「そうですね……。八十八年も生きたっていうのに、おかしいと思うでしょう? 子供は成人して、孫の顔も見た。もう心残りなんてないはずなのに、私は死ぬことが怖いんです」

「千代子、年齢など関係なく死は恐ろしい」

「あなたもそうだった?」

「ああ、断言できる。家族、記憶、これまで生きてきた証すべてが何事もなかったかのように消えてしまうのではないかと思う恐怖は計り知れないさ」


 戦争を経験した正一さんは、きっと何度も差し迫った死と隣り合わせだった。だからなのか、言葉に説得力がある。

 それを千代子さんも感じたらしく、困ったように笑って軽く首を傾げた。


「正一さんには、なんでもわかってしまうのね……」 

「自分の妻のことだからな。千代子、確かに不安も多いことだろう。それをすべて取り除くことは誰にも……俺にだってできない。だが、お前がこの世を去るのだとしても、すべてを失うわけではないし、孤独でもないんだ」


 どういう意味かと問うような顔をする千代子さんに、正一さんは安心させるような微笑みを向ける。


「千代子の存在は、これまで接してきた人間の中に記憶として残る。それに黄泉の世界には俺がいるから、ひとりではないよ」

「正一さん……不思議ね。あなたがいると思うと、死ぬのが怖かったはずなのに少しだけ楽しみになったわ」

「楽しみって……千代子は肝が据わっているな」


 涙を指先で拭いながら、ふっと笑みをこぼした千代子さんを呆れ混じりの眼差しで見守る正一さん。そんなふたりの姿に胸が温かくなる。