リングの上でグローブを合わせながら、リックが言った。
「さっさと上がってこい。揉んでやる」
「はいはい、了解。チャンピオン殿」
この時点で、ケンはまだリックの眼が笑っていないことに気付いていなかった。ロープを跨いでリングに入るとグローブを構えた。
次の瞬間、リックの強烈な右フックが側頭部を打ち抜き、ケンはリングに這いつくばった。
「お、おい、ちょっと待ってくれ兄貴。もうちょっと手加減てもんを」
そう言いながら立ち上がったケン目がけて、すかさずリックの連打が炸裂する。
上下左右に打ち分ける強烈なパンチに堪えながら、根性で何とか立ち続けるケンだったが、それも十秒と持たなかった。
明らかに異常な雰囲気を察知した周りの隊員たちも、トレーニングの手を休めて成り行きを見守った。
よろめきながらコーナーまで戻ったケンは、肩で息をしながらリックを睨んだ。
何だって言うんだよ、一体全体。
ケンの心中が聞えたかのように、リックは言った。
「話がある。すぐに俺の部屋まで来い」
グローブを外してリングを降りたリックは、タオルを肩にかけると、さっさとトレーニングルームを後にした。

まだジンジン痛む体を引きずりながら、ケンは兄の部屋のドアをノックした。
「入れ」
血のつながった兄ではなく、海兵隊の同じチームに所属する先輩としての声の響きだった。
入り口に突っ立っていると、リックが言った。
「そこに腰かけろ」
過去、二十数年に渡って兄弟喧嘩はほとんどした記憶がない。明らかに何かに怒っている目の前のリックは、これまで見たことのない兄の姿だった。
「痛むか?」
「当たり前だぜ、リック。一体あれは何のまねだ」
着席するのを拒否し立ったまま吐き捨てるケンに、しばらく黙っていたリックが答えた。
「酒場での騒ぎのことを聞いた」
あの件と、この仕打ちに一体何の関係があるというのか。
「ああ、あれな。世の為、人の為。ゴミ掃除をしてやったよ」
「馬鹿野郎!」
兄の本気の怒声に、ケンは思わず体ごと飛び上がった。
ふっと息を吐くと、リックは静かな落ち着いた口調で続けた。
「いいか、ケン。俺たちが日々の辛い訓練で習得した技術は、民間人に使うもんじゃない。国の為、戦争で敵を相手に使うもんだ。分かるか?」
ケンはあの夜、基地に帰ってから、バーでの出来事をリックに報告し自慢しようとさえ考えていた。実際はしなかったのだが、きっと自分の勇敢な行動を、リックは褒めてくれると考えていた。
だが今、兄はあの時とった俺の行動を咎めている。到底納得できないケンは言い返した。
「あいつらは周りに十分過ぎる程迷惑をかけていた。おまけにバーテンを殴ったんだぜ。そんな連中を黙って見てろと?」
「黙って見てろとは言わない。だがお前が暴力を持って対処することではない。早めに警察を呼んで解決すべきだったと思う」
「警察なんか呼ぶまでもない。実際、俺一人で解決してやったぜ。バーテンも感謝してたしな。お陰で飲み代もチャラになった」
「お前は分かってないんだな」
「何を!」
尊敬する兄に対して、ケンがここまで横柄な態度で口答えしたことはかつてなかった。