「私よりも、うんと長い時間を生きなきゃだめよ」
「お袋……うん」
「それから、一回や二回辛いことがあったとしても踏ん張りなさい。その一回の我慢が、これから先、雄太郎の強さになるから」
「わかった」
「あと、なにがあっても家族と一緒にいる時間を作ること」
「結婚したら、ちゃんと守るよ」
「それから……それ、から……」
お母さんの声が湿り気を帯びて、その瞳から雫がこぼれる。それでも笑っていたのは、元気なお母さんのまま旅立ちたかったからだと思う。
「悲しいときは無理に笑わないで泣いて、逆に楽しいときは思いっきり声出して笑うの。お母さんはどこにいても、雄太郎の決めた道を応援してるからね」
「……っ、ありがとう、お袋」
「じゃあ……」
雄太郎くんのお母さんは、ピザトーストの最後のひと欠片を手にとる。
ばいばい、またね、ありがとう。たくさんのお別れの言葉がお母さんの頭の中には、駆け巡っているに違いない。
「元気でね、雄太郎」
「お袋もな……っ」
その短い言葉の中には、色んな想いが込められている気がした。
それがなんなのか、わかるのはきっとふたりだけなんだろう。
ふたりは同時に残りのピザトーストを平らげる。その瞬間、音もなく雄太郎くんのお母さんは姿を消した。
「お袋……最後まで、笑ってたな」
嬉しさと寂しさが入り交じったような笑みを浮かべて、雄太郎くんは空になった皿の上に涙の粒を落とす。
「ピザトーストの味も、お袋の笑顔も忘れないから」
私たちに向けてなのか、もうそこにはいないお母さんに向けてなのか、雄太郎くんの晴れやかな呟きは喫茶店の空気に優しく溶けていった。
***
雄太郎くんが帰ったあとの喫茶店では、みんなで陽太くんのいる角席に集まってピザトーストを食べていた。
「暑苦しい、他にもいっぱい席あるのに」
ぶつぶつと向かいの席で文句をこぼしている陽太くんの隣で、水月くんは「こら、陽太」と軽く叱りつける。
「みんなで食べたほうがおいしいだろ? 空気を悪くするなよな」
「俺はそうは思わない」
「また、そんなこと言って……」
「面倒だと思うなら、ほっとけば」
ズバッと兄の心配を切り捨てた陽太くんに、これでは朝の繰り返しだと私は苦笑いする。
さすがに水月くんが不憫だったので、フォローしようとしたとき――。
「本当に面倒なら、とっくに関わることをやめてんだろ」
私の隣に座っていた那岐さんが思わぬ助け舟を出す。
「いいか陽太、グレんのもいい加減にしろよ。特に食事中、料理がまずくなんだろーが。次、うじうじなにか言いやがったら、ミンチにしてハンバーグにするからな」
ギランッと那岐さんの目が光る。
助け舟と思いきや、爆弾投下の間違いだったらしい。陽太くんはぶるぶると震えながら、水月くんの背に顔を隠している。
なんだかんだで、頼るのはお兄さんの水月くんなんだな……。
「もしかして、わざと悪役になったんですか?」
那岐さんの顔を見上げながら尋ねると、ふんっと横を向いてしまう。
「俺はただ、料理がまずくなるから言っただけだ」
そうは言うけれど、那岐さんの耳が心なしか赤い。それに水月くんも気づいていたらしい。
「ありがとな、那岐」
お礼を言われて、那岐さんは耳どころか首まで赤くなっていた。
「素直じゃないのう、那岐は」
オオちゃんは小さな腕を組むと、やれやれと首を振っていた。
「私、那岐さんのこと怖い人だと思ってたけど、本当は可愛いところもあるんですね」
にこっと笑って思ったままを口にすれば、那岐さんが赤い顔でこちらを振り返る。私を睨んでいるけれど、まったく怖くない。
「……調子に乗るな。晩飯、抜きにすんぞ」
「いいですよ。その代わり、私の手料理を食べてくださいね」
照れ隠しの毒舌をスルーすれば、ぐっと悔しそうに那岐さんは息を詰まらせる。それを見つめながら、私は小さく笑ってしまうのだった。
黄泉喫茶で働くことになってから一週間が経ったある日の夜、私は夢を見た。
『お願いだから追いかけてこないで』
目の前には道を塞ぐ冷たい岩。その向こうにいる誰かに私が何度も叫んでいると、返事があった。
『我は自らの子――ヒノカグツチをこの手にかけ、それでも悲しみは晴れず、こうして黄泉の国までお前を迎えに来たというのに、なぜすぐに顔を見せてはくれないのだ……!』
どこか懐かしい、でも最近も聞いたような男の人の声だった。
『なんてこと……』
この命を賭けて生んだ我が子を手にかけただなんて……。
誰かの心の声が私の中に流れ込んでくる。ひたひたと迫ってくる絶望感に俯いていると、また岩の向こうから声が聞こえた。
『一緒に帰って、再び我らの国を作ろう』
『ごめんなさい、それはできないわ。共食は済んでしまったから……』
『なんだと……っ。いや、だとしても、我が無理やりにでもお前を連れ帰る』
『それはダメよ。簡単に理を変えてはいけない』
『お前は諦めるのか? 我はお前に触れたい、ともに生きたいとそう思っている。お前は同じ気持ちじゃないのか?』
そんなの、考えるもなく同じ気持ちに決まっていた。
でも、死んだ人間が現世に戻ることはおろか、共食までしてしまった自分が現世に戻って彼とともに生きることは許されない。
でも、私も愛してる。
どうしようもないくらい、その腕のぬくもりが恋しかった。
長い沈黙のあとで、私は最後に胸に残った想いを貫く決意をして、やっと口を開く。
『黄泉の神々に、あなたのもとへ戻れないか相談してみます』
『……そうか! では、我も一緒に――』
『それはいけません!』
彼の言葉を遮るようにして遮った私に、『なぜ……』と動揺の滲んだ声が返ってきた。
『私の姿を見られたくないのです。だから、決してこの扉を開けてはなりません』
扉――岩にそっと手で触れた私は背を向けて、再び念を押す。
『約束ですよ』
『ああ、わかった』
私は暗闇だけが続いている道を進む。
けれど、そこから目的地までは信じられないほど長い道のりになるのを知っている。
どこまで進んだだろうか。時間の感覚さえも分からなくなっていた私の耳に、『どこにいるんだー!』という声が聞こえて、つい足を止める。
まさか、という胸騒ぎとともに近づいてきた足音に振り返ると――。
『イザナミ、やっと見つけ……』
来てはいけないと言ったのに追いかけてきてしまった彼は長い黒髪を揺らし、金色の帯や豪華な浅葱色の着物を身に着けている。
そして、信じられないことに那岐さんにそっくりだった。
『ああ、なんてことだ……』
息を切らして額に汗をかきながら、私の姿を上から下まで見下ろして顔を真っ青にした彼は後ずさった。
私はふと足元にあった地面の水たまりを覗き込んで、驚愕する。
落ち窪んだ目からはウジがわき、身体の至るところが腐っている。
右肩からは、自分とは別の雷神の顔がボコボコと八体も出ていた。
『いっ……いやああああっ』
***
「いっ……いやああああっ」
自分の叫び声で、私は目覚める。
「おいっ、大丈夫か?」
視界に那岐さんの顔が広がって、ほっと息をついた。瞬きをすると、目尻から涙がこぼれて頬を伝う。
「あれ、私……どうして……」
視線を彷徨わせると、私は縁側で横になっていた。
そういえば……お風呂でのぼせたから縁側で涼もうと思って、横になったっきり眠っちゃったんだっけ。
じわじわと思い出した私は、那岐さんを改めて見上げる。
その手にはうちわが握られていて、私を仰いでくれていたらしいことがわかった。
「すみませ……ん」
謝ろうとしたのだが、声が掠れてうまくでない。
そんな私に、那岐さんは「待ってろ」と言って立ち上がると、どこかへ行ってしまった。
それから少しして、水の入ったコップを手に戻ってくる。
「飲め」
「あ……ありがとうございます」
わざわざ、水を汲みに行ってくれてたんだ。
胸にじんわりとぬくもりが広がるのを感じていると、那岐さんは横になっている私の隣に胡坐をかく。
「うなされてたぞ」
「いつも見る変な夢に……続きが、あって」
ドラマの見すぎとか、笑われるのがオチだとわかっているけれど、私は那岐さんの優しい雰囲気に背中を押されて打ち明ける。
「夢? 詳しく話せ」
やけに興味津々な彼に驚きつつも、私は怠い上半身を無理やり起こして水を飲み、夢で見たことをそのまま話した。
それを茶化すでもなく真剣に聞いてくれていた那岐さんは私の話が終わると、夜空に浮かぶ青白い三日月を見上げた。
「……夢の中の自分がどんな姿でも、お前はお前だ」
「私は私……」
「そうだ。それだけは確かだから、お前は伊澄灯として今までどおり生きればいい」
なぜだか、そのひと言が心の底から嬉しかった。
私はこの夢を見るたびに、夢の中の私に心も身体も侵食されてしまうような、そんな不安を抱いていた。
だから、私は私なんだと言ってもらえて、ほっとする。
「ありがとうございます、那岐さん」
「別に」
「変な話、しちゃってごめんなさい。でも、笑わずに聞いてくれて、嬉しかった」
「……怖がってるお前を笑い飛ばせるほど、神経図太くねえよ」
「はい。那岐さんはそういう人でしたね」
風が優しく、空気が暖かくなった気がする。
私はさっきまでの恐怖が嘘みたいに穏やかな気持ちで、那岐さんと一緒に月を眺めるのだった。
***
翌朝、那岐さんと黄泉喫茶に向かうため、古い山陰道に沿って展開している二階建ての木造家屋の町を歩いていた。
赤瓦や黒瓦が入り混じり、千本格子も残っている伝統的な古き良き日本の町並みに、何度も通った道だというのに目を奪われる。
「那岐さんは、おばあ様と暮らす前もずっと出雲町に住んでたんですか?」
「いや、小学三年までは東京にいた。そこから、ばあちゃんのいた出雲町に越してきた」
「そうだったんですね……」
那岐さんは幼い頃に、ご両親に捨てられてしまった過去を持っている。
小学三年生でこの町にきたときの那岐さんは、なにを思っていたんだろう。
またいつ自分が捨てられてしまうか、そんなことを考えて不安だったのかな。
八歳の男の子が背負うにはあまりにも大きすぎる重荷に胸が締めつけられて、つい彼の横顔を見つめてしまう。
すると視線に気づいた那岐さんは、ちらりと私を見てため息をついた。
「もう、とっくに割り切れてる。それに、この町に来て家族みたいなやつらも出来たしな」
それはたぶん、黄泉喫茶のみんなのことだ。
那岐さんが寂しくないのなら、よかった。
私も微力ながら、那岐さんの孤独を埋められたらいいな。
おこがましくもそんなことを考えていると、通りかかった路地に黒い靄のようなものが見えた気がして、私は足を止める。
なんだろう、今の……前に陽太くんを見たときも同じような靄を見た。