そんな、当時の悦子の気分とマッチしたのが映画『ロング・グッドバイ』の音楽だった。当時は毎日のように聴いていた気がする。やがて舞子が小学校に上がり子育てがひと段落すると、悦子は本格的にステンドグラス制作を再開した。その頃にはこのレコードを聴くこともほとんどなくなっていた。
今日はうっかりするとかなり苦みの強い豆に仕上がりそうだ。「木霊 KODAMA」「雫 SHIZUKU」に続く新作ブレンドを、そんな単純な味にするつもりはないのだけれど。
過去を反芻しながらそんなことを思っていた悦子は、ここ二、三日、なんとなく離別の兆しを感じていた。それは、ほとんど自分でも気づかないほど微かなもので、何との別れなのか、どんな別れなのかもむろん分からない。それでも、心の内に生まれたそんな予感が、悦子にこのレコードを選ばせたのかもしれない。
悦子を現実に引き戻したのは、入り口のドアを叩く音だった。
うちが土日休みということを知らないお客さんなんていたかしら。いぶかしみながらドアを開けると、妹尾が傘をさして立っていた。手には釣竿を持っている。
「妹尾さん・・・」
「おはようございます。お休みのところ、朝早くからすみません。ケンさんを迎えに来ました」
「迎えって・・・」
「釣りですよ。一昨日の夜、約束した」
「え?この雨の中、行くんですか?」
「もちろんですよ」
「てっきり中止だと思ってましたから、ケンさんもそのつもりで・・・出かける準備してないですよ」
「あらら、そうですか・・・お邪魔でなければ、中で待たせて頂いていいですかね」
「え、ああ、良いですけども・・・ちょっと待ってくださいね」
強引な妹尾に戸惑いながら、悦子は奥のドアを開けると「舞子ぉ~」と二階に向かって声をかけた。
ややあって、階段を下りてくる足音が聞えた。
「何ぃ?」
「ちょっとケンさんに伝えてくれる?妹尾さんが迎えに来てるって」
「えぇ?この天気で釣りやるの?」
「舞子ちゃん、ごめんね。いや、ほら。釣り具も買っちゃったから、やらないわけにもいかないかなって」
「あ、妹尾さん。お早うございます」
店に出てきた舞子は、ぺこりと頭を下げた。
「今朝、起きたらこの雨だったから、ケンさんとも、釣りダメになっちゃったねって話してたんですけど」
やり取りを聞きつけて、ケンも店に下りてきた。
「妹尾さん、今日は釣りやるホント?」
「ケンさん、お早う。もちろんだよ。ちゃんと釣り具も用意してきたよ」
「OK。ではね、準備するね、待っててもらえますね」
ケンは出かける支度をするために上に戻っていった。
「じゃぁ、ほら舞子。作ったサンドイッチ、ケンさんに持たせて」
「はーい。良かったよ、食べちゃう前で」
そう言いながら舞子も戻っていった。
店内は再び悦子と妹尾だけになった。
「妹尾さん、コーヒーでも淹れましょうか?」
「あ、ぜひ頂きます。すみませんね、お忙しいところ」
「いえいえ。まだ作業前でしたから大丈夫。『木霊 KODAMA』で良いかしら」
そう言って、悦子は豆を挽き出した。
二人の間にしばらく沈黙が続いた。