「正一さん、ゆっくりそちらに向かいます」
「ああ、ゆっくりおいで。いくらでも待つから」
それが最後の言葉だった。具体的な合図はなかったけれど、ふたりは同時にスプーンを口に運ぶ。咀嚼して飲み込むまで、視線はずっと愛する人に向けられたままだった。
そして食べ終えたそのとき、正一さんの姿は消え、お皿の中にカチャンッとスプーンが落ちる。
「いつまでも、待っていてくださいね」
千代子さんの涙声の呟きが、やけに耳に残った。
***
午後七時、那岐さんと家に帰って来た私は晩ご飯を作るために台所に立っていた。
エプロンなんて持ってきていないので、大きいけれど那岐さんのものを借りた。
朝は和食のフルコースで作ってもらったから、しっかり副食も充実させないとね。
「まずはお米が空だし、鮭の炊き込みご飯にしよう」
私はお米を三合といで、ざるにあげ、えのきとネギを切る。鮭は塩をふって、炊飯器の窯の中にすべての材料を投入した。
「醤油と酒を大さじ二杯、お米を炊けるだけの水を入れてスイッチオン」
お米を炊いている間に、私は帰りに寄ったスーパーで安くなっていた鶏むね肉のポン酢焼き作りにとりかかる。
ふたり分だから、鶏むね肉は二〇〇グラムくらいで足りるかな。
私は鶏むね肉の表面と裏面にフォークで穴を開け、火が入りやすいようにする。
それをひと口大に切り、塩コショウをかけてお酒を揉み込むと片栗粉をまぶした。
あらかじめ熱したフライパンに油を敷いて肉の両面を焼くと、ポン酢大さじ二杯を回しかける。
するとジューッと音が鳴り、食欲をそそられたのか、那岐さんが台所にやってきた。髪が濡れているので、お風呂上がりのようだ。
「飯、なに?」
冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぎながら尋ねてくる彼に、私はフライパンを傾けて中を見せる。
「鶏むね肉のポン酢焼きです。疲れて帰ってきたときはつい、ポン酢料理ばっかり作っちゃうんですよね」
火が入ったのを確認してお皿に盛りつけて、今度はひじき、しそ入りの卵焼きを作るためにボールの中に卵をふたつ入れる。
そこへひじきを大さじ一杯、しそ適量、塩と醤油を少々投入し、かき混ぜた。
「ひじきとしそが入った卵焼きか……うまそうだな」
私の手元を覗き込んできた彼を見上げると、その視線は熱心にフライパンに注がれている。
料理、好きなんだな。
昨日とお互いの立場が逆転していることがなんだか面白くて、私はふふっと笑う。
「これ、よく貧血になる妹のために作ってあげてたんです」
具が沈まないように混ぜて固めて流し込むを繰り返し、卵を巻いていく。出来上がるとまな板の上に乗せて、縦に切っていった。
「ひじきは鉄分が豊富だからな」
あえて妹のことに触れずに、ひじきについての感想を寄越す那岐さんの優しさが心に染みる。
確かにこの卵焼きを見て切なくはなるけれど、最後に茜に会えたからか、悲観することはなくなった。
茜との思い出を辛いことや苦しいことだけで、固めてしまいたくないからかもしれない。
「これからは、那岐さんが妹の代わりに食べてくださいね」
鮭の炊き込みご飯、鶏むね肉のポン酢焼き、ひじきとしそ入り卵焼き。私の作る料理は家族にも、潰れた食堂のお客さんにも出したことがあるものばかり。
でも、今はどちらにも作ってあげることはできないから、同居人である彼のために作ろう。料理に込められた思い出を忘れないようにするために。
「仕方ねえな」
わざとらしく面倒そうに頭を掻いた彼に、炊き立てご飯の湯気にも似た温もりを感じながら、自分の顔が綻んでいくのを感じる。
「ふふっ、ありがとうございます」
もし正一さんの言った通り、死したあとに死者の国で妹に会えるのなら。永遠の別れではない。
だから茜、お姉ちゃんはそのときまで、この世界で精一杯生きてみせるよ。
『旅客機一二六便が伊豆三原山に墜落した飛行機事故から二年、あっという間でしたね』
テレビから聞こえてきたニュースキャスターの声に、私はお味噌汁が入っているお碗から顔を上げた。
「もう二年経つんですね」
朝食の席で誰に問うでもなく呟く。今私が見ているのは二年前に起きた旅客機墜落事故のニュースだ。
ちょうど二年が経つので、その特集が組まれているようだった。
「部品脱落で燃料タンクが破損、機体火災が起こったのが原因で墜落したんだったな」
一応会話に参加してくれているらしい彼は、黙々とタラマヨソースを絡めたイカサラダを食べている。
私もそれをひょいっと箸で掴んで口に放り込む。口の中でピリッとした辛さとマヨネーズのまろやかさが絶妙にマッチして、頬が落ちそうになった。
「んーっ、語彙力ないって言われちゃうかもしれませんが、おいしいです」
「小学生並みの感想だな」
「うっ、そこまで言わなくても……」
口は禍の元ということわざを知らないのだろうか。いつか人の恨みを買って、背後から刺されるに違いない、彼は。
「それ、ばあちゃんには不評だった」
唐突な報告に「え?」と聞き返せば、那岐さんはじっとサラダを見つめたまま遠い目をする。
「調味料のさしすせそに入らないマヨネーズは、ばあちゃんにはオシャレすぎるって」
「ああ、確かに気持ちはわからなくないかも。うちの食堂も祖母の代から続いてるんですけど、和食がメインですから」
調味料のさしすせそ――砂糖、塩、酢、醤油、味噌は年齢に関わらず日本人なら誰にとっても慣れ親しんだ味だろう。
いつか見た番組で、マヨネーズやケチャップなどを使う洋食は戦後二十年かけていっそう欧米化に進んだのだと目にしたことがある。
那岐さんの年齢からするに、おばあさんは八十代くらいが妥当だろうから、洋食が広まった当時は二十代。
人生の約半分は和食で育っていることになるので、オシャレすぎるという感想が出るのも納得がいく。
「でも……しそとか入れたら、和風っぽくて食べやすくなりそうですよね」
「ああ、いいアイディアだな」
「このソース、たらことマヨネーズ以外になにが入ってるんですか?」
「めんつゆ。俺なりに和風にしようと思ったんだ」
「なるほど! 確かにさっぱりしてていいですね。あ、ごまとわさびも合いそう」
いつの間にかニュースの話から脱線して、私は那岐さんとふたりでタラマヨソースの改善点について熱く語った。
***
午後九時、私は那岐さんと一緒に黄泉喫茶へやって来た。
真っ先に制服に着替えて、布巾でテーブルを拭いていく。
そして、店内の一番奥の角席にやってくると、机に突っ伏していた陽太くんが怠そうにノロノロと顔を上げた。
「汚れるほど客来てないのに……なんで掃除?」
「なにもしてなくても、埃は積もるの。陽太くんこそ、ずっとここでダラダラしてたら、脳みそが溶けちゃうよ」
つい、妹の茜にしていたような説教をしてしまう。案の定、陽太くんはあからさまに不快だと言いたげな顔をした。
「……余計なお世話」
「こらこら、灯ちゃんの言う通りだぞ。陽太も手伝えって」
メニューの山を陽太くんの前に置いたのは水月くん。これを拭けとばかりに弟に布巾を差し出している。
お節介がふたりに増えたことで、陽太くんの苛立ちは最高潮に達した。唇を突き出すと、水月くんの手からむしるように取った布巾を投げて突っ返す。
「うるさい、兄さんには関係ない」
ふてくされたようにそっぽを向いて、再び机に突っ伏す陽太くんを放っておけない。
それはきっと正論に言い返せなくなって拗ねるところとか、素直になれなくて人を邪険にしてしまうところとかが、手のかかる妹の茜と重なって見えるからなんだろう。
私の隣で、水月くんはため息をついた。
「もう、陽太はすぐそうやって話をボイコットする」
「兄さんだって面倒だと思ってるんだろ。だったら放っておいてよ」
ズルズルと机の下に落ちて行って、それっきり音沙汰なくなってしまった陽太くんに私は水月くんと顔を見合わせて苦笑いした。
兄や姉の苦労を分かち合うようにお互いの肩を叩き、水月くんと別のテーブルでメニューを磨いていると、そこへオオちゃんを背負った……というよりは、しがみつかれている那岐さんがやって来る。
「おお、那岐。大きな荷物背負ってるね」
カラカラと笑いながら、楽しそうに言う水月くんを那岐さんはギロリと睨みつけた。
「水月、お前が代われよ。キッチンの片づけがしたいのに、次から次へとオオカムヅミが物を出すから一向に終わらねえ」
「ぬぬっ、僕は手伝っていただけだぞ!」
ひょこっと那岐さんの肩口から、オオちゃんが顔を出した。
オオちゃんなりに頑張ろうとしていたみたいだけど、残念ながら裏目に出ていたようだ。
褒められると思っていたのに怒られて、オオちゃんは泣き出す前の子供のように顔をくしゃくしゃにしている。
見かねて「じゃあオオちゃんはメニュー拭くの手伝って」と声をかけた。すると、見るからに目を輝かせて私の隣に座る。
「灯、全部僕が拭くから見てるんだぞ」
鼻息荒く水月くんの真似をしてメニューを拭いていくオオちゃんに「うん」と答えながら、こっそり那岐さんを見上げる。
口パクで『助かるって、言ってあげてください』と頼むと、嫌そうではあるがオオちゃんの頭にぽんっと手を乗せた。
「助かる」
それだけ言って、カウンターに戻っていく那岐さんの背を見送るオオちゃん。その顔には満面の笑みが浮かんでいて、うれしそうに私を振り返る。
「今の聞いたか!」
「ふふっ、うん聞いてたよ。那岐お兄ちゃんは、オオちゃんを頼りにしてるって」
オオちゃんにとって那岐さんは兄のような存在なのだろうと勝手に思って言ったのだが、キッチンからガタガタッと調理器具が落ちるような音が聞こえた。
何事かとカウンターの方を向けば、水月くんが吹きだす。
「ははっ、あいつ動揺してるな」
「え、なぜに?」
「それを俺の口から言うのは野暮ってものだよ」
片目をパチリと瞑る水月くんに、ますます頭の中にクエスチョンマークの波が押し寄せてくる。
「ちょっと意味がさっぱり……」
「長らくあいつの親友やってるけど、灯ちゃんが来てからのあいつは人間らしくなったな」
「え、おふたりは付き合いが長いんですか?」
「七年くらいかな。大学からの親友なんだ」
「へえ」
私が相づちを打つと、「あの」と声が聞こえてきた。振り向けば、喫茶店の扉の前に二十歳くらいの男の子が立っている。
私は慌てて席を立ち、彼に駆け寄った。
「すみません、お客様ですね!」
「はい……。あの、ここは本当に……」
キョロキョロと視線を彷徨わせている男の子の言いたいことを察した私は、その背に手を添えて席へ促す。
「ええ、ここは会いたい人……死者に会える喫茶店です」
「噂、本当だったんだな」
席についても実感がわかないのか、落ち着かない様子で何度も座り直している。私が「どんな噂?」と聞き返すと、彼はスマートフォンの画面を見せてくれた。
そこには【都市伝説、黄泉の国と交信できる喫茶店の情報求む】と書かれたネットの掲示板が表示されていた。
「電波に乗って、この店のことが知れ渡ってるって……どんだけ!」
思わず声を上げる私の後ろで、陽太くんがふっと陰気さを纏った笑みをこぼす。
「……その割には、お客さん少ないけど」
「当たり前だろ。ここは心に強い願いを抱いた人間でないと来れない」
腕組みをした那岐さんは、カウンターから呆れた声を飛ばす。彼の言う強い願いとは〝会いたい〟という思いのことだろう。
ただ面白半分にあの鳥居を通過しても、肩透かしをくらうだけということだ。
「はい、お冷どうぞ」
水月くんがお水を差し出したら、コップを受け取った男の子がゴクゴクと一気に飲み切ってしまう。
それを唖然としながら見ていた水月くんは「わお」と言って、ウォーターポットを傾けると空になった彼のコップに水を注ぎ足した。
「ふむ、雄太郎(ゆうたろう)が緊張してるのは罪悪感のせいだな」
オオちゃんが顎に手を当てて、名探偵のようにビシッと男の子を指差した。
おそらく雄太郎というのは目を丸くしている彼の名前だろう。私のときみたいに神様パワーでなんでもわかってしまうらしい。
「僕は神様だから、なんでもお見通しだぞ」
「……は?」
雄太郎くんの顔には〝なに言ってるんだこいつ〟の文字が見える。当然の反応なので、私は苦笑いして拭いたばかりのメニューを取りに隣の席へと向かう。