桜の季節はまだまだ先の三月上旬。その日の天ヶ浜は、ぽかぽかと心地よい天候に恵まれ、一足早く春の訪れを感じさせた。北の地に住む者にとって、長い冬も終わりが近いことを告げるこうした日は心が弾むものだ。

客のいない「ゲルニカの木」のカウンターで、井口悦子は静かなひと時を楽しんでいた。自分のために豆を挽き、丁寧に淹れたコーヒーの香りが、そんな時間を一ランク贅沢なものにしていた。
先程、舞子を天ヶ浜の駅まで見送りに行って、帰ってきたばかりだった。悦子はここ数日のドタバタからようやく解放されてほっとしていた。
こんなことを言ったら叱られるかもしれない。でも、今日はお客さんには来てほしくない。ゆっくりと寛いでのんびりしていたい。
どうか、このままご来店がありませんように。
心の中で、そんな風に呟いてみた。
慌ただしい数日間の始まりは、舞子への一本の電話だった。

数日前の夜。
「舞子ぉ、電話よぉ」
「え、わたし?」
天ヶ浜に帰ってきて一年近く、舞子宛に電話がかかってくることなど一度もなかった。
一体誰よ。
ちょっと警戒しながら、舞子は受話器を取った。
「もしもし?」
「姫、調子は?」
「・・・ことみ?」
電話の主は、舞子の大学時代の友人、田島ことみだった。
「久しぶり!元気してる?」
「うん・・・まぁね」
「なんだなんだ、しょぼくれてるなぁ、舞子」
「そうでもないけど・・・一体どうしたの?いきなり電話で驚いちゃった」
久々に聞く田島ことみの声に舞子はワクワクしたが、一方であまりに元気ではつらつとした親友の存在は、ちょっと今の舞子には疲れるものがあった。
「実はね、あたし会社辞めたんだ」
「え?あの舞台照明の会社?」
「そ。でね、今度、自分で会社はじめるの」
「へぇ・・・すごいね。さすがことみだね」
そう言いながら、親友が自分を置いてどんどん先に行ってしまう寂しさをぐっと噛みしめた。
「何の会社はじめるの?」
「空間デザイン。デパートのさ、ショーウィンドウのディスプレイとかデザインしたり」
「そっか、いいね。ことみ、社長なんだね。稼いだらなんか奢ってよね」
卑屈にならないように、親友の新たなる門出を心から祝ってあげたいと思いながらも、今の舞子にはそれは無理そうだった。
「社長っていうか、まぁ前の会社のデザイン室の先輩と一緒に始めるんだけどね・・・でさ、舞子にも手伝って欲しいの」
「え?」
突然のオファーに、舞子は興奮で胸が高鳴るのが分かったが、勘違いで落胆しないように先走りそうな自分を何とか抑えた。
「それって、どういうこと?」
「だからさ、あたしと先輩で始めるデザイン会社で、あんたにも働いて欲しいってプロポーズしてるの」
「ほんとに?」
「ほんとよ」