「ただいまぁ」
「はい、お帰り」
悦子はカウンターで客の相手をしていたが、ちらと視線を向けると、舞子が一人で帰ってきたことに気づいて驚きの表情を浮かべた。
「あら、ケンさんは?」
もしかするとケンは一人で先に帰っているのかも知れない。そんな一縷の望みはこれで絶たれた。
「うん・・・」
口ごもる舞子の様子を察した悦子は、優しい表情で軽く頷くとそれ以上は何も言わなかった。すぐに客に向き直って、中断された話の続きを始めていた。
舞子は三階に上がると、ケンが寝泊まりしていた部屋の引き戸を開けた。当然のように部屋はもぬけの殻だった。布団はきれいに畳まれており、ケンの私物はどこにも無かった。いや、よく見まわすと机の上にベースボールキャップが置いてあった。きっと忘れていったのだろう。
造船所から自宅までの道中、そして今この瞬間も舞子の頭の中は、ケンのことでいっぱいだった。
それは、なぜケンが突然いなくなったのかという疑問や、いきなり突き付けられた別れに対する困惑ではなく、ケンのいた一ヵ月にも満たない日々のことだった。
そこには確かに希望があった。ここから抜け出したい、でも一歩踏み出す勇気がない。そんな舞子に手を差し伸べ、どこかへ連れ出してくれるような存在だと、ケンのことを自分の都合のいいように考えていたのかも知れない。
あるいは、どこか陰のある、入り込めない壁を感じさせる今のケンを、かつての希望に満ちたケンに戻してあげたい。わたしならきっとその手助けができる。そんな自惚れだったのかも知れない。
それとも、単純に彼に恋愛感情を抱いていたのかも・・・。
いずれにしても、その全てが、今となっては手の届かないところに行ってしまった。舞子の生活から消えてしまった。
舞子はニット帽を脱いで、かわりにケンのキャップを被ってみた。だがそんなことをしてみても、ぽっかりと胸に開いた空洞は埋まるはずもなかった。
舞子は工房に下りていった。
電気をつけると、いつもと変わらない見慣れた風景が、何事もなかったかのように目の前に広がる。室内は物音ひとつせず、冷え切った空気が舞子の喪失感を一層強いものにした。自分の力ではどうしてみようもない現実を前に、胸の底から叫び出したかった。
中央には、イーゼルにしっかりと固定されてシーツに覆われたステンドグラスが佇んでいる。舞子は乱暴にシーツをめくった。そこには凛とした表情で舞子を見据える青い目の狼がいた。
堂々たる雄姿を誇りながら、でもどこか寂しげに見える狼。
その姿を見てくれて、そしてきっと感嘆の声を上げてくれるはずだった主を失ったガラスの狼のことを思うと、舞子は切なくて、可哀想で仕方なかった。舞子の手から生まれた作品ではあるけれど、すでにその手を離れて一個の確固たる生命感を宿しているように感じられたから。
「ごめん」
震えるようにそっと呟くと、自然と涙が溢れ出してきた。