そこに、ドアの開く音と共に少女の声が聞えてきた。
「ただいまぁ」
ケンが声の主に目をやると、外国人の来客に驚きの表情を浮かべる制服姿の女子高生がいた。ケンは、入口に立ち尽くす美少女の顔に女主人の面影を認めた。間違いなくこの店の娘だろう。
これが舞子、そしてこの店の女主人、井口悦子とケンとの出会いだった。
「はい、おかえり」
悦子は、舞子を紹介した。
「うちの娘です。舞子、こちらの方は、えっと・・・」
「Ken Albright」
ネイティブスピーカーの口からなめらかに発せられる英語発音に「?」と顔を見合わせる母娘にもう一度、日本語発音でゆっくりと繰り返した。
「わたしの名前、ケン・オルブライト」
「ケン・・・さんね。今日はよくいらっしゃいました」
舞子は人見知りなのだろうか、軽く会釈するとそそくさと店の奥に消えた。
「で、ケンさん。天ヶ浜には何しに?観光にしたって観るとこなんてないでしょうに」
「アマガハマ?」
「あ、ここの地名。天ヶ浜っていうのよ」
「はい、フェスティバル見にきたのです」
あの日、軍用トラックに揺られながら、この町に感じた感情。それを日本語で説明するのは到底不可能だと判断したケンは、祭りがすでに終わっているのを承知の上で言った。
「フェスティバル?奉納祭のことかしら・・・もう終わってしまったけど」
「はい、少し前に見たのです。その時、この町好きになったね」
「へぇ、一度来てるのね。外人さんなのに珍しいですね」
「そぉ?」
「ええ、この辺で観光客の外人さんなんか見かけたことないわ」
「そぉ」
「あのお祭りは、もともと神事の一種でね。『天懇献呈の儀』は外国人にはきっと興味深いかも知れないわね」
「テンコンケンテイの・・・」
「てんこんけんていのぎ。ざっとこんなお話なの」
悦子は祭りの成り立ちを説明した。
大昔、天界の神がこの地を訪れた際、漁師が獲れた魚介類を献上したという。
その魚のあまりの美味さに喜んだ神が、もっと食べさせよと要求したが、あいにく天候に恵まれず不漁続きのため、今食べた魚が最後の一尾だと漁師は言った。
それを聞いて嘆き悲しんだ神は、魚食べたさのあまり、穏やかな天候と豊漁を約束して天に戻っていった。
以来、この地の民は秋に魚を献上する祭りを行って、豊漁を願うようになったそうである。
「もっとも、今はこの辺じゃほとんど漁なんてやってないから。伝統を守るっていう理由で『天懇献呈の儀』も続けてはいるけど・・・中身は、ありがちなお祭りかしらね」
近くの神社に獲れた魚介類をお供えし、儀式を執り行う。これにより、この地が繁栄して願い事が叶う。天ヶ浜奉納祭は、長い歴史の中で都合よく解釈を変えながら、今も続く年に一度の秋祭りである。
すっかり「ゲルニカの木」を気に入ったケンは、結局休暇のギリギリまでこの地に留まることになった。
連日、辺りを散策して過ごした結果、天ヶ浜の地理に随分と詳しくなっていた。ここは平地が少なく、線路を挟んで内陸側はすぐに小高い山になっていることを知った。海岸沿いの道を北上すると演習地があるのは分かっていたが、反対方向に南下すると造船所があることも知った。海に突き出した堤防では、釣り人を見かけたこともあった。
昼を散策に費やしたケンは、夕方になると必ず「ゲルニカの木」に顔を出してブレンドコーヒーを注文した。
言葉の壁があるため饒舌とはいかないが、それでも悦子と気ままな会話を楽しんだ。
そのうち、学校から帰った舞子もその場に加わるようになった。
彼女らと過ごす時間は、海兵隊員であるケンの生活の中には、ほとんどあり得ない類のものだった。異国の片田舎で、出会って間もない日本人と会話を楽しむ自分の姿など、これまで想像もつかなかった。この状況が少し非現実的に感じられる程だった。
やはりこの空間だけは、フェスティバルのマジックが続いているようだ。
「いつも沖縄います。USマリーンね」
「マリーンって?」
舞子が聞いた。
「日本語でカイヘイ・・・タイ?」
「海兵隊?へぇ、ケンさん兵隊さんなんだ」
ケンが沖縄に駐留する米軍海兵隊員であることを、母娘は知った。訓練に励み、いつか精鋭部隊に志願したいと、希望に満ちた表情でケンは語った。
「怖くないの?」
そう聞く舞子に対し、ケンはこともなげに言った
「マリーン・コーはナンバーワン。一番だから。怖いものないのですよぉ」
今なら間違っても口にしない言葉である。だが実戦経験もなく、戦争の恐ろしさを知る由もないこの時のケンは、自分の言葉を信じて疑わなかった。
「この人、こんな田舎で喫茶店なんかやってるけどね。実は芸術家なの。アーティスト」母親を指さしながら舞子は言った。
「はい、ここのステンドグラス造った。それを聞きました。スゴイね」
「ステンドグラス売るだけじゃなくて、教えてもいるの」
「ゲルニカの木」の定休日である毎週日曜日、悦子は近くの市まで電車で通い、駅前のカルチャースクールでステンドグラス教室を開催しているという。
「作品集も出してるし、結構売れるんだよ。依頼を受けて大きいの作る時なんかは、臨時休業で工房に籠りっぱなし」
ケンに悦子の作品集を手渡す舞子の表情は、そんな母を心から誇りに思っているようだった。
その世界では十分に認知されているステンドグラス作家、井口悦子。
失礼ながら「ゲルニカの木」は繁盛している様には見えず、彼女はどうやって収入を得て生活しているのかと、ケンも不思議に思っていたが、これで謎が解けた。
住居兼職場のこの家は、二、三階が居住スペースとなっている。一階の奥には喫茶店と壁を隔ててステンドグラス工房があり、グラインダーやハンドソー、ガラスカッターなど大小様々な専門道具が、色とりどりのガラス板などと一緒に並んでいた。レジ横のスペースに、数千円で売られている小さなステンドグラスも悦子の作品だ。
「そう言うあなただって芸術家志望でしょ」
悦子の表情からも、その道を選んだわが子を応援する母の優しさが滲み出ていた。
「毎日デッサン、デッサンで・・・青春って何?って感じですけどね」
デッサン用の木炭で黒くなった爪の隙間をいじりながら、むくれてみせる舞子だが、放課後の美術室でデッサンに明け暮れる日々は、周りの学生が参考書片手に数式と格闘しているのに比べれば、はるかにましだと思っていた。
昔から仲間内で群れるのが嫌いな一匹狼気質の舞子は、美術部には所属しておらず部員からも距離を置いていた。そんな舞子のことを、わざと聞こえるように「居候」と呼ぶ部員もいたが、彼女は気にしなかった。来年の春には東京五美術大学のいずれか・・・できれば母の母校でもある女子美術大学に入学して、こんな所でくすぶってるあんた達とはお別れよ、と心の中で繰り返すのだった。
ケンにとっても、悦子や舞子にとっても思いがけず楽しい日々となった数日間が過ぎた。
休暇も終わりが近づきケンが沖縄に帰る日には、舞子が駅まで見送りにきた。
「ここ好きだから、また戻ってくるを、約束しますねぇ」
見つめられながらそう言われて恥ずかしくなり、思わず目をそらした舞子は、照れ隠しにそっけなく答えた。
「うん。暇だったらで良いいから」
ケンを乗せて走り去る電車を見送りながら、舞子は早くも自分の言葉に後悔していた。可愛げないよなぁ、わたしって・・・。
落胆しながら帰路に着く舞子は、途中で思わず「あ・・・」と声を漏らした。来春には、きっと自分は東京で暮らす女子大生になっていて、天ヶ浜にはいないのだ。
「もう会えないじゃん」
やり場のないやるせなさが胸に込み上げてきた。それは舞子自身が動揺するほど強烈な感情だった。
東京から自分を追って来た二人組を返り討ちにし、そのまま深夜の天ヶ浜をほとんど無意識に彷徨い歩いたケン・オルブライト。
海岸沿いの道路に出る頃には、ケンは自分がなぜこの地を目指してきたのかを、はっきりと理解していた。
数年前、まだ海兵隊員として希望と自信に満ち溢れた日々を送る俺が、休暇を取って訪ねたこの町。この現実の町に、唯一残された幻のような喫茶店「ゲルニカの木」。そしてあの母娘。娘の名前は確か舞子だったか。
あの休暇の日々に歩いて回ったこの辺りの地理を、記憶はしていなくとも体が覚えていたのだろうか。日付も変わりすっかり夜も更けた頃、ケンは見覚えのある店の前に立っていた。窓のステンドグラスもあの頃から変わっていない。入り口にかかるこの木の看板は、確かオークを使っているとか。
ここが俺の目的地に間違いない。だが、なぜだ?
自分自身に問いかけながら、入り口のステップに腰を下ろしたケンを、強烈な疲労と睡魔が襲った。海風から身を守るため革ジャケットを耳の上まで引き上げると、丸めた体を柱に預けた。
今朝、東京を逃げ出したのが遥か昔に感じる。厄介な一日を反芻する間もなく、ケンは深い眠りに落ちた。
早朝。ベッドからもぞもぞと抜け出した舞子は、寒さに身震いしながらジャージを肩に引っ掛けて、新聞を取りに薄暗い店に降りた。毎日のルーティンなのでほとんど無意識に体が動く。
眠い目をこすりながら、入り口のドアを開けた舞子は、うずくまる人影を見て思わず短い悲鳴を上げると、慌ててドアを閉めた。
酔っ払い?心臓がバクバクするのを感じながら、どうすべきかを考えた。母を呼ぼうか、それとも警察が良いか・・・でもただの酔っ払いだったら警察に申し訳ないかな。いや、警官だって国民の税金から給料を貰ってるんだから遠慮は無用だよね。
色々と考えながら、とりあえず店にあったホウキを手に取った。これで突いてみよう。いざとなったら武器にもなるし。
勇気を振り絞ってそっとドアを開けた舞子は、ホウキの柄でうずくまる男をつつきながら声をかけた。
「すみません、ちょっと・・・あの、起きて下さい。風邪ひきますよ。こんな所で寝られると困るんですけど」
無反応の男をもう少し強くホウキで押してみる。すると男はゆっくりと顔を上げて、眠たそうにしながら舞子の方に振り返った。
男の顔を見た舞子は、再び悲鳴を上げそうになった。だが今度の悲鳴は恐怖からではなかった。驚きと、その後からゆっくり広がる喜びの感情からくるものだった。
「ケンさん・・・だよね」
「Oh、舞。久しぶりね。元気でしてましたか?」
この日からケンは、井口母娘の計らいで「ゲルニカの木」の三階にある空き部屋に居候することになった。
「ケンさん!」
舞子が後ろから大きな声で呼ぶのを聞いて、はっと我に返った。
「どこまで走るの?家、通り過ぎてるよ」
振り返ると、国道から「ゲルニカの木」のある小さな通りに続く坂道を通り越していた。
「Oops、ソーリー」
苦笑いしながら踵を返すケン。
元々、帰り道にあれこれと会話をする二人ではない。それにしても今日のケンは、いつもより自分の世界に没頭している感じがした。舞子は、そんな普段とちょっと違うケンを敏感に感じ取っていたが、わざわざその理由を訊ねるようなまねはしなかった。何となく聞いてはいけない気がしていた。
半月ほど前のあの朝の、ケンとの数年ぶりの再会を、舞子は思いがけず手にしたプレゼントみたいなものだと思っていた。
舞子が東京での六年間の生活に終止符を打ち、天ヶ浜に戻ってきたのが今年の春だった。母の喫茶店を手伝いながら今一度、今後の人生設計をじっくり描く、というのはあくまで建前であることは、舞子自身が一番よく知っていた。
彼女にとって、天ヶ浜に帰ってきてからの半年間は、何事もなくただ時間が流れ去った、それだけの日々だった。将来に対する明確なビジョンを持てずに、具体的な行動を起こす力も出ない。様々な決定事項を先送りにするモラトリアムな日々。決して居心地が悪いわけでもないし、食うや食わずの生活を送る者からしたら、良いご身分だと嫌みのひとつも言いたくなるかも知れない。
しかし舞子の心は常に、一生に一度しかない若い時代、今この瞬間を無駄に浪費しているという感覚に追われており、気分が休まる呑気な日々では決してなかった。
そんな、真綿で首を絞められるようなぬるい毎日に突然、張り合いと希望を与えてくれたのがケンとの再会だった。
以来、およそ二週間。彼女の生活は目まぐるしく変化し、ここ最近感じたことのない充実感を味わっていた。その理由は舞子自身にもよく分からなかった。いつまで続くのかも分からないケンのいるこの生活に、一体自分は何を期待しているのだろうか。
それでも舞子は、そんな毎日を楽しんでいた。そしてこの時間を継続させるためには、ケンにあまり立ち入った事情を聞くべきじゃない、そんな風に思い始めてもいた。
舞子自身が、女子高生だったあの頃から大きく変わったのと同様に、いや、多分それより遥かに大きくケンは変わったのだ。舞子は日を追うごとにそんな感覚を強めていた。
無邪気なほど自信にあふれる海兵隊員だった、あの日のケンはもういない。今、わたしの目の前にいるのは、実際に経過した空白の年月以上の日々を心に刻んだ男なのだ。
一見陽気にしていても、今のケンは心のどこかに不安を抱いており、緊張を解いて完全にリラックスすることはないように見えた。そしてケンの心の中には、例えどんなに親しくなっても踏み入ることの許されない領域があるような気がした。だから舞子も、母の悦子も詳しいことは一切聞かなかった。
ケンが仕事を探しに天ヶ浜にやってきたと言ったので、何も尋ねることなく、造船所の仕事を探してきてあげたのだった。
天ヶ浜での生活が、いつかケンの心を氷解させるのではないか。ケンも、そして自分も再びあの頃を取り戻せるのではないか。舞子はそんな希望を密かに抱いていた。
ケンと舞子が「ゲルニカの木」に帰ってくる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
店からは温かみのある明かりが漏れていた。ステンドグラスの窓は輝く絵画のように美しかった。例えちっぽけでも、暗い道を行く人たちを勇気づけるような眩しさだ。
周囲の暗闇から浮かび上がる店を見て、舞子もケンもちょっと幸せな気分になった。こうして帰ってくる場所があるのは素晴らしいことだ。
その日の東京は、朝から小雨のぱらつく陰鬱な天気だった。
沖縄での唐島興行とのミーティングを終えて、必要な情報を手に入れた妹尾は、東京に戻ると早速花山一家の若頭、鳴海に連絡を入れて会う段取りを決めた。
場所はデパートの屋上にある小さな遊園地を指定した。高度経済成長期には全国のあちこちに誕生し、仮設ステージではタレントのイベントやちびっ子相手の着ぐるみショーが催されるほど活況を呈した屋上遊園地。だが、バブル期以降は、ニーズの変化と共にその役割を終えてすっかり減少し、今では珍しい存在となっている。
そんな時代から取り残され寂れてしまった場が、妹尾にとっては都合が良かった。人目を気にせずに仕事の話しができるため、過去にもここの遊園地は何度か使ったことがある。
だが、妹尾がこうした昭和の遺物たる屋上遊園地を好む理由はそれだけでは無かった。少年時代に、大好きだった祖母に連れられてよく遊びに来た思い出があったのだ。
十円玉を三枚入れると動き出す電動の乗り物に跨りながら、大空に浮かぶデパートのアドバルーンを眺めるのが好きだった。当時は何もかもが楽しくて、そんな素晴らしい時にもやがて終わりが訪れるなどとは夢にも思わなかった。妹尾にとって屋上遊園地は、無邪気な少年時代の象徴でもあり、戻らぬ日々への郷愁を掻き立てる特別な場だった。
そんな大切な場で物騒な仕事の話をするというのは、矛盾する行為ではある。だが妹尾は殺しを生業とするようになって以来、故意に過去の思い出を壊すよう心掛けていた。すでに自分の心は死んだのだ。今の自分は別の人間なのだ。そう自分自身に言い聞かせながら、人間的な感情を仕事に持ち込まぬよう気を付けているのだった。
鳴海との約束の時間までには、まだ三十分近くあった。妹尾は二~三十分前には、目的の現場に着くよう心掛けている。
デパートの屋上に通じる階段を上がって扉を開けると、湿った空気特有の匂いが妹尾を包み込んだ。今時、平日の屋上遊園地で、しかも雨天ともなれば客などほとんどいない。ミニチュアサイズのレール上を走る汽車や、ゴンドラが五つだけの小型観覧車が、稼働することなく雨に濡れていた。
傘を差してベンチに腰を下ろした妹尾は、霧雨で煙る町を眺めながら鳴海を待った。
妹尾の人生は、常に自己肯定感と共にあった。
その裏付けとして、妹尾はいかなる時も自分自身を向上させる為の努力を怠らなかった。
子供の頃は外を走り回るのが大好きで、すり傷の絶えない少年だった。
いつもクラスの中心にいるタイプの人気者で、運動神経に恵まれ、小・中学校を通じて陸上競技に打ち込んだ。
持久力は抜群だったが、まだまだ自分より速い奴は大勢いると実感した妹尾は、早々に陸上に見切りをつけた。
進学先に柔道の名門校を選ぶと、中学卒業と同時に実家を出て寮に入り、柔道部に入部した。周りを見れば、中学時代から柔道をやっている連中がゴロゴロいた。体格面でも中肉中背の妹尾は恵まれているわけではなかった。
だが、徹底的に肉体を痛めつけ精神的にも追い込まれ、吐き気を催すのさえざらという、そんな稽古の激しさが妹尾の性には合った。畳に叩きつけられた衝撃で息が詰まり、苦痛に全身を蹂躙されながらも、日々確実に強くなっていく自分を感じられる毎日だった。昨日より今日、今日より明日の自分の方が強い。その実感がますます妹尾を稽古に駆り立て、高校二年時にはチームの副将を任されていた。
周りもその躍進に目を見張ったが、それよりもみんなを驚かせたのは、それだけ部活動に専念する一方で、学業に於いても優秀な成績をキープしている点だった。特に英語では常にクラスのトップレベルにあった。
柔道だけでなく学業でも良い成績を出す文武両道の実践は、妹尾が、自分自身を磨き高めるという人生の指針を、すでに高校生の時点で確立していたことを物語っている。
妹尾の挑戦はますます加速していった。柔道での推薦入学が可能で、柔道部顧問からのお墨付きも貰っていた大学がいくつかあったが、その全てを蹴って七帝柔道を学ぶため名古屋の国立大学に入学したのだ。
柔道家、嘉納治五郎が創始し、スポーツ化の道を進むことでオリンピック競技種目になった講道館の柔道は、世界に多くの競技人口を持つメジャースポーツである。柔道と言えば講道館のそれを指す現在にあって、講道館とは異なる技術体系を有するのが、妹尾が目指した七帝柔道だった。
柔道は立ち技と寝技を同等に習得して初めて完成されるものとする。
そんな理念を持つ七帝柔道の源流は、寝技に特化し、スポーツライクな優勢勝ちの存在しない高専柔道にある。その技術はロシアに渡ってサンボとなり、ブラジルに渡ってブラジリアン柔術が生まれたとも言われている。高専柔道は現在では七帝柔道として東大、京大を始めとする旧帝国大学に伝承されている。
高校最終学年の段階で、妹尾の心はすでにそんな七帝柔道へと向かっていた。顧問にも柔道部員の仲間たちにも内緒だったが、自分の強さを立証するためには七帝柔道しかないと考えていた。
大学へ入学すると同時に、妹尾は柔道部の門を叩いた。伝説の寝技師を数多く輩出する名門には全国から強さを求道する若者が集まっていた。新入生とは言え腕に覚えのある猛者ばかりである。
そんな中の一人に鳴海もいた。後に指定暴力団の下部組織、花山一家の若頭となる鳴海と妹尾との出会いである。
鳴海は、スポーツエリートとしての道を歩んできた妹尾とは対照的に、大学入学まで柔道経験は、体育の授業で週に一回やる以外になかった。学業が優秀でなければ国立大学に入学できるはずもないことを考えれば、鳴海も頭が良く成績優秀だったのだろうが、基本的にはスポーツや勉学に励むタイプではない。とにかく有り余るエネルギーをぶつける何かを欲して柔道部を選んだのだ。
歩んできた道は対照的な二人だったが、何かと気が合い、部活以外でも一緒に行動することがあった。時に酒を酌み交わし、将来の夢を語りあったりもする仲になっていった。
そんな二人の関係に大きな転機が訪れたのは大学二年の夏だった。それは柔道部の合宿中に起こった。
妹尾と鳴海は乱取り稽古で手合わせをした。互いが密かにライバル心を燃やす二人は全力でぶつかり合った。寝技に引き込んだ妹尾とそれを返そうとする鳴海。一連の動きの中で、妹尾が足緘(あしがらみ)の態勢に入った。
柔道では肘以外の関節技は禁じられており、それは七帝柔道も同じである。であるにも関わらず、妹尾は鳴海の膝を捻り上げてしまった。もちろん故意ではなかったが、真剣に稽古に取り組むがゆえに、つい歯止めが利かなくなってしまった。
鳴海の膝関節が破壊された瞬間に、妹尾の体に伝わったその感触は生涯忘れられないものとなった。それと同時に、ほとんど声にならない悲鳴が鳴海の喉から絞り出された。
一瞬にして我に返り慌てて技を解いた妹尾だが、すでに取り返しのつかない事故が起きてしまったことは誰の目にも明らかだった。
稽古を止めて二人の周りに殺到する柔道部員たち。状況を茫然と眺めることしかできない妹尾は、背骨が氷の柱にでもなったかのような感触にぞっと鳥肌を立てていた。その耳には、大声で救急車を呼ぶよう指示を出す主将の声さえも届いていなかった。
後日、妹尾は入院中の鳴海を見舞った。右足をギプスで固定されてベッドに横たわる鳴海をまともに見ることができなかった。この若者の前途に広がっていた無限の可能性を、一瞬で破壊してしまったのだ。そう思うとかける言葉もなかった。
鳴海が妹尾を責めることは決してなかった。だが、諦めの境地から発せられる鳴海の「この先一生、松葉杖の世話になるかもしれない」「もう二度と走ることはできない」といった言葉の一つ一つが、妹尾には心臓に突き刺さる剣のように感じられた。
妹尾は病室を出る時に、手伝えることがあったら何でもいってくれと言った。
「おう、貸しにしとくよ」
笑いながら答える鳴海だったが、その目からは絶望が伺えた。
退院と同時に鳴海は大学を辞めた。妹尾には一言も告げずに姿を消したのだった。
後を追うように妹尾も退学した。あの事故以来、罪悪感に苛まれ柔道の稽古に以前ほど身が入らなくなってしまったのは事実だった。だが妹尾の退学理由はそれだけではなかった。常に苦境に立ち向かい、それを克服することを喜びとする気性を備えた妹尾が、鳴海との件でいつまでもくすぶっているはずもなかった。
鳴海が助けを必要とする時はいつでも駆け付けよう。そして鳴海の期待に応えられるよう、いつかその日が来るまで自分自身をさらに磨き続けよう。まだまだ俺は弱過ぎる。大学でぬるま湯に浸かってる時間はない。
妹尾は大学を退学すると直ぐに自衛隊に入隊した。目指すは精強でその名を馳せる習志野駐屯地の第1空挺団である。
屋上遊園地のベンチで、物思いに耽る妹尾がふと視線を扉に向けると、鳴海がゆっくり歩いて来る姿が目に入った。右足を軽く引きずるように、びっこを引きながら歩く鳴海が傘を差してないのを見て、雨が上がっているのを知った。
妹尾は傘を畳みながら、鳴海に気付いた印に軽く頷いてみせた。たっぷり時間をかけて妹尾の座るベンチまでやって来ると、鳴海は挨拶もなしに笑いながら言った。
「沖縄旅行は楽しんだか?」
「ってことは、やっぱりお前さんが俺を?」
「ああ、俺が沖縄の方に紹介しといた。妹尾っていう凄腕がいるから使ったらって」
妹尾が前回、花山一家から仕事の依頼を受けたのは二年も前だから、鳴海とはそれ以来の再会となる。だが二人の間に、時間が作る距離感はほとんどなかった。軽口のような挨拶も毎度のことである。
さしたる無駄話もせずに早速本題に入るのも、仕事上のパートナーとしての二人の変わらない流儀だった。今回の標的となる、元海兵隊員で一時、唐島興行の用心棒をしていたアメリカ人ケン・オルブライトが、花山一家の縄張りで実際何をして、その後どうなったのかを詳しく聞いた。
それは一週間程前の夜の出来事だった。
一週間程前の夜―
それは唐島興行のヘロインを持ち逃げしたケン・オルブライトが、東京に来て五日目の夜だった。
上京初日はそれらしい場所、数か所に目星を付けるだけで終わった。「それらしい場所」と言うのは、つまり手元のヘロインを現金で買ってくれる相手のいそうな場所のことである。
まとまった額の現金が欲しかったケンにとって、数ミリグラム単位で買う一般人は取引相手にはならなかった。五百グラム分のヘロインを一発で買い取ってくれそうな相手となればそれはもう、そうした違法なブツの売買を生業とする反社会的組織、暴力団=ヤクザしかなかった。
ヤクザと接触できそうな場所はないか?
唐島興行にいた、わずか一ヵ月にも満たない期間で身につけた直感を頼りに、ケンは可能性のありそうなクラブやバーに目星をつけて回った。
二日目と三日目には、実際に客としてそうした店を訪れてみた。ドラッグを欲しがっている客の振りをしたケンは、それとなく店の女の子やバーテンなどに声をかけ、手応えを確かめる。上手くいけば売人との接触に成功するだろう。そこで初めて、実は買いたいのではなく手元のヘロインを売りたいのだ、と売人相手に交渉する算段だ。
だが訪ねて回った四軒は全て外れだった。その内の一軒ではマスターから、警察を呼ばれる前に即刻出て行けと怒鳴られて、外に放り出される始末だった。
そして四日目の晩。五軒目のクラブ「MIYABI 雅」のドアをくぐる頃には、ケンは自分がしでかした事の危険性と、何の当てもなく店を訪ねて回る行動のバカバカしさに、早くもヘロインを売りさばくのを諦めかけていた。
だからといって今さら唐島興行に戻れるわけもない。半ば途方に暮れながら入った「MIYABI 雅」の店内は、これまでのどの店とも比較にならないほど高級な造りで、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
やはり外れか。しかも大ハズレだ。こんな立派な佇まいの店でドラッグの売買などあり得ない。だが、せっかく来て一杯三千円もするウィスキーの水割りを注文したのだ。確かめずに帰るわけにも行かない。
隣に座って、ケンの日本語をしきりに褒める美人ホステスと、しばらく他愛もない会話を交わしながら、話を切り出すタイミングを窺った。
ホステスが、もう一杯注文して良いかしらと言った時、ケンは返事のついでに、どこかでドラッグは手に入らないかと、酔っぱらった振りをしながら聞いた。
ホステスはケンの目を見て、少し間を置いてから静かな声で言った。
「ありますよ」
「ホント?」
まさかの答えに、思わず大きな声を出すケンに、しーっと口に人差し指を当てるホステスは、決して冗談を言っているようには見えなかった。こんな高級クラブに出入りする連中に限って堕落しているというわけか。
ケンは早速ホステスに取り次いでくれるようお願いした。明日の夜、十一時過ぎにもう一度「MIYABI 雅」に来るように言われた。
花山一家が経営する高級クラブ「MIYABI 雅」。表向きはクラブを装っているが、その裏では違法薬物の取引場として莫大な現金が動いていた。
基本的に紹介制で、素性のはっきりした信頼できる人間としか取引は行われない。こうした闇商売を安全に長く続けるためにも守秘義務は徹底されており、会社の社長や医者、政財界人に大使館勤めの外国人まで顧客は多岐に渡る。
そうした高い社会的地位にある人物同士のネットワークが、ドラッグ目当ての顧客を鼠算式に増やし、今や花山一家の重要な資金源となっていた。
一方で、不必要に警察の注意を引かないための措置として、敢えて会員制クラブとはせず、そのため高級クラブで美女との会話とアルコールを楽しみたいだけの通りすがりの客が来店することも多かった。
「MIYABI 雅」のマネージャーから連絡を受け取った花山一家の新井は、普段だったら相棒の堀田と二人で店に赴き、その奥にある隠し部屋で顧客を待つだけだった。だが今回はどうも様子が違った。一見さんにも関わらずヤクを希望してきたと言う。
判断しかねた新井は若頭の鳴海に相談した。よもや外国人の囮捜査官ということもあるまい。鳴海は、いつも通りの対応で迎えろ、但し絶対に油断するなと、新井と堀田の二人に念を押した。
その夜、マネージャーに案内されて先に隠し部屋で待っていたケン・オルブライトの発した言葉に、新井と堀田は驚き、言葉を失った。こうした取引を数多くこなしてきた二人だが、こんな申し出は初めてだった。
「実は、買って欲しいです。ヘロイン」
二人は思わず顔を見合わせた。
「と、言うと・・・どういうこと?」
新井が聞いた。
「ここにヘロインある。五百グラム。いくらで買ってくれますかぁ?」
英語訛りのある日本語。おおよそ緊張感のないその響きとはかけ離れた内容に、二人は何と答えていいか分からず固まった。
そんな二人をしり目に、目の前に座る外国人は傍らに置かれたバッグのジッパーを開けて中を見せた。そこにはビニール袋に密封されたヘロインの包みが入っていた。
取り敢えず鳴海のアニキに相談しよう。そう決めた新井は、隠し部屋に設置されている盗聴防止機能を施された電話に手を伸ばした。