私が五階の階段を登りきったときだった。一度、教科書を床に降ろして、腰を伸ばした。廊下の突き当たりを見た。そこは非常階段につながっていて、なぜか扉が開いていた。そこには黒い髪の人影が二つ見えた。小さいのと大きいのと――母親と子供だろうか? と私は当たりをつけた。変に白いのが不思議だった。
「あの」
 私は声を掛けた。その親子は、非常階段の踊り場で、ふらふらと揺れていた。何か不思議な揺れ方をしていた。心臓がきゅっと捕まれたようになった。私は教科書を床から抱え直して、彼らの方に近寄った。
「大丈夫ですか? 私、まだ新入生ですけど、その、保護者の方ですか、つまり――」
 女がこちらをゆっくりと見つめる。その顔は見えなかった。違う、と私は思い直した。

 それには顔というものがなかった。
 呼吸が止まる。肺が一杯になる。覚めない悪夢を見ているみたいな気分だった。私は女と子供から目が離せなくなる。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。誰か、と叫ぼうとしたが、喉が詰まったように声が出なかった。体の感覚がなかった。
 そして、突然、親子の体が、ぱっと赤く燃え上がった。足下から、火が揺らめくように駆け抜けていった。煤さえ出さなかった。一瞬にして二人の体は燃え尽きた。かすかな笑い声が、ぷつりと途切れた。
「……うそ」
 何か落ちる音がした。下を見ると、自分が抱えているはずの、たくさんの教科書だった。拾わなきゃ、と私はうわごとのようにつぶやいた。果たして声になったのか、自分では分からなかった。
 そのとき、後ろから誰かが肩を叩いた。私は、自分の体がふっと軽くなるのを感じた。そして気を失った。