自分の両手から生み落とされたわが子のためにも、いつかスペインに『ゲルニカ』を観に行きたいという漠然とした願望が舞子にはあった。その時、『希望のゲルニカ』は初めて本物になる。若さゆえの潔癖さからくる精神論かもしれないが、舞子にはとても大切なことだった。そしてこれを実現させるタイミングは、きっと新たなスタートを切ろうとする直前の今しかないのだ。
舞子はベッドから飛び起きると、階下に駆け下りて行った。
「かあさーん、相談があるんだけど」
「何よ」
「お金貸してくれる?必ず働いて返すから」
「いくら」
使用目的も聞かずに、いくら必要なのかを問う母に舞子は感謝した
「えーっと、スペイン旅行っていくらあれば足りるのかな」
舞子は、ことみからの電話の内容と、その前に『ゲルニカ』を観にスペインに行きたい旨を母に話した。自分の熱意が的確に母に伝わるように、舞子は意識してゆっくりと話したが、それでもついつい早口になってしまった。

それから数日。パスポート申請から取得までの一週間を、舞子は人生初の海外旅行の準備に奔走した。
新たな目的を獲得した娘の姿が、悦子は嬉しくて仕方なかった。
今から三十年も前に観た『ゲルニカ』は、私のその後の人生を大きく変えた。それを今度は、ちょうどあの時の私と同じ年頃になった娘が観る。
この事実を噛みしめながら、悦子は感慨にふけった。
今回のスペイン旅行は、きっとあの子の人生の大きな節目となるだろう。
大学時代の友人に誘われたという仕事も、きっと上手くいくだろう。
もし万一、辛くなった時は、いつでも投げ出して帰ってらっしゃい。
母はいつでも『ゲルニカの木』であなたを待っているから。
そして、力いっぱい抱きしめてあげるから。

オーク製のテーブルが見事なカウンター席にお客のように腰を下ろして、悦子は自分で淹れたコーヒー、去年の秋ころから試行錯誤を重ねて、最近ようやく完成した三種類目のブレンド「潮 USHIO」を楽しんだ。
風味を最大限に楽しむために、わざと音を立ててすする様に口に含むと、舌の上で転がしてみた。
「おいしい」
悦子の口から、思わず満足のつぶやきが漏れる。
香りと味が一か所に留まることなく変わり続けるコーヒー「潮 USHIO」は、その完成に他のブレンドよりも手間と時間がかかった。でも、ついにたどり着いたこの玉虫色の風味の前には、その甲斐もあったというものだ。
なにか、目に見えない大きな力によって人生が動き始める。そんな予感のする今の気分には、月や太陽の引力で、自分の意志とは無関係に変化し続ける潮の満ち引きをイメージしたこの新作のブレンドコーヒーはぴったりだ。
舞子は、七泊八日のスペイン一人旅に旅立っていった。
電車の扉が閉まる瞬間、ほんの一週間なのに、娘が遠くに行ってしまう寂しさを感じて泣けてきた。ホームに立ち尽くす自分に手を振る舞子は、どこか逞しく見えた。
もう一口、含んだコーヒーを転がして中から広がる風味の変化を楽しみながら、悦子は店の壁に目をやった。
『希望のゲルニカ』の反対側の壁には、舞子が作ったステンドグラスの狼の作品が掲げられている。
『まぼろしの狼』
作品の下のプレートにはそうあった。とても半月ほどで仕上げたとは思えない。わが子ながら本当に大したものだわ。
舞子が再び東京で暮らすようになったら、ここの営業形態はどうしよう。アルコールの提供は止めて、また昔みたいに夕方でお終いにしようかしら。でも、近所の呑んべぇ連中が許してくれないかな。