幸せは憂鬱な時間に


 二人は公民館で行われた通夜に参列した。
 勇也は棺の中、満ち足りた顔で眠っていた。
 康平は前の人に倣い、勇也の顔の横に白い菊の花を一輪添えた。
(なんだよコイツ。なんでこんな満ち足りた顔で眠ってるんだよ)
「起きろよ勇也」
 そっとかけた声は掠れた。
 勇也は満ち足りた表情のままだ。
「何寝てんだよ。遊ぼうぜ」
 掠れ声が涙声へと変わっていく。
 康平は勇也の頬に手の平を添えた。
 そして、体温が感じられない白い顔に微笑んだ。
「俺、まだ課題残っててさぁ。手伝ってくれるよな」
 もう片方の手も、勇也に頬に添えた。
 自分の体温を感じてほしい。
 自分の温もりがすべて勇也のものになれば、勇也が蘇る気がした。
「返事しろよ。なぁ!」
 康平は声を張り上げると、棺桶に縋るように崩れた。
 後ろに並んでいた朱美が康平の肩を抱きしめた。
 係の男が二人現れ、康平の両肩を支えるようにしてその場から引き離していく。
「お前には朱美ちゃんが入れば十分だろ?」
 いつか聞いた勇也の声が、康平の脳裏に蘇る。
(……違う。それは違う。俺、あん時認めなかったよな。勇也もいなきゃダメなんだよ。お前なしで、どう幸せになれっていうんだよ)
「お前を一人にしておけないから、こうして来てやったんだろ?」
 別の勇也の声が脳裏を過ぎる。
(もう、来ないつもりかよ。いつだって来いよ。毎日来いよ。なんなら、マンションに居座ればいい)
 会場の後ろの席に座らされた康平は、項垂れたままボロボロと泣いた。
 隣に黙って朱美が座り、康平に寄り添いながら静かに涙を零す。
 二人に声をかける者はいなかった。

 高校二年生の春。
 始業式後のホームルーム終え、康平と勇也は校門近くの桜の下で朱美を待っていた。
 理数系の康平と勇也は今年もクラスメイトになれたが、文系の朱美とは今年も別だった。
「もしもだよ。自分を残して世界中の人が突然パッと消えたとしても、康平は朱美ちゃんさえいれば生きていけるよな」
 なんの脈絡もない話を満面の笑顔で振る勇也に、康平は溜め息をついた。
「みんないるのが一番だろ」
 康平はいつものように素っ気なくはぐらかした。
「なら、僕と二人きりの世界と、朱美ちゃんと二人きりの世界、どっちを取る?」
「さぁーな」
「人って、二人いれば十分だと思うんだ。人って結婚して子供が生まれても、子供は独立するから最終的に二人きりじゃん。まあ、ずっと一人の人や、何人もの人に看取られる人もいるけどさ」
 しつこく話を続ける勇也に、康平は呆れるのを通り越して感心していた。勇也の人生には『めげる』という単語がないらしい。
「俺にばっか話を振んな。お前だったらどうなんだよ」
「僕?」
 話を振られたのがそんなに嬉しいのか、勇也は目を輝かせた。犬の尻尾がついていれば、パタパタと振っているに違いない。
「僕は康平と朱美ちゃんと三人でいるのがいいな」
「ちょっと待て。出題したお前が二択を捻じ曲げてどうする」
「さっきのは康平専用の選択問題だもん」
「はぁ?」
「康平はね、理想が高すぎるんだよ。それで、僕は一人でいるのが嫌なだけ」
「カウンセリングの真似事かよ」
「そんなことしなくても見てればわかるよ。康平って、素直だからすぐ態度に出るんだ」
 得意げな勇也に、康平は言われ慣れていない言葉に恥ずかしくなり、全身を熱くした。
「なんだよそれ」
 康平の声が上擦った。精一杯普通を演じるが、動揺が隠せない。
「そのままだって。まだあるよ。康平は誰からも相手にされなくなったら、それこそ手がつけられないほどグレるタイプだろ? あと、本気でぶつからない相手は好みじゃないし。あとは……」
「もうやめろ。聞いてるほうが恥ずかしい」
 康平の顔が耐えられない恥ずかしさに歪んだ。
 勇也の言ったことはすべて当たりだ。当たりだから、より恥ずかしい。
「バカなヤツ」
 照れ笑いした康平に、
「康平よりマシだって」
 勇也はくすぐったそうに笑った。
 感情はともかく、勇也が亡くなったことを頭で理解してから、康平は時間の流れを極端に遅く感じるようになった。
 マンションに戻るまで、康平と朱美は無言で体を寄せあった。
 勇也を思い続ける胸は熱く、口を開こうとするだけで涙が溢れた。
 康平は何度も歯を食い縛った。けれど、その程度の抵抗では涙は止まらなかった。
 泣き止んでは泣いて、泣いては泣き止む。どちらか一方が泣けば、泣き止んだ方も泣く。その繰り返しだ。
 今もそうだ。
 朱美はタオルケットを被り、康平のベッドで丸まっていた。
 部屋が薄く暗くなるまで、康平はそんな朱美を抱きしめていた。
 泣き疲れたのだろう。いつしか朱美は眠っていた。頬には涙が流れた跡が残っていた。
 康平はベッドから離れると、脱衣場のドアを開けた。
 別のビニール袋に入れ直し、片隅に放置したままの勇也の服を見つめた。
 勇也には捨てるよう頼まれたが、捨てるつもりはない。
 けれど、このままにしておけない。大切な形見だ。
(洗うか)
 康平は洗濯機の蓋を開けて固まった。勇也に貸したスウェットが丁寧に畳んで置かれていたのだ。
 体の奥深くから、切なさが熱なり湧き上がる。
「バカッ。こんな律儀に……アイツ」
 散々泣いて出尽くしたと思った涙が、溢れてきた。
 康平は洗濯機を前に崩れ込んだ。
 康平はしばらく一人で泣き続けた。

 いつの間にか、脱衣場は真っ暗になっていた。
 心も体も疲れ果てた康平は、抱えた膝に顔を埋めていた。
 いつ起きるかわからない朱美を一人ぼっちにし続けてはいけないと思う一方で、立ち上がる気力がない。
 溜め息をつきながら、溜め息をつくのさえ面倒だと思った。
 突然、脱衣場が明るくなった。
 康平は照明を見上げてから、ドアを見遣った。
 ドアは閉まったままだ。
 廊下にある照明のスイッチを朱美が押したのだろうか?
 ここには、康平以外に朱美しかいない。
「朱美?」
 ドアの向こうに呼びかけてみるが、返事はない。
「勇也」
 返事はないとわかっていながら、いたら嬉しい存在を呼んだ。
「何?」
 勇也の声に、康平は弾かれるように顔を上げた。
 幻聴だ。わかっていながら、あまりにリアルな声に、康平は慌てて勇也を探した。
 当然、勇也の姿は見当たらない。
「勇也?」
 諦めきれなくて、康平はもう一度呼んだ。
「だから何?」
 背後からの声に、康平は素早く振り返った。
「いない」
「いるでしょ、ここに」
 いつもの少し茶化したような勇也の声に、
「ここってどこだよ!」
 康平は振り返ると、声にならない悲鳴を上げた。驚きのあまり後じさりして洗濯機に激突する。
 目の前に、制服姿の勇也が立っていた。
 いつもと変わらない笑顔を向ける勇也に、康平は全身が脱力するほどの安心と涙が溢れる喜びで顔を歪めた。
「なんだよ、お前。生きてんじゃん」
 康平は覆い被さるように勇也を抱きしめた……はずが、両腕は勇也の体を通り抜けて交差した。
 体温も感触も何もない。空気そのものだ。
「えっ?」
 康平は目を大きく開いた。今の出来事が理解できなくて頭が真っ白になる。
「電気をつけたのって」
 涙を浮かべた康平の声が震えた。
「僕だよ」
 勇也は静かに笑った。
「お前、勇也だよな?」
 康平は改めて勇也に手を伸ばした。
 指先が勇也の体に入った。けれど、感触はない。ただの空気だ。
「そうだよ」
「生きてるんだよな?」
「だったらよかったんだけどな」
 勇也が目を細めた。
 康平は肩を震わせた。両手をきつく握り締める。
「幽霊でもいい。いてくれるよな?」
 康平の瞳から涙が後から後からこぼれてくる。これは悲しみの涙だ。
「うん」
 勇也が頷いた。
 康平はホッとした。幽霊でもいい。いてくれるならそれで……。
「もうそろそろ、この姿は見えなくなるけど、いつも傍にいるから。それだけは忘れないで」
「えっ? 消えるのか? いなくなるのか?」
 康平は勇也を捕まえようと手を伸ばした。
 けれど、手は勇也の体を抜けてしまう。
「チクショーッ!」
 康平は勇也を捕まえられない苛立ちで壁を叩いた。
「康平。ちゃんと話を聞けよ。見えなくても、触れられなくても、感じられなくても、僕は一緒にいるから」
 勇也が笑顔で涙ぐんだ。
「しまった。僕としたことが、康平に泣き虫をうつされた」
 勇也は両手で目尻に溜まった涙を拭った。
「なんだよそれ。いなくなるのに、こんな時まで冗談言うなよ」
「康平は分からず屋だなぁ。いるって言ってるだろ。もう時間だ」
「時間?」
「康平たちから、僕の姿が見えなくなるんだ」
「ずっと見えればいいだろ!」
「そういうわけにはいかないみたい。今こうして見えてるのはさぁ、特別なんだよ。奇跡なんだ」
「ずっと奇跡を起こせよバカ!」
「まったく、康平は相変わらず口が悪いなぁ。朱美ちゃんを大切にしろよ。僕はいつだって二人の味方だし、応援してるからさ」
 康平は勇也の影が薄く壁に映っていることに気づいた。
 人形にしては妙な形をしている。
「お前、その影」
 康平は勇也の影を指さした。
 勇也が振り向いて影を見た。
「羽だよ羽。僕、日ごろの行いがよかったみたいでさぁ」
 向き直って屈託なく笑う勇也に、
「そっか。羽か」
 康平は勇也らしいとストンと納得した。
 納得したところで、悲しみも喪失感も消えないが、今までなかった清々しさが少し生まれた。
「似合わない。絶対に似合わない!」
 康平は泣きながらクスクスと笑った。
「わかる。僕が一番わかってる。康平をからかうことがカメラと同じくらい好きだったのに、神様って見る目ないよね」
 勇也もつられるように笑った。
「まっ、そういうことだ。もう、消えるぞ」
 勇也から笑みが消えた。
「ああ。じゃあな」
 康平からも笑みが消えた。
 康平は真っ直ぐに勇也の目を見つめた。
「じゃあね」
 勇也の体が急速に透けていく。
 最後、勇也は深い微笑みを浮かべて消えた。
 立ったまま、康平はしばらく勇也がいた場所を見つめた。
 胸が優しく満たされるのを感じる康平の前に、ヒラヒラと白いものが舞い落ちた。
(なんだ?)
 思わずそれを手に取った康平は、それを見て爆笑した。
「キザすぎだろ」
 それは白い羽だった。