東出雲町の黄泉喫茶へようこそ

「お袋、夢じゃない……。飛行機が墜落して、それで……死んだのも夢じゃないんだ」

「雄太郎……嘘よね?」

「……嘘じゃない。こんな笑えない冗談、俺が言うはずねえだろ」 

「そんな……っ。あなたにしてあげたいこと、いっぱいあったのよ。なのに……っ」


 涙混じりの声が痛々しくて、私は耐えられずにスッと視線を逸らしてしまった。

 こんな傷ついた顔を見てしまったら、雄太郎くんはきっと自分を責めてしまう。いくら真実を告げて心残りを作らないとはいえ、胸が張り裂けそうだ。 


「あのな、ここは死者と会える喫茶店なんだ。俺は……あのままお袋とさよならなんて嫌だったから、今まで変な意地を張って言えなかったことを伝えるために会いに来た」


 本当は逃げ出してしまいたいはずなのに、お母さんを落ち着かせようと静かな声音で話す雄太郎くん。
そんな彼にお母さんは「意地?」と聞き返した。


「普段、俺のことなんて構わないくせに気が向いたときだけ口出しして……なんて、酷いこと言ってごめん」

「そんなこと……気にしなくていいのに」

「いや、言わせて。あのときの俺は、お袋に図星を指されて苛立ってた。具体的にどう夢を叶えるのか、明確なビジョンもなかったし、ちゃんと自分が悪いってわかってたのに、折れるのが癪でできなかったんだよ」


 白い湯気を放っているピザトーストに視線を落として、雄太郎くんは懐かしむように口元に微笑を浮かべた。


「そうね、ユウくんは中学生になってから反抗期だったから。でも、それが普通なんだから、冷たくされたって嫌だと思ったことはなかったわ」


 お母さんの返答は予想外だったのか、ユウくん――雄太郎くんは弾かれたように顔を上げて目を瞬かせる。


「え、そうなのか?」

「そうよ、うれしかったくらいだわ。ああ、ユウくんはこんなに大きくなったんだって。進路の話ができたのも、あなたが大人になっていくのを実感できて感動したもの」


 涙を指先で拭いながら、ふわりと微笑むお母さん。

シングルマザーとして毎日疲れてしんどいこともあったはずなのに、目尻の笑いジワからこれまで雄太郎くんと過ごした時間がどれほど幸せだったのかが伝わってくる。


「ユウくんがお嫁さんを連れてきて挨拶に来てくれるところ、花婿さんになるところ、孫の顔……もっともっとユウくんの成長を見たかった」


 私もお母さんに女手ひとつで育ててもらったから雄太郎くんの気持ちも、少しだけれどお母さんの気持ちもわかる。

 大人になって初めて、お金を稼ぐことの大変さを知った。

なんの資格もなければ時給八五〇円のスーパーやコンビニでしか働けないし、八時間働いても大した稼ぎにはならない。

 自営業なんて響きはいいかもしれないが、家の食堂も儲かっていたわけじゃないから、売り上げなんてほとんど税金を払って終わりだ。

 私が学生の頃は正直言って、裕福どころか貧乏だった。

なので食堂の仕事が終わったあとにお母さんはチラシをポストに入れるバイトや花のコサージュ作りといった内職をしていたくらいだ。

 苦労していたのは明白だったのに、私はお母さんの泣き言ひとつ聞いたことがない。

 大人になって、ふと逃げ出したいと思ったことはなかったのかと尋ねたことがあったのだけれど、お母さんは『もしひとりだったら、そうしていたのかもしれない。でも、あなたたちがいたから頑張って生きなきゃと思えたの』と言っていた。


 きっと、どんなに疲れていても辛くても、家族っていう幸せの形を守るためだったから、雄太郎くんのお母さんは笑っていられたのだ。


「私……どうして死んじゃったのかしら。離婚してもあなたに不自由な思いをさせたくなくて、普通の子と同じように生活できるように、まだまだやらなきゃいけないことがあったのに……。どうしてあのとき、ユウくんを応援してあげられなかったんだろうっ」


 あのときが指すのは、雄太郎くんが舞台俳優になりたいと言ったときに無理だと決めつけてしまったことだと、すぐに思い当たった。


「俺だってそうだよ。俺のために必死に働いてくれてたお袋に、あんな言葉をかけてさ……。あの日だけじゃない、もっとお袋のためにできること、たくさんあったはずなのに、なにも恩返しできないまま……っ」


 あのときに戻れたら、とお互いが後悔を抱えていた。
 その痛みを分かち合うように、ふたりは机の上で手を握り合う。


「お袋、俺さ……頑張るから」

「え?」

「お袋みたいに、がむしゃらに働いて、かっこよくなるから。それでいつか、お袋みたいに家族を守れるくらい強くなる」

「……っ、きっと雄太郎ならなれるわ」


 泣いてしまいそうなのをごまかすように、雄太郎くんのお母さんはピザトーストを両手で持ち上げて、かぷりとかじりつく。

 サクッとしたおいしい音につられてか、雄太郎くんもピザトーストに噛みついた。

そのまま歯で千切り、トーストから顔を離すと、チーズはビヨーンッと糸を引く。 

 それをうまく断ち切って、もぐもぐと口を動かした。

「これ、コーンが入ってるピザトースト。お袋が作るのと同じだな」

「あなた、小さいころから好きだったのよ、コーンが」

「甘いし、なんか弾ける触感が好きだったんだよな」


 子供みたいだよな、と恥ずかしそうに笑う雄太郎くんをお母さんは目に焼きつけるようにじっと見つめる。


「いつも、大したもの作ってあげられなくてごめんね」

「なに言ってんだよ。忙しくても絶対、ご飯だけは作ってくれてただろ。それだけで十分だし……っていうか、本当はうれしかった」

「雄太郎……」

「まあ、でも……たまに焦げてたけどな」


 わざとらしく茶化す雄太郎くんは、お母さんが気負うことないように気遣っていたんだろう。

笑い話にして、なにもできなかったと自分を責めるお母さんの心を軽くしようとしていた。


「他のことをやりながら作ってると、つい焼きすぎちゃうのよね」

「俺はパンの焼き加減で、お袋の忙しさとか、気持ちの浮き沈みとか、判断してたんだよ」

「え、なによそれ」

「ああ、今日は玉ねぎが生焼けだから、忙しくて余裕ねえんだなーとか、バロメーターにしてた」

「生焼け!? やだ、そんな日があったなんて、ごめんなさいね」


 苦い顔でピザトーストをまたひと口と頬張るお母さん。

以前なら忙しくて、こうやって向かい合って日常の会話を楽しみながら食事をする機会もなかったのだと思う。

 こういう些細な時間が大切なのに、失う前は気づけなかったりする。

 ふたりは最後のひと口まで、何の変哲もない会話を繰り返して、それからふとお母さんは「ねえ、雄太郎」と息子の名前を呼んだ。


「私よりも、うんと長い時間を生きなきゃだめよ」

「お袋……うん」

「それから、一回や二回辛いことがあったとしても踏ん張りなさい。その一回の我慢が、これから先、雄太郎の強さになるから」

「わかった」

「あと、なにがあっても家族と一緒にいる時間を作ること」

「結婚したら、ちゃんと守るよ」

「それから……それ、から……」


 お母さんの声が湿り気を帯びて、その瞳から雫がこぼれる。それでも笑っていたのは、元気なお母さんのまま旅立ちたかったからだと思う。


「悲しいときは無理に笑わないで泣いて、逆に楽しいときは思いっきり声出して笑うの。お母さんはどこにいても、雄太郎の決めた道を応援してるからね」

「……っ、ありがとう、お袋」

「じゃあ……」


 雄太郎くんのお母さんは、ピザトーストの最後のひと欠片を手にとる。

 ばいばい、またね、ありがとう。たくさんのお別れの言葉がお母さんの頭の中には、駆け巡っているに違いない。


「元気でね、雄太郎」

「お袋もな……っ」


 その短い言葉の中には、色んな想いが込められている気がした。

 それがなんなのか、わかるのはきっとふたりだけなんだろう。

 ふたりは同時に残りのピザトーストを平らげる。その瞬間、音もなく雄太郎くんのお母さんは姿を消した。


「お袋……最後まで、笑ってたな」


 嬉しさと寂しさが入り交じったような笑みを浮かべて、雄太郎くんは空になった皿の上に涙の粒を落とす。


「ピザトーストの味も、お袋の笑顔も忘れないから」


 私たちに向けてなのか、もうそこにはいないお母さんに向けてなのか、雄太郎くんの晴れやかな呟きは喫茶店の空気に優しく溶けていった。

***

 雄太郎くんが帰ったあとの喫茶店では、みんなで陽太くんのいる角席に集まってピザトーストを食べていた。


「暑苦しい、他にもいっぱい席あるのに」


 ぶつぶつと向かいの席で文句をこぼしている陽太くんの隣で、水月くんは「こら、陽太」と軽く叱りつける。


「みんなで食べたほうがおいしいだろ? 空気を悪くするなよな」

「俺はそうは思わない」

「また、そんなこと言って……」

「面倒だと思うなら、ほっとけば」


 ズバッと兄の心配を切り捨てた陽太くんに、これでは朝の繰り返しだと私は苦笑いする。

さすがに水月くんが不憫だったので、フォローしようとしたとき――。


「本当に面倒なら、とっくに関わることをやめてんだろ」

 私の隣に座っていた那岐さんが思わぬ助け舟を出す。

「いいか陽太、グレんのもいい加減にしろよ。特に食事中、料理がまずくなんだろーが。次、うじうじなにか言いやがったら、ミンチにしてハンバーグにするからな」


 ギランッと那岐さんの目が光る。

 助け舟と思いきや、爆弾投下の間違いだったらしい。陽太くんはぶるぶると震えながら、水月くんの背に顔を隠している。

 なんだかんだで、頼るのはお兄さんの水月くんなんだな……。


「もしかして、わざと悪役になったんですか?」


 那岐さんの顔を見上げながら尋ねると、ふんっと横を向いてしまう。


「俺はただ、料理がまずくなるから言っただけだ」


 そうは言うけれど、那岐さんの耳が心なしか赤い。それに水月くんも気づいていたらしい。


「ありがとな、那岐」


 お礼を言われて、那岐さんは耳どころか首まで赤くなっていた。


「素直じゃないのう、那岐は」


 オオちゃんは小さな腕を組むと、やれやれと首を振っていた。


「私、那岐さんのこと怖い人だと思ってたけど、本当は可愛いところもあるんですね」


 にこっと笑って思ったままを口にすれば、那岐さんが赤い顔でこちらを振り返る。私を睨んでいるけれど、まったく怖くない。


「……調子に乗るな。晩飯、抜きにすんぞ」

「いいですよ。その代わり、私の手料理を食べてくださいね」


 照れ隠しの毒舌をスルーすれば、ぐっと悔しそうに那岐さんは息を詰まらせる。それを見つめながら、私は小さく笑ってしまうのだった。
黄泉喫茶で働くことになってから一週間が経ったある日の夜、私は夢を見た。

『お願いだから追いかけてこないで』

目の前には道を塞ぐ冷たい岩。その向こうにいる誰かに私が何度も叫んでいると、返事があった。

『我は自らの子――ヒノカグツチをこの手にかけ、それでも悲しみは晴れず、こうして黄泉の国までお前を迎えに来たというのに、なぜすぐに顔を見せてはくれないのだ……!』 


 どこか懐かしい、でも最近も聞いたような男の人の声だった。


『なんてこと……』


 この命を賭けて生んだ我が子を手にかけただなんて……。

 誰かの心の声が私の中に流れ込んでくる。ひたひたと迫ってくる絶望感に俯いていると、また岩の向こうから声が聞こえた。 


『一緒に帰って、再び我らの国を作ろう』

『ごめんなさい、それはできないわ。共食は済んでしまったから……』 

『なんだと……っ。いや、だとしても、我が無理やりにでもお前を連れ帰る』

『それはダメよ。簡単に理を変えてはいけない』

『お前は諦めるのか? 我はお前に触れたい、ともに生きたいとそう思っている。お前は同じ気持ちじゃないのか?』

 そんなの、考えるもなく同じ気持ちに決まっていた。
 でも、死んだ人間が現世に戻ることはおろか、共食までしてしまった自分が現世に戻って彼とともに生きることは許されない。

 でも、私も愛してる。
 どうしようもないくらい、その腕のぬくもりが恋しかった。
 長い沈黙のあとで、私は最後に胸に残った想いを貫く決意をして、やっと口を開く。

『黄泉の神々に、あなたのもとへ戻れないか相談してみます』

『……そうか! では、我も一緒に――』

『それはいけません!』

彼の言葉を遮るようにして遮った私に、『なぜ……』と動揺の滲んだ声が返ってきた。

『私の姿を見られたくないのです。だから、決してこの扉を開けてはなりません』

扉――岩にそっと手で触れた私は背を向けて、再び念を押す。

『約束ですよ』

『ああ、わかった』

私は暗闇だけが続いている道を進む。

けれど、そこから目的地までは信じられないほど長い道のりになるのを知っている。

どこまで進んだだろうか。時間の感覚さえも分からなくなっていた私の耳に、『どこにいるんだー!』という声が聞こえて、つい足を止める。

まさか、という胸騒ぎとともに近づいてきた足音に振り返ると――。

『イザナミ、やっと見つけ……』

来てはいけないと言ったのに追いかけてきてしまった彼は長い黒髪を揺らし、金色の帯や豪華な浅葱色の着物を身に着けている。

そして、信じられないことに那岐さんにそっくりだった。