次の非番の日、ケンはロバートに連れられて、ロサンゼルスのダウンタウンにある小さな建物の薄暗い階段を上がっていた。
「マジでこんな場所で習えるのかい?こんな誰も知らないような所でさ」
「馬鹿だね、お前さんは。大々的に宣伝して皆が習い始めたら価値がないだろうが。これはな、秘術なんだぜ。そんじょそこらで習えるインチキと一緒にすんなよな」
薄いベニア製の粗末なドアを開けると、そこには小柄なアジア人が佇むように立っていた。この人物がナイフ術のマスターなのだろうか?とてもそうは見えないが・・・。
ぼんやり立ち尽くすケンをしり目に、ロバートが言った。
「先生、活きのいい若いの連れてきましたよ。たっぷりしごいてやって下さいね」
そのアジア人は穏やかな笑顔で軽く頷いた。
「ケン、こちらトゥワンコ先生だ。ナイフ術の・・・いわゆる達人だぜ」

ダウンタウンの寂れたビルにある小さな道場で、ひっそりと伝授されている格闘術と、その達人であるトゥワンコ師の動きは、ケンにとってまさに衝撃的だった。ボブが神業と絶賛するのも頷ける。
流れるような一連の動きはナイフだけを使って相手を倒す技術ではなかった。むしろ徒手による近接格闘術の中に、ナイフ・アタックの技術が効率よく組み込まれている感じがした。
一撃で相手を倒すのではなく、人体の急所に細かく攻撃を入れ続け、結果致命傷とする技術であった。東南アジアに伝わる伝統的格闘技シラットを基礎としつつ、トゥワンコ師が戦場の白兵戦を想定し改良の末に編み出した独自のナイフ格闘術である。
そして特徴的なのが、この格闘術で使用されるナイフの形状だった。東南アジアでは古くから使用されてきたカランビットと呼ばれるそのナイフは、鎌状にカーブしたブレードを持ち、切るだけではなく引っ掛けて引き裂くといった、相手により大きなダメージを与える使い方ができる。又、ボディアーマーやプロテクターに保護されていない、むき出しの関節部などを狙うのにも適している。
さらにグリップの反対側はリング状になっており、そこに指を入れることでナイフが滑るのを防ぐだけでなく、順手から逆手、あるいはその逆へのスイッチが迅速かつ容易にできる。マスター級の人物が操るカランビットの動きは、常人の目ではほとんど捉えられない程になる。
トゥワンコ師が指導する技は、実戦を想定した殺人テクニックであるが故に、道場は一般には門戸を開放していない。生徒は軍や警察、法執行官、民間軍事企業のオペレーターなどの関係者のみ。紹介による会員制で生徒の数は限られており、お互いの職業を聞かないことが暗黙のルールとなっていた。実際、その素性を答えることのできない特殊部隊員も在籍している。
道場に集まる者は皆、命を張る仕事に従事しているため、技術習得への情熱と真剣さは本物だった。ケンも暇を見つけては道場に通い、夢中でナイフ格闘術の習得に励んだ。それは、ケンをこの場に導いたロバートが呆れるほどの熱心さだった。

「ケンさん、大丈夫~?そろそろ晩ご飯の用意できるけど」
浴室のドア越しに舞子の声を聞いて、ケンは我に返った。
一体どの位シャワーを浴びながら考え事に没頭していたのだろう。これは厄介な症状だ。今夜はとてもじゃないが、簡単には眠れそうにない。
コックを捻りシャワーを停めた。
「ハイハイ、今出る。心配なしねぇ」
ケンは、何でもないことをアピールするために努めて陽気に返事をしながら、左手で頭髪を後ろに撫でつけて水気を切った。盛り上がったニの腕に彫られたタトゥーの上を、水滴が流れていった。