静かな午後の工房の中で、舞子は完成しつつあるステンドグラスをまじまじと見つめた。ステンドグラスに描かれた狼が舞子を見つめ返していた。その目の色は、ケンと同じ明るいブルーだった。

その日の夕方。まだ明るいうちに妹尾は「ゲルニカの木」を訪れた。
「どうも、こんにちは」
「あら妹尾さん、いらっしゃい。ほんとに来て下さったんですね」
妹尾は、昨日と同じカウンター席に腰を下ろした。
「言ったじゃないですか、毎日お邪魔するって。コーヒー、えーっと木霊・・・でしたっけ?」
昨日見た限りでは、コーヒーは大して好きではなさそうだったけど、気を使っているのかしら。悦子はやや声のトーンを落として言った
「あの、良かったら、ビール出しますよ。ほんとはアルコール類は五時からなんですけど。他にお客さんもいないし。特別に」
「え、ほんとですか。それは嬉しい・・・でも、先ずはコーヒー頂きます。今夜も舞子さんやケンさん・・・でしたっけ?彼らが帰って来たら一緒に飲みましょう」
アルコール類の提供も始めたが、うちはコーヒー自慢のお店。そう自負している悦子は嬉しかった。
「はい。ではご用意しますね。どうせだったら『雫 SHIZUKU』の方、試してみてください」
丁寧に挽かれたコーヒー豆がミルからドリッパーに移された。
平らに盛られたその粉に、ゆっくり静かにお湯が注がれる。注ぐというよりも、お湯をそっと置くといった方が相応しいくらいの繊細な技である。
粉がむくむくとムースのように膨れ上がるとともに、コーヒーのいい香りが辺りに拡散する。
コーヒーを淹れる悦子の手つきに思わず見惚れながら、妹尾は思った。
極められた技術というのは無駄がなく美しいものだ、拳銃射撃と一緒だな。
悦子の所作が醸し出す雰囲気はどこか儀式めいており、ドリップ作業中に話しかけることなどもっての外というような、何か厳粛な気分にさせられる。ただ黙って見守るしかない。
「そんなに見つめられると緊張するんですけども」
冗談めかして悦子が言った。
「え・・・あ、失礼。いや、見事なもんだなって、感心しまして」
「あはは、ありがとうございます。これでも一応、プロですので」
「あ、ごもっともです。失礼しました」
「いいえ。はいお待たせしました。『雫 SHIZUKU』です」
コーヒーをカウンターに置く悦子の顔には、優しい笑みが浮かんでいる。やはり美しい。その一瞬の表情に、井口悦子という女性の数十年の人生が凝縮されているような気さえする。思わず、ずっと見ていたいと思わせる彼女の美しさは、美人である以上に人間力の現れのように思える。
まだ出会ったばかりの悦子に、早くも魅かれそうになっている自分に気づいて、妹尾は大いに動揺した。その気持ちを打ち消すべく、何でもいいからとにかく会話を続けようと試みた。
「ところで舞子さんは、お仕事ですか」
「舞子ですか?まぁ、仕事といえば仕事中ですかね」
悦子の声は、何か内緒話をするようなトーンになった。
「そこの工房にいます」
店の奥にあるドアを指さした。
妹尾も自ずと小声になる。
「へぇ・・・工房があるんですか」
「ええ。ステンドグラスの工房です。近頃はもっぱらあの子が使ってまして、自分の作品を作ってるんです」
「舞子さんも、お母さん同様芸術家なんですか」
「血は争えませんわね。まぁ芸術家の卵といったところでしょうけど。そこの壁にあるステンドグラス、それ舞子の作品なんですよ」
壁にかかっている『希望のゲルニカ』を指して言った。