ステンドグラスの狼

そんな、当時の悦子の気分とマッチしたのが映画『ロング・グッドバイ』の音楽だった。当時は毎日のように聴いていた気がする。やがて舞子が小学校に上がり子育てがひと段落すると、悦子は本格的にステンドグラス制作を再開した。その頃にはこのレコードを聴くこともほとんどなくなっていた。
今日はうっかりするとかなり苦みの強い豆に仕上がりそうだ。「木霊 KODAMA」「雫 SHIZUKU」に続く新作ブレンドを、そんな単純な味にするつもりはないのだけれど。
過去を反芻しながらそんなことを思っていた悦子は、ここ二、三日、なんとなく離別の兆しを感じていた。それは、ほとんど自分でも気づかないほど微かなもので、何との別れなのか、どんな別れなのかもむろん分からない。それでも、心の内に生まれたそんな予感が、悦子にこのレコードを選ばせたのかもしれない。
悦子を現実に引き戻したのは、入り口のドアを叩く音だった。
うちが土日休みということを知らないお客さんなんていたかしら。いぶかしみながらドアを開けると、妹尾が傘をさして立っていた。手には釣竿を持っている。
「妹尾さん・・・」
「おはようございます。お休みのところ、朝早くからすみません。ケンさんを迎えに来ました」
「迎えって・・・」
「釣りですよ。一昨日の夜、約束した」
「え?この雨の中、行くんですか?」
「もちろんですよ」
「てっきり中止だと思ってましたから、ケンさんもそのつもりで・・・出かける準備してないですよ」
「あらら、そうですか・・・お邪魔でなければ、中で待たせて頂いていいですかね」
「え、ああ、良いですけども・・・ちょっと待ってくださいね」
強引な妹尾に戸惑いながら、悦子は奥のドアを開けると「舞子ぉ~」と二階に向かって声をかけた。
ややあって、階段を下りてくる足音が聞えた。
「何ぃ?」
「ちょっとケンさんに伝えてくれる?妹尾さんが迎えに来てるって」
「えぇ?この天気で釣りやるの?」
「舞子ちゃん、ごめんね。いや、ほら。釣り具も買っちゃったから、やらないわけにもいかないかなって」
「あ、妹尾さん。お早うございます」
店に出てきた舞子は、ぺこりと頭を下げた。
「今朝、起きたらこの雨だったから、ケンさんとも、釣りダメになっちゃったねって話してたんですけど」
やり取りを聞きつけて、ケンも店に下りてきた。
「妹尾さん、今日は釣りやるホント?」
「ケンさん、お早う。もちろんだよ。ちゃんと釣り具も用意してきたよ」
「OK。ではね、準備するね、待っててもらえますね」
ケンは出かける支度をするために上に戻っていった。
「じゃぁ、ほら舞子。作ったサンドイッチ、ケンさんに持たせて」
「はーい。良かったよ、食べちゃう前で」
そう言いながら舞子も戻っていった。
店内は再び悦子と妹尾だけになった。
「妹尾さん、コーヒーでも淹れましょうか?」
「あ、ぜひ頂きます。すみませんね、お忙しいところ」
「いえいえ。まだ作業前でしたから大丈夫。『木霊 KODAMA』で良いかしら」
そう言って、悦子は豆を挽き出した。
二人の間にしばらく沈黙が続いた。
豆を挽く音と外の雨音、そしてレコードの音だけが聞えていた。
「いい音楽ですね」
「え?」
「今、かかってるレコードです」
「ああ、これね。若い頃に観た映画の音楽なんです」
「へぇ、恋愛映画か何かで?」
「いいえ。ほとんど覚えてないんですけど・・・ハードボイルドっぽい映画だったかな、確か」
「ハードボイルド・・・お好きなんですか?そういうの」
「特にそういう訳じゃなくて。当時はたくさん映画を観に行ってたから。現実逃避したいだけで、内容なんて正直、何だってよかったの」
豆を挽き終えた悦子は、レコードジャケットを妹尾にみせた。
「この映画です」
「ロング・グッドバイ」
妹尾が声に出してタイトルを読み上げた。
「長い別れ・・・そんな内容だったのかしらね、やっぱり覚えてないわ」
悦子は苦笑いした。
長い別れ・・・か。
妹尾は考えた。ケン・オルブライトとの永遠の別れを数時間後に控えた今日という日を彩るには、あまりにもピッタリの題名ではないか。
昨夜ホテルで、最終確認ともいえる入念な殺しのシミュレーションを終えて以降、妹尾の精神状態はプロの掃除屋に相応しい状態にあった。ターゲットに接近し過ぎることの不安は杞憂に終わった。一切の後ろめたさもなく、自分はケン・オルブライトを始末できる。井口母娘もケンも知ったことではない。それが本来の妹尾だった。
悦子がペーパードリップでコーヒーを淹れ始めた。その所作はいつ見ても惚れ惚れするほど美しい。
「せっかくの祭りなのに、あいにくの天気ですね。中止になったりしないんですかね」
「ええ、明日の花火大会は分からないけど、奉納祭が雨で中止ってことはないと思いますよ。屋台の数が少なかったりはするでしょうけどね」
「そうですか」
「お祭は明日が本番ですから、今日のうちに上がってくれるといいんですけどね、雨。じゃないと妹尾さんだって写真撮るのに困るでしょ?」
「はい。今日はともかく明日は晴れてもらわないとね。編集長に怒られちゃいますよ、何しに天ヶ浜まで行ってきたんだって。ところで例の儀式ですが・・・」
「献呈の儀?」
「それです。楽しみでしょう?舞子さんの晴れ姿」
「ええ、それはもう」
嬉しそうに微笑みながら、悦子は小声でつけ加えた。
「見に行くの、あの子には内緒なんですけどね」

身支度を整えてキャプを被ったケンと舞子が下りてきた。
「お待たせ~。妹尾さん、ケンさんにバスタオル二枚持たせてあるから使ってね。あと、サンドイッチはお昼に食べて下さいね」
「お、そいつは嬉しいね。ありがとう」
「舞子が作ったんですよ、それ」
付け加えるように悦子が言った。
「おぉ、それはますます嬉しいな。舞子ちゃん、ごちそうさまね。ありがたく頂きます」
「そんな、サンドイッチ程度で褒められちゃ、逆に何だか悲しいわ。わたし、こう見えて結構色々作れるんですよ」
「そう、舞は料理上手いね。ハンバーグおいしいかったね」
ケンにそう言われて、照れ臭そうにしている舞子のはにかんだ表情は随分と幼く、まるで少女のように見えた。
そんな二人と、それを見守る悦子を見ながら妹尾は思った。ケンには、せめて恋人の手作りサンドイッチを食べさせてあげよう。その位の慈悲は持ち合わせている。井口母娘に別れを告げることもなく、あの世に行ってもらうのはそれからでも遅くないだろう。
「さぁ、ケンさんも妹尾さんも。コーヒー淹れたからゆっくり飲んで。気を付けて行ってらっしゃい」
「釣った魚、わたしが気合入れて神様に献上するからね!」
雨は海面を打ち、波が沖に向かって「くの字」形に伸びる防波堤にぶつかっては白く砕けた。のんびり釣りなどできる状態ではなかった。
幸い風はなく、寒くないのが救いだった。むしろ、雲が昨日の暖気を閉じ込めているため、この時期にしては珍しく蒸し暑く感じるほどだった。
こんな状況の中、傘を差しながら防波堤の突端に向かって歩く妹尾とケン。
その姿は、傍目にはきっと奇異に映っただろうが、海岸に人の姿はなく、海上に船もない。異様な二人組を気にする者は誰もいなかった。
9ミリ弾の発射音は確実に波の音にかき消されるはずだ。
悪天候の中を釣りに出かけた二人が戻らなければ、やがて警察による捜索が始まるだろう。
そして、遅からずケンの遺体が発見されるだろう。
それでも、ケンは防波堤から転落して溺れ死に、死体が上がらず行方不明の妹尾も海に沈んでいる。
誰もがそんな風に考えるに違いない・・・しばらくは。
妹尾にとっては望み得る最高の状況だ。

妹尾の後について歩きながら、ケンは不思議で仕方なかった。
こんな雨にもかかわらず、妹尾はなぜ釣りにこだわるのか。
一昨日の飲みの席では、天ヶ浜の伝説に惹かれて、自分もちょっと釣りを楽しみにしていたのは確かだ。
しかし、悪天候に見舞われるとは予想外だった。
今となっては、わざわざ雨に打たれながら釣りなどやりたくない。
とは言え、釣り具まで用意されては仕方ない。
小一時間も釣り糸を垂れて、それで釣果がなければ切り上げよう。
妹尾だってきっと諦めるに違いない。

二人は、防波堤がくの字に折れたさらに先の突端までやってきた。
「さて、ケンさん、この辺で始めようか」
ビニールシートを敷いて荷物を置くと、すぐさま釣りの準備に取り掛かった。
妹尾が仕掛けを作っている間は、ケンが傘を差し、次はお互いの役割が入れ替わる。そんな風にやってみたが、いかんせん二人とも釣りは素人のため、仕掛けを準備するだけでも大いに手こずった。
妹尾が今朝、天ヶ浜の釣具店から調達した生餌のゴカイは新鮮で活きがよく、濡れた手で釣り針に刺すのは一苦労だった。そして、この雨では傘など差してもたいして役に立たないことも早々に理解した。
雨に濡れながら、二人がどうにか海面に釣り糸を垂れるまでに二十分が過ぎた。
ケンは比較的波の穏やかな防波堤の右側に、陸地の方を向くかたちで腰を下ろした。意味をなさない傘を使うのはとっくに諦めていた。ベースボールキャップは雨水を含んで早くも重たくなり始めていた。
「ケンさんがそっち側なら、自分はこっちで釣ってみるか」
妹尾は沖を向くかたちでケンの反対側に腰を下ろした。打ち寄せる波がもろに防波堤にぶち当たる側である。そんな場所で釣りなどあり得なかったが、妹尾があえてこちらに陣取ったのは、ケンに背を向ける形で腰を下ろしたかったからだ。これなら気づかれることなくケンの背後に立てる。
傘を差しながら、荒波に向かって釣り竿を握る妹尾。その背中に向かってケンが「幸運を」と声を掛けた。

無言のまま十分以上が過ぎていった。
防波堤を激しく叩く波音と傘を打つ雨音。それに混じって、岸辺の方から微かに太鼓の音が聞こえる。こんな天候だが祭りは無事に始まったらしい。
ケンを背後から襲うタイミングを慎重にうかがう妹尾の中で、シャツの下に隠したP7M8が徐々に存在感を増していった。
その時、ケンがおもむろに立ち上がる気配がした。
妹尾が振り返ると、ケンは脱いだばかりのびしょ濡れのシャツを雑巾のように絞っていた。雨に打たれる上半身は、元兵士らしく無駄な肉が一切ない。まるで野生の動物を思わせる佇まいだった。
「これで今日のシャワー、必要なしね」
ケンの言葉に、妹尾は軽く笑いながら頷いてみせた。
ケンの左腕に彫られたドクロと短剣のタトゥーが目に留まった。海兵隊時代の名残に違いない。妹尾は、あえて英語でケンに話しかけてみた。
「そのタトゥーは?」
いきなり妹尾の口から出た英語は、ワンフレーズとはいえ流暢だった。発音は日本語訛りだが、それでもケンを驚かせるには十分だった。
絞ったシャツを再び着こみながら、ケンも不自由な日本語をやめて英語で返した。
「英語しゃべれるなんて知らなかったよ」
「こう見えて、実はフランス語だって少しいけるんだ」
にこにこしながら妹尾は続けた。
「そのタトゥーは軍隊で?」
なぜ、そんなことを聞いてみたくなったのかは、妹尾自身分らなかった。これから殺そうとする人間のことを詳しく知ったところで良いことなど何もない。それでもなぜか今、ケン・オルブライトにターゲット以上の興味を持ち始めている自分がいる。
「そうなんだ。言ってなかったと思うけど、俺は昔、海兵隊にいてね。その時のチームのタトゥーさ。沖縄にもしばらく駐留してたから、そのおかげで日本語もちょっとだけね」
そう言いながら、ケンはタオルで濡れた顔をごしごし拭いた。
「ほぉ。ケンさん海兵隊にいたのか。で、今はなぜ天ヶ浜に?」
舞子が、除隊の理由はちょっと聞けない雰囲気とか言ってたな。
そう思い返しながらケンの方に向き直った妹尾は、しっかりとあぐらで座りなおしてから改めて尋ねた。
「差支えなければ聞いていいかな、海兵隊を辞めた理由」
顔を拭く手を止めたケンは、タオルに埋めていた顔をゆっくり上げると、しばらく無言で妹尾の顔を見据えた。
ケンの表情から、その考えを推し量ることは難しかった。険しい表情で妹尾を睨み返しているようにも思えるが、単に雨に濡れてそう見えるだけかもしれない。
やがてケンは、肩をすくめてみせると、何も言わずに釣れる見込みもない釣りを再開した。
釣り竿を握ったまま無言で佇むケンの背中を見ながら、妹尾はしばらく待ってみた。
・・・話す気はなしか。では、この辺で終わりにしよう。
妹尾は、傘を差したまま、空いた右手を懐にそっと差し入れると、拳銃のグリップを握り込んで安全装置を解除した。
P7M8をシャツの下から取り出し、銃口をケンの後頭部に向ける。
妹尾がみせた一連の動きは一切の無駄がなく、動作の気配さえ感じさせないほど滑らかだった。
微動だにしない銃口からケンまでの距離は1メートル強。
左後方の死角ギリギリの位置から狙うは左耳の付け根。
弾丸の入射角およそ四十度はこの条件ではベスト。
しくじることは先ずない。
トリガーにかけた妹尾の人差し指に力が入った。
その刹那、ケンがおもむろに口を開いた。
「仲間が死んだんだ。戦いの中で・・・兄弟同然の連中だったんだが」
ケンの視線は、釣り糸を垂れた海面に向けられていたが、その目には何も見えていなかった。
物音一つ立てずに拳銃をシャツの下に隠すと、妹尾は静かに次を待った。
「俺の兄貴も死んだ。頭が吹っ飛ぶのが見えたんだ。まさかリックが死ぬなんて、そんな事あるわけないって思ってたんだがな」
「ケンさん」
妹尾の呼びかけも耳に入らないかのように、ケンは話し続けた。
「リックや仲間たちの遺体は、今もコロンビアのジャングルに置き去りにされたままだ。国のために戦ったっていうのに野ざらしで・・・無念だろうよ。俺は連中に約束したんだ。必ず戻るって・・・だが、もう二年が・・・」
「分かった。もし気が進まないなら話はそこまでにしてくれ」
妹尾の言葉を受けて、ケンは振り返るそぶりをみせた。
「だがな、ケンさん。話すことで少しでも楽になるんなら、聞いてやることくらいはできる」
妹尾は、雨に濡れるのもお構いなしに、差していた傘をわざわざ畳んだ。ケンの話を聞かせてもらうにあたって、なんとなく同じ位置、条件に身を置かねばならないと、そんな風に感じたのだ。だから、先ほどから傘も差さずにタオルを頭に巻いただけで、雨に濡れているケンをまねてみた。
ケンは軽く頷くと再び海の方に向き直って、しばらく無言のまま雨に打たれていた。
あの時も雨が降っていた。今みたいに生暖かい雨だった。
目に焼き付いて、消すことのできない映像。
鼻の奥に、今もはっきりと蘇る匂い。
耳を聾する炸裂音。
脳みそにこびりついて、絶対に一生涯忘れられない出来事。
それらを反芻しながら、ケンは静かに話始めた。
それは、二年前の夏に南米コロンビアで麻薬組織を壊滅すべく極秘裏に実行された「神の鉄槌作戦」の顛末だった。

二年前の1992年。その夏は記録的な猛暑で今も人々の記憶に残っている。そしてケン・オルブライトにとっては、人生を大きく変える特別な夏となった。
南米コロンビアでは、七十年代より麻薬密売組織が勢力を拡大しはじめていた。
組織の巨大ネットワークは、コカインを中心とした麻薬の生産から加工、販売までをも手掛け、ドラッグビジネスで生み出される莫大な資金が、警察や治安組織の買収を可能にした。
巨万の富を築いた麻薬王たちは、強力な武器を有する私設軍隊で武装し、軍や敵対グループとの抗争に明け暮れた。麻薬王の私設軍は、欧米からフリーランスの優秀な兵士を顧問に迎えることで練度を上げ、その能力はコロンビア正規軍を凌駕するほどになっていた。
中でも最大の組織メデジン・カルテルを創設したパブロ・エスコバルは、強大な麻薬帝国を築き、警察官をはじめとする敵対人物四百名以上を殺害。絶対的な恐怖でコロンビアを支配していた。
世界最大の麻薬消費国という汚名を冠するアメリカにとって、パブロ・エスコバルの存在は長年、頭痛の種だった。
八十年代後半、コロンビアから大量に流入するコカインの元を絶つべく、アメリカの諜報機関が行動を開始。パブロ・エスコバルの殺害とメデジン・カルテルの壊滅を最終目的とするアメリカの麻薬戦争がここに幕を開けた。これはDEA(米国麻薬取締局)、CIA(中央情報局)、特殊作戦群直属の情報部隊ISA、さらに特殊部隊、海兵隊が参加する、アメリカが国家の威信をかけた総力戦に発展した。
それから数年後の1993年には、米軍特殊部隊の協力を得たコロンビア警察特殊部隊が、遂にパブロ・エスコバル殺害に成功する。長年に及ぶ麻薬戦争の大きな区切りとなったその出来事は、世界的にも大々的に報道された。
だがその前年に、ジャングルの奥地にあるパブロの麻薬精製工場を破壊すべく、非公式軍事作戦「オペレーション・ゴッズ・ハンマー(神の鉄槌作戦)」が実行されたことを知る者は、米軍の関係者でも多くはない。

1992年の夏。作戦実行の三ヵ月前から、コロンビア在中のDEA捜査官が身分を隠して工場に潜入していた。この勇敢な捜査官は周囲の目を盗みながら、メデジン・カルテルの誇る強大なネットワークに関する情報をアメリカに送り続けた。
これらの情報は、パブロの巨大帝国崩壊の決め手となる非常に重要なものだった。捜査官は、潜入してからの三ヵ月間で工場から盗み出せる情報のほとんど全てを入手していた。そろそろ姿をくらますべき時期だった。
だが、さすがにメデジン・カルテル最大規模の工場だけあって、365日、二十四時間を通じて警戒態勢が敷かれていた。周囲は見渡す限り広大なジャングルに囲まれており、捜査官が自力で工場を脱走することは不可能だった。
この状況を考慮した結果、立案された作戦は二段階の複雑なものとならざるをえなかった。
第一段階は捜査官の救出。陸軍の極秘部隊デルタフォース(第1特殊作戦部隊デルタ分遣隊)がその任務につく。
第二段階は工場の爆破。捜査官の救出が終了しデルタが現地を離脱した直後に、海兵隊のF/A-18ホーネットが空対地ミサイルで工場を爆破する。
こうして大まかな骨子が整った作戦だが、詳細を具体化してゆくのに必要な情報は現地でしか入手できない。そこで作戦実行に先駆けること一週間、ジャングルに極秘裏に潜入し、偵察及び情報収集活動を行っていたのがリック・オルブライト上級曹長率いるフォース・リーコンのチーム、コードネーム・ヴァイパー(毒蛇)だった。そこにケンも、そしてロバート(ボブ)・ワナメイカー一等軍曹もいた。

深夜、人気のない海岸に上陸を果たしたリック率いるヴァイパーは、そのまま二日間に渡って細心の注意を払いながらジャングルの中を移動。三日目の夜明け前には、工場にある唯一のゲートまで百五十メートルの位置に迫った。
ゲート近辺を見渡せる場所に三メートル四方の監視所(アルファ・ツー)を設営し、カモフラージュネットと野生植物の葉などで完璧な偽装を施す。こうした技術もフォース・リーコンが得意とするところだった。
蒸せるような湿度で自然のサウナと化す日中のジャングルでは、目標の監視以外にできることはほとんどない。アルファ・ツーでは、所せましと体を寄せ合う十二人の海兵隊の猛者が、ジャングル特有の虫たちに耐えながら、ひたすら日が暮れるのを待っていた。
夜になり、辺りが漆黒の闇に包まれてからが彼らの本領発揮となる。行動最小単位となるツーマンセル(二人一組)の計三組ブラヴォー・ワン、ツー、スリーが静かに動き出すと、三十分後には全セルが工場を三方から監視可能な位置についた。
リーダーのリックを含む残りの六名ブラヴォー・ゼロは、引き続きゲートを監視しながら、各セルから送られてくる情報をまとめ、それらを特殊作戦群(SOCOM)司令部に送信する。
その情報をもとに、どのような具体的計画が立案されるのかは、リック達の知るところではない。彼らに与えられた任務はあくまで敵地の偵察、情報収集とデルタによる救出作戦のバックアップだった。
フォース・リーコンがもっとも得意とするのが、そうした縁の下の力持ち的な任務であるため、作戦の「おいしい部分」は、特殊部隊に持っていかれることが常であり、それはやむを得ないと理解しつつもボブ・ワナメイカーは、時折そんな現状に愚痴をこぼしていた。
ケンが、ボブとのコンビで工場の北側面の監視任務についていたこの時も、ボブはひそひそ声で「デルタの連中なんかに頼らなくたって、俺たちだけで救出できるぜ。なぁ、ケンよ」とぼやいていた。

監視任務の三日目には、工場の警備体制を完全に掌握していた。
鉄壁の要塞であろうという予想に反して、工場の周囲を守るのは高さ二メートルにも満たない塀と、その上にめぐらされた鉄条網だけだった。その塀も丸太を組んで作られた簡素なものである。これは急襲作戦にとっては吉報だった。
そもそもジャングルの奥地に部外者がやってくることなど先ずあり得ず、外敵に対する厳重な警備を必要としないのだろう。
ゲートのすぐ内側に二人の見張りが待機しているほか、敷地内をさらに三名の武装兵士が壁に沿って巡回しているが、これは外からの侵入者ではなく内部からの脱走者に目を光らせているのだ。おそらくコカインを盗んで姿をくらます作業員対策だろう。
実際、パブロ・エスコバルの麻薬を盗んで生き延びられるはずもなく、そんなハイリスクを冒す愚か者などいはしない。その意味では、この敷地内の警備は作業員への警告、威嚇以上の意味はないと考えられる。
二十四時間の警備体制とは言え、とりわけ夜間は兵士の態度もだらけ気味で警備がおざなりになってくる。作戦は、この隙に付け込んで深夜に実行されるはずだ。
たまに寝付けない作業員がタバコを吸いに、トタン屋根の宿舎から出てくることもあるが、不確定要素を完全に取り除くことは不可能なので、そこはやむを得まい。
むしろこの状況は有利に利用できるはずだ。DEA捜査官が、タバコを吸う振りをして建物の外に出て、救出にくるデルタを待つよう仕向けることも可能だろう。
大きな不安要素は、敷地内の南側に確認できた倉庫の存在だった。そこに武器、弾薬が詰まっていると考えられる木箱が大量に運び込まれるのを目撃した。パブロが強力な私設軍隊を持っているのは聞いている。おそらくあれが武器庫に違いない。
この事実からも、正面突破は選択肢から消える。万一、戦闘になった場合は、相当厄介な事態に陥ることは確実だ。司令部がその点を十分に考慮した作戦を立案することを、リック・オルブライトは祈った。

工場の警備状況を把握したリック率いるヴァイパーは、続いてデルタのLZ(降着地域)となるアルファ・ワンを選定のための偵察任務を開始した。
工場のすぐ近くに、ジャングルを切り開いて作られた簡易滑走路がある。ヘリの離着陸には理想的だが、ここを使うのは自殺行為だ。滑走路とは別に、北側一㎞ほどに直径百メートル程度の開けた台地があるのは、偵察機が撮影した航空写真で分っていた。そこが現実的にアルファ・ワンとして、LZおよび離脱時のLDVZ(集合地)に使える場所なのかを確認しておく必要があった。
偵察の結果、幸いなことにリックの目から見て、その場所は潜入及び離脱には理想的だった。デルタがHALO(高高度降下低高度開傘)降下可能なだけでなく、離脱時のヘリコプターの離着陸も、腕利きのパイロットであれば楽勝といえる広さだった。
問題があるとすれば、工場からこの開けた台地までのおよそ一㎞の道のりが、歩行も困難なジャングルであるということだ。敵に気づかれることなく捜査官を奪取し、その後、道なき道を踏破してここに辿り着かねばならない。
万一、交戦となった場合には、この一㎞が間違いなく死のロードと化すだろう。
リックはアルファ・ワンの状況を司令部に連絡すると、次にケンたちに脱出経路沿いの数か所にクレイモア指向性対人地雷の設置を命じた。使われないに越したことはないが、万一に備える必要がある。
クレイモア地雷には特殊な周波数の電波発信機が付属しており、受信機を持った隊員が地雷の半径三メートル以内に接近すると点滅して知らせてくれる仕組みになっている。この装置のおかげで、暗闇のジャングルであろうとも地雷の位置を見失うリスクは大幅に減少するのだ。
リックたちは、再び工場のゲートを前方に臨むアルファ・ツーまで密かに戻って待機した。後は司令部からの連絡を待つだけだった。

一週間前にコロンビアに潜入し偵察任務についたフォース・リーコンのチーム、ヴァイパーから送られてくる情報は、専任の情報分析士官が吟味し作戦が具体化された。
総指揮はSOCOMの司令官が執り、実働部隊として陸軍のデルタフォースが出動する。
デルタチーム=コードネーム・アルバトロス(あほうどり)は、深夜未明コロンビアの上空四千メートルを飛行する輸送機からHALO降下。
アルファ・ワンで待機するヴァイパーと合流後、彼らの先導でアルファ・ツーまで移動。
隠密裏に工場敷地内に侵入し、見張りを処理。
救出対象である捜査官(タンゴ)の身柄を速やかに確保。
ヴァイパーと共にアルファ・ワンを目指し、そこに待機するヘリで離脱する。
捜査官の確保後にUH-60ブラックホークヘリコプターを呼び出し、アルファ・ワンに待機させておくのだが、このタイミングは非常に難しいことが予想された。
アルファ・ワンは工場から一km離れているとは言え、ヘリのローター音は深夜のジャングルの遥か彼方まで轟くだろう。すなわちヘリの到着が早過ぎては、敵にその存在を気づかれる危険がある。
とは言え、遅すぎてもまずい。というのも作戦の第二段階である空爆は実行時間が厳密に決められているからである。
作戦自体が機密のため、空爆は夜明け前に密かに実行されなければならない。そのためには、現地が夜明けを迎える0430時より前に、カリブ海沖に展開する空母からホーネットが発進する必要がある。これは本作戦において、変更できない条件の筆頭だった。
そこから逆算すると、0400時には米軍チーム、アルバトロスとヴァイパーはヘリに乗って現地を離脱しているのが望ましい。逆に言えば、敵地脱出の遅れはすなわち空爆の中止を意味する。
司令部では、米軍チームの離脱に時間的余裕を持たせるため、作戦開始時刻を前倒しにする案も検討された。だが、それでは作戦の第一段階である急襲が危険にさらされることになると結論。その案は速やかに却下された。実際、捜査官の救出は工場が寝静まった深夜だからこそ遂行可能なのは事実だった。
そのため神の鉄槌作戦のタイムスケジュールは非常にタイトにならざるを得なかった。

デルタの隊長、マット・ダニエルズ少尉は、融通の利かないタイムスケジュールに不満を感じてはいたが、自分の部下たちならば問題なくやってのけると確信していた。何といってもデルタは世界最高水準の訓練で鍛え抜かれた超エリート集団であり、ソルジャーではなくオペレーターと呼ばれる隊員たちが最も得意とする任務こそ、まさに今回のような人質救出なのだ。
ダニエルズが不安視していたのは、作戦にコロンビア陸軍士官を同行させなければならない点だった。
コロンビア国内でアメリカ軍が単独軍事行動を行うわけにはいかない。そこで、デルタに同行するかたちでコロンビア陸軍の士官が作戦に加わることになっているのだ。これで、パブロ・エスコバルの麻薬工場を壊滅させたのはコロンビア軍という建て前を保つことができる。
パラシュート降下の経験もない士官を作戦に参加させるなど言語道断だと一度は食って掛かったが、その決定事項が覆されることがないのは、ダニエルズ自身がよく分かっていた。それが軍隊というものだ。
作戦開始は三十六時間後に決まった。0100時にはコロンビア上空を飛ぶハーキュリーズから闇夜に飛び出し、明かり一つないジャングルの上空を時速320㎞で自由落下していることだろう。