瞳を見るのが嫌いだった。
母は、僕が小さいころから色々なことを言う人だった。
中でもよく覚えているのは、『瞳を見ろ』ということだ。
「人の瞳を見なさい。瞳を見ることは、心を見ることと等しいわ。そして、人の心を見ることができれば、あなたは人に向き合うことができるようになる。だから―」
『瞳を見なさい』
とても従順だった僕は、母の教えに迷わず従ってきた。
瞳を見て、聞き、話し行動した。
そうするようになってからしばらくして、僕は瞳を見ることで人の気持ちがわかるようになっていた。
嬉しい気持ちに、悲しい気持ち。
周りの人たちの感情を知ることは、子供心に面白いものがあった。
問題が起きたのは中学生になってからだ。
小学生の時に見ていた純粋な思いとは違う、思春期特有の安定しない感情のゆらめき。
好きが気付けば嫌いに変わっているような、一分前と感じていることがまるで違うような支離滅裂さは、中学一年生の僕に大きな傷を負わせた。
さらには、中学生の不特定多数に向けられる負の感情も、僕にとって毒だった。
結果、瞳を見ることで他人と向き合おうという考えは、中学生になってすぐの時には消えかけてしまっていた。
当時の僕にとって瞳を見ることは心を見ることで、心を見ることは自分を傷つけることに等しかった。
だから僕は人付き合いをほとんどしなくなり、瞳を見るのが嫌いになった。
そう、あの子と出会うまでは。