悦子は取り留めなく、思いを巡らした。
あの子に負けないよう、私も今年は何か新しいことを始めよう。
実は今、密かに太極拳に興味を持っている。自分がステンドグラス教室を主催するカルチャースクールには太極拳のクラスがあって、一度、こっそり外から覗いたことがあった。気持ち良さそうにゆったりと体を動かす年配の男女が何だか羨ましかった。世の中の動きからは完全に隔絶して、まるで自分の身体の中に世界を、宇宙を抱いているようなのだ。
五十を過ぎて、これまでスポーツの経験もろくにないけれど、それでも今から始めたらあの教室では一番の若手だ。何かを学ぶということは楽しい。自分にとって未知の世界ならなおさらだ。
舞子を送り出した時の寂しさもすっかり忘れて、悦子は早くもワクワクしていた。
そんなことを考えていると、店のドアが開いた。
贅沢なひと時もここまでか。
「いらっしゃいませ」
振り向くと、客ではなく郵便の配達だった。
「こんにちは。こちら、ドイツからエアメールです」
配達員は、少し厚みのあるクラフト封筒を差し出した。
「ドイツ?珍しい・・・はい、ご苦労さまぁ」
ドイツからエアメールなんて、一体どういうことかしら。
受け取った封筒の宛名には悦子と舞子、二人の名がブロック体の几帳面なアルファベットで書かれていた。差出人を確認するとSena Turturroとなっていた。
「セナ・・・誰?」
差出地はドイツのボン。
悦子は封筒を開けた。中から出てきたのは十数枚の写真だった。
そこには、奉納祭の夜の舞子が写っていた。天懇献呈の儀で十二遣徒を演じる真剣な表情の舞子。その美しさは、母である悦子さえ見惚れるほどだった。かがり火に照らされた舞子の目が潤んでいる写真もあった。一方、ケンと二人で並ぶ写真の舞子は、悦子も見たことのないような屈託のない笑顔をしていた。きっと二人とも撮られていることを知らないのだろう。なんて素敵な表情だろう。
写真の何枚かは、悦子を写したものだった。
「えぇ?やだ、ちょっとぉ・・・いつの間に?」
とは言え、上手に撮られたそれらの写真を見て悪い気はしなかった。
殺人容疑ってホント?やっぱりプロのカメラマンなんじゃない。
その時、今日最初の客が入ってきて、開いたドアから風が吹き込んだ。一足早く春の訪れを感じさせるその風は、確かに希望の匂いがした。
(完)
あの子に負けないよう、私も今年は何か新しいことを始めよう。
実は今、密かに太極拳に興味を持っている。自分がステンドグラス教室を主催するカルチャースクールには太極拳のクラスがあって、一度、こっそり外から覗いたことがあった。気持ち良さそうにゆったりと体を動かす年配の男女が何だか羨ましかった。世の中の動きからは完全に隔絶して、まるで自分の身体の中に世界を、宇宙を抱いているようなのだ。
五十を過ぎて、これまでスポーツの経験もろくにないけれど、それでも今から始めたらあの教室では一番の若手だ。何かを学ぶということは楽しい。自分にとって未知の世界ならなおさらだ。
舞子を送り出した時の寂しさもすっかり忘れて、悦子は早くもワクワクしていた。
そんなことを考えていると、店のドアが開いた。
贅沢なひと時もここまでか。
「いらっしゃいませ」
振り向くと、客ではなく郵便の配達だった。
「こんにちは。こちら、ドイツからエアメールです」
配達員は、少し厚みのあるクラフト封筒を差し出した。
「ドイツ?珍しい・・・はい、ご苦労さまぁ」
ドイツからエアメールなんて、一体どういうことかしら。
受け取った封筒の宛名には悦子と舞子、二人の名がブロック体の几帳面なアルファベットで書かれていた。差出人を確認するとSena Turturroとなっていた。
「セナ・・・誰?」
差出地はドイツのボン。
悦子は封筒を開けた。中から出てきたのは十数枚の写真だった。
そこには、奉納祭の夜の舞子が写っていた。天懇献呈の儀で十二遣徒を演じる真剣な表情の舞子。その美しさは、母である悦子さえ見惚れるほどだった。かがり火に照らされた舞子の目が潤んでいる写真もあった。一方、ケンと二人で並ぶ写真の舞子は、悦子も見たことのないような屈託のない笑顔をしていた。きっと二人とも撮られていることを知らないのだろう。なんて素敵な表情だろう。
写真の何枚かは、悦子を写したものだった。
「えぇ?やだ、ちょっとぉ・・・いつの間に?」
とは言え、上手に撮られたそれらの写真を見て悪い気はしなかった。
殺人容疑ってホント?やっぱりプロのカメラマンなんじゃない。
その時、今日最初の客が入ってきて、開いたドアから風が吹き込んだ。一足早く春の訪れを感じさせるその風は、確かに希望の匂いがした。
(完)