで仕方ない風な余裕を見せるベテランまで様々である。
そんな中、妹尾は妙な心のざわめきのせいで、集中力が途切れつつあるのを感じていた。よりによってこの重要なタイミングに一体どうしたことだ、あと数分もすればここから飛び降りなければならないのに。
焦れば焦るほど、妹尾の心は乱れていった。
いよいよ降下直前、妹尾は巨大な恐怖感に飲み込まれそうになり、パニックに陥った。地上350メートルの輸送機の中で真剣に、今日はやめて帰ります、と口走りそうな自分がいた。
心拍数が急上昇しているのを感じる。こんな恐怖感はかつて感じたことがなかった。唯一、大学の柔道部で先輩部員から絞め落とされそうになった時、圧倒的な力で押さえつけられ、一切身動きの取れない状況の中で感じた恐怖感がこれに近かった。
機内に張られたワイヤーに、パラシュートを引き出すフックをひっかけると、隊員たちは一列になって後部に向かって歩き出した。成すがままに歩くしかない妹尾だが、ほとんど膝に力が入らない。肛門はきつくすぼまり、陰嚢が縮み上がっている。逃げ出すことさえできない状況が、ますますパニックを増長する。
輸送機のタラップが開き、澄み渡った青空が見えた。
後戻りはできない。
タラップから隊員たちが次々に飛び出し、大空に落下傘の花を咲かせてゆく。
空中に向かって口を開けたタラップが着々と妹尾に迫る。
卒倒しそうになりながら自分の番を迎えた妹尾は、左側に立つ降下長から「行け」の合図を受けると、転げるように大空に身を躍らせた。何かを考える余裕などどこにもなかった。
だが、その直後パラシュートが開き、その衝撃が妹尾の体を貫くと、妹尾は我に返った。つい先ほどまで感じていたあの巨大な恐怖感は、今や跡形もない。それどころか、一種の爽快感に近い心地よささえ感じている。