―半月近く前。
その日、ケンに行く当ては無かった。だが彼の微かな記憶か、あるいは本能がそうさせたのだろうか。気がつくとケンは、日本海沿いの北の町へ向かっていた。かつて若き海兵隊員だった頃に訪れたことのある、天ヶ浜という小さな町に。

寂れたカプセルホテルの一室。最低限の荷物をバッグに詰め込むと、ケンは始発の電車が動き出すのを待って、密かに東京を出た。
極力目立たずにいるために、そして状況に臨機応変に対応するためにも、走る密室となる新幹線や特急は使わなかった。在来線を乗り継いで、一日のほとんどを電車の中か、乗換駅のホームで過ごすことになった。
これが気ままな一人旅ならばそれも良かったが、もちろんそうではなかった。好ましくない二人組が、一定の距離を置きながらケンを尾行していた。昨夜、ケンからヘロインを奪い取ったヤクザである。
東京を出た時から、一見して人相の悪いこの追跡者の存在には気づいていた。やはり簡単に見逃してくれるはずはなかった。俺も、早まって迂闊なまねをしたものだ。だが今さら後悔しても遅い。
二人組は、距離を置いてはいるものの、隠れて尾行しているわけではなかった。むしろ、自分たちの存在をケンに知らしめるかのように、大胆に行動していた。お前は逃げられないと言うメッセージのようだった。
ケンは、複雑な日本の鉄道網に手こずりながらも、駅のトイレや電車の乗り換えを利用して、何度か奴らを撒こうと試みた。被っていたベースボールキャップを取ったり、サングラスをかけたり、上着の革ジャケットを脱いで印象を変えようとしてもみたが、上手くいかなかった。
背の高い白人男性となれば嫌でも目立ってしまう。しばらくして二人組を撒くことが無理だと悟ったケンは覚悟を決めた。できることなら厄介ごとは避けたい。だが、すでにトラブルに首を突っ込んでいるのが現実だ。仕方ない、向こうがそのつもりなら、いつでもやる準備はある。
心に芽生えつつある不安に飲み込まれまいとして、ケンは静かに呼吸を整えつつ、体から余分な緊張を解いた。
気が付けば、車窓からは夕暮れの日本海が見えていた。波がテトラポットにぶつかって白く砕けていた。
そんな景色を眺めながら、ケンは腹をくくった。この電車で目的の駅に降り立ったら、その時が勝負だ。

夜も十時を過ぎた頃、ケンと二人組を乗せた下り電車は、とある小さな駅に停車するため速度を落とし始めていた。そこがケンの目的地だった。
革ジャンの内側に隠したケンの右手は、ベルトで腰に留めてあるシース(鞘)に収まったナイフの感触を確かめている。大切な宝物のようにいつも携行しているそれは、鎌状のカーブを描く形が特徴的な、カランビットと呼ばれる格闘用ナイフだった。人差し指はすでにハンドルの柄尻にあるフィンガーリングに通されており、その時が来るのを待っている。
まる一日、十七時間も電車に乗ってきて、ケンの体はすっかりこわばっていたが、どんな条件下でも最大限の能力を発揮出できるよう訓練を積んできている。コディションを整えて、万全の態勢で臨むスポーツとは訳が違う。いつ何時、どこにいても必要とあらばやる。実戦はいつだってそういうものだ。
そんな、当たり前のことさえ分かっていない人間が軍隊にもいる。連中にとって、戦場は理不尽極まりない場所に違いないが、文句を言っているうちに命を落とすことになる。死にたくなければやるしかない。
やがて電車は静かに停車した。
この時間帯ともなると乗客はほとんどおらず、電車の扉が開いてもここで降りる者はなかった。
扉が再び閉まる直前に、ケンは電車を降りた。
隣の車両にいる件の二人組も、慌ててホームに飛び降りてきた。
やはりやるしかなさそうだ。