正直悩んでいた。
 中学の同級生である神崎から、「担当作家を紹介してほしい」と依頼があってから、かれこれ二時間ほど、どうしたものかと自問自答を繰り返している。神崎には、返事をするのに数日の猶予をもらった。
 担当作家であるフクロウこと寺岡に繋ぐだけであれば簡単なお仕事である。だが、話はそこまで単純ではなかった。

 フクロウは人前に出ることは完全NGの覆面作家だった。つまり本件を引き受けることはおろか、単に紹介するだけでもNGの可能性が高い。
 いや、この際そのことは特に問題ではない。高坂にとっては、神崎の依頼に応えられないことは、上司のインスタグラムが炎上するのと同じぐらい些末なことであった。

 問題は、本件を伝達することで、もれなく寺岡に怒られることにある。
 何故外部のものがフクロウの地元を知っているのか、何故高坂の知り合いがそれを知っているのか。
 問い詰められたときにごまかせるほど体裁の良い言い訳を準備できていないし、自身に女優適正は備わっていないし、寺岡もボンクラではない。

 不可避の叱責。
 気分が重くなる。

 売れっ子覆面作家の担当をしており、その正体を知っている。
 恰好の酒の肴であり、ひけらかしたくなるのはヒトのサガというものだろう。元凶は昨日地元で催された中学時代の同窓会的な飲み会にあった。

 自分は悪くない。自分の身が可愛い。怒られるのは嫌だ。
 情緒は加速度的に不安定さを増してきた。

 高坂は寺岡のデビュー時からの担当編集者だった。初めて持ち込まれた原稿を読んだのも高坂だった。大して長く編集者をやっていた訳ではなかったが、読んだ瞬間「売れる」と確信できてしまうほど才能が傑出していたことを思い出す。
 高坂は寺岡の担当になると同時にファンになっていた。

 順調にデビューの段取りが固まった際、寺岡がどうしてもこだわりたいと主張したのは「覆面作家になること」だった。覆面を希望する作家が珍しい訳ではないし、覆面のミステリアス感が良い効果を生むときもある。寺岡の意思を尊重することに異論はなかった。

 ただ、寺岡は世間に対してだけでなく、出版社側に対しても、必要以上に自分語りをしないタイプだった。
 高坂は寺岡が覆面を希望する理由を知らない。普段何をしているのかも知らない。
 住んでいる街はかろうじて引き出した数少ないパーソナルデータだった。それが偶然にも自身と出身地でもあったため、地元話で大いに盛り上がった。寺岡の言葉の端々に地元愛が満ち溢れていたのを覚えている。

「ただ、くれぐれも内密にお願いします」

 今となっては気分を落とす意味合いにしかならない寺岡の言葉もよく覚えている。
 この罪悪感にどのようにして逃げ場を与えれば良いのだろうか。

 寺岡にとって地元情報がどれほどの意味を持っているかはわからない。
 でも情報を漏らされた側にしてみれば、一つのリークはあらゆる疑いへと変容する。これまで築いた信頼関係が崩壊することも懸念された。
 そしてきっと怒られるだろう。

 部屋をぐるぐると回り、ため息をつき、また部屋をぐるぐると回る。

 冷静に状況を確認してみよう。
 神崎の目的はフクロウをイベントに出演させること。
 でもフクロウは覆面作家。フクロウこと寺岡がこのオファーを受ける確率は皆無といっても良い。
 神崎の願いは叶わない。それは約束された未来。
 つまり自分が寺岡に確認しようとしまいと、導かれる結果は同じ。
 確認した場合は、怒られ損になる。

 結論は明確だった。
 この件は、自分のところで潰してしまうことにした。

 よくよく考えると、寺岡に伝達するための時間だってお互い無駄に消費する時間になる。まして、多少なりとも寺岡が依頼を受けるか悩む可能性だってある。これは担当作家の時間を奪う行為に他ならない。万が一、本件をきっかけに寺岡が高坂に対して疑心暗鬼になってしまった場合は、寺岡に余計な心労をかけてしまう。
 誰も得しない。
 これほどまでに合理性を欠く行為は他にあるまい。
 フクロウに確認したかどうかを神崎は知る由がないので、「フクロウには断られました」と淡々と回答することとしよう。

 もちろん良心は痛む。だが、神崎にはこの言葉を贈ろう。

 世の中の平和は、合理性と少しの罪悪感でできている。

 やるべきことは決まったが、早々に神崎に返答するのは具合が悪い。きちんと確認を取った、というリアリティを醸し出す必要がある。時間を空けての回答…例えば二日後ぐらいの回答が良いだろう。

 結論が固まったことで大分気が楽になった。しばしの緊張と熟考により疲れ切っていた高坂は、シャワーでさっぱりすることにした。